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レール

作者: 市 とまと


 夜の闇が支配する部屋で、月明かりだけが男の姿を浮かび上がらせる。窓際に座り、一枚の写真を見つめて彼は呟いた。

「やっと、完成した。」

 写真を見つめて一筋の涙が頬を伝う。口元には無精髭を蓄えて、肌もぼろぼろな男だったがその眼だけは喜びに満ちていた。

「絶対に助けるから・・・。」

 写真を大切に胸ポケットへ仕舞い込むと、男は洗面台へ向かう。髭を綺麗に剃るとよれよれのスラックスを履き替え、鏡の前で髪を整える。その顔は笑顔だった。

 全ての準備を終えると、男は腕時計を嵌めて静かに目を閉じる。




*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *




  7月○日

 今日は不思議な猫に出会った。真っ白い毛並みでニャアと鳴く可愛い猫だ。

 いつものように学校からの帰り道、毎日違う道で帰る。それが私の日課であり決まり事。なんでそんなことをしているかと言われると、ただなんとなくとしか言えないのだけど。なんとなく、不思議な出会いを求めているから。

 家から歩いて20分の場所に、私の通う高校がある。家から近いという理由だけで選んだ学校だけど、可もなく不可もない普通の公立高校って感じ。通い始めて2年目の夏だけど、今まで通り友達と呼べる人はなしだ。


 私の趣味は世界中の非日常に出会うこと。それは生まれたときから私の中にあった趣味と言っても過言ではないだろう。いつから?とか、どうして?なんて聞かれても、ただそれが趣味になっていたと一言でしか伝えられない。私に馴染みすぎてすでに一部になっているものだと思う。そういうのって説明してって言われてもできないもの。

 小学生の頃から休み時間は本ばかり読んでいた。クラスの誰かと過ごすより、本の中の方が不思議でワクワクするから。入学して卒業するまで、ずっと読んでいた。それは中学生になってからも変化はなく、ついたあだ名が変人。なんて安直な名前なの。

 友達が一人もいないのは生まれてからずっと。少し寂しくはあったけれど、高校生になった今では諦めもついた。誰かと男の子の話をしているより、本の方がもっと私をわくわくさせてくれるから。だから今も毎日本を読み続けている。


 学校の登下校は近場の不思議探しが日課。小学生の頃から色々な場所を練り歩いて、探して見つけて考える。毎日その繰り返しだ。

 例えば1丁目の住宅地にある公園。あそこには一本の木があって、そのてっぺんには内輪が刺さっている。そう、夏に活躍するプラスチックの内輪。それが木のてっぺんに堂々と刺さっているのだ。まるでクリスマスツリーのお星さまのように。

 木に引っかかるといえば、ボールとかバドミントンのシャトルが一般的だろう。きっと誰かが飛ばして枝に引っかかったのね、なんて想像がつく。だけどこの木にはペラペラの薄い内輪だもの。どうやっても偶然引っかかったなんて思えない。かなり不思議な木だ。どういう経緯でそこに刺さったのか、考えるだけでわくわくする。


 あ、そうだった。今日の主役は猫だったわ。

 今日は学校からの帰り道に1丁目の公演を横切って内輪の木を眺めて、私は家へと向かった。住宅街を抜けてコンビニを通り過ぎたところで、いつもは真っ直ぐ進む道を右に曲がったの。それもなんとなく。その気まぐれの先にいたのが、真っ白な猫。

 細い道の真ん中でぽつんと佇む白い猫。私を見つけると「ニャア。」と鳴いて、ゆっくり近づいてきたの。

 迷いなく私に向かってくる白猫に、私はすぐさま鞄を道端に置いてしゃがみ込むと手を差し出したわ。人に向けたことがないくらい頬の筋肉を上げて、自分のできる最大限の笑顔を作ったの。

 猫は一度も立ち止まることなく、私の手に擦り寄ってきた。ふわふわで柔らかい毛並みを堪能しながら、これだけ人懐っこい子だからきっと飼い猫だろうと考えた。首輪は無いけれど、無防備な様子から野良とは思えない。手の中で目を細める姿を眺めながらぼんやり考えていると、「ニャア。」と鳴いてするりと私の横を通り抜けてしまった。


