スクーターに乗った引ったくり
交差点で古市と別れたしゅうは、いつもの家路を歩いていた。
イヤホンからはブルーハーツが流れていて、そのビートに合わせて地面を蹴るように歩を進めた。
父の影響だろうか。しゅうは、父がよく車の中で聞いていたブルーハーツを好んで聞いている。
特にお気に入りの楽曲が「人にやさしく」。聞くだけで文句なしに元気が湧き上がってくる。
頭に鳴り響いているブルーハーツが、背後に迫っているスクーターの気配を消していた。
突然、右肩に強い衝撃を受けた。
えっ?何?
考える間もなく、肩に掛けていたバッグが強い力で引っ張られた。
咄嗟に左腕をバッグのショルダーストラップに絡めて、自分の体から離れていこうとしているバッグを引き戻した。
一瞬、スクーターに乗った輩と引き合いになったが、バランスを崩しかけた輩は、バッグを奪うことを諦めて走り出すと、最初の交差点を左折して姿が見えなくなってしまった。
その上、被っていたヘルメットがフルフェイスだったせいで、顔つきも全く分からなかった。
しゅうの心臓は口から飛び出しそうなくらいに動悸が激しくなって、ブルーハーツのビートにも負けないくらいだった。
しゅうは、深呼吸をして何とか平静を取り戻そうとした。
ふと、自分の両手に目をやると、震えの止まらない両手は、バッグのショルダーストラップを固く握りしめて、白くなっている。
ひったくりに遭遇したのは生まれて初めての経験だ。
一瞬、あとを追おうとも考えたが、防衛本能がそれを制止した。
よく話に聞いていた、典型的なひったくり犯っているのね……
恐怖心が徐々に薄らぎ、落着きを取り戻し始めたしゅうは、バッグを奪われなかったこともあって、他人事のようにそう思っていた。
美沙先生に連絡しようかとも考えたが、美沙先生の忙しく働いている姿を想像して、考え直した。
「大丈夫ですか?怪我はしていない?」
突然、背後から声をかけられて、しゅうは反射的に少し飛び退いた。
「はい。大丈夫です。」振り返って相手を見ると、小太りの中年男が心配そうにしゅうを見ていた。
「本当?救急車を呼ぼうか?」その中年男はしゅうに近づいて来た。
「いえ、本当に大丈夫です。全然、平気です。何ともありませんから。」しゅうは、ひったくり犯以上にこの小太りの中年男が怖くなってきた。
「それならいいけど。」自分のことを警戒していることに気付いた中年男は、しゅうと少し距離を置いた。
「何か取られた?」中年男は中年特有のしつこさで畳みかけてきた。
「何も取られていません。ありがとうございます。」しゅうは一刻も早くこの場から立ち去りたかった。と言うよりも、この中年男から離れたかった。
しゅうにとって不毛な問答をしていると、ことの成り行きを目撃した人が通報したのか、遠くの方からパトカーのサイレン音が徐々に近づいてきていた。
「おっ、ようやく警察が来たみたいだ。」中年男はサイレン音が響いてくる方向に顔を向けた。
1台のパトカーが二人の姿を見つけて、近くの路上に停止した。
「私はひったくり犯じゃないからね。」警官がパトカーから降りて来るや否や、中年男は言い放った。
「そうですか?」警官はしゅうに確認した。
「はい、こちらの方は、その……私を心配して声をかけてくれただけです。犯人はもう、スクーターで逃げてしまったと思います。」しゅうは、一瞬、中年男の顔を見てから答えた。
中年男はほっとしたような表情になった。
「分かりました。あなたが引ったくりの被害に遭われたのですね?」
「はい、そうです。でも、何も盗られませんでした。」
「怪我はしませんでしたか?」
「はい、大丈夫です。」
「では、現場の状況などを確認させてもらいます。被害に遭った場所はどこですか?」警官は辺りを見回した。
「こっちの方です。」しゅうは警官に現場を案内した。
そして、しゅうは、現場検証に立ち会って、警官に状況を説明している時、気になって中年男の方を見ると、中年男はもう一人の警官から何やら事情聴取されているようだった。
その後、現場検証が終わってパトカーの方へ移動すると、中年男はすでにいなくなっていた。
現場検証の後、そのままパトカーに乗せてもらい、近くの警察署に行って、事情聴取を受けたりしているうちに帰宅するのが随分と遅れた。
へとへとになって、中年男のことをすっかり忘れていたしゅうは、ようやく自分の部屋の前に辿り着いて安堵のため息をついた。と同時に、微かなオレンジオイルの香りを嗅いだような気がしたが、疲れのせいもあって、そのこともすぐに忘れてしまった。
その日の夜、ベッドに潜り込んでも、なかなか寝付けなかった。警察の事情聴取もあって疲れているはずなのに、さすがに神経が高ぶっている。
こういう時に金縛ばりになったりするんだっけ?
どうして私のバッグを奪おうとしたんだろう?高いものでもないのに……
しゅうは、奪われそうになった、少しくたびれたこげ茶色のバッグを眺めながら答えを探した。
それでも答えが見つからないまま、ようやく寝付いた頃には空が白んで明るくなりかけていた。