東京地方裁判所 弁論準備期日
「しゅうちゃん、準備はできた?」美沙先生はアイボリーのバッグを左肩に掛けながら聞いてきた。
「はい、大丈夫です。」しゅうは忘れ物がないか自分のバッグの中を確認すると、美沙先生の後に続いて事務所を出た。
普段、しゅうは美沙先生が仕事で出かけるときには留守番をしていることが常だったが、この日は一緒に連れて行ってもらうことになった。
この日に期日がある事件はしゅうにとって特別な事件だった。
2か月前
しゅうが事務所で事件ファイルを整理していると、スマホの着信音が鳴った。
スマホを取り出すと、茉奈からの着信だった。
しゅうは少し驚いた。
父親が亡くなって以来、生活が一変して、高校卒業後は高校時代の友人から暫く遠ざかっていた。遥香にさえ会っていないし、話してもいなかった。
しゅうに心の余裕がなかったこともその理由だったが、遥香をはじめ友人達もしゅうに気遣って、ここ1か月位、SNS以外では、しゅうに連絡を取っていなかった。ほぼ文字だけのやり取り。
「あっ、しゅう?」久しぶりに茉奈の声を聞いた。何年も聞いていなかったような気がする。
「茉奈、久しぶりだね。元気だった?」
「うん、私は元気。しゅうはどう?」申し訳なさそうに茉奈が聞いてきた。
「私も大丈夫、元気だよ。
……あれ?どうしたの?茉奈、泣いてる?」茉奈は、スマホの向う側で鼻をすすって、しゃくりあげているようだ。
「ごめんね。しゅうがすごく大変だって分かっているんだけど、私……」
「何?どうしたの?」しゅうは胸がざわついた。
「しゅう、弁護士の先生のところで働いているでしょ?」
「うん。」
「お姉ちゃんのことなんだけど。」
「茉奈のお姉さん?」
「そう。結婚しているんだけど、旦那と上手く行っていないらしいんだ……
と言うより、何か暴力受けてるみたい……私、最近まで全然知らなくて。
お姉ちゃんの身体を見たらアザとかすごくて、それで……」茉奈はしゃくりあげた。
「うん、うん、それで?」気が付けば、しゅうも目が潤み始めた。
「お姉ちゃんは離婚したがっているんだけど、旦那が拒否しているらしくて。
うちの家族とその旦那、ほとんど付き合いがなくて、よく知らないんだよね。駆け落ちみたいに結婚したから。
それで、全然分からなくて、お姉ちゃんのこと。
しゅうのとこの先生なら何とかなるかなって思っちゃって……
しゅうも大変なのに……自分勝手だよね……ごめん。」
「何言ってんの!友達でしょ!美沙先生なら必ず力になってくれる。
私だって、少しでも茉奈に協力したいよ。」
「しゅう、お姉ちゃんを助けてくれるの?」
「当たり前でしょ!」
美沙先生としゅうは東京地裁に向かった。
「今日、しゅうちゃんの友達は来るの?」タクシーに乗り込んだ美沙先生はしゅうに聞いた。
「いえ、来ません。お姉さんが断ったみたいで。」しゅうは隣に座っている美沙先生の方を見た。
美沙先生は、裁判所がある霞ヶ関に一人で出かける時には専ら電車を利用していたが、今日はしゅうのことを思いやって、国分寺駅に行くことを避け、タクシーで移動することにした。
「今日の弁論準備期日はすぐに終わると思うから、法廷の横の控室で待っていてくれる?」美沙先生はしゅうに告げると、バッグからファイルを取り出して目を通し始めた。
「……あの、茉奈のお姉さん、請求は認められますか?」
「そうなるようにできる限りのことをするわ。」美沙先生は力強く答えた。
「はい。ありがとうございます。」しゅうは安心して静かに目を閉じた。
自分がついて行ったところで何か出来る訳でもない。
それどころか、美沙先生の仕事の邪魔になっているのかも知れない。
それでも美沙先生は快く聞き入れてくれた。美沙先生には感謝してもしきれない。
美沙先生としゅうは東京地裁に着くとエレベーターに乗って6階に上がった。
待ち合わせをしている控室に入ると、茉奈の姉が木製の長椅子に座って美沙先生が来るのを待っていた。
「森咲さん、お待たせしました。」美沙先生は森咲に歩み寄った。
顔を上げた森咲の色白で端正な顔つきはやつれて、実際の年齢よりも老けて見えた。
森咲は夫との離婚調停が上手く行かず、美沙先生が代理人となって提訴していた。
森咲の弁を借りるなら、夫は、結婚後間もなく、森咲に暴力を振るうようになったらしい。
それも、非常に狡猾で、傷跡が外から見える顔などに怪我をさせることは無かった。同居していた当時、森咲の整った顔には傷一つ無かったが、服を脱ぐと、細身のたおやかな身体には怪我やあざが絶えなかった。やがて彼女は自分の身体を直視することが出来なくなってしまった。
それ以上に、心に負った深い傷は腫瘍のように森咲を蝕み続けている。
森咲から仕事の依頼を受けた際、夫から受けた暴力の内容を聞いた美沙先生は、彼女に対する同情と彼女の夫に対する怒りで口元が震えていたことを、しゅうは鮮明に覚えている。
森咲は、美沙先生が控室に入ってくると、力無さげにゆっくりと立ち上がった。
「……おはようございます。よろしくお願いします。」森咲は消え入りそうな声で挨拶した。
「おはようございます。では、今日の期日の打合せをしましょうか。」美沙先生は努めて穏やかに言って、彼女を再び長椅子に座らせた。
「今日は吉岡さんも一緒に?茉奈も一緒に行きたいといったんだけど、私、断ったの。私自身の問題だから。」森咲はしゅうを見上げた。
