嵐の前、その宿にて。
◇◇◇
日が落ちて薄暗くなった通りで、明かりが漏れる宿はすぐに見つかった。ドアノブを開けると、木造特有の燻された香り。
長い間、料理の匂いを染み込ませた材木が、雰囲気を温かく感じさせる。
宿の主だろう、おばさんが気づいて話し掛けてきた。
「いらっしゃい。お泊まりかい。1泊、銀貨4枚だよ。ウチはこの辺じゃあ、一番安くて、一番快適な宿さ」
体格も笑顔もにこやかなおばさんが宿泊料金を告げた。
こっそりサーシャさんに尋ねる。
「安いんですか」
「うん。安い、と、思う」
「なにコソコソ話してんだい」
「すいません。泊まります。とりあえず今日1泊」
「そうかい、ありがとねぇ。じゃあ、ここに記帳してくれるかい」
記帳かあ。面倒そうだった。
「冒険者証を見せれば記帳しなくても平気だよ」
「あぁ、そうか」
サーシャさんが教えてくれたので、ギルドでもらった冒険者証を見せた。
「あんた冒険者なの? 全然そんな風には見えないけどねえ。そんなガタイでやってけるのかい? ああ、気を悪くしないでおくれ。
あたしは冒険者ってのに、ちょいと苦い思い出があるってだけさ」
おばさんは機嫌が悪そうだった。それでいながら、少し悲しそうでもあった。
「あの、サーシャさん」
「?」
「いろいろ、ありがとうございました。サーシャさんは、そろそろ馬車に行かないと間に合わないんじゃないですか」
確か、それほど多くの馬車が出ていないと聞いた。帰れなくなるんじゃないのか?
「ん、へいき。わたしも、今日は、ここに泊まる」
「え、サーシャさんも?」
なんだか俺のためにそうしてくれる気がした。嫌ではない。むしろ一緒にいられて、俺も嬉しい。でも、俺の都合で、いいのだろうか。
「あんたら兄妹かい? それとも恋人?」
俺たちのやりとりを黙ってみていたおばさんが聞いてきた。
「そう見えます?」
「わからんねえ。そうは見えないけど、そうだってこともあるからね。あんたが冒険者だったみたいにさ。ま、そんならそれでもいいさ。
けど、残念ながらもう部屋が空いてないんだよねえ。その兄さんと一緒の部屋でよければ、銀貨は2枚でいい。どうだい」
にやついたおばさんが、俺ではなく、サーシャさんに尋ねた。サーシャさんは、
「いいよ」
と、一言だけ答えた。
◇◇◇
細長い廊下をぐるぐると回って、ようやく部屋に辿り付く。
「部屋は、ここ。食事の方は、決まった時刻に朝、昼、夕、の3回出すよ。トイレは、向こう。温泉はあっち」
「温泉があるの?」
サーシャさんが喰い付いた。
「ああ、裏にウチの源泉があるんだよ。珍しいだろ、街中に温泉なんてさ。疲労回復、おまけに万病にも効く、すごい温泉さ」
「お薬みたい」
「あぁ、だからって飲んじゃダメだよ。浸かるだけにしておくれ。泊まってる間は自由に入っていいからね」
「うん」
おばさんとサーシャさんが話している。俺は部屋に入った。ずいぶん年季が入っている部屋だ。
先祖のゴーストとか何人もいそうだな。
「それじゃ、仲良くね。ああ、仲良くし過ぎて、変なことはしないようにね」
余計な事を言っておばさんが立ち去った。なんとなく、サーシャさんを見る。照れているような気がした。
「何もしませんよ?」
サーシャさんが
「……うん」
と言った。
「これから、どうします?」
「温泉、見に行ってみたい」
温泉かあ。俺も入ってみようかなぁ。一緒に入りたいとか言ったら殴られるかな?




