15話 命体再成
ダークエルフ好きです
ファラは目を覚ますと汚れてしまった自分の服を川の水で洗っていた。昨日の戦闘で穴が空き、排泄物が付いてしまったものであるが今はこれしか持っていないので仕方なくだ。
恰好は全裸であるが特に何があるわけでもない。あの化け物はファラの後ろで丸くなり休んでいる。乱れない呼吸でぐっすり眠っているのは、散々な目にあったファラからしてみれば腹正しい。
(ほんとに私をどうするつもりなの?)
不安は拭えない。
一晩寝てすっきりした頭で考えてみても村に帰る気になることは出来なかった。あの話を信じたわけではない。信じたくはない。しかし、事実だと仮定した方が納得してしまう。
迫害とはまた違う。両親はそこそこ腕の立つ狩人であったし、暴力などを受けたことは無い。ただ、諦められているような、直すことの出来ない作りかけの矢立てに対するような扱いを受けてきた。
『狩人には向かないがきっと何か別のことで役に立てるさ』。『あまり無理しないほうがいいよ。きついでしょ?』。そんな言葉を何度聞かされたことか。少し目を逸らしていたことだが、ファラはあの村ではただ食卓を囲むだけの同族だったのだ。
外に出るのにも成人にならなければならなかった。きっと成人にさえなることができればそんなつまらない施しともおさらばできるとファラは思っていた。
だが、これだ。
「はあ……。冷たい……」
ある程度洗い、水霊に服から出てもらい乾かす。あの村に関係するものはもうこの服と自分の血くらいしかない。
『意外と図太いなお前』
「ッ!?」
黒龍が目を覚ました。首だけをこちらに向け目を細めながら話しかけてくる。今のところこの化け物の逆鱗に触れなければ問題ない。目的も分からないファラは不安からか自然と問い掛けてしまう。
「……これから貴方はどうするつもりなの?」
『ふはははっ。どうしようかねえ。お前との約束で村には行けなくなっちまったからなあ』
「……ぐ、具体的に私は何をすればいいの?」
『質問が多いなあッ!』
「ひいっ!」
苛立ちを覚えた黒龍の尾が河原の砂利を巻き上げる。また昨日のように火傷を負わせられるかと思ったが違ったようだ。
ファラが黙ると黒龍は話始めた。
『お前はこの世界のエネルギーをいくつ知っている?』
「いくつって言われても……だいたいが魔力と霊力じゃないの?」
『ああ、そういうことじゃなくてだなあ。……そうか、認識が違うのか』
満足のいく答えを出せなかったので、また怒られるかとも思ったが黒龍は動かないままだ。
少しファラがやりにくさを感じ始めていると、黒龍はまた質問をぶつけてきた。
『お前、いやお前らはモノの重さとか、風の強さ、熱をどう考えてるんだ?』
「えーっと……? 重さは重さでしょ? 風の強さって結局は風霊の数だし、熱も火霊とか氷霊の多さとか強さで変わってくるんじゃない? どう考えてるって言われてもよくわからないわ。それらをコントロールするのは霊力よ」
『へえ……どうやるんだ? お前は確か霊覚に関しちゃ優秀だったよな』
少し引っ掛かる言い方に目を細めるが、雑に風霊を集めて風を起こす。ファラの手の上で小さな竜巻が発生している。こんなことは正常な村人ならすぐできる。
そんな常識的な現象にも関わらず黒龍の表情は真剣だ。初めて見たのだろうか。少し気を取られてしまい、風が乱れ散ってしまった。
『なるほどなあ。火をちょっと起こしてみてくれ』
「え? いや、火霊がいないから無理よ! 何がしたいのよ」
『お前ホント生意気な。じゃあこうなると火霊は出てくるのか?』
「えっ」
黒龍は立ち上がると近くの木に火を伴うブレスを吐いた。みるみる木は燃え上がり、火が燃え移っていく。
「なっ、何を!? 森の火事がどれだけひどいことになるのか知らないの?! ひぎゅっ!!」
『うるせえなあ。どうでもいいわ。俺の質問に答えろ』
尾に撥ね飛ばされ川に落ちてしまい、また服が濡れてしまった。
自分のことしかこの化け物は考えない。それは強者だからこそ許される傲慢だ。やはり、この黒い災害は純粋な悪なのだろう。
火に包まれる森を見ながらファラは肩を落とした。
「……いるじゃない。たくさん。もうそこらじゅう火霊だらけよ」
『俺は霊力を使っていないが?』