「はい、茉奈から聞いています。私、何もできないですけど、事務所で待っていられなくて……来ちゃいました。あの、邪魔はしません。」
「ううん、いいの。心強いわ。ありがとう。」森咲は微笑んだ。
「今日、筧は来ないんですよね?」森咲は伏し目がちにして、か細い声で美沙先生に確認した。
「大丈夫です。向こうの代理人の先生に確認しました。安心してください。」美沙先生は森咲の隣に腰掛けた。
「そうですか。」森咲はほっとしたように吐息を漏らしながら言った。
「私、筧と別れることが出来ますか?」森咲は言葉を続けた。
「訴訟ですから予断を許しませんが、裁判所はこちらの証拠で事実を認定してくれると思います。森咲さんには辛い思いもさせましたが、大事な局面ですので頑張りましょう。」美沙先生は森咲を励ますように答えた。
森咲は弱々しい笑顔で頷いた。
「付き合っている頃はああじゃなかったのに……」
「付き合っている頃から変わっていないと思います。私は森咲さんから事情を聞いただけですけど、人の本性は変わらない。本性を出すか出さないかの違いだけだと思います。」美沙先生は森咲に寄り添った。
「はい。私は結婚する前に筧の本性を見抜く事ができませんでした。因果応報っていうんでしょうか。今の状況はその結果、ということなんでしょうね……」森咲はうつむいたまま答えた。
「そんなことはありません。年が離れていることもあって、向こうが本性を見せないようにずる賢く隠していた。そういうことです。」美沙先生は森咲の両肩に両手をそっと置いて強く諭した。
「はい。」森咲は美沙先生の手に自らの手を重ねた。
「それでは、今日の予定を確認しましょう。」美沙先生はバッグから事件簿を取り出して開いた。
二人の打合せの成り行きを見守っていたしゅうは、一度控室から出た方がいいような気がして、「ちょっと出ています」と美沙先生に耳打ちしてから通路に出た。
通路には人影がなく、雑然と混み合っている1階のロビーとは対照的だった。歩くとローヒールの足音が通路中に響いた。
化粧室のサインを見つけたしゅうがその方向に歩き出すと、しんと静まり返った通路に再びコツコツと足音が一定のリズムで響いた。
自分のローヒールが発する小気味よい足音を聞きながら歩いていると、背後から別の足音がズッズッと不協和音のようにしゅうの足音に重なって聞こえてきた。
迷惑なことに、その不協和音はしゅうの方に徐々に近づいて来るようだった。
ウソッ、まさかこっちに来るんじゃないわよね……
不協和音を振り返ってみたり、早歩きする勇気は無かった。裁判所の雰囲気がしゅうを萎縮させたのかもしれない。
それでも、化粧室の近くまで来ると自然と早足になって、駆け込むように化粧室に入った。
化粧室のドアの内側でじっと聞き耳を立てていると、不協和音は化粧室の前を通り過ぎて、そのまま行ってしまったようだった。
……自意識過剰。そりゃそうよね。
スクーターの引ったくりにあってから、どうも背後が気になる。
しゅうは化粧室のドアを開けて、無意識のうちに不協和音の姿を確認しようとした。
そうすると、通路から階段に向かっていた不協和音の後姿を一瞬だけ垣間見ることが出来た。
スーツ姿の中年男性。しゅうにはそんな風に映った。
足音を奏でるその後姿に違和感なし。
そして、私の自意識過剰にも間違いなし。
しゅうは一瞬とぼけたような表情を作って化粧室に入り直した。
弁論準備期日が無事に終わり、森咲をタクシー乗り場まで見送った美沙先生としゅうは日比谷公園の中を歩いていた。
公園のいちょう並木の枝葉が遊歩道に影を落として、午後の強い日差しを防いでくれている。涼しいとまでは言えないものの、照り返しのあるアスファルトの歩道を歩くのとは雲泥の差だ。そして、草木や土の香りと噴水の水音が都心にいることを、束の間忘れさせてくれる。
「先生、茉奈に今日の期日のこと教えてもいいですか?」しゅうは、今日の弁論準備期日の結果を早く茉奈に伝えたくて、美沙先生に許可を求めた。
「そうね。家族だし、お姉さんも了解しているから、いいわよ。」
美沙先生が答え終わらないうちに、しゅうは茉奈に電話を掛けていた。
「あ、茉奈?」
「しゅう、今日の裁判は終わったの?」
「うん。お姉さんが私から茉奈に伝えてもいいって言ってくれたから、電話したの。裁判は無事に終わったよ。
と、言うよりも、この裁判自体が終わったのよ!茉奈っ!」
「え?裁判が終わった?判決が出たってこと?」
「そうじゃないんだけど。向こうの代理人の先生が請求を認諾したんだって。」
「認諾?」
「そう!諦めたってこと。こっちの要求通りに離婚に応じるって!」
「本当?よかったー!安心した。ありがとう、しゅう。」
「私は何もしていないよ。全部、美沙先生のおかげ。でも、本当に良かったねっ!」
「うん。これでお姉ちゃんも自由なんだよね?」
「そういうこと。お姉さんもほっとしていたよ。」
「でもさ、考えてみると、裏のある男の人って怖いね。最初は好きだったはずなのに、気づいた時にはもう手遅れ……」茉奈が急に真剣なトーンになった。
「確かにね。でも、それは男の人に限ったことじゃない。
それに、表と裏があるってことは、結局、本当の自分を出すか出さないかということでしょ?
