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新たなスタート

 1年後


「お願いします。」

 しゅうは、いつものようにコンビニのカウンターにアイスカフェラテを置いた。


 会計を済ませた後、アイスカフェラテを手にしてコンビニの外へ出ると、ムワッとするような熱気に顔をしかめた。


 冷えたカフェラテに涼を求めて、喉を鳴らしながら一飲みした。それから小走りに駆け出して、隣の雑居ビルの階段を軽やかに駆け上った。

 階段を昇る身体の揺れに合わせて、銀色のペンダントが胸元で上下に揺れていた。

 古びた雑居ビルの階段は薄暗く、空気は外気と比べて少しひんやりとしていた。


 しゅうは、慣れた手つきで、2階の突き当りにある扉を勢い良く引き開けた。その扉には浅田法律事務所と書かれたプレートが貼られていた。


「美沙先生、お早うございます。」事務所の奥にある革張りの椅子に腰掛けていた女性に挨拶した。


「おはよう。」美沙先生と呼ばれた童顔の女性は、気だるそうに挨拶を返した。

「ここのエアコン、いつになったら直るのかしら。」美沙先生は天井のほうを恨めし気に見やった。


「……ですね。管理人さんに聞いたら、今日の夕方には修理業者の人が来てくれるって言っていました。」

 しゅうは自分の事務机について、水滴が付き始めたカップに入ったカフェラテを飲んだ。


「そう言えば、管理人さん、新しい人に代わっていましたよ。知ってました?」


「あぁ、そう。」美沙先生は興味なさ気に答えた。


 事件簿とスケジュール帳を確認して、一日の仕事の予定を先生に伝えるのが、しゅうの毎朝の日課だ。

 今日は離婚調停の2回目の期日。美沙先生って、離婚問題や労働問題が専門の弁護士だけど、もっとマスコミが飛び付きそうな事件を担当することないのかな……小さい事務所だから難しいのかな。


 仕事の予定を伝えた後、暑さにかまけて他愛もないことを考えていると、美沙先生はいつの間にか仕事モードに入っていて、首筋の汗をハンドタオルで拭いながら、事件ファイルと格闘中だった。


「……じゃあ、そろそろ時間だから、依頼者と打合せをしてから家裁に行くわ。後をよろしくね。」美沙先生はお気に入りのアイボリーのバッグに事件書類を詰め込みながら言った。