 猫は気まぐれだから仕方ないわよね、とてくてく歩いて行ってしまう後姿を見送る。すると白猫はぴたりと立ち止まって首だけ振り向くと、私を見て「ニャア。」とまた鳴いた。ついて来いってことかな。そう思った次の瞬間には心がわくわくと音をたてていた。きっとそうだ。あの子は私について来いって言ってる。私は鞄を掴み勢いよく立ち上がると、猫の後を歩いて行った。


 細い路地からまた細い道をするすると抜けていく白猫に、私は追いかけることしかできない。猫は私がついて来ているか確認するように、時々後ろを振り向くとこちらを見て「ニャア。」と鳴いた。

 どのくらい歩いただろう。時間にすると数分なのだろうけど、知らない道ばかりで随分と疲れてしまった。白猫は小さな神社の前で立ち止まると、ちらりと私を見てすぐに迷うことなく鳥居を潜って行った。置いて行かれないように、私も急いで中へ入る。鳥居を潜って石の道を歩いていくと、目の前の小さな社に人がいた。

 お賽銭箱の前、少し段差になっている場所に腰掛けている人。男の人だ。俯いていて分からないけれど、そんなにおじさんではなさそう。

 「ニャア。」と男性に向かって白猫が鳴く。すると下を向いていた顔がゆっくりと私の目に映りこんできた。30歳、いやもう少し若い。彼は私を見ると目を細めて口を開いた。

「やぁ、今日は何年何月かな?」




*  *  *  *  *  *  *  *  *  *




 7月○日

 学校からの帰り道、私は昨日の神社に向かっていた。あの不思議な彼に会うために。今日は白猫の案内がなくても、あの小さな神社に辿り着けた。

 昨日の彼は自称未来人。そう遠くない未来から、自分の恋人の昔の姿が見たくて過去へやって来たと言う。わざわざタイムマシンを作って。余程その恋人に惚れ込んでいるのかしら。

 怪しさ満点のプロフィールだけど、私は信じた。おかしな話だとは思うけれど、この人って正に私が求めていた不思議そのものだ。

 彼の話を聞いているうちに疑いの心がわくわくに変わっていたのが動かぬ証拠だろう。昨日と同じように社の前に座り込む彼を眺めて頷くと、私を見て白猫が欠伸をした。

 彼の作ったタイムマシンは腕時計の形をしていた。見掛けはそこらへんにあるようなデジタル時計に似ているけれど、まじまじと見ると文字盤になっているところにはたくさんの数字がごちゃごちゃに配置されていた。そのひとつひとつは意味のある数字だと言われても、私にはどれが日付でどれが時間なのかさっぱり判らなかった。


「何年先からきたの?」

「10年先だよ。」

 10年・・・。なんだか近くていまいちピンとこない。未来人って100年とか1000年先くらい途方もない場所から来るのだと思っていた。何だかおかしな人だな。

 私の拍子抜けした顔を見て、彼はクスクスと笑って言う。

「期待外れみたいな顔してるね。確かに疑われても仕方ないかもしれない。だけど僕は間違いなく10年未来から来たんだ。信じてもらうのは難しいかもしれないけど、僕のことは誰にも言わないでほしい。」

