犯人の正体
しゅうは、ベッドに横になり、天井の模様を見るともなく眺めていた。頭の中は、あの依頼人の件で一杯だ。
古市さんがパパを……あり得ないでしょ。
……そんなことは、あってはならない。
大体、どんな理由であんなひどいことをするっていうの?
でも、あの依頼人の女性の反応は本当のようだし……。思い違いとも思えない。
……まさか、本当に古市さんがパパを突き落としたの?
あの日の朝、パパの背中を押したのは古市さん?
そして、私に近づくためにビルの管理人になった……
……そんなのまったく意味が分からない。
しゅうは、がぶりを振った。
ただ、自分の想像を否定したところで、その想像の芽が勝手に大きくなっていくような気がした。
しゅうは、無意識のうちに寝返りを打って、テレビの方に顔を向けた。テレビの手前には、いつも通りフクロウのマスコットが鎮座している。
あっ!
しゅうは突然起き上がった。
気にも掛けていなかったけど、いつだったか、仕事から帰ってきた時にフクロウが床に落ちていたことがあったっけ。地震で揺れたりしたわけでもなかったのに。
今にして思うと、部屋の中に何か違和感みたいなものがあった気もする。
まさか、古市さんが部屋の中に……
あまりに恐ろしくて、しゅうは途中で想像することを押し留めた。それでも、凄まじいストレスに見舞われてしまった。
喉の奥の方に酸っぱいものが込み上げてきて、えずきそうになった。
取り敢えず、部屋の中をあちこち見回してみたが、特に変わった様子はない。
こんな事をしている自分の行動が滑稽で肩をすぼめてみた。そうした方が楽になれるような気がした。
……考え過ぎ、考え過ぎ。部屋の鍵だって無くしていないし。
自分を無理矢理納得させた。
でも、最近、誰かに付けられているような気もする……
突然、首筋から背中にかけて悪寒が走った。と、同時に動悸が激しくなった。
前にあったひったくり。あの犯人って、まさか……古市さん?
しゅうは古市の笑顔を思い出しながら、その笑顔の裏に潜んでいるであろう邪悪な意思を感じて、恐怖で全身の毛穴が開いたような感覚になった。
もう一度、部屋の中を見回してみた。
何の根拠もないのに、色々なことを古市に結び付けて、無意識のうちに自分の恐怖心を煽っていた。
古市さん?
突きつけられた現実を受け入れることができずに、しゅうはもがいていた。
出口のない迷路の中をさまよっていた。というよりも、敢えて出口を避けて、歩き続けているのかもしれない。
父親を殺した犯人を見つけ出さなければならない使命感と犯人が古市だったという現実に、しゅうの心は押し潰されそうになっていた。
……自分じゃ、どうしていいのか分からない。とにかく、明日、美沙先生に相談しよう。きっといいアドバイスをくれるに違いない。
しゅうは、必死に自分に言い聞かせて、美沙先生に助けを求めることで、バラバラになりそうな心を何とか繋ぎ止めていた。
枕に顔をうずめて、ジリジリしながら夜が明けるのを待っていたしゅうは、朝になると飛び出すようにアパートを後にして、事務所に急いだ。
事務所の入口の電灯が灯っている。
美沙先生はもう来ているようだ。
「先生!」飛び込むように事務所に入ったしゅうは、意を決したように口を開いた。
「しゅうちゃん、おはよう。」振り向いた美沙先生は、いつものように優しい笑みをたたえていた。
その笑顔を見ると、しゅうの口元から堰を切ったように言葉と感情があふれ出した。
あの依頼人の話、部屋の中に違和感があったこと、誰かに付けられている気がすること、ひったくりのこと、古市の存在……。
取り留めもなく、思いつくままに一方的に話した。
美沙先生は、しゅうの話を一言足りとも聴き逃さないように真剣に聞いていてくれた。
それでも、しゅうは、自分自身、話している途中で話の内容が支離滅裂な妄想のように感じて、美沙先生の反応を窺った。
美沙先生は、しゅうを気遣ってなのか、真剣な中にも微笑みを絶やすことなく耳を傾けていた。
しゅうがぶちまけた思いの丈を全て受け止めた美沙先生は、ゆっくりと口を開いた。
「うん。よく分かったわ、しゅうちゃん。
……そうね、あの管理人の古市さん。
もし、仮に、あの人が本当にしゅうちゃんのお父さんを突き落としたとしても、その動機は何?
