竜には井戸は狭すぎる
夏休みに父の実家に遊びに行くのが毎年楽しみだった。山と川と田んぼしかない田舎だったが、楽しいことはたくさんあった。父と一緒に川で魚を捕まえるのが好きだった。それから地元の子供達が連れていってくれた飛び込みできる沢。まさに天然のプール。
父の実家は集落でも一番奥の広い古民家で、祖父が一人で暮らしていた。ここに来ると、必ず初めに祖父から二つだけ約束させられた。一つは、庭の端にある井戸に近づかないこと。もう一つは、川遊び中に、見知らぬ子供がいても話しかけないこと。ともに水に関わることだ。
井戸に近づいていけない理由は、漠然と、落ちたら危ないからだろうと思っていた。裏山との境で、日当たりの悪いじめじめした不気味な場所。井戸は注連縄で囲われていて、言われなくても近づきたくはなかった。
川遊びの方はどうか。怪談じみた理由を地元の子供たちから教えられた。川遊びをする時はいくつか注意することがある。川底の石は滑るから注意すること。一人では絶対に川に入らないこと。深みに気をつけること。雨が降ったらすぐに川から出ること。それから、もう一つ、遊んでいて知らない子供が増えていたら無視して声をかけないこと。
子供が川遊びをしていると、長髪で肌の青白い見知らぬ少年が増えていることがあるのだという。それは水の神様で無視していれば消えるのだが、もし声をかけると、連れて行かれるのだという。何処へとは語られていない。
ばかばかしいと一蹴するには、皆が真剣に話すので、ちょっと怖くなった。
その話を聞いてから、川で遊んでいる子供の数が増えていないか気になるようになってしまった。
あれは小学五年生の夏休みだ。この年は、初めて一人で祖父の家に遊びに来た。地元の子供たちといっしょに川で遊んでいると、見知らぬ男の子が川の中に一人立ち尽くしていた。僕よりも小さくて、こんな子いたかなと怪訝に思う。髪の長い青白い子供だったので、あの話を思い出してぞわっとしたが、どうみても普通の子供だ。お化けのようには見えない。動かないので心配になった。
「どうしたの。寒くなったなら上がったら方がいいよ」
話しかけると、少年は僕の顔をじっと見る。にやっと笑ったかと思うと、少年は、ばしゃんと川に沈んだ。川の水に溶けたように見えた。
「うわあっ」
叫んでみんなを探す。全員がいた。今みたものを話すと、すぐ帰ろうと、年上の子が言い出す。
「おめぇのじさまの井戸から来たんじゃけ。おめぇ井戸には気をつけえ。呼ばれんぞ」
「井戸?関係あるの?」
「じさまに聞けやあ。おめぇんちでずっと守っとるんじゃぞ」
僕は、皆に従い、その日は帰ることにした。
その話を祖父にすると、この休みはもう川に行くなと言われる。理由は教えてもらえない。
井戸のことについても、絶対近づくなと言われるばかりである。
翌日、川に行くなと言われふてくされていた僕は、蝉の声を聞きながら縁側に座り、スイカを食べ終えて、ぼうっと外を眺めていた。蝉の大合唱が頭の中まで反響するようだ。
ぱしゃん、水に何か落ちるような音が聞こえた。なんだろう、縁側から降りて、音の方向を探す。
また、ぱしゃんと音がした。うちの裏手だ。山の方向。目に入ったのは、井戸だった。
危ないから近づくなと言われた井戸。
いつもなら気味がわるくて近づかないが、このときの僕は、だれも井戸のことを教えてくれないことへの反発心が勝っていた。
注連縄をくぐり、井戸を覗き込むと、底から小さな男の子が見上げていた。川にいた子だ。井戸の中に子供がいることになぜ違和感を覚えなかったのかわからない。
「どうしたの?」
聞くと、男の子は、
「井戸にはまって出られん。助けてけろ」
「じいちゃん呼んでくるから待ってて」
「いらん。手え伸ばしてけろ」
深くて届くわけがないのに、そう思いながらも言われるままに手を伸ばすと、がしっと強い力で両腕をつかまれていた。
「びぇっ」
へんな声が出た。男の子は胴体がにょろっと伸びて一瞬で目の前にいて、両手でぼくの両手を掴んでいたのだ。
「さ。引けや引けや人の子や。引かねば落ちるぞ。落ちれば食うぞ」
うれしそうな顔で歌う目の前の少年は、頰が緑の苔に覆われていて、半魚人を連想させた。胴体には鱗がびっしりだ。
