14日前(遥香の部屋で)
14日前の夕刻
早めに仕事を切り上げた吉岡は、新宿駅に程近い大型書店の中にいた。読書好きで学生の頃はよく書店通いをしていた。
お目当ての本を探しているわけではなく、背表紙を眺めながら気になる本を捜し歩くのが楽しいし、日常を忘れてストレスを解消することが出来る。
ノンフィクションの書籍のコーナーをあれこれ物色していると、一冊の本に目が留まった。
「虚構の構図」というタイトルのハードカバーだった。別にタイトルが気になった訳ではない。気になったのはその作者だ。
「塚本謙吉」
吉岡はおもむろにカバンの中から名刺ケースを取り出して、名刺を探し始めた。間もなく、塚本謙吉の名刺を探し当てた。
やっぱり、あのジャーナリストだ。吉岡は本と名刺を手にして、独りつぶやいた。
あの時、路上で話し掛けられた時、不思議と塚本から差し出された名刺を捨てずに持っていた。
吉岡は、何か因縁めいたものを感じずにはいられなかった。
塚本が執筆した本のページをパラパラとめくってみると、その内容は昭和後期の日本の政争をテーマにしたものらしかった。巻末の解説には、緻密な取材に基づいて深く考察された内容になっていると書かれていた。
上っ面だけで判断していたかな。塚本の風体を思い出していた。
吉岡は、「虚構の構図」を購入すると、書店を後にした。
帰宅すると家の中は暗く、しゅうはまだ帰ってきていないようだった。
スマホを取り出して通知をチェックすると、しゅうから「友達の家で勉強するので遅くなります」とのメッセージが来ていた。
遥香の自宅
「えっ?彼と別れたの?」円形のクッションを抱いてイスに座っていたしゅうは、びっくりして遥香の顔を見つめた。
「うん。でも、これっていう原因は無いんだよね。お互い方向が違うっていうか、私は看護学校に進学して看護師になるのが目標だし、向こうは向こうで、4年間大学に行って、まだまだ遊びたいらしいのよ。」遥香はベッドの上で体育座りをしたまま答えた。
「それぞれ違う生活が始まるのは、方向が違うってことじゃなくない?」
「しゅうはそう思うかもしれないけど、急に冷めるってゆうか、客観的に相手を見ちゃうってゆうか、なんかね。」
「そんなもんなんだ。」
「そんなもんって、手厳しいね。」
「そういう訳じゃないけど。性格的にも結構合っているように見えたから。」
「お互い潮時だなぁって思い始めていたの、最近。」
「そう……」
「うん。だから振られたわけでも振ったわけでもないよ。わだかまりなく分かれた。」
「それならよかったね。痴情のもつれから犯罪に走るみたいなこと、ネットニュースでもよく見かけるから。」
「あはは、私と彼じゃ、それは無いわ。平和第一主義だから。」
「そうか、安心、安心。」
「しゅうはどうなの?」
「え?私?私は全然……」
「しゅうは消極だもんね。」
「慎重って言ってよ。」
「そうでした。しゅうは恋に慎重さんでした。」
「馬鹿にして。」
「馬鹿になんかしていないって。人それぞれよ、恋の仕方なんて。」
「釈然としないなあ。」
「本当よ。そういえば、私の元カレの友達、青野君って知ってる?」
「……確か、前にみんなでカラオケに行った時、来ていた人でしょ?」
「そうそう、彼もバトミントンやっているんだ。どう?」
「どうって、何が?」
「アリかな?ナシかな?」
「アリとかナシとかじゃなくて、よく知らないよ。」
「まあ、よく知らないかもだけど、印象としてはどう?」
「印象もあまり無いんだけど。」
たたみかけてくるなぁ、遥香。
「興味が無かったってことね、うん。どっちかっていうとイケメンなんだけどなぁ。」遥香は妙に納得している。
「私が思うに、……しゅうには年上の男性が合っているような気がするな、やっぱり。」
「そう?」
「違う?」
「そうかもね。パパと二人暮しだから、年上の人の方が安らぐ気がする。それは確か。」
「でしょ?案外、しゅうが最初に結婚するかもね。」
「案外は余計です。」
「それは、それは、大変失礼しました!」
「もうっ。」
お互い、顔をほころばせた。
「あーあ、もう3年だもんね、私たち。卒業したら、どうなっているんだろう……」しゅうはため息交じりにつぶやいた。
「そうね、しゅうは大学生。そして私は看護学生の予定。」
「私、本当にそうなっているのかな……」
「何で?しゅうは大学進学でしょ?」
「そうだけど。私は遥香みたいにしっかりした目標もまだないし。
パパも安心するから、取りあえず大学進学みたいな感じで、受験勉強にもイマイチ集中できないのよね。」
「パパが安心するっていう理由で大学受験でもいいんじゃない?
