その日(父の最期)
その日の午前7時
ヤバい、ヤバい……
アラーム、早い時刻にセットし直しておくの忘れていた……不覚っ。
1、2年生で組んだ新チーム初の練習試合、応援に行くって約束していたのに間に合うかな。
しゅうは慌ててパジャマをベッドの上に脱ぎ捨てると、Tシャツとジーンズに着替えた。
リュックを手にすると、部屋を飛び出して、洗面所へ駆け下りて行った。
寝ぼけまなこで歯磨きしていると、父親は出勤するところらしかった。
「行ってきます。」吉岡は、ダークブラウンの革靴を履くと、ドタバタと慌ただしい物音が聞こえてくる居間の方へ声をかけ、いつもの時刻に自宅を出た。
普段の一日の始まりだった。
背中越しに「……行ってらっしゃい」と、慌ただしさを帯びた、しゅうの声を聞いた。
朝の日差しは予想以上に強く、街路樹が作る細い影に身を隠すように国分寺の駅までの道のりを歩いた。
「痛っ」偏頭痛がいつも以上に酷い。どうやら強い日差しが追い討ちをかけている様だ。
駅に近づくにつれて、人通りが徐々に多くなってくる。
やっとの思いで駅にたどり着き、構内に入った吉岡は、通勤や通学の人の波に揉まれながら、無意識のままでいつもの階段を上り、ホームへ向かった。
自然と普段の行動を取ろうとする身体とは違い、頭の中には例のゴシップ誌の記事や有象無象の連中の怒号、そして鬼頭の重苦しい言葉が渦巻いていて、一向に消える気配がない。その上、偏頭痛が電流のように暴れ回ったままだ。
ここ数日の混沌として整理のつかない吉岡の思考は、解決策を見つけられずに堂々巡りをしていた。そして、自らが犯した罪の重さと我が身に降りかかろうとしている漠然とした恐怖に触発されて、いつしか消し難い強迫観念を生み出していた。
しばらくすると、その強迫観念が白い霧のようになって、頭の中を覆いつくしていった。と、同時に思考が停止してしまったように感じた。
何も考えられない。考える必要もないか……。思考が停止することで不思議と頭も体も急に楽になった気がした。
階段を上っている最中、上の方から駆け下りてきた大学生風の男の肩が軽くぶつかり、吉岡は反動でよろめいた。反射的に手すりに手を伸ばし、階段から転がり落ちるのを何とか防いだ。
ぶつかったその男は吉岡の方を振り返り、すまなそうに頭を下げ、再び階段を駆け下りて行った。
吉岡は、何事も無かったように再び階段を上り始めた。……と言うより、強迫観念に自分の身体が操られているような感じがして、上っているというよりも、上らされているようにフラフラとしていた。
気が付くと、ホームの端の方を危なっかしく歩いていた。
日差しがいつもよりもきつい……
ホームの屋根を避けるように斜めに差し込んでくる朝日が容赦なく吉岡に降り注ぐ。
眉間にしわを寄せた吉岡がホームの先の方を見ると、丁度、いつも乗車している時刻の電車が滑り込むようにホームに入線してくるところだった。
幾度となく目にしてきた、いつもの光景だ。
朝日を反射して銀色に輝く躯体が徐々に大きくなってきた。
無意識のうちに乗り場に並ぼうとした吉岡は、足元がよろめき自分の体が宙に浮いたような感覚に捕らわれた。
その刹那、遠くの方にしゅうの姿を見たような気がした。
軋むようなブレーキ音を響かせながら迫りくる電車の目前で……
その日の午前5時
枕元で軽やかな旋律の曲が鳴りだした。新村は、目を閉じたまま、手探りで枕元のスマホを探した。すぐに慣れた感触を指先に感じた。
ふっと短い息を吐くと、スマホのアラームを止めて身を起こした。
頭を左右に軽く振って、すぐに全身の神経を覚醒させると、ベッドから飛び降りて浴室に向かった。
頭を手っ取り早くクリアにするには熱いシャワーを浴びるのがベスト。
シャワーを終えた新村は、バスタオルで髪を乾かしながら身支度を始めた。
クローゼットからライトブラウンのサマースーツを取り出して着替えると、スマホで今の時刻を確認した。
駅で部長を見つけないと……必ず。
新村は、使命感に突き動かされるようにして、マンションの自宅を飛び出した。
最寄りの駅まで歩き始めたが、気持ちが先走りして、自然と早歩きになっていた。
朝から暑すぎなんだよな、最近。せっかくシャワー浴びたのに……
そう呟きながら、ワイシャツの胸元あたりをつまんで、シャツと体の間に新鮮な空気を入れた。
その後、新村は、電車を乗り継いで、普段吉岡が利用している国分寺の駅にたどり着いた。
駅南口の交差点を素早く見渡して、駅に向かう人混みの中に吉岡がいないのを確認すると、階段を駆け上がって、再び駅ビルの中に入った。
朝の時間帯の国分寺の駅は、新村が予想していた以上に利用客で溢れ返っていた。
これじゃ、見つけるのは難しいかもな……。
新村は電光掲示板で電車の運行状況を確認すると、吉岡が乗るであろう電車が入線するホームへ向かうことにした。
改札を抜けてホームへと続く通路を歩いていると、前方の階段から小走りで駆け下りて来る学生風の男と危うくぶつかりそうになったが、自分でも驚く位の機敏な身のこなしでするりとかわした。
その学生風の男は、少し驚いた表情を浮かべながら新村に頭を下げて、再び小走りに去っていった。
新村は気を取り直してホームへ上がる階段を登り始めた。
部長が乗る電車が来るまでは、まだ時間があるはずだ……。
ホームに着いた新村は、腕時計に目をやった後、人ごみの中を注意深くも素早く見回して吉岡の姿を探した。
朝の駅の気ぜわしい雰囲気が新村を一層急かした。
じりじりしながら、目を見開いて吉岡を探していると、見慣れた後ろ姿が人混みの陰に一瞬現われては消えた。
……部長っ。
新村は人の波をかき分けて、吉岡の方へ急いだ。
吉岡はというと、新村には全く気付づく様子もなく、何かを追っているような、何かに追われているような、自分の意志で歩いている様には見えなかった。それでも、スルスルと人の間を縫って進む吉岡に中々追いつけない。
新村は、焦燥感をにじませながら、吉岡の背中を追った。
ようやく、ホームの端の方を歩いている吉岡の背中に手が届く距離まで近づくことができた。
新村は、ためらうことなく、吉岡の背中に素早く右腕を伸ばした。
と同時に、吉岡の姿が視界から消えた。