いやだ、逃げないと。手を振りほどこうとしたが離れない。男の子の力は強く、ぼくはずるずると井戸に引きずり込まれそうになる。
お腹が井戸の縁に引っかかっている状況で、両足が地面を離れた。もうだめだ、と思ったとき、背後から誰かが僕の身体を抱きかかえて引っ張った。
「聞けやあ聞けやあ竜の子や。井戸の底から出たければ、さあさあわしの手を掴め。二十人力のわしならば、お主を天に引き上げよう」
祖父の声だった。祖父が右手で僕の胴体を支えながら、左手で何かを井戸に差し入れる。僕の腕と並んで井戸に入って来たのは、藁の人形だった。見たことがある。毎年、夏祭りの最後に井戸に祖父が放り込んでいる人形だ。
少年は、僕の手を離し藁の人形をがっしりと掴んだ。祖父が人形から手を離すと、もろともに井戸の底に落ちていく。ばしゃんと音がして、人形は浮かぶこともなく、井戸の底に引きずりこまれていった。少年は消えていた。
「この井戸にはもう近づいちゃなんねえぞ。一生だ。次は助からねえ」
僕は恐る恐る頷く。
「じいちゃん、あれはなんなの」
冷たい麦茶を準備し、縁側に並んで座って祖父は語ってくれる。
昔、空から落ちてきた龍の子供がこの地に住み着いた。川を氾濫させて村人を苦しめ、年に一度は子供の生贄を要求した。あるとき、二十人力と言われた村の豪傑が龍をこらしめ、井戸に閉じ込めた。龍は改心し、治水の神様となった。そんな話。
よくある民話だが、祖父は、その竜の子がさっきの少年なのだという。地域でまことしやかに噂されているところでは、竜の子は井戸から出られないのだが、腹を減らしているのが寂しいのか、夏になると付近の川にだけは姿を現わし子供を井戸に誘うのだと言われているのだとか。そのため夏祭りには、藁人形を井戸に放り込み竜の子を慰めるのだという。出られないのに姿を現すとはへんな話だがお化けとはそんなものなのかもしれない。
「人柱って意味わがっか?」
「なんとなく。みんなのために水にはいったりとか、死んじゃうやつ」
「んだ。さっきの話、竜の子なんてもんは本当はおらんのよ」
「え、さっきはいるって」
「竜は後付け、人柱の子供だったんじゃろうな。ここいら昔から日照りで水がなくて困ったかと思えば、雨が降ったら降ったで増水じゃ洪水じゃと大騒ぎじゃ。だから、水神に人柱を捧げる歴史があったんじゃ」
「雨をちょうどよく降らしてほしいってお祈りする?」
「んだな。じゃがそれも口実よ。ほんとうはなあ、もどすのが目的じゃったんだろうなあ。むごいもんよ。その祟りを恐れて祀っとるのを、竜の子を祀るという話に置き換えたんじゃろうとわしは考えとるんじゃ」
「もどすって?」
「ああ、わからんでいいんじゃ。わしの趣味に付き合わせて悪かっだな。じゃが、わしが死んだらこの井戸をどう管理するか、お前の親父らで決めねばなんね。あやつらは運よく井戸に呼ばれることもなかったからな、わしの話なんぞ歯牙にもかけんじゃろし、もう土地に縛られる時代でもねえ。そんときは、おめはちょっとだけ思い出してくれりゃあいい」
祖父は、代々の先祖が井戸をずっと守ってきたのだという。今思うと、僕にもその一端を伝えたかったのかもしれない。
「井戸を埋めたり建物で囲ったりするとな、必ず事故が起こる。増水して堤防が壊れたり、悪いことが起こるんじゃなあ。だからずうっとこのままなんじゃ。井戸を祀ってるうちは大人しくしとるが、ぞんざいに扱ったら暴れ出す。そういう怖い神様だとおもっておけばいい」
にっと笑う祖父だが、一転、厳しい表情で、僕の目を見て言う。
「おめは目ぇつけられたから、もうあの井戸には近づいちゃなんねえ。来年からはうちにも来ね方がいい。寂しいが命にゃあ変えらんねえべ」
それから僕は、夏も正月も祖父の家に遊びに行くことはなくなった。祖父はたまに、僕の家に遊びに来てくれたけれど、本当は僕の方から行きたかった。
井戸というものに対しなんとなく恐れは持っていたが、ほんものの井戸にお目にかかることなんて都会では皆無だ。そのうち、この体験のことは忘れてしまった。
◆◆◆
先日、祖父が亡くなった。お葬式の後、父と父の兄妹が相談し、祖父の家は売られることになった。山も売ろうとしたがなかなか買い手が見つからなかったところ、町と旅行会社の企画する里山体験のため、ぜひ買いたいとの話が舞い込んで来た。どうやらこの話は祖父が反対して進んでいなかったのだという。この機会を逃せば、権利放棄するしかないということで、売却してしまうことになった。
