断ち切られる絆
ある日の午後、しゅうは、気が付くと父が亡くなってから一度も近寄らなかった、正確には近づけなかった国分寺の駅の近くまで来ていた。意外と心の拒絶反応は起きなかった。
よりによって、古市さんが犯人だなんて……。
突きつけられた現実から逃げるようにやって来てしまった。
犯人が分かったことを父に伝えようとする使命感がそうさせたのかも知れない。
事務の仕事はしばらくの間休暇をもらって、ホテルで寝泊まりしている。美沙先生には気を使ってもらって、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
駅ビルに向かってアーケード街をゆっくりと歩いていると、先の方にガラス張りのカフェが目に入った。
高校生の頃によく通った店カフェ・ドゥ・ソレイユだ。あの香ばしいコーヒーの香りがよみがえってきた。
しゅうは高校生の頃からカフェラテがお気に入りだった。
懐かしさがしゅうを高校生の頃に引き戻していた。
パパはいつも仕事で帰りが遅かった。それをいいことに長い時間入り浸って、よく遥香たちとだべっていたっけ。
今にして思うと、もっとパパといる時間を大切にしておけばよかった。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
店先まで来たしゅうは、懐かしい気持ちのまま、少し離れたところからガラス越しに店内の様子を窺った。
店内は思っていた以上に混雑していた。そんな中、視界の端によく知っている顔を見つけた。
あっ、美沙先生。先生もこの店に来るんだ。
しゅうは美沙先生も同じカフェを利用していることが嬉しかった。
先生の向かいには男の人が座っているようだった。手前に座っている他の客の陰になってよく見えない。
事件の打合せかな。
しゅうはガラス張りの壁際に近づいて、美沙先生の方に小さく手を振った。
だが、次の瞬間、しゅうは、振った手を素早く下ろして、凍り付いたように固まった。
最初、美沙先生の向かいに座っている男性の姿は、しゅうの位置からは後姿の一部しか見えていなかったが、男性が体の向きを変えたことで、その横顔を垣間見ることができた。
その見慣れた横顔……古市だった。頭から足先にかけて電流が通過したような衝撃を受けた。
しゅうは目の当たりにした光景を理解することが出来ないでいた。
どういうこと?
二人はここで何をしているの?
一体、何を話しているの?
知り合いだったっけ?
ビルの一室を借りている美沙先生とビルの管理人をしている古市さん、それ以上の関わりなんてないはず、でしょ?
疑問が疑問を呼んだ。
犯人が古市だったという事実でさえ直視できずにいるのに、美沙先生と二人きりで何やら話し込んでいる。
話している内容を知りたかったが、とても恐ろしい気がして、知らない方がいいような気もする。
自分の勘違いであって欲しい。
そう願いを込めて、しゅうはもう一度店内に目を移した。その時、タイミングが悪く、ちょうど美沙先生がこっちの方を見ていた。
しゅうは慌てて身を屈めた。
美沙先生と目が合ってしまったかもしれない。
どうしよう……。私がいることを気付かれて、このままいなくなったら、余計に変に思われるかもしれない。
どうしても、この場で、気付かれたかどうかを確認しなければならない。
しゅうは、屈んだまま気を鎮めると、覚悟を決めて立ち上がり、恐る恐る店内を覗いた。
店内にいる美沙先生の表情を見ると、こちらに気付いた様子はないようだった。
大丈夫みたい……
ただ、しゅうの願いもむなしく、美沙先生と一緒にいるのは古市に間違いなかった。その事がしゅうの心を引き裂こうとしていた。
しゅうは店内の光景を理解することを放棄した。心がこれ以上のストレスを受けることを本能的に防いだに違いない。
ゆっくり、一歩、二歩と後退りした後、くるりと向きを変え、今来た道を引き返した。
頭の中は真っ白のまま。何も考えていないし、何の感情も湧いてこない。
失意の中、まるで無機質な機械のように、歩けと命令されて歩いているような感覚だった。
「タイミングが悪すぎたわね。」美沙先生は、中身が空になったコーヒーカップを置きながら言った。
昼下がりのカフェの店内は、かなり混み合っていた。
「もう少し調べる時間が欲しかったけど、しょうがないわ。」美沙先生は話を続けた。
「しゅうちゃんは、そもそも持っているのかしら?」美沙先生は、キューブ状のテーブルを挟んで座っている古市に訊ねた。
「どうですかねぇ……何とも言えませんね。彼女の口からそんな話を聞いたこともないですし。」古市はため息交じりに答えた。「もう少し調べたいところですけど。」
「事ここに及んでは難しいわね。」美沙先生は若干落胆した様子だ。「まさかあの事故を目撃していた人が事務所に訪ねて来るなんて。」
「本当に偶然とは恐ろしいですよね。」古市はあっけらかんと言い放った。
「なに他人事のように言っているのよっ。
よりによって依頼人に見つかるなんて。」美沙先生は古市の言動に少しイラついた。
「いや、あれは想定外ですよ。どうすることもできない。
ホームにいた僕を覚えている人に出くわすなんて……。
何か、運命的のものなんですかね。」古市は運命を盾に取り自己防衛した。
「あら?」美沙先生は外のアーケード街の通りの方に視線を移した。
「どうかしました?」古市も美沙先生の視線を追って振り向いた。
「ううん、何でもない。気のせい。」
「何がですか?」
「とにかく、しゅうちゃんとは少し距離を置いた方がいいわね、今は。
しゅうちゃんにもあなたに近づかないように言ってあるわ。」
「ひどいなぁ。僕だけ悪者ですか?」古市は、氷が溶けきって、すっかり温くなったアイスティーを一気に飲み干した。
「せっかく親しくなっていたのに。」
「今のしゅうちゃんは、あなたに恐怖しか感じてないかもよ。」美沙先生は、古市の鼻先を指差して、意地悪っぽく笑った。
「人が悪いなぁ。」古市は唇を尖らせて見せた。
「しゅうちゃんは、あなたが吉岡さんをホームから突き落として、その上何かを嗅ぎ回っていると思っているわ。」美沙先生は真顔になった。
「まあ、ある意味、嗅ぎ回っているといえば嗅ぎ回っているのかもしれませんけど。」
「……そうねぇ。」美沙先生は曖昧に返事を返した。
港区桜田通りのとある交差点付近
年の割にがっしりした体格の紳士は、停車していた車の後部座席に窮屈そうに乗り込むと、開口一番、「状況はどうなっている?」と、運転席に座っている男に向かって問いかけた。
「パソコンのデータには特に何も見つかりませんでした。
盗聴器の方もこれといった情報は得られていません……。
カメラでも仕掛けることができたら良かったのかもしれませんが、見つかるリスクが高かったですし。」
「それで、次はどうする気だ?」
「はい……」男は無意識のまま、左手の人差し指を口元にもっていった。そのことに気づいて、慌てて左手でハンドルを握って誤魔化した。
「はい、じゃ分からん。次の手立てはあるのか?うん?」
「今まで調査してみて、あの娘が果たしてデータを実際に持っているのか、私は疑問に思っています。何も掴めないので。
こうなったら、手っ取り早く、直接本人から聞いてみますか?」運転席の男は若干ヤケになって言った。
「あまり手荒なことを考えるな。お前がよくても、わしがよくない。
あの娘がデータを持っていないのであれば、それはそれでいい。ただし、その確証が欲しい。
良く考えれば、この1年、情報が流出した形跡は無いからな。取り越し苦労なのかも知れん。
いずれにしても、事は慎重に運ぶんだ。」そう言い残すと、紳士は車から降りた。