立派な理由だと思うよ、私は。」
「なるほど、そうね。そういう理由でもいいんだよね。」
「そうそう。それにバドも続けたいんでしょ?」
「うん。遥香のおかげで、もやもやが晴れてスッキリした気がする。」
「でも、私も看護学校の受験、不安が無いわけじゃないよ。」遥香はアイスティーを
一口飲んだ。
「そうなの?」
「うん、面接試験があるんだよね。なんか苦手……。考えるだけで緊張する。」
「面接?遥香なら心配ないって。
面接って、その人の人間性とか見るんでしょ?
遥香なら普段通りにしていれば全然OK。問題なし。
だって、遥香みたいに思いやりのある人は看護師さんに適任。
遥香みたいな看護師さんに看護してもらったら、病気だってすぐに治っちゃうわ。
なんなら、看護師になるために生まれてきたようなものよ、遥香は。」
「それって、励ましてるの?」
「ごめん、何か違ったか……」
「とにかく、しゅうの言葉を励みに頑張るわ。」
「大丈夫、大丈夫。遥香なら。」
「由紀は順調そうね。」
「そうみたい。由紀は優秀だから。」
「由紀はしゅうのお父さんと同じK大志望でしょ?」
「うん、入試に向けてまっしぐら。由紀は意思が強いから、希望が叶うと思う。」
「そうね。」
「茉奈はちょっぴり心配。人のこと言えないけど。」しゅうは首をすくめた。
「短大に行こうかなって、言っていたわね。でも短大は2年間しかなくて、カリキュラムとかタイトだっていうから、入ってからが大変かもね。
まあ、茉奈は楽天家だから、あまり気にしないのかな。」
「うん。ひょうひょうとやって行くと思うよ。
……高校を卒業したら、みんなそれぞれの道を歩んで行くのね、ちょっぴり寂しい……」しゅうは少し感傷的になった。
「別々の道を歩き始めるけど、私たちの関係は変わらない、いつまでも。でしょ?」遥香は優しい眼差しでしゅうを見た。
「うん、絶対!
……そういえば、なんか小腹が空いてこない?」しゅうは、そう言いながら、遥香が用意してくれた濃いビターな香りを漂わせているケーキをひとかけ口に運んだ。
「あっ、このチョコのケーキ美味しい。ザッハトルテとか言うんだっけ?」
「当たり。ちょっと苦味があって、いけるでしょ?
ただ、この時間に食べるとすごい罪悪感に襲われるよ。まさに悪魔の誘惑ってやつ。」
「本当だね。でも、食欲の方が圧倒的に強いわ!誘惑にあっさり負けちゃう。ヤバいね。」
「ヤバいんだって、悪魔は。」
吉岡は、出来合いのもので簡単に夕食を済ませると、早速、「虚構の構図」を読み始めた。ある意味、政治家と接点がある吉岡にとって、この手のテーマの読み物はあまり好みではなかった。
ただ、この本は内容としては読み応えがあるものの読みやすく、時が経つのを忘れ、一気に読み切ってしまった。
「虚構の構図」を読み終えた吉岡は、表紙の「塚本謙吉」の文字をじっと見つめていた。
窓の外は夜が明けて、空が白んできたせいか、カーテンの隙間から朝日が弱々しく差し込んできていた。
しゅうはとっくに遥香の家から帰宅して、自分の部屋で寝息を立てていた。