なぜそんなひどいことをしたのかしら?
それに、どうしてしゅうちゃんに付きまとうのか……、それが分からないわね。」美沙先生は人差し指でトントンと自分のあごを叩きながら思案顔をしている。
「えっ?はい……」しゅうにもその理由は分からない。
「しゅうちゃんの何かを探っているのかしら?」天井を見つめていた美沙先生は、しゅうに視線を移した。
「何かお父さんから預かったようなものはない?」
「預かったものですか?特に……ないと思います……」しゅうは思い巡らしてみたが、何も思い付かなかった。
「何か大事なことを聞いたことは?」
「うーん……そうですね。」しゅうは父親との会話を思い出していた。
今、改めて思い起こすと、父親が亡くなった頃には会話する機会がめっきり少なくなっていた気がする。
もっと会話する機会を作って、想い出を増やしておけばよかった……
美沙先生は、しゅうが自責の念に駆られだしたことを察して、話を先に進めた。
「あの日、お父さんは会社のために命を落とした……。
古市さんは、お父さんとどんな関係があるのかしら?
でも、それはしゅうちゃんには何の関係もないこと。」
「はい……」
「部屋に違和感を覚えたって、言ったわよね?」
「はい。何となくちがっていました。」しゅうは床に落ちていたフクロウのマスコットを思い出していた。
「もし、それが本当だとすると、しゅうちゃんの持っている何かを探しているのかしら。」美沙先生はテーブルの辺りに視線を落として考え込んでいる。
「何か無くなったものはない?」
「……特に何も無くなっていないと思います。」
「ごめんね。怖がらせるようなつもりは全然ないんだけど。」
「いえ、大丈夫です。」
「……管理人室に古市さんはいた?」おもむろにしゅうに尋ねた。
「今朝は見ていません。いるかどうか確かめませんでした。何だか怖くて。」しゅうは微かに身震いした。
「取り敢えず、これからは少し距離を置いた方がいいわね。」美沙先生は冷静に言った。
「やっぱり古市さんが……」
「分からない……」美沙先生はしゅうの言葉を遮るように呟いた。
「あの依頼人の話にしても、あの精神状態ではどこまでが本当のことなのか。思い違いの可能性も否定できないし。
しゅうちゃんの話を聞いても古市さんとは断定できないと思うの。」美沙先生は諭すような口調になった。
「……そうですか。」美沙先生の反応が予期していた反応と違っていたせいで、しゅうの心の中にほんの小さなわだかまりを生んだ。
昼になって、しゅうは隣のコンビニに行くために階段を小走りに駆け下りた。
1階にある管理人室の前を横切る時には、無意識のうちに歩く速度を速めた。顔は正面を向いたままだ。
今、鏡で自分の顔を覗いたら、表情はぎこちなく固まっているに違いない。
管理人室に古市が居るのか居ないのか、よく分からなかった。気になったけど、知りたくなかった。
そう……
確かに私の周りで起きている出来事が古市さんの仕業だと決めつけることは間違っているのかもしれない。
あの日、ホームで古市さんを直接見かけた訳でもない。
見てないよね……
分かっていても、簡単に納得出来るようなものじゃないし、自分を誤魔化すのはいや。
しゅうは、事務所の入ったビルを出て、コンビニの方へ歩き出そうとした時、歩道を歩いていた通行人にぶつかりそうになった。
「きゃっ!ご、ごめんなさいっ。」しゅうは咄嗟に頭を下げた。
「こちらこそ、すみません。」ぶつかりそうになった通行人も頭を下げた。
しゅうは、その聞き慣れた声色に反応して顔を上げた。
その通行人は、古市だった。
「大丈夫?」古市は心配そうにしゅうの顔を覗き込んだ。
「は、はい。大丈夫です。」しゅうはほんの少し後退りした。
「顔色が悪そうだけど。」
「いえ、そんなことはありません。」とにかく古市さんから離れたい……
「じゃあ、失礼します。」疑心暗鬼になっているしゅうは、逃げるようにコンビニに飛び込んだ。
鼓動が激しく高鳴り、シャツの上からでも分かる位だった。
しゅうは、古市がコンビニの中に入ってこないことをドア越しに確認すると、平静を取り戻そうとして深呼吸した。
驚いたような表情をして、しゅうを見つめていた店員の視線を感じて、慌てて近くにあったスナック菓子を手に取った。
その手は小刻みに震え、止めようとしてもなかなか止められなかった。