「魔力を消費したじゃない。精霊は魔力から生まれるんだから」
『ほーん。一々ムカつく言い方だが、よくわかった』
ファラは首をかしげる。こんなことはどうして食事を摂るのかと聞くような事実確認だ。なぜそこまで真剣に理解しようとするのかがこの世界に生きる彼女には察することができなかった。
ナクニは一連の現象に違和感を覚えていた。
起こる反応は地球と全く同じ。しかし、元となる魔力という存在に納得ができない。ゼロから火を、酸化反応を生み出しているのだ。
当たり前だが水と火は違う存在だ。水は確かに物質と呼べるだろうが、火は酸素と別の物質が混ざりあったことによって生じる『現象』だ。風というものも単に熱に関係する極小の物質の移動である。
魔力により過程を無視している。だから魔法というのか。
『おいファラ、水を火にかけるとどうなるか知っているか?』
「火霊が水霊に勝てるわけないじゃない。消えちゃうわ。はい」
ファラが手を降ると川の水が数リットル中に浮かび、燃える木に降り掛かり消火されていく。
水が掛かり火が消える。もちろんこれは水が火を倒したわけではなく、炭素を含む物質の酸化が止められただけで、燃えているものが燃えなくなっただけだ。
所謂、原子はこの世界にも存在している。
『この水を凍らせることは出来るのか?』
「氷霊がいないから無理。私がハーセトを上手く扱えてたら出来るでしょうけどね。生憎、落ちこぼれでしたからね!」
散々意味のわからないことをやらされてファラは少し苛立っているようだ。ナクニは後で泣かせることを決め川に近寄る。
『凍れ』
ナクニがハーセトによって宣言すると川の水が一瞬で氷となった。
「ハーセトを使えるの? ああそうか、一人の記憶持ってるんだっけ……ぎゃうっ!」
ファラを尾で叩き潰しながら、ナクニは唸った。
温度を下げるという過程を無視し、水が凍る。これが魔力を消費するハーセトによって起こったことだ。なんとなくであるがナクニは魔力と霊力について理解した。
現象の過程を自由に操作するための力が霊力。これは精霊と呼ばれる擬人化された世界のシステムしか持たない。
結果を過程を踏まずに確定させる力が魔力。これは一定の知能を持つ生命体ならば持つ。もしかしたらそこらへんの小石も持っているのかもしれないが観測できるかも怪しい程少ないだろう。
この肉体のせいなのか精霊を見ることのできないナクニが地球での考え方を元に仮定したのがこれだ。
精霊の動きを実際に見ることができればまた変わってくるのだろう。しかし、どうにも腑に落ちない。
この二つの力はどう発生しているのだろうか。消費した魔力はどこへ行ったのか。
火山に眠る本体を動かせる技術を求めているナクニには重要な問題だ。生物自身が持つ魔力を補給し続ける方法が知りたい。
『まあ、なんとなくだが分かったぜ。ここが俺らと同じ宇宙ではないということがな。同じ法則というべきか』
「ほんとに……何がしたいの? あぎゃうっ!」
あまりすっきりしないイライラをファラにぶつけ、ナクニは少し満足するのであった。すると、何かに気付きその固い表情を僅かに歪める。
『おいおい、てめえにいろいろ聞くよりも一番簡単な方法があるじゃねえか……。いや待てよ? この場合死ぬのか? まあ、やってみりゃあいいか』
その醜悪な声を聞き、ファラは昨晩の恐怖を思い出した。この黒龍の考えは分からない。でも、自分にとって良くないことが起こるのは理解できる。
自分の体の上に伸し掛かる尾の一部が形を変えた。液状の粘着質なモノになったそれは蜘蛛の足のように分かれ、ファラの肉付きの良くない体に纏わりつく。
「ひいっ!? なに?! 何をするの?! 痛いのは嫌よ! やだったらッ!!」
『ああー……。いいなあ……』
黒龍は明らかに笑った。人の苦しむ声を聞きながら。
「いやあああああっ!」
『こういうの場所って適当でいいのか? うーむ。メジャーにアソコにブッ込んでもいいが、やっぱ脊柱か』
「うぅっ!?」
首筋が熱い。あの液状のものが自らの背中を次々に刺したのだとファラは理解した。
もちろん痛みはあった。だがそれ以上に何か巨大な情報を頭に無理矢理押し込められるような異物感、自我も記憶も上書きされるような波が彼女を襲った。
