古市との出会い
翌朝、咽ぶような熱気の中、しゅうがいつものようにアイスカフェラテを片手に事務所に出勤すると、美沙先生はまだ来ていなかった。
事務所にこもっていた熱を追い出すために、窓を開けて中に風を通した。
そして、期待を込めてエアコンのスイッチを入れてみたが、天井の送風口は無反応のままだった。
まだ駄目みたい……
諦めて仕事の準備を始めたとき、チャイムが鳴った。
「円山設備です。」インターホン越しに男性の声が事務所中に響いた。
「はい、どうぞ。」しゅうはドアを開けた。
「空調の修理、遅れてすみません。」
「もう、直るんですね。」しゅうは、待ち焦がれたように言った。
「はい、ほかの者が地下の空調設備を修理中です。それで、送風口の点検でお邪魔しました。」
「そうですか。お入りください。」
マスクをつけた業者の男性は、チラッと事務所内を一瞥してから、送風口の真下に来ると、肩に担いでいた脚立を下ろして、立て掛けた。
軍手を付け直すと、軽快に掛け登って、送風口のカバーを取り外し始めた。
しゅうは、その男性の背中越しに作業を見守っていた。
「暑いのに大変ですね。」しゅうがそう話しかけると、男性は振り向きもしないで「ええ」と短く答えた。
作業を続けていた男性は、しゅうの方に顔を向けて、マスク越しに口を開いた。「懐中電灯か何かライトはありますか?忘れてきちゃって。」
「……はい。ちょっと探してみます。」しゅうはそう言って、奥の部屋へ消えた。
……暫くしてから、しゅうが現れた。
「これだったら、ありましたけど。」しゅうは、少し申し訳なさそうに、小型のLEDライトを差し出した。
「それで充分です。」男性はライトを受け取り、送風口の中を照らした。
その後、点検作業が終了したらしく、男性はカバーを元に戻して、脚立から降り立った。
「点検、終わりました。」
「ありがとうございます!」
「修理も終わったと連絡が来たので、動くと思います。」
「あ、はい。」しゅうは空調のスイッチを入れてみた。
天井の送風口はブーンと低い唸り声を上げて、ひんやりとした心地よい風を送り始めた。
「あっ、動いた。涼しい。」心地よい風を全身で受け止めたしゅうは、笑顔で男性の方を振り返った。
作業を終えた男性は、軽く会釈して帰っていった。
しゅうが涼しさに浸っていると、美沙先生がゆるりと事務所に現れた。
「おはようございます。」
「おはよう。ようやく直ったみたいね。」
「はい、今さっき、業者の方が来てくれました。」
「うちの事務所に来たの?」
「はい、送風口の点検もあったみたいで。」
「……ああ、そう。」美沙先生は、一瞬怪訝な表情をしたが、すぐにいつもの優しい顔つきに戻っていた。
昼休みになり、しゅうはいつものコンビニで昼食を買うために事務所を出て1階へ降りて行った。
階段を降りた所にある管理人室の中を見ると、管理人は新聞を読んでいた。
しゅうが管理人室の前で足を止めると、管理人と目が合った。しゅうは咄嗟に何か話しかけないといけないと思ったが、気の利いた言葉が見つからなかったので、取りあえずペコッと頭を下げた。
管理人も同じタイミングで頭を下げた。頭を上げた彼の顔は穏やかな笑みをたたえていた。
不思議と管理人さんを見ると安心する。何故だろう……自分でもよく分からないけど、とにかく気持ちが落ち着くのは確かだ。
しゅうは、若干の昂揚感を覚えながら、小走りにコンビニへ向かった。
サラダやヨーグルトやらを買い込んで戻ると、しゅうの姿を見つけた管理人は、待っていたかのように管理人室から出てきた。
しゅうは管理人に話しかけようとしたが、口をつぐんだ。よく考えたら、管理人の名前を未だ知らなかった。
首から下げたIDカードをさり気なく見ようとすると、管理人はそれを察したように、IDカードをしゅうに見せて、「古市です。」と短く自己紹介した。
「あっ、吉岡です。」しゅうもかぶせ気味に慌てて答えた。