祖父は、あの井戸のことを気にして土地を手放したがらなかったのだろうなと、直感的にわかったが、僕は井戸ごと手放すのに賛成だった。僕ももう大人だ。あの体験は夢だったのだとわかっている。いつまでもあの井戸に縛られるのは嫌だった。町でも企業でも管理してくれればよいし、なんなら埋めてくれればいい。
結局、話はとんとん進み山も家も売ることになったが、井戸は残されることになった。家は改装され宿泊施設となり、井戸周辺は木が伐採されて明るい雰囲気になった。井戸には屋根がかけられ、水汲み体験ができるようになるのだという。
工事の間、特に変事はなかった。井戸の底を浚うときれいなもので、人形も何も出てこなかったという。祖父は言っていなかったが、夏祭りの人形は毎回回収されていたのかもしれない。
そしてこの夏、里山体験施設は完成し、開校式に僕も呼ばれた。妻と娘も連れて行った。今日、関係者の子供たちが呼ばれ、無料で一連の里山体験に参加できるのだ。
家も井戸も、きれいになっていて驚いた。井戸は、桶を滑車で引き上げるつるべ式になっており、新しく体験のために作ったのだろう。井戸は竹を組んだ蓋で塞がれていて、水汲みの時だけ、蓋を開ける方式となっていたことから安心感があった。子供は竹の蓋の隙間からしか中を覗くことができないようになっていて、落ちることもない。
周囲の木も切られて、子供のときに感じていた禍々しい雰囲気は微塵も感じられなかった。
やはり、井戸への恐れは気のせいで、ただ、祖父が変な話をするものだから怖がっていただけなのだろう。
開校式のあと、スタッフから簡単な説明を受け、野菜の収穫体験が行われる。招待されたのは五家族で子供は八人参加だった。娘をこういう場所に連れてきたのは初めてだったが、楽しそうにしており何よりだ。
昼食前には子供達が交代で井戸の水汲み体験をはじめる。最初の男の子が、ロープを引っ張ってみると、意外と重くて驚いたようだ。
「一人じゃ重いかな。何人かで引っ張ってみようか」
スタッフに促され年上の子がいっしょにロープを引っ張る。すいすいとロープを引いていたが、途中でその手が止まる。
ロープの先の桶が大きすぎて、滑車を使っているとはいえ、子供には重すぎるのかもしれない。
「呼んでる」
と、年上の子が呟く。
「助けてって」
「おれも、聞こえた、助けてって言ってる」
子供たちが、いっせいに桶を引っ張るロープに集まっていく。ぞわりとした。
「どうした?」
「待ちなさい」
親たちの静止をよそに、子供たちはみんなでロープを引っ張りはじめた。
だが、つるべは上がってこない。何か尋常でないことが起こっていると感じるが、その正体がわからない。
子供たちは、ロープを引く。いや、引っ張られていく。
「さ。引けや引けや人の子や。引かねば落ちるぞ。落ちれば食うぞ」
声が響いた。
「ロープを離せ」
僕は娘からロープを取り上げようとする。
「手が離れないの。それに引かないと」
なにを言ってるのかと怪訝に見ていた親たちも、子供らがロープを離さず、井戸に向かってじりじりと引っ張られはじめると、血相を変えた。
しかし、子供らの手をロープから外すことができない。指をはがそうにもロープに固定されたかのようだ。このままじゃ、滑車に手が巻き込まれる。その先は、井戸の中だ。
スタッフや一部の親は、ロープを引き始めるが、井戸に引き込む力の方が強い。
「さ。引けや引けや人の子や。引かねば落ちるぞ。落ちれば食うぞ」
また、声が響く。
「こりゃ竜じゃ。井戸の竜じゃぞ。井戸に引き込む気じゃ」
地元の人間であろうスタッフが騒ぐ。僕もそう思った。竜の子が、子供たちを引っ張っているのだ。どうすればいいんだ。あのとき、僕はどうやって助かったんだったか。
祖父は、身代わりの人形を投げてくれたが、ここにはそんなものはない。
僕もロープを引っ張ったが、全然かなわない。手の皮がむけて血が滲んでいる。
聞けやあ聞けやあ竜の子や。井戸の底から出たければ、さあさあわしの手を掴め。二十人力のわしならば、お主を天に引き上げよう。
