20日前(弁護士浅田美沙)
塚本を振り切った吉岡は、とあるオフィスビルの1階にある喫茶店に急いだ。
喫茶店は通りに面していて、店内から漏れた明かりが歩道をほのかに照らしている。
扉を開けると、喫茶店が入っているビルの機能的なデザインとは対象的に、店内は昭和レトロな空気に満ちていた。
重厚感充分な革張りのソファに大理石模様のテーブル、そして毛足の長い深紅色の絨毯。まるで半世紀前にタイムスリップでもしたかのような印象を受ける。ただ、当時と違っている点は、店内が禁煙になっていることだ。空気がやけに澄んでいる。
昭和レトロにこだわった内装に設えられている店内は落ち着いた雰囲気を醸し出していて、吉岡と同年代の人間にとっては、心地よい限りだ。
吉岡は、客の姿を見回すと、奥の席に掛けてスマホを眺めていた女性に近づいて声を掛けた。
「ごめん、遅れた。」吉岡はそう言いながら、その女性の正面に腰を下ろした。
「いいのよ。慣れているから。」吉岡の声を聞いた女性は、顔を上げて、ぱっと明るい表情になった。薄めのネイビースーツが童顔でありながら理知的な顔つきにピッタリだった。
「なんか、そう言われると、いつも俺が遅れて来るみたいじゃないか。」吉岡は吉岡なりにおどけて見せた。
「だって、そうでしょ。自分から呼び出しておいて……」浅田は弾む声で突っ込んだ。
「でも久しぶりだな。浅田さんの事務所から遠くないところに住んでいるのに、なかなか会う機会がないよね。」吉岡は無理やり話題を変えた。
「……そうね。でも、吉岡君が機会を作ればいいだけだと思うけど。」浅田は意地悪っぽく笑った。
「そうは言っても、切れ者弁護士の浅田先生に置かれては、私なんかよりも大変お忙しいでしょう。」吉岡は負けじと大仰に言い返した。
「いえいえ、吹けば飛ぶような事務所ですよ。自分で言うのもなんだけど。」浅田は笑顔で肩をすくめた。
二人は声を出して笑った。
吉岡は久しぶりに心の底から笑ったような気がした。
大の大人の男女が、周りの目も気にせずに、他愛のない会話を繰り広げていた。それでも二人にとっては、大学生の頃に戻ったように、この上なく楽しい言葉のやり取りだった。
「最近、うまく仕事が回っていなくてさ……」急に真顔になった吉岡はそうつぶやいた。
「回っていない?」浅田には吉岡の言葉の意味がよく分からなかった。ただ、最近マスコミを賑わせている献金問題の件だと察しはついた。
「うん。回らない。もがけばもがくほど、身動きが取れなくなる気がするんだ。」
「そう……」浅田はどう答えるべきか、逡巡していた。
吉岡が困っているなら、少しでも力になりたい。浅田は、吉岡の次の言葉を待っていた。
「浅田さんに言うような話じゃないけど……」
「それは分からないでしょ。」
「うん、まあ。」吉岡は煮え切らない。
「で?何?どんなこと?まさか仕事の依頼じゃないでしょ?」じれったくなった浅田は吉岡の方に身を乗り出した。
吉岡は少したじろいだ様子でコーヒーを口にした。
「ほら、前にも話したけど、俺のところの課長の新村。それなりの年なんだけど、未だに彼女もいなくて……。誰か、いい人いない?」
あなたが相談したいことって、新村さんのことじゃないでしょ。浅田は心の中で呟いた。
「そ、そうねぇ……こればっかりは巡り会わせだから。焦ってもしょうがないでしょう。
自分一人でどうこうなるものでもないし。……て、言うか、独身の私に聞く?」浅田は取りあえず話を合わせた。
「それもそうだよね。浅田さんに聞く話じゃないな。新村自身の問題だよね。」吉岡は笑いながら、うなずいた。
「あ、あのねぇ。」浅田は人差し指でテーブルを数回叩いた。
「でも、浅田さんとこうして話していると、何歳になっても、あっという間に学生の頃に戻るよ。
俺なんかと違って、司法試験の準備で大変そうだったよね。」吉岡は、視線を浅田から天井のチューリップを逆さにしたような形のアンティークな照明の方に移して、大学生活に思いを馳せていた。
「実際はそうでもなかったのよ。
真剣に打ち込んでいれば、在学中に合格していたかもしれないでしょ?
