侵入者と監視者
数日前。
男は、先端が鈎状になっている金属製の細長い器具を慎重な手つきで鍵穴に差し込んだ。着けている薄くて白い手袋を通して、その器具から伝わってくる感触や振動から錠の構造を特定すると、差し込んだ器具を巧みに操作して開錠を試みた。
すると、カチッと乾いた音が鳴り、ドアロックが解除された。
男は、アパートの一室のドアの取っ手を握ると、静かに引き開けた。
室内の様子を見回してから、慌てることなく、しかし素早く室内へと忍び込んだ。
若い女性が住んでいる部屋らしく、カーテンや家具は明るい基調の色味で統一されていた。
男は、ワンルームの部屋の入口に立つと、腕時計を見て現在の時刻を確認した。
そして、テーブルの上にあるノートパソコンを見つけると、慎重に開いた。そっと電源を入れて起動させると、側面のUSBポートにメモリーカードのようなものを差し込んだ。
ものの数秒で、パソコンの画面には小さなウィンドウが開いて、検索中との文字が表示された。
男がその画面をじっと見ていると、しばらくして、ウィンドウの文字は、ログイン成功との表示に変わった。
おっ!
男は自らが操作したにもかかわらず、ログインできたことに思わず驚きの声を上げた。
ログインすると、メモリーカードのようなものに組み込まれていたプログラムは、ハードディスクの中のデータをコピーし始めた。
コピーしている間、男は玄関の方の警戒を怠らなかった。
完了
ウィンドウの表示を確認した男は、メモリーカードのようなものを抜き取ると上着のポケットの中にしまい込んだ。
それからパソコンを閉じて元通りにすると、目に付いたドレッサーの扉を開けて、何やらブツブツと呟きながら、その中を物色し始めた。
危険だし、コソコソこんな事をするより、もっと手っ取り早い方法があるだろう。
数分をかけてドレッサーの探索を終えると、その後もチェストの引出しの中やテレビ台の収納など、ひとしきり部屋の中を探し回っていたが、再び時刻を確認するとその手を止めて、部屋の中を元通りに直し始めた。
直し終えると、ポケットから手のひらに隠れるほどの四角い装置と小さなドライバーを取り出した。
ドライバーで壁にあるコンセントのカバーを外すと、その四角い装置をコンセントの奥に設置した。
三たび時刻を確認すると、予定の時間を経過していたのか、男は少し慌てて玄関の方へと急いだ。
気が急いていたせいか、左足の膝の辺りがテレビ台にぶつかり、そのはずみでテレビ台に鎮座していたフクロウのマスコットが床に転がり落ちた。時刻を気にしていた男は、それに気付くことはなかった。
男が出て行くと、その部屋は再び静かさを取り戻した。
「例のものを見つけたのか?」アパートの外へ出た男のスマホから皺枯れた低い声が響いた。
「パソコンのハードディスクのデータはコピーできました。まとめてコピーしたので、探しているデータがあるのかは、戻って調べてみないと分かりません。それ以外、部屋の中には無いようです。」男はキョロキョロと辺りを気にしながら答えた。
「その部屋の中に無いのは間違いないな?」スマホの皺枯れ声は念を押すように聞いてきた。
「はい、入念に調べました。パソコンのハードディスクの中にもなければ、手元にあるんじゃないでしょうか。」男は断言した。
報告していると、以前、スクーターに乗ったまま、バッグを奪い取ろうとして失敗したことを思い出した。
あれは失敗だったな。実行する前は成功するイメージしかなかったんだけど。
ちょっと強引だったか。
手荒なことをするなと言われているからな……。
あのことを報告したら、また怒られちまう。まあ、黙っておくか。
男が通話に集中していないことを察したのか、「おい、聞いているのか?コピーしたデータを一刻も早く調べるんだ。いいな?もし、データの中に無ければ、ほかの場所を探して、早く見つけて取り戻すんだ。」スマホの声は威圧的に指示した。
男は反射的に左手の人差し指のつめの先端を噛んだ。
「はい、部屋に盗聴器もセット出来ました。必ず見つけます。」男はやるべきことはやったと言わんばかりに答えた。
自分の話し声がいささか大きくなったことに気づいて、もう一度辺りを見回したが、近くには誰もいなかった。
その日の夕刻。
男は人通りの絶えない目抜き通りを歩いていた。
人の後を付けるのは、いざ実行するとなると想像以上になかなか難しいものだ。
あまり近づきすぎると気付かれてしまうし、離れすぎても見失ってしまう。距離感がよく分からない。
男は余裕もないのに他人事のように考えながら歩を進めた。
自分の前を行く女性に付かず離れず歩くのは、それだけでも辛い。そもそも、歩くペースが違うのだから当然だ。
ドラマの中の刑事やスパイのようには上手くいかない。それどころか、下手するとストーカーそのものだ。
男が余計なことを考えていると、彼女は住宅街に続く角を曲がり、男の視界からその姿が消えてしまった。
男は、彼女の姿を見失ったことに動揺して、無意識のうちに小走りになって後を追った。
そのせいで、角を曲がってみると予想以上に彼女に近づいてしまったことに慌てた。
うわっ!
彼女が突然、歩みを止めた。
男は、息を止めたまま、つんのめりそうになった体勢を立て直して、咄嗟に近くの民家の物陰に隠れた。
息を潜めて、必死に気配を消す努力をしていると、彼女は振り返り、その愛らしい小顔で辺りを見渡した。
気付かないでよ。
俺はただの石ころです……
祈るような思いで身を屈めた。
その祈りが通じたのか、彼女は踵を返して、再び歩き始めた。
ふうっ。
男は大きく息を吐いて、額の汗を拭った。
彼女が住宅街の道を歩いていると、塀の上にたたずんでいた白と黒のぶちの猫がじっと彼女の方を見つめていた。
それに気付いた彼女は、何かをつぶやきながら、ゆっくりと猫に近づいて、猫の喉のあたりを掻くように撫で始めた。
その猫は、逃げようともせずに、目を閉じて気持ちよさそうにあごを上げ、喉をゴロゴロと鳴らしているように見えた。
彼女は、猫の喉を撫で終えると、猫に小さく手を振って、再び歩き始めた。
その猫は、名残惜しそうに彼女の姿を目で追っていたが、彼女が戻ってこないと分かると、塀の内側の方に飛び降りて見えなくなってしまった。
男は、その光景を微笑ましく見ていた。
心が和んだためか、彼女が歩き出したことに気付くのが遅れ、早足で追いかけた。
尾行の真似事をしながら彼女の後を歩いていると、暫くして、彼女が住んでいるアパートに辿り着いた。
彼女の視界に入らないところで立ち止まり、彼女の後姿がエントランスの中に消えるのを見届けた。
……何事もなく帰宅したか。
アパートの近くの建物の陰から彼女の部屋の様子を暫く窺っていると、やがて部屋の明かりが付いて、カーテンが勢いよく閉まった。
さて、と……
俺も帰るとするかな。