「がああああぁぁぁっ!? いやあああああああああああッ!!? な……に……? 嬉しい? 悲しい? 痛い。イタイイタイイタイイタイッ!! やだああああああああああああああッ! キ、エルッ! 私が、消えて……」
こんな記憶は知らない。
溶岩の土地で独り生きた肉食獣としての記憶。だが最後は友の裏切りで食われた。
静かな森で生きた巨大な人としての記憶。だが最後は炎神の怒りに飲まれた。
「あぁ……」
体が痙攣をし始める。だらしなく涎を垂らし、自己と呼べるものを失っていくのが薄れていく意識の中で辛うじて理解できた。
だがそれでも彼女をこの世に繋ぎ止めていたのはある記憶だった。
彼はセリノン村の男として生まれた。草食動物を罠に掛けるのが得意な父と料理を担当する母を持ち、そんな突出した個性はないが貴重な男児として大切に育てられた。
同い年のいない彼は年上のギャレルと呼ばれる少年に懐きよく行動を共にしていた。ギャレルはフォレンとファラという少女ともよくつるんでいて、偶にではあるが一緒に遊んでもらったものだ。
彼の目から見てもギャレルがフォレンを気にしていること、フォレンもギャレルを大事に思っていることは理解できたのにこのファラという人はなにかとギャレルに構う。ギャレルもフォレンも優しくそんなファラを受け入れる。
どうしてギャレルとフォレンの邪魔をするのだろうと純粋に彼は思った。弓の腕も良くない。あんな距離彼でも狙えるのに。容姿もフォレンの方が美しいと言える。何も彼女が勝るものがないのにどうしてギャレルを好きになれるのだろう。フォレンの友達して恥ずかしく思わないのだろうか。
彼も成長したがある日、ふとギャレルに尋ねてみた。何故、ファラと仲良くしているのかと。彼はこう答えた。
『ファラを僕たちまで無視したら彼女は独りぼっちになってしまうじゃないか。……それに彼女の父親に娘をよろしくと言われているからね』
なるほど、と彼は納得した。ファラの父は狩猟時のリーダーを務めることもある強い人だ。この村の権力者であり、ファラはお嬢様なのだ。
なんだやはり嫌々だったのではないか。村の厄介事を背負い込むなんてやはりギャレルは優しい。
ファラのいないときに素の顔でフォレンと楽しそうに喋るギャレルの姿を目撃した時彼はさらに合点がいった。
このままではファラにギャレルを取られてしまうぞと善意で、応援する気持ちで彼はフォレンにも同様の質問した。
『……。結婚できるのは成人した男女だけ。そうでしょ?』
なるほど、と――
「ぐがあああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
感じたのは怒りだったのだろうか。それとも悲しみ、羞恥心なのか。ファラをファラとして認識させたのは二人の大切な人との思い出だった。
頭が水死体のように膨れ上がりそうだ。背中から臓物がそのまま流れて行ってしまいそうだ。肺は焼けるような熱を吸っては、焦げた煙を喉を焼きながら吐き出す。
体から湧き上がる膨大なエネルギーに耐えられぬ細胞は融け落ち、すぐに新たなものが作られる。髪も肌も焦げていく。眼は黒龍と同じ灼熱を宿す。
常人ならば全てを溶かされこの化物の一部となっていたのだろう。しかし、ファラはこんな理不尽を受けてなお必死にこの大地に食らいついていた。
いや、黒龍の気まぐれで先に吸収されていた男の記憶がファラを無理矢理覚醒させていただけかもしれない。
『うるせえなあ。慣れりゃあ平気だろ? ふーむ。俺からはこんくらいにしといてやるよ。後は自分で勝手にやれ』
「く……かはっ……。ほんとに、意味が分からないのよ……。なんで? 酷い……酷いよぉこんなのぉ……」
変化が終わり涙を流すことを許されたファラは泣き叫ぶ。
『あ? 感謝しろよ。俺の好みじゃなかったらてめえは今頃改造されてんだからな』
「もうそれでいいっ! なんで私を残したのよおッッ!? 見たくなかった……聞きたくなかった……」
『ああん? くふはははははっ! で? どうよ? なあぁんか思わねえか?』
「ッ!……」
ファラと黒龍は同化していた。完全にではないが力と記憶の一部を共有している。だから、この正体不明のなにかの言いたいことが分かってしまう。言葉で紡ぎ出されるよりも早くに。
――復讐したくはないか?
