ニートは少女と初めての朝を迎える。
◇◇◇
甘いぶどうの匂いがした。
鼻をくすぐる匂い。
本能的に好感を抱く匂い。
匂いが好ましいから好ましいと感じるのか、好ましいから匂いも好ましいと感じるのか。
なにを言ってるのか、わからないな。
清々しい朝を珍しくいい気分で迎えると、なにかいい匂いがした。
ソファを見たが女性はいなかったので、じゃあどこに、と隣に気をやると、俺が使っていた毛布に小さくなってくるまっている彼女を見つけたのだった。
少し肌寒いと思ったらこういうことだったか。
でも、なにがどうしてこうなったか。
確か彼女は、眠るとき、白いシャツのようなものを着ていたと思うが、今ははだけていて肩のラインがはっきり見えている。
色っぽい喘ぎ声を時折あげているようにも聞こえて、なんともそそられるものが…って違う違う。
(毛布の下はどうなっているのか?)
悪魔がもたらしたとしか思えない閃きだ。
隠された部分はどうなっているのか。
はだけているのか、はだけていないのか、それともそうではないのか。
堂々巡りのシュレディンガーの少女は建設的な者なら、どんな手段を使っても箱を壊して中身を見るのだろうが、一説によると、それをやると世界が滅ぶそうだ。あいにく俺はそこまでアクティブになれない。
だが、なにがどうしてこうなったのか、そんなことすらどうでもよくなる誘惑が今の状況にはある。
蛇がささやく。
いいんだぞ、おまえのモノにしても。
そら、今ならなんだってできるじゃないか。その少女を泣き叫ぶほど喜ばせてやれ。
無防備に眠る女性。ぶどうの香りがする、甘い少女。
…本当に食べてしまおうか。
だが、
「ママ…」
眠り姫は泣いていた。悪い夢でも見ているのだろうか。
-----もし。世界中の人間があなたの大切な人のために涙を流すなら。
その人を生き返らせてあげましょう。
それは死神との間に交わされた約束。少女は走った。愛する人のために泣いて欲しい、と。
少女のために沢山の人が涙した。けれど、その願いは叶わない。必ずどこかに涙を流さない人間もいるから。
……少女を見ていて、なんとなくそんな話を思い出した。
だから俺は少女の頭を撫で続けた。ふわふわの髪だった。
どうか泣かないでおくれと。少しでも、あなたの悲しみが癒えますように。
「…ん…にゅ?」
少女は目覚めた。悪い夢は終わった。
俺を見つめる少女の目は、涙でうるんでいた。お互いに見つめあってしまう。少女はとても、きれいな目をしていた。
愛らしい、丸くくりっとした瞳。ひたむきで疑う事をあまり知らず、何があろうと前を向き続け、奥にほんのすこし影がある少女。
少女は次に自分を認識した。着ていたシャツは乱れて、かろうじて毛布で身体が隠れている状態の自分。
ぐるぐると思考が回っているのがわかる。
後悔?
絶望?
怒り?
女性が息を吸い込んだ。あ、これ、特殊技くる? きちゃう?
「いやぁぁあああああ!」
ばちーん。
なんだか既視感を覚える高音のソプラノボイスと、頬にきつめの衝撃がきた。
ジンとした痛みがする。割と本気でひっぱたかれたっぽい。
「…なにもしてないですよ?」
ヒリヒリする頬を押さえながら、努めて冷静に話し掛けた。
「う、う、うそだよっ。じゃあ、なんでわたしっ、ベ、ベッドに、つ、つ、連れこまれっ…」
女性は途切れ途切れさせながら、真っ赤になって、最後まで言い切らなかった。
「目が覚めたら隣にあなたがいたんです」
「でも、わ、わたし、裸、で…」
「服は着てますよ?」
「それはそうだけど…じゃなくて!」
面白いくらい動転してるようだった。逆にこんな状況で落ち着いてる俺が変なのかな?
「あの、夜中、目が覚めませんでした? そのとき、間違えてベッドに入ってきたりしませんでしたか?」
まじめにそう言うと、夜のことを思い出しているのか、
「…そう、かも、しれない…」
「でしょ」
「ねえ。昨日の夜。何があったか覚えてる?」
「なにかあったんですか」
「…ううん。覚えてないなら、いい」
「あの、俺は本当に何もしてないですよ?」
そう答えると、女性は見る見るうちに、元気が無くなった。
「…ごめんなさい」
「なにがですか」
「さっき、ひっぱたいちゃったから…」
なんだ、そんなことを気にしたのか。
悪いと思ったら謝る。当たり前のことだけど、なかなかできることじゃない。
「わたしのことも、一発、殴っていいよ」
と女性は言ったが、
「いや、別に気にしてませんからいいですよ」
と言っておいた。少し驚いたが、本当に気にしていない。あの状況だったら誰でも相手の男を叩いているだろう。
「それじゃわたしの気がすまない。わたしは無実のきみを疑った。だから、その罰を受けるべき、だと思う」
「…わかりました。じゃあ、殴ります」
拳を握る。ぎゅっと目を閉じる女性。
「…うん。きみが感じたのと同じくらいの痛みを、わたしに頂戴」
その額に、
軽めのでこぴんをしてあげた。
「…え?」
呆然としている女性に俺は言った。
「同じ痛みだと言ったでしょ。だから、これで」
すごい恥ずかしいな。なんだ、俺ってこんな気障なやつだったか?
「…やさしいね、きみは」
「ふつうですよ」
穏やかな言葉。『やさしいね』なんて言われたのは初めてだ。こそばゆくて、なんとなく目を逸らした。
光が家に射し込んで、陽気な小鳥が口笛を吹く。
朝がこんなに穏やかだったなんて、俺は今まで知らなかった。
一日が始まる。嵐の前の、朝だった。