「仕事、頑張ってください。」古市は小さくガッツポーズをとった。
「ハイッ。」しゅうも古市の真似をして、ガッツポーズをとった。
二人は笑い合いながら、それぞれの事務室に戻っていった。
しゅうは頼まれていたサラダを美沙先生に渡すと、美沙先生は、「あの管理人の人、優しそうね」と、おもむろにしゅうに尋ねた。
「えっ?そうですね。そんな感じです。」しゅうはドギマギと答えた。美沙先生に心の内を見透かされているような気がした。
その日の夕方、仕事を終えたしゅうが管理人室の前を通りかかると、部屋の中は薄暗く、人気がなかった。
留守かな……
気になりながらも外へ出ると、いつものようにグリーンベルトの中央分離帯がある大通りの方へ向かって歩き始めた。
夕方といってもまだまだ日が高く、弱まることを知らない夏の陽射しがアスファルトを容赦なく熱している。陽射しに向かって歩いていたしゅうは、思わず被っていたデニムのキャップのつばを引いて、深く被り直した。
角にファミレスがある交差点に差し掛かった時、タイミング悪く、目の前の信号機が赤に変わったところだった。
ここの信号、なかなか変わらないからなぁ……
そんなことを考えて、グリーンベルトに植えられている、けやきの木々が車道に作る影を眺めながら信号待ちしていると、古市が、大通りを挟んだ通りの向こう側を、買い物袋を抱えて、しゅうがいる交差点の方に歩いて来ているところだった。ただ、陽射しが逆光になっているせいか、古市の表情はよく見えなかった。
古市も大通りの向こう側で信号待ちのために立ち止まった。
交差点を挟んで向き合った二人は、行きかう車が途切れた時に小さく会釈した。
暫くして信号が青に変わると、二人は、ほぼ同時に歩き始めた。
「お疲れ様です。」グリーンベルトのところで、しゅうが声を掛けると、古市は袋を持ち直して近づいてきた。袋の中はレトルト食品やカップラーメンで一杯だった。
「今日はもうお帰りですか。」古市は相変わらずの笑顔だ。
「はい。」しゅうはコクッと頷いた。
「僕は食料の買い出しに行って来ました。駅前の商店街の方へ。丁度、タイムセール中でお買い得でした。」買い物袋を揺らしながら古市は言った。
「……そうなんですね。……私、駅にはなかなか行けないんです。」しゅうは無意識のうちに口をついた自分の言葉にハッとした。古市に自分のトラウマを知られたくなかった。
「はい。」古市はしゅうの動揺した表情に気付いたのか、そう言ったきり、何も聞いてこなかった。
気が付くと、信号は再び赤に変わっていて、二人はグリーンベルトに取り残されてしまった。
ファミレスの方を見ると、自転車に乗って来た男女4人の高校生のグループが談笑しながら店内に消えて行った。
「管理人室で食事すること、多いんですか?」視線を高校生のグループから古市の買い物袋に移したしゅうが聞いた。
「管理人室に詰めている時はそこで食べることが多いですね、簡単に。」そう言って、古市は買い物袋をしゅうに見せた。
「仕事の前にそこのファミレスに寄って食べることもありますよ。入ったことあります?」
「いつも前を通るんですけど、まだ入ったことないです。気にはなっているんですけど。」しゅうはファミレスを見ながら答えた。
「安いし、美味しいですよ。スープバーがあるんですけど、その中のオニオンスープが特に美味しい。」
「そうですか。今度行ってみます。」
「昼は結構混んでいますから、待つかもしれません。」
「分かりました。気を付けます!」しゅうはおどけて敬礼の真似をした。
「はっ!」つられた古市も敬礼した。
「でも、レトルトも美味しいですよね。私もよく食べます。」しゅうは半分本音で半分古市をフォローするように言った。
「そうそう、今どきのレトルトって侮れないよね。」古市は頷きながら大袈裟な感心顔をして見せた。
「本当ですね。」古市の表情を見て、しゅうは声を上げて笑った。