尖った歯を噛み締める。変わってしまった彼女の今の顎の力は容易く人の足を食い千切るのだろう。
幼い頃から感じていたこのどうしようもない感情の名前を初めて知ったのだ。
屈辱感。劣等感。
こんなこと考えたくなかった。戦いたくなかった。逃げたかった。
「でも――」
かつての自分の体だったモノが蒸発しきる頃、空を見上げたファラが力無く呟くのを静かに黒龍は聞いていた。
「……私はあの二人を殺したくない……」
『……理由を言え』
「屈辱以上に……私は、感謝してるから……」
確かにそれはファラにとって屈辱だったかもしれない。でも同時にそれは答えでもあったのだ。
「あの村に自分は必要なかった」という解を得たのだから。
もう、ファラはあの村との繋がりを一切持っていなかった。
『ふーん』
黒龍はそれだけ呟くと何もなかったかのように丸まった。辺りには焦げた匂いが充満している。相変わらず森は燃え続けていて、周りにはもう灰しか残っていない。
肌は黒ずみ、髪も漆黒を纏ったファラは起き上がると変わってしまった自分の体を見回した。体格や顔に変化は見られないが、中身が違っていた。近くの石を拾い、軽く握ると砕けた。熱を込めて息を吐くと火霊が口から溢れ出していく。
そして、怪物とのリンクにより大量の記録と知識を得た。
「ねえ、化け物。貴方は一体なんなの? どれが貴方の記憶なの? 巨大な黒龍との戦いの記憶はあるけど黒龍としての記憶はどこにもないわ」
ナクニは与える情報を制限していた。那國としての記憶、統合生命体としての記憶など説明の面倒なものは省いたのだ。
『知りたきゃ自分で俺の中を探れ。まあ知ったところで余計混乱するだろうがな』
「名前は持っていないの?」
『ああ? ……なきゃ不便か? なんか格好良い名前付けてくれよ。昔話とかで何か元になりそうなのあるだろ?』
他人に名前を貰うと言うのは隷属の証だと言うことをこの化物は知らないのだろうか。ファラは訝しみながらも、考えた。
簡単に弓を通さない黒色の鎧。何もかもを燃やす火炎。全てを嘲笑うかのような赤い瞳。
あの村に伝わる神話の中で炎神からその力の一部を奪ったとされる邪神にそっくりだった。
「……ズローナク」
『へえ。かっこいいのかソレ』
「貴方にはぴったりよ」
『ヒハハハッ。いいぜ。そう呼べよファラ』
雑に選んだ名前だったがズローナクという名を気に入ったようだ。
ファラはこの化物に対しての先程までの厭忌感が消えているのを感じた。記録の共有を行っているからかもしれない。もしかしたらこの怪物にも自分のような人間だった時期があるのかもしれない。あの痛みに耐えきれずこのように狂った存在になってしまったのかもしれない。
そう思うと不思議と親近感を覚えたのだ。
「ねえ、なんか着るものないの?」
『……やっぱ生意気だよなあ、お前。作れよ自分で』
「どういうこと? ……! あれは……」
気配を感じてファラが振り返るとそこには一頭のグレイゾンが立っていた。体のあちこちに火傷を負い、鎧はボロボロになっていたがこちらを威嚇している。サイズはファラが成人の儀で仕留めたものよりも大きい。
そのグレイゾンが吠える。無音で獲物に向かっていく習性を持つグレイゾンにしては珍しい行動だ。その視線の先にはファラがいた。
「ひっ……な、なんとかしなさいよ。貴方が森を焼いたから怒ってるんじゃないの!? なんで私を狙ってるの?!」