周りの誘惑によく負けていたわ。」浅田は冗談っぽく吉岡のせいだと言わんばかりに吉岡を見つめた。
「ん?俺が悪いの?」
「ううん、全然。楽しい学生生活で貴重な時間だった。あの時間があったからこそ、今があると思う。」
「うん。お互いこの歳になってもあの頃と変わらない関係でいられる。」
「そうそう。」浅田はミルクティーを飲みながら頷いた。
「そう言えば、大学のグラウンドの裏手にあった定食屋、なんて言ったっけ?まだあるのかな。」
「ええっと……あっ、えびす亭、えびす亭。」
「そうだ、えびす亭。さすが浅田さん、よく覚えていたね。
いかにも定食屋と言うような名前だった記憶はあったんだけど。」
「でも、私も聞かれるまですっかり忘れていたわ。あの大将、ご健在かしら?」
「いやぁ、それはどうかな。俺らが通っていた頃だって、六十半ばだったんだから、今は九十歳前後?さすがに店はやっていないでしょ。」
「そうよね。確か後継ぎもいないようなことを言っていたと思うし。」
「懐かしいなぁ。あのわらじみたいなトンカツ、もう一度食べたいなぁ。
浅田さんはよく野菜炒めを食べていたっけ?」
「そうそう。野菜が甘くて新鮮で美味しかった。懐かしい。」
「どのメニューも安くて量が凄かったよね。分量間違えているんじゃないのっていう位。
お金が無い学生の強い味方、えびす亭!」
「そう。我らがヒーローえびす亭!」
二人は同時に吹き出して笑った。
「あのわらじトンカツ、今じゃとても食べ切れないな。」
「そうね。半分も食べればお腹いっぱいになりそう。
……えびす亭、本当にもう無いのかな。」
「今度、機会があれば、見に行ってみようか?」
「いいわね。何かすごく気になってきた。」
「……最近、学生の頃の仲間と会っている?」吉岡が不意に尋ねた。
「ううん、全然。吉岡君以外とは会っていないなぁ。」
「俺も同じ。この歳になると、みんなそれぞれの生活があって、あまり離れていなくても会えないよね。」
「本当。」
「また、みんなで会いたいね。」
「うん。そうね。」
「それはそうと、浅田先生、お仕事は順調?」
「えっ?唐突ね。細々とやってますよ。」
「またぁ、凄腕弁護士って評判が聞こえて来ますよ。」
「見え透いたことを言って。」浅田は上目使いに吉岡を見た。
「救済されなければならない人を救済したいと思って仕事をしているから、経営は二の次になっちゃう。
経営者としては失格。上手くいっているとは言えないわ。」
「でも、信念を持って仕事をしているんだから、尊敬するよ。俺なんか現実に流されているから……」
「そんなことないでしょう。重責を担っているわ。」
「重責ねぇ。……ある意味そうだね。」吉岡は意味深な言い方をしてコーヒーを一口飲んだ。
「しゅうちゃんは元気?来年受験だから大変でしょ?」コーヒーを飲む吉岡の姿を見ていた浅田は、桧山建設の献金問題に関する一連の報道がしゅうに悪影響を及ぼしていないか心配だった。
「しゅう?元気だよ。部活も終わって、ようやく勉強をし始めたってとこかな。」
「それなら安心。しゅうちゃんは真面目だから大丈夫。
……ねぇ、私に出来ることがあったら言ってね。力になるから。」浅田は吉岡の目を見つめた。
「うん、ありがとう。今日は会えて本当によかった。」吉岡は感慨深げに言った。
そして、浅田の目を見た。
「もし、俺に何かあったら、しゅうのこと、よろしく頼むな。」吉岡は本気とも冗談とも取れるような表情でつぶやいた。
「え?」ティーカップを口に運ぼうとしていた浅田は、その手を止めて、真顔になった。
「何かって何?」
「例えばだよ、例えば。」吉岡は笑顔でコーヒーを飲み干した。
浅田と別れた吉岡は、オフィスに忘れ物を取りに行くために会社に戻った。
エレベーターに乗り込んでオフィスのある階にたどり着くと、オフィスの中を通り抜けて、自席に着いた。
吉岡は、デスクの右袖の引出しに入れたままの定期入れを取るために、キーホルダーからデスクのキーを取り出して引出しの錠を開けようとした。
「ん?」開錠した手ごたえがなかった。
退社する際はデスクの施錠を欠かせたことはない。今日も退社する際、確かにデスクの引出しを施錠したはずだ。
情報の漏洩には人一倍神経を尖らせている。
後ろめたい仕事に手を染めているせいかもしれない。
理由はどうあれ、退社する前に施錠したはずの引出しが施錠されていないのは事実だ。
なんで開いているんだ?
まさか俺が掛け忘れた?いや、それは絶対ない。
一体誰が開けたんだ?
目的は何だ?
キーはどうしたんだ?
「何で……」吉岡は不意に辺りを見回した。
オフィスには数人の部下が残業していたが、吉岡のデスクからは離れていたため、状況が呑み込めずに不思議そうに吉岡の方を見ていた。
「新村課長はもう退社したかい?」吉岡はその視線に気づいて、問い掛けた。
「はい。先程帰られました。」残業をしていた部下の一人が答えた。他の部下もつられて頷いた。
「僕のデスクに誰か来なかった?」吉岡はそれとなく訊ねた。
「いいえ。来ていないと思います。」部下は互いの顔を見ながら異口同音に答えた。
「そうか。忘れ物をして戻っただけだ。
みんな、あまり遅くならないうちに上がってくれよ。」吉岡は心に芽生えた疑念を払拭できないままオフィスを後にした。
「お疲れ様です。」仕事に戻った部下が心配そうに吉岡の背中に声をかけた。
吉岡はそれに答えず、エレベーターに向かった。
特に無くなっているものはない……
何かを探っているのか?データをダウンロードしたことを気付かれたか?
まあ、想定内といえば想定内のことだ。
俺もそんなにお人好しじゃない。
そう簡単に捨て駒になるつもりは無い。