男性に限らず、人と上手く付き合うには、相手の本性を見抜く力が必要なんだよね、たぶん。」しゅうも真剣モードになっていた。
「そっかぁ、なんか恋愛臆病になりそう。しゅうは見抜ける?」
「正面切って聞かれると、自信ないけど……
これから少しずつ、経験を積んでいくしかないんじゃない。」
「それしかないよね、焦らずに頑張ろう。」
茉奈は自分なりに納得できたらしい。
「……やっぱり、しゅうに相談してよかった。あの先生すごいね。」
「美沙先生、すごいでしょ?」しゅうは自分のことのように喜んだ。「お姉さんに会ったら、よろしく伝えてね。」
「こっちこそ、先生にお礼を言っておいて。本当にありがとう。」
しゅうと茉奈は、お互い離れていても、抱き合って喜んでいるような感覚だった。
「先生。茉奈もとても喜んで、先生にお礼を言っていました。」
「そう。よかった。まだ手続きは終わっていないけど、事実上は、めでたく終了。
なんか急にお腹空いてきちゃった。しゅうちゃんは?」
「そういわれると、私も空いてきました。」
「近くに美味しいレストランがあるわ。」
美沙先生としゅうが並んで遊歩道を歩いていると、お目当てのレストランが目の前に現れた。
日比谷 松木楼
テラス席のある白亜の洋館のレストランは、ランチの時間帯のためか、利用客で混み合っていた。二人が待合席で待っていると、程なくして、店内の角の席に案内された。
「私はハヤシライスにしようかな。しゅうちゃんは?」美沙先生はメニューを見ながらしゅうに聞いた。
「はい、カツライスにします。人気メニューらしいので。」しゅうはメニューを閉じながら答えた。
「美味しそうね。……そう言えば、しゅうちゃんのお父さんも学生の頃よく食べていたわ。」美沙先生はメニューのカツライスの写真を眺めながら言った。
「父がですか?あまりイメージが湧かないな。」
「まだ若かったから。何か、すごく大きなトンカツを食べていた。」
「何だかフードファイターみたいですね。」
「えっ?そこまでじゃないけど……たまにね。」
「美沙先生と父は仲がよかったんですか?」しゅうは今さらのことを聞いて少し後悔した。
「そうね。お父さんとお母さんとも仲が良かった。」
「美沙先生と両親が親しくて良かったです。そうじゃないと、今こうしていられませんから。……母ってどんな人でしたか?私、母の記憶がほとんどなくて。」
「しゅうちゃんのお母さん?……うん、ありきたりに聞こえるかもしれないけど、優しくて綺麗な人だった。綺麗っていうのは、外見だけじゃなくて心も澄んでいて綺麗だった。」
「そうですか。何か嬉しいです、私の想像通りで。」しゅうは、ぱっと笑顔になった。
「しゅうちゃんの目元はお父さん似ね。時々、ハッとするのよね。」
「顔は父親似ってよく言われます。そんなに似ていますか?」
「どっちかと言うとね。お父さん似だと嫌?」
「嫌じゃありませんけど、自分じゃそんなに似ていると思っていないので。」しゅうは小首を傾げた。
「お父さんとお母さんはなるべくして一緒になったという感じだったな。はたから見てもぴったりの二人。素敵なご両親。」
「はい。二人とも天国で見守ってくれていると思います。」
「……ごめんね。何か食事の前に重たい話になってきちゃって。」
「いえ、大丈夫です。美沙先生がいてくれるので安心です。」
「しゅうちゃんがそう思ってくれていると嬉しいわ。ご両親の代わりにはとてもならないけど。」
「そんなことありません。先生には本当に感謝しています。」
しゅうの両親の話をしていると、料理が運ばれてきた。
「しゅうちゃんのカツライス、美味しそうね。」
「そうですね。……では、フードファイター吉岡しゅう、いただきます!」
おどけたしゅうの姿に堪えきれない美沙先生の笑い声が店内に響いた。