ズローナクとファラは外見上は違うが、ステータスを見ることができるのなら同一個体であることが分かる。
種族「ヴォルクウル・アレマテト・イブルクライン」。2体で一つの生命体となっているのだ。
それをグレイゾンがどう感じたのかは分からないが、名前を授けられたズローナクは眷属となり、ファラが主人であると判断したのかもしれない。
未だに元の人間の感覚でいるファラにズローナクは呆れると再び眠りに入った。
「ちょっ! ちょっと、なんで!? ひいいいいいいいいいいいっ!」
グレイゾンがその巨体の全力を以て突進してくる。避け切れずに左肩にその衝撃を受けた。あの外殻にあの速度で打撃を受けたのだ。バラバラになってもおかしくはない。しかしファラはただよろめいただけだった。
「……え?」
痛みは少しだけある。でもそれはまるで小さな子供が前を見ずにぶつかってきたときのような感覚だった。
見ればファラの体に触れたグレイゾンの外殻の方が凹み、ひしゃげていた。
再びグレイゾンが向かってくるのをファラは右手をただ前へ差し出すだけで避けようとしなかった。
硬いもの同士がぶつかる大きな音が木霊し、その音がなくなるとグレイゾンは止まっていた。
ファラは右手一つでその突進を止めていたのだ。本当に受け止めただけだ。落としそうになった食器を慌てて持ったようなそんな軽い力だ。
「なにこれ……」
グレイゾンの声が響く。それは威嚇ではなく痛みに悶える叫びであった。ファラの右手はその温度を上げ、握っているグレイゾンの角を溶かしていた。
左手で相手の顔を握ってみる。あの自分の弓で貫くことができなかった外殻が簡単に灰になっていった。
「ふ……」
彼女の褐色の肉体が炎を纏っていく。可視化されるほどの密度を持つ火霊たちだ。それらが彼女に装飾を施していった。灼熱のドレスに溶岩の鎧を重ね、いくつもの棘を生やしたグローブで少し強くグレイゾンを殴るとあっけなくその大きいだけの塊は吹き飛んだ。
「ふふふ……あはははは」
何回か手を握り締めているかと思えばファラは笑い出した。
あのグレイゾンを私が圧倒している? 弓も罠も使わずに? 素手で?
「嘘でしょ? あはははははっ!」
なんとか立ち上がるヤツに近づこうとすると思った以上に走るのが速くて、その前脚を踏み砕いてしまった。あ、そうね。脚力はどうなの? すごい。小石を蹴るように飛んでいったわ。
「ねえ、もう死ぬの? もうちょっと頑張ってよ」
内臓をかなり壊され、もう虫の息だ。木の実の皮を剥くように簡単に外殻を剥ぐ。辺りに肉の焼けるいい香りが漂ってきた。
「そういえばあなたたちを私食べたことなかったわ。……あ、あははははははははッ!!」
腹を裂く、邪魔な骨を砕き、血を蒸発させてその肉に齧り付く。手も使わずに野生動物のように喰ら付く。
こいつの上げる悲鳴がとても心地が良い。
美味しい。美味しい。美味しい。
「んぐっ、あっ……あははははははっ!! グハハハハッ!! 簡単じゃない! 簡単じゃないこんなこと!! こんな雑魚殺すなんて、狩るなんてッ!!」
怒りに身を任せてこいつの肉体を焼却する。
「なんでこんなこと私は出来なかったのッ?! 数秒で終わるじゃないッ?! あ、あ、あああああああああああああああああああああああああああああッ……!!」
これで私は成人だぞ満足か?
「さあ、ギャレルこれで私と結婚よ!! フォレンもたくさんお祝いしてくれるんでしょ!? う、うわああああああああああああああああああああああああっ!!」
ファラは叫んだ。
今の彼女の体はこびり付いた血も流した涙さえも蒸発させる灼熱。少し離れた場所までも夏の気候に変えるその慟哭は、近くの川を干上がらせるだけでは無く微生物すらも死に絶えさせた。
自分の周りが砂漠に変わっていくのを見ながら、ナクニはそのファラの悲鳴を喧しいとしか思わなかった。
彼女の体が冷めるまでは数時間掛かった。きっと自分で冷ますことは出来たのだろうが、ただじっとしていた。ファラはただ白い平らな石の上で寝転がり夜空を見上げている。
その禍々しく変形した甲冑とドレスは黒く染まり、遠くから見れば焼死体にでも見えたかもしれない。その黒に真紅の瞳はよく映えていた。
『気分はどうだよ化け物?』
「最悪よ。ふざけんじゃないわよ化け物」
『くふひゅっ、あはははははははっ!』
近くで佇むズローナクが問い掛けた。
ぶっきらぼうなファラの態度に何故か上機嫌だ。笑いに震わせていた体をファラに近づけ、その尾をファラに絡ませる。すると、抵抗することのないファラをそのまま自分の背に乗せた。
彼らが一つの生命体であることを証明するように、ファラの足腰は見事にズローナクの首と胴体の間にぴったりと嵌った。足が黒龍の肩にかかる形だ。
硬い。乗り心地はとても良いと呼べるものではなかったが、今のファラにはちょうどよかった。あれだけ熱かったズローナクの体をひんやりと冷たく感じる程に。
自分が変わってしまったことを再確認する。ファラは体を前に倒しズローナクの首に寄りかかるような態勢になった。ひんやりとしたものが頬に当たって気持ちが良い。
「……ねえ、聞いてズローナク」
『おう。どうしたどうした?』
両者に昼間のような確執は見られなかった。傍から見ればずっと連れ添った相棒のようだ。だが実際は成り行き、或いは依存だ。
「さっきのあの狩り……って言っていいのかどうかわかんないけど、アレ凄く楽しかった」
『だろ? あれが怪獣のやるべきことなんだよ! ハハハッ! スカッとしたろ? パンチとかキックで吹っ飛ばすのはよぉ』
「最高。ふ……ふふ、あそこ凄くなかったかしら? 生きたまま肉を食うところっ、ク、クククク……あはははははははははははっ!!」
『まあ絵面は良かったけどよ。相手が駄目だ。演出が足んねえよ。やっぱ相手は喋らねえとよ。今度俺が見してやるよ。ぬははは!』
「ええ? そうかしら? じゃあちゃんと見せなさいよ。そんなこと言っておいて肝心な時に出来な~いってヘタレたら承知しないわよ? くっ、はははははっ!!」
楽しそうに化け物たちは笑う。どうすれば自分たちは楽しめるのか。つまらないことは御免だ。
「ねえ、疲れた」
『おう寝ろ寝ろ。その間にどっか移動してるからよ』
「……うん。どこに行くの? 悪いけど私道案内は無理よ。……森から、出たことなかったし」
うとうととファラは瞼を開けたり閉めたりしている。肉体的な疲れなど昔の名残であり、今の彼女には存在しない。精神的な僅かに残った彼女の人間としてのルーチンだ。
それを互いに理解しつつも何も触れない。無理矢理脅され契約し、何故か主従が逆転した黒龍とその騎手。 夢心地の中、ファラはもう戻れないことを覚悟した。
まだだ。まだ足りない。彼女の絶望と悲鳴はまだ足りない。
これからなのだ。もっと人間に触れなければ、関わらなければその闇は深くならない。こんな逸材を辺境の森で眠らせるわけにはいかない。
この世界に地獄を作るのだ。平和を見るのはもう飽きた。
『行き先か。そんなもん誰かが苦しむならどこでもいいぜ』
ゆっくりと炎の支配者は翼を広げる。黒くも美しいその羽ばたきは生命の存在しない砂漠によく響いた。
今度このような場所に変わるのは一体どんな場所なのだろうか。彼は心を震わせた。
「一体何があったというんだ……」
土神ロッコワークの名を冠する大森林の3割を焼く大火災が発生したことをヘンテケンシュ連合共和国が確認したのは、火災発生の半日後であった。
この緊急事態にクレフラトロー協会、魔法同盟プリマンタズンワーレ、あらゆる協商が対応したためこの程度の被害で済んだのである。
この国がここまでの団結を見せたのはかの凶獣の進行以来だろう。
グレード7クレフラトローであるサンデンはこの大消火作業の後、原因調査を任され、普段あまり組まない他のチームのリーダー達と共に灰と焦げカスばかりのロッコワーク大森林中心部までやってきていた。
サンデンはクレフラトローの中でも害獣駆除や生態調査を請け負う「メイセ・クレフルト」に所属している。その装備は今の自分にできる最高級のもので固めてある。
他のメンバー達も今回の調査に本気だ。それもそのはずでこの森林に火災が自然に発生することはまずありえない。
土神は炎神に対し敵対したという逸話を持ち、そのせいかこの神名帯では火霊、炎霊は発生しない。原住民が火を使うことはあるがそれが木に燃え移るなど聞いたことがないのだ。
つまり、故意にこの大火災は起こされたことになる。この規模なら国単位、もしくは危険度6級を軽々と超える生物による仕業だ。
それに通常の状態でもこの森は危険なのだ。人を食う危険度4、5級の生物がうようよいる以上油断はチームの全滅を招くことになる。
「はあ。なんで砂漠なんかできてるんですか?」
メンバーの一人アーキュットが呟いた。地理、遺物に詳しい彼女もお手上げのようだ。
「何か分からないか? アーキュット」
「と言われましても……。神話とか物語に出てくる超兵器、超魔法ぶっぱさないとこんなことにはなりませんよ」
「ではそういうことなのである」
武器、武術に精通するガンザイルがそう答える。
「魔法同盟の方からは何かあるか?」
サンデンが話を振ったのはヘンテケンシュ連合共和国内で最も魔法使いが所属している組織、魔法同盟プリマンタズンワーレのグレード7ウィッチ、チャルークセパトラである。
ここに来るまでは魔法の知識を頼んでもいないのにペラペラと喋っていたのだが、黙ったままだ。
「……せ、精霊が……。精霊がいません。いや、待て待てっ?! あり得るのか? こんなことがっ!?」
「私達には見えないが、精霊と言うモノはどこにでもいるのではなかったか?」
「だ、だからおかしいと言ってるんだッ!! 何故だ?! どこにもいない? 土霊も、水霊も、火霊でさえも?!」
混乱するウィッチに3人は首を傾げ、勝手に調査を続けることにした。普段ならば何も警戒せずに進むことは無いのだが、遮蔽物の一切なくなった森でどこに隠れろと言うのか。それに彼らの勘が不思議と何も先に待っていないことを告げた。
「……サンデン殿。あれを」
「何かが座った、いや寝ていた後か?」
もはやただ平らな地面となっていた砂漠の中心部に何かの跡が残っていた。全長は大人10人よりも大きい。
「これが原因なんですかねえ? どこから来たのやら」
「カガラド山の大噴火で多くの生き物が縄張りを移動したと聞いている。カガラド地方は未だ調べ切れていない。新種がこの地方に来たのかもしれない」
その跡に手を触れるとまだ熱かった。
「私は非常に不安を感じているが二人はどうか?」
「……同じく」
「うずうずしているのである」
サンデンは国へ直ちに報告に戻ることを決定した。そして、この謎の生命体の調査にあらゆる団体が乗り出すことになる。
『精霊喰らい』と呼ばれるようになるソレとこの国が衝突するのはそれから数週間後のことであった。