狼と猫
◇◇◇
「ふぅ、ふぅ」
広間に戻って息を整える。俺の服にはべったりと虫の液が付着していた。
このダンジョン攻撃されると、服を汚してくるやつ多すぎ。
乾ききっていないスライムの粘液でべとついていたところに、さらにべとついた虫液がついたから、くっさい。わりと。
「よいしょっと。立てるかな」
「う、うん。ありがと、おとーさん」
身を委ねてくれていたマアトを地面に下ろす。
足音が近づいてくる。サーシャさんだ。
「無事? 怪我は、ない?」
「すこし指を切っちゃいました」
「見せて」
「大丈夫ですよ」
サーシャさんが柔らかな手で俺の指を握る。どきどきする。
「【治光】」
ぽっ、と白い光が患部にかざされる。
彼女の温かさが伝わってくると、痛みがスッと引いていった。
「すごいですね。本当に魔法みたいです」
「光魔法は苦手だから、気休め程度だけど」
俺たちのやりとりを興味深そうにマアトが見ていた。
「マアトは? 怪我してない?」
彼女は首をふるふると振った。
「うん。ね、おかーさん。今の、って」
ウォォォォー、ンン!
なにか言いかけたマアトの言葉は、ダンジョンに轟く雄叫びに、かき消された。
「なんだ!?」
俺たちが進んだ左の通路とは逆側。右の通路の奥から聞こえた気がする。
「右の通路には何があるんですか」
小声で尋ねると、
「下の階に続いてる。もしかすると、下のほうの、魔物が上層に出てきたのかもしれない」
サーシャさんが剣に手をかけた。静かな沈黙が数秒、続く。
ばうっ。
静寂を破って、人のような影が、勢い良く通路から飛び出してくる!
(え!?)
それは狼だった。顔からは牙が覗き、手足は毛むくじゃらで鋭い爪がある。ふさりと尻尾が揺れていた。
「あれは……【狼獣】?……ううん、でも。なにか、ちがう……」
サーシャさんがワケのわからないことを言っている。
そいつは人の形をした狼。狼男だった。
ふつうと違ったのは、そいつが立派なヨロイをつけていることと――――
(フランさん!?)
そう。狼男の背には、見覚えのあるネコ。もとい、獣人のフランさんが、力無くその身を、だらりと預けていたこと。
なぜここにいるのかは解らないが、きっと、あの狼に捕まったのだろう。
俺は咄嗟に、狼の気を引こうと弓を構える。
「ルド、待って! ダメ!!!」
俺は無視して、弓に矢を番えた。
ひゅん。
矢は当たり前のように外れるが、気づいた狼が、こちらを向く。
獰猛な目だ。こちらを獲物としか見ていない獣の目。
あんなやつにフランさんを連れて行かれたら。
恐怖が麻痺していた。あったのは愚直な正義感だけ。
俺は武器を短剣に持ち替えて、狼に挑みかかる。誰かが、悲痛に叫ぶのも聞こえなかった。
狼が奇声をあげて、丸太みたいな腕を振るう。
ぶおおん、と、豪腕が空を裂いた。
近づこうとした俺の体が、木っ葉みたいに吹っ飛んで、ばん、ばん、と2度ほどバウンドしてから、床に叩きつけられた。
「怪物め! フランさんを放せ!」
大声を出して、気力と身体を奮い立たせる。ここであきらめられるものか!
俺の声に狼は反応しなかった。ただ黙って、俺を見つめていた。
やがて狼は背を向けた。強靭な四肢を躍動させて、ダンジョンの入口の方へ駆け抜けていった。
正気に戻ると、
ぱしんっ。
(……あ)
「バカっ!! 約束したでしょ、わたしの言う事を聞くって!!
それとも、死にたかった!? 違うよね!? きみは生きたいから! 生きたいから、冒険者になったんでしょ!!?」
はたかれた。
サーシャさんに。
初日に殴られて以来だ。あのときより痛くはなかったが、重い一発だった。
「……すみません」
怒っていた。こんなに怒ったサーシャさんは初めて見た。
全面的に俺が悪い。
スライムのときだって、そうだ。俺には危機感が足りない。前に誰かに言われた気もする。
改めないといけない。
「許してくれますか」
「……いい。ちょっと、わたしも、熱く、なりすぎた」
顔を背けたサーシャさんが不器用な謝罪をしてくれるが、
「おとーさん、おかーさん、ケンカしちゃ、やだ」
何か勘違いしたマアトは、くいくいと俺たちの服を引っ張って、泣きそうになっていた。