「行ってらっしゃい。」しゅうは美沙先生を見送ると、経費の領収書や請求書をテキパキと整理して片付けた。


 一息ついていると、窓から入ってきたそよ風がしゅうの髪をそっと撫でた。

 そういえば、あの日も暑かったっけ……

 父親がしゅうの目の前で電車に轢かれたあの日、今日のように朝から汗ばむほどに暑かった。


 瞼を閉じれば、その時の光景が鮮明に蘇る。と言うより、常に頭の片隅にあって、いつでもその光景を再生できる。

 したいわけじゃないけど……

 十八歳の少女にとって、あまりにも衝撃が強すぎる経験を消し去ることなんて出来る訳がない。


 あの日、バドミントン部の後輩の練習試合の応援に遅刻しそうで急いでいた。パパは、私よりも早くに家を出た。


 もし、あの時、余裕を持って駅に着いていたら、パパを助けられたかもしれない……

 もし、あの時、もっと遅れて駅に着いたら、あの瞬間を目撃しなかったに違いない……

 もし、あの時……


 しゅうが物心をつく前に母が病気で亡くなって以来、父は男手一つで愛娘を育ててきた。

 ……その父が、あの日、電車に飛び込んだ。

 でも、しゅうはそう思ってはいない。

 自分一人を残して、父が自ら命を絶つはずがない。そう思いたいだけではなく、しゅうは、そう確信している。


 あの日、ホームでのあの時、確かに父は電車に轢かれ、命を絶った。それは揺るぎのない事実だ。でも、自らの意志で飛び込んだのではない。


 しゅうは、人混みの中に、父の背中を突き押した男の腕を目撃した。

 見間違いなんかじゃない。確かに見た。

 パパを線路に突き落とした男の腕を。


 でも、結局、事件性はないとして、パパは自殺したことにされた……。

 ネットニュースでも、渦中の桧山建設の吉岡財務部長が自殺。真相は闇の中に消えるのか?みたいな記事がアップされていた。


 しゅうが懸命に警察に説明しても、所詮、高校生の証言なんて信憑性のない戯言だと片付けられてしまった。目の前で父親を失った可哀想な娘の思い込みだと……。


 何とかして真実を知りたい……じゃないと、私の人生は先に進まない。


 しゅうは、ネットでニュース記事を斜め読みしながら、幾度となく思い巡らした事をまた考えていた。

 その反面、しゅうの心は凄まじいショックを受けたせいで、未だにPTSDを克服することが出来ていない。


 そんな時、入口のチャイムの音が、しゅうを現実の世界に引き戻した。

「はい、浅田法律事務所です。どちら様ですか?」インターホン越しに返事をすると、しゅうはモニターを覗き込んだ。


 モニターには、微笑んでいる男性が映っていた。

「お疲れ様です。ビルの管理人です。」男性は明瞭に答えた。


「ご用件は何でしょうか?」しゅうは、ドアを開けた。


「空調の修理の件なんですが、今日は業者が来られなくなってしまいまして……明日の朝には必ず来ると思います。」


「そうですか、暑いけどしょうがないですね。」


「すみません。」


「管理人さんのせいじゃありませんから。」


「……はい。」管理人はすまなそうに肩をすぼめた。

「熱中症には十分気を付けてください。」必要以上に真剣な眼差しで管理人は言った。


「分かりました。」しゅうは、管理人の圧に気圧されて、多少のけ反った。


「他にも何かありましたら、遠慮なく言ってください。力になりますから。」


「そうします。浅田にも伝えておきます。」


「はい、よろしくお願いします。」管理人は頭を下げた。


 その瞬間、オレンジオイルの香りがほんのりと香った。しゅうは小さい頃から香りに敏感だった。

 父の事件の後、PTSDの治療のために心理療法を受けていた時、アロマテラピーも行っていた。それ以来、アロマオイルに詳しくなった。


 それにしても、何だか気合の入った管理人さん。

 しゅうは、小さくほくそ笑んだ。



 夕刻になり、美沙先生が離婚調停の期日を終えて帰所した。

「ただいま。」美沙先生のうなじには薄っすらと汗がにじんでいた。


「お疲れ様です。」事件記録のファイルを整理していたしゅうは、顔を上げた。


「あら、エアコン、まだ直っていないの?」


「はい、明日じゃないと業者の人が来られないみたいです。」


「まったく……」美沙先生は、バッグを机の上に載せると、勢いよくソファーに腰を下ろした。

「調停も空調も上手くいかないわね。」美沙先生はため息交じりに呟いた。


 しゅうは、聞こえなかった風を装い、再びファイルの整理を始めた。美沙先生から聞かされる以外は、仕事の内容に自分から立ち入らないようにしている。それが礼儀だと、しゅうは思っている。


 美沙先生は、早くに母親を亡くし、その上父親までも失い天涯孤独となったしゅうを引き取って、今日まで実の娘のように面倒をみてきた。いくら父の親しい友人とはいえ、ここまで面倒をみてもらった恩義を、しゅうはしゅうなりに感じている。


「あ、しゅうちゃん、今日はもう上がっていいわよ。」


「はい、じゃあ、そうさせてもらいます。お先に失礼します。」しゅうは、ファイルを片付けると、そう挨拶して事務所のドアを押し開けた。


 通りに出ると、陽光の勢いは弱まって、日中居座り続けた熱気は空の上の方に逃げて行ったようだった。


 高校生のうちは美沙先生のマンションに居候させてもらっていたが、事務員として雇ってもらえることになった時から、ケジメをつけて自立した。先生の下で働いているのだから自立と言うには程遠いが、とにかく今はこれが精一杯だった。


 しゅうは、実家を引き払い、事務所の近くにあるアパートを借りている。あの日以来、国分寺の駅には近づくことができない。


 アパートに向かってしばらく歩いていたしゅうは、目抜き通りから裏道に入った時、ふと背後に人の気配を感じた気がして、立ち止まった。

 それから、おもむろに後ろを振り返った。

 ん?……誰もいない。気のせいかな。


 しゅうは、踵を返して、再び歩き始めると、とある民家の塀の上に視線を移した。

 今日もいるかな?

