第二十話 優しさに打ちひしがれて
まるで棒になってしまったかのように、足が自由に動かない。
木の根に幾度となく躓きながら、アイラは宛てもなく森を徘徊していた。先の戦いで受けた足へのダメージは相当なものだった。
長時間の逃走と、恐剣狼討伐の際に無理やりな行動を取った末、遂に靴には穴が開き、靴擦れの痛みと疲労により足は震え、あちらこちらから出血も見受けられる。
「くそっ……くそっ……」
悔しさが先立ち、うわ言のようにその言葉を繰り返す。
気付けばアイラは、手近な樹木に拳を幾度となく打ちつけていた。当然そんな行為に意味はなく、ただ悪戯に彼女の拳が壊れていくだけだ。
だが、なにかに当たらなければ、この気持ちを制御出来そうもなかったのだ。
そうしてしばらく。アイラの拳が砕け、過度な痛みによって手の感覚がなくなってようやく、少女は幹を殴るのをやめた。
手の甲から滴る血を呆然と眺め、立ち尽くす。
『気にするなアイラよ。あのような偽り者に、心を悩ませる必要なはい』
宵闇から、未だ姿を魅せぬ精霊がアイラを気遣う。男の言う『結界』から出て以降、この精霊はアイラと再び行動を共にしている。
彼女が無事で安心したのは事実だが、アイラは手放しにそれを喜べないでいた。
『あの男はとんでもない悪漢であったな。しかし、もう二度と関わることはあるまい。だから───』
「……って」
『ん? すまぬ、上手く聞こえなかった。もう一度』
「もう黙って──ッ!」
堪えることが出来ず、アイラは感情に任せて怒声をあげる。
彼は、ジークは悪漢などではない。
そしてそれを精霊自身も知っているはずだ。
それなのに、彼女は悪者だと嘘を吐く。
それは全て、アイラのためだ。
それが悔しい。
なんにも出来ない役立たずのアイラのために、皆が心を痛めて嘘をついている。
それが悔しくて悔しくて……けれど、それがとても嬉しかった。
そして、そう思ってしまう弱い自分が心底卑しくて、消してしまいたくて、アイラは静かに手のひらに爪を食い込ませる。
あの時ジークは黒服に向かって、『分身を消した』と言っていた。
それはつまり、ウルや精霊が消えたと言ったジークは、魔法で作られた偽物だったということだ。故に彼女たちのあの動揺した様子は全て嘘、演技だったということになる。
ウルは本当にジークから魔力を絶たれたのかも分からないが、精霊は自分の目でジークが消える様子を見たと言った。
森の中を全て見ることが出来るというのであれば、本当はジークが生存していることも、消えたといったジークが偽物だったということも気が付いていた筈なのだ。
それなのに、彼女達はそれが分身であることをアイラに一切伝えていなかった。あたかもこれが緊急事態であるかのように装った。
それはきっとジークの指示だ。
あの時石を渡したジークの様子が少しおかしかったのは、騙すような行為が後ろめたかったからだろう。考えすぎかもしれないが、突如現れた恐剣狼でさえ彼の仕込みなのかもしれない。
恐剣狼の目の怪我はなにかで切りつけられたような跡があった。剣の鎧を纏う巨狼に傷を残すなんて、並みの者の仕業ではない。
例えばそう、あの恐剣狼を圧倒するほどの力を持つ者でなければならないのだ。
何故そんなことをしたのか、そんなものは決まっている。
全てはアイラ生かして逃がすためだ。
アイラを確実に生かして逃がすためには、まず彼女を狙う犯人の居所を掴まなければならない。
そして、黒服がアイラにしたように、敵のことを知らなければならない。
ジークが再び現れた時、アイラはあの男に殺されそうになっていた。
ひょっとして彼は、アイラが本当に命の危機に瀕すまで近くで待機していたのではないか?
出来るだけ時間をかけて、相手の情報を収集していたのではないか?
結果としてアイラが囮に使われた事実は変わらない。
だが、彼はアイラが生き残れるように鍛えてくれた。囮として使い捨てるようなことはしなかった。
それを優しさと呼んでいいのかは分からない。
ただ分かることは、アイラは彼に、嘘を吐かせたということだ。
彼は初めから言っていたではないか。
精霊との戦いは常人には不可能だと。
自殺志願者を戦場に連れて行く趣味はないと。
アイラを──囮に使うつもりだったと。
故に彼はアイラに戦う方法ではなく、真っ先に生き残る方法を教えた。生き残る術を身に着けさせた。
思い返しても見ろ。
アイラはこの数日の間で一度たりとも、戦闘技術を磨く訓練を受けていなかったではないか。
「ごめん、精霊さん。私、酷いこと言っちゃった」
『良いのだ。吾輩も其方には悪い事をしたと思っている。つまりはお相子だ』
精霊の発する声は何処までも慈悲に満ちており、その声は荒んだアイラの心を優しく撫でる。
だがそうやってすぐに心を休めてしまう自分に、また果てのない憤りを覚えていた。
「私……本当に馬鹿だ……」
力を過信していたわけではない。ただ、ジークなら連れて行ってくれるのではないかと期待していたのだ。
こんなに強くて優しい人なら、アイラ(足手まとい)を連れていてもきっとあの化け物を倒してくれると、彼に甘えていたのではないか?
自分は本当に、なにを馬鹿なことを考えているんだと、自戒の言葉を飲み下す。
本当に優しい人が、アイラにわざわざ危険を冒すような真似をさせるだろうか?
例えアイラがどれだけ願おうと、そんな未来、断じてある筈がない。
「自惚れるのもいい加減にしろ! お前は……お前はなんにも分かっていなかった……!」
自責の悪態は止まらない。
渾身の力を込めて、再び幹を殴り付ける。
そして薄く皮が破れただけの幹を見て、ただ痛むだけの拳を見て、改めて実感する。
私はまだ、こんなにも弱いのだと。
気力も体力も全て吐き出し、とうとう力尽きたアイラはその場に崩れ落ちた。
最早歩く気力すらない。アイラはただただ、愚かな自分を呪い、大粒の悔し涙を流す。
立ち止まっている現状こそ、ジークの、ウルの、森の精霊の思いを踏みにじる行為だと知りながら。
「アッ、やっと見つケタ! アイラ……っテ、大変!アイラ怪我してるジャなイ!」
背後から聞きなれた声がした。
透き通る鈴の音のようなその声音も、今のアイラにとっては心を荒ませる音にしか成り得ず、そしてそう感じてしまう自分の心の狭さを呪った。
「ウル……」
ウルの登場に驚きの感情はない。
その登場はむしろ、アイラの予想が的中したことを雄弁に物語るからだ。
「どうして……ここに居るの?」
「そんなの決まってルじゃナイ! 契約を切ってアイラを追ってきたノヨ! アイツ、ワタシを騙してアイラを囮に使ウなんて……ホント許せナイワ!」
ウルは腰に手を当て怒りをあらわにする。
でも、今なら分かる。その怒りが偽りのモノであることが。
今の彼女は、アイラを思って叱咤をすると同時に、ひどく焦っている。
何故そんなにも焦っているのか、その答えは明白だろう。
ジークは言っていた。
火の魔物の対策にウルを連れていると。しかし今ジークは、自分が戦闘状態だというのにウルを手放している。彼の許にはまだサラが居るのだろうが、彼女は既に消耗しているという話だ。
遠く、暗がりを照らし立ち昇る劫火の渦を見る。
つまり今、ジークはあの化け物に対する有効的な攻撃手段も、防御手段も有していないということだ。
それがどれほど危険で、無謀な行いかはアイラにも分かる。
これは、彼なりの誠意だとでも言うつもりなのだろうか。
散々使い倒したアイラへの贖罪のつもりなのだろうか。
「ホら、手を出して。今治してアゲるから」
差し出された手のひらに、自分の血に濡れた手を乗せる。
すると、いつものように、いつかのように、アイラの傷は瞬く間に完治した。
「どうして……」
「エ?」
「どうして魔法が使えるの?」
ウルの気配が凍ったような気がした。
いや、気のせいではないだろう。現に、ウルの顔色は引き攣っていて、何処か脅えたように息を飲んでいる。
「ウルもし、ジークの命令を破ってここに居るんなら、どうして命令違反の魔法を使えるの?」
「──っ!? そ、そレは……」
「ジークに言われたんでしょ? 私を、森の外まで護衛しろって」
ここに来るまで、私は魔物に一切襲われることはなかった。
それは偶然ではない。
恐らくウルが私の臭いを嗅ぎつけた魔物を遠ざけてくれていたからだ。
おかしいじゃないか。
歩くのもやっとの獲物が居るのに、肉食の魔物を一匹も見かけないだなんて。
そもそも、ウルと初めて会った時、ジークはこう言っていた。
『また勝手に覗いたのか』と。
確かにあの時、彼は魔法の使用を禁じていたと言ったが、それに強制力があるとは一言も言っていない。
初めから気付くべきだった。
ウルの魔法の無断使用は禁止事項ではなく、注意事項の範疇だったことに。
アイラはいっそ、ウルの護衛を断ってしまおうかと思った。
その方がきっとジークのためになる。
ウルがいち早く彼の許に戻れば、それだけあの化け物を退治する負担が減ると考えた。
だが、この精霊がとても強情で、そしてその主も同様にお人好しなのをアイラは知っている。
断ったところで、無駄だろう。
ウルはどんなことがあっても、アイラを森の外まで送り届ける。
「……アイラって、もう少シ素直な子だと思ってたワ」
ウルは、どこかおどけるように薄く笑う。そして降参だと言うように、静かに両手を掲げた。
それはまるで、いたずらを目撃された子どものような表情だった。
「ごめんナさい。アナタを守るつもりが、傷付けてシマった。でも、これガ正しいと思うの。アイラみたイな女の子が、あんな化ケ物と戦う必要なんテない。だって、今のアナタがあソコに行ったら、間違いなく死んデしまうもの」
淡々と事実だけが語られる。
それが真実であり、感情ではどうにもならない事象であった。
「うん、分かってる。でも……でも……やっぱり───」
──悔しいよ。
訓練を初めた日数を数えれば、まだ三日ほどしか経っていない。
それでも、アイラにとっては人生の中で最も力を振り絞った三日間だったのだ。その成果が逃げ足が速くなっただけだなんて、頭が納得していても心が納得してくれなかった。
手のひらが破れる程拳を強く握り、歯が砕けそうな程奥歯をキツく噛み締める。
だが、アイラは行かなければならない。ここまで親身にしてくれた少年の意志を、無為にしたくない。
決意を固め、再び退路を進もうとしたその時。
暫く静観していた精霊が独り言のように呟いた。
『一つだけ、方法がある』
「……方法?」
そう言葉にする精霊の声色には、決意のようななにかを感じた。
方法。
つまりはあの怪物と戦う方法が、精霊にはあると言うのだろうか。
「で、でも精霊さんは今力が弱まっているんじゃ」
『否。戦うのは吾輩ではない』
アイラの言葉を遮って、精霊は淡々と続ける。未だ姿は見えないが、この瞬間は精霊の視線を強く感じた。
彼女は今、アイラを見ている。
いいや、彼女が胸に下げている母の形見を凝視しているのだ。
『戦うのはアイラ。其方自身だ』