祖父の歌が頭に浮かんだ。二十人力に意味はあるのか。今ここには親やスタッフを含めた二十人以上の人間がいるはずだ。二十人力なら勝てるのではないか。竜を井戸に閉じ込めたのは二十人力の豪傑だったはずだ。まだ、ロープを引っ張っていない大人がいた。子供の手を外そうとしている親やスタッフ。妻もそうだ。
「みんなロープを引っ張ってください!」
何人かは子供から離れてロープに手をかけてくれたが、まだ足りない。
「聞けやあ聞けやあ竜の子や。井戸の底から出たければ、さあさあわしの手を掴め。二十人力のわしならば、お主を天に引き上げよう」
僕は声を振り絞り、先頭に立ってロープを引いた。もし、僕が先頭で引き込まれたら、娘や後ろの子たちは助けてくれるように竜の子にお願いしよう。
「夏祭りで歌ってたやつだな。みんな引くの手伝え。二十人力だ」
村の親がいたようで先頭で手を貸してくれる。川遊びをいっしょにした友達だと気づくのは後のことだ。そいつが必死でロープを引くのを見て、子供らの手を外そうとしたり身体を引っ張っていた親やスタッフもロープの方に回ってくれる。まるで井戸との綱引きだ。
「あ」
突然だ。全員がロープを引くのに力を合わせたと感じた途端に、こちらが引く力が勝ちはじめた。ずるずるっと、ロープを引くことができる。
井戸から、大きな何かが引きずり出されてくる。それは竜だ。それは間違いなく竜と言えた。ロープの先の桶を大きな口でくわえている。
いや、違う。竜は骨だった。人の骨だ。骨になった遺体がいくつも折り重なって連なり絡み合って竜の姿を形作っていたのだ。どの遺体も小さく子供のものと思えた。
先頭で桶を掴んだ遺体が僕を見た。あの少年だ。川で会い、井戸に呼んだ少年。愉快そうに笑っている。そして、天を指差す。骨の竜は、井戸から真っ直ぐに天に昇って、そして消えた。
晴天はいつのまにかどんよりとした曇り空になっている。
「今の、なに?」
誰かが呟く。皆呆然と見ていた。
子供たちは全員無事だった。むしろ大人の方が、手の平がひどいことになっていた。
午後に予定されていた山の散策も沢遊びも中止となった。
帰りの車を運転しながら考えた。ぽつぽつと雨が降ってきている。妻と娘は、すごかったねえ、と興奮気味だ。
皆には荘厳な龍の姿が見えていたようだ。僕にだけ骨が見えていた。祖父が、竜の子の正体を教えてくれていたためだろうか。
祖父は、竜なんてほんとはいないと言っていた。人柱が先なんだと。それよりももどすことが目的だったんじゃないかと言っていた。
もどす。おそらく隠語だ。間引きのことではないだろうか。あの、竜を形作った骨は一つ一つが小さかった。干ばつも水害もあり、不作の時は、口減らしのため、人柱と称して小さな子供を井戸に。そんなことがあるのか。
だいたいあんなにたくさんの遺体があったなら、井戸の底を浚っても何も出てこなかったのはおかしい。いや、違う、人形すら出てこなかったのがそもそもおかしいのだった。
もう一つ疑問がある。なんで、祖父は、早くこうしなかったんだろう。長年、夏祭りで人形を捧げて、でも二十人力があれば、竜を解放できるって気付いていたんじゃないだろうか。そうすれば、子供たちが井戸に呼ばれることもなかったんじゃ。
雨が車のガラスを叩く。雨足がずいぶん強くなってきた。散策が中止になったのは、結果的には良かったかもしれない。
祖父が竜を解放しなかった理由には、すぐに納得できた。村では局所的な大雨が三日三晩続き、洪水と大規模な土砂崩れが起こった。祖父の家も土砂に飲み込まれた。幸いにして全員が避難できたそうだが、村は無くなってしまった。
竜の子は水害から村を守るために祀られていた。生贄にした子供たちを井戸に留めて守り神に仕立て上げていたんだ。それを解放してしまったから、村は滅びた。そうとしか思えなかった。
数年後、僕は村を見に行ってみた。村の地形は変わり、湖になってしまった。
水面を見つめていると、ばしゃんと音がした。広がる波紋の真ん中に、あの少年が顔を出した。長い竜の尾を引いて優雅に泳いで、また水面の下に消えて行った。
あの子が本当に竜の子なのか、竜の子に見立てられた口減らしの子供なのか、本当のところはわからないけれど、どちらにしても、やっと狭い井戸から解放されて、自由に泳げる湖の神様になったんだと思う。よかったなあ、そう思った。