 あっ、いた……

 しゅうの視線の先には、塀の上にちょこんと座ってくつろいでいる、白と黒のぶちの猫がいた。


 猫は、しゅうと目が合うと、黒いしっぽをピンと立てて、待ちかねたように上体を起こした。


 しゅうは、小声で「ミィちゃん、ミィちゃん」と声を掛けながら、ゆっくりと近づいた。

 この猫の本当の名前を知る由もなかったが、しゅうは勝手にそう呼んでいた。


 しゅうが猫の顔に手を伸ばすと、猫は喉を撫ぜろと言わんばかりに顔を上に向けた。

 しゅうは猫の希望通りに喉元を掻くように撫ぜてやった。


 ミィちゃんと呼ばれた猫は、喉をゴロゴロと鳴らして、気持ちよさそうに目をつむっている。

 ひとしきり撫ぜて喉から手を離すと、ミィちゃんは、もっと撫ぜて欲しかったのか、名残惜しそうに鼻を鳴らした。


 しゅうは、ミィちゃんの頭を優しく撫でて別れを告げると、アパートに向かって歩き始めた。しゅうが歩き始めると、ミィちゃんは身を乗り出すようにして、しゅうの後姿を見送った。


 しゅうはアパートの自室に戻ると、部屋の明かりを付けてカーテンを閉めた。

 チェストから部屋着を取り出して着替えると、ほっと一息ついて、2、3回、肩をぐるぐると回した。

 それから、いつものように両親の遺影に手を合わせた。


 しゅうは、物心が付く前に母が他界したこともあって、母の記憶がほとんどない。

 肌の感触や体温、そして匂いなんかも思い出すことができない。父の話を聞いたり、ビデオや写真に写っている母の姿を見て想像するだけ。


 遺影の写真に写っている母の姿を見ても、どのような場面で撮ったものなのかよく知らない。父にも詳しく聞いたことがなかった。


 父の遺影には、しゅうのお気に入りの写真を使った。二人で箱根に旅行した時、ホテルで夕食を食べる直前の父の姿をしゅうが撮ったものだ。


 親子で旅行をしてテンションが上がっていた父がおかしくて、旅行の間、スナップを沢山撮った。その中の1枚。



「いやぁ、温泉良かったぞ。露天風呂も広いし。しゅうも入ればよかったのに。」父は、身も心もサッパリしたらしく、満足気な表情をして部屋に戻ってきた。


「うん。食事してから、後でゆっくり入る。」


「しゅうは風呂に入ると長いからな。その方がいいかもな。」


「そんな長風呂じゃないよ。でも、せっかくだから、ゆっくり入りたい。」


「了解、了解。じゃあ、お腹も空いたし、食事に行こう。場所はどこだっけ?」


「ええっと、3階のレストランみたい。和洋中のバイキングだって。」私はテーブルの上に置いてあったクーポンを手に取って確認した。


「バイキングか、久しぶりだな。バイキングってついつい食べすぎちゃうよな。しゅうも甘い物ばかり食べすぎるなよ。」


「そんな子供じゃありません!」


「太るし、虫歯になるぞ。」


「だからぁ……」

 テンションの上がった父はまるで子供。仕事、仕事の普段の父とはギャップが激しい。箱根の雰囲気がそうさせているのか、こういう父もたまにはありだな。


 父はレストランのテーブルに着くや否や、いそいそと料理を取りに行った。何となく取りに行きそびれた私がテーブルで待っていると、トレイからこぼれ落ちそうな位の料理を運んできた。

「取りあえず、目についたものを持ってきたぞ。しゅうの分も。」


「ありがとう。後で私も取りに行くね。」父が持ってきた料理は茶色系の料理で支配されていた。


「……そうかい。」


「それじゃあ、バイキングを記念して一枚。パパ、こっち向いて!」



 写真を見ていると、あの時のことがつい昨日のことのように思い出される。

 写真の父は、しゅうの方を真っ直ぐ見て、優しく微笑んでいる。


「暑い日が続くと食欲が湧かないな……」遺影の元を離れたしゅうは、そんな独り言を呟きながら夕食の準備を始めた。

 簡単なパスタを作って夕食を済ませた後、テレビを付けて、日課にしている軽いストレッチを始めた。


 長座してゆっくり前屈していると、今朝まではテレビ台の上に鎮座していたはずのフクロウのマスコットが、寂しげにテレビの陰に転がり落ちているのを発見した。


 あれっ?彼はいつの間に落っこちたのかしら……

 しゅうはフクロウを元の位置に座らせた。


 あなたは苦労知らずの「不苦労」。幸運のマスコットのあなたが床に転がっていたら、幸運はやって来ないものね。


 しゅうはストレッチを終えるとシャワーを浴びてソファーに横になった。

 スマホでSNSを何となく眺めていると、ウトウトしていつの間にか寝入ってしまった。

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