 その言葉に黙って頷くと、彼は「ありがとう。」とまた笑った。


 白猫の背中を優しく撫でると、「ニャア。」と鳴いて気持ち良さそうに目を閉じた。猫はいいな。学校も行かなくても撫でてもらえるのだもの。

 私の視線の先を見て隣に座る未来人が笑う。とても羨ましそうだ、と面白そうに私と白猫を見て可笑しそうに笑った。

「そうよ。猫は寝ていても可愛いともてはやされる。こんなに羨ましいことはないわ。」

「そうかもね。でもこの子だって日中は忙しそうだよ。」

 私の手の動きに合わせて呼吸をする白い背中を眺めて、忙しい?と首を傾げてしまう。猫に忙しいというワードが一番似合わない。

「君が学校から帰ってここに来るまで、この子もここに寄り付かない。君が来る数分前にここへ来て、あたかもずっと居たかのように僕の隣に座ったんだ。ね、忙しいだろ?」

「ほんとね。それまでどこで何をしていたのかしら。」

 私の言葉なんて聞こえていない筈なのに、白猫はこちらをちらりと眺めてまた眠ってしまった。

「君は学校でも誰にも話さなかったんだろう?約束を守ってくれてありがとう。」

「どうして判るの?」

 まだ何も話していないのに、まるで当然そうだろうと決め付けるように話し掛けられて驚いてしまう。きょとんとした顔で彼を見つめると、また笑って判るよと短く告げる。

 彼の話をする相手がいないことを、知っているのだろうか。未来から来たのだからそう言われても納得してしまいそうだ。でもそれってプライバシーの侵害よね。


「あなたは恋人を見に来るためにわざわざタイムマシンを使うなんて、よっぽどその人が好きなのね。」

 何だか面白くなくてそんな嫌味を言ってしまった。だけど彼はそれすらも気にしていない様子で、「そうだね。」とまた笑う。

 私だったらタイムマシンを使ってまで恋人を見に来たりしない。

「君ならどうする?」

 突然の言葉に驚いて彼を見ると、首を傾げて私を見つめている目と合う。まるで私の心まで読んでいたみたいで、座っている腰が少し浮いた。

「声に出てたよ。もしかして、無意識?」

 何も言えないでいるとなんてことはない風に笑って告げられた。あら、そうなの。浮いた腰がまた元の位置に戻る。私だったら・・・。


「あ、そういえば名前聞いてなかったわ。」

「そうだったね。」

 いつまでも「ねぇ」とか「あなた」なんて不便で仕方ないわ。なんて言う名前なの?と尋ねると、少しだけ空を見上げて彼は口を開いた。

「実を言うと、僕の本当の名前は教えられないんだ。もし君と関わりのある人間だったら、未来が変わってしまうかもしれないからね。君はこの時代の僕を探したり詮索することもしないって判っているけど、ごめんね、念には念を入れないといけない。これはタイムマシンを使う上でのルールなんだ。」

 だから名前は言えない、と最後にもう一度言う。その眼には何を言っても譲らない固い意志が感じられて、私は黙って頷くしかできない。そういうものなのかもしれないけど、なんだかずるい。下唇を突き出して小さな抗議をすると、彼はクスリと笑った。

「でも、名前がないと呼びにくいわ。」

「君が決めていいよ。何て呼ぶか君が決めて。」

「・・・そうね、判ったわ。あなたはタイムマシンを作ったのだから、研究熱心な人ね。・・・博士。そうあなたはハカセよ。」

「・・・ハカセ。うん、わかった。」

 ハカセはその名前を噛みしめるかのようにゆっくりと頷いた。もしかしたら未来でも研究所でそう呼ばれているのかも。そう思いつくと、なんだか安直な名前だったかもしれないなんて思う。


「私のクラスにもハカセがいるの。頭が良くて名前が博士だから博士。」

「そうか。じゃあ君のクラスメイトの彼とお揃いだね。」

 そう言って目を細めるハカセの瞳から、たくさんのものがぐるぐると渦巻いていた。嬉しそうでも悲しそうにも見えるその目は、私を眩しそうに眺めている。


「君の名前は何て言うの?」

「私だけ名乗るのは不服だけど、まぁいいわ。私の名前は宮沢結子。お父さんがつけてくれたの。人と人を結ぶ、たくさんの人と良い縁が結ばれるようにって意味らしいわ。」

「良い名前だね。」

 ハカセのその反応に満足気に頷くと、白猫がニャアと鳴いた。きっとあなたもそう思ったのね。私は白猫の頭を優しく撫でると、満足そうに目を細めた。

 空が赤く染まった頃、ハカセと神社で別れて家に帰る。また明日会う約束をした。




*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 




 7月○日

 今日はタイムマシンを使うときのルールを教えてもらった。

 ルール一.過去を変えてはいけない。ルール二.未来人や未来の話を他言してはいけない。ルール三.自分や知人の未来を聞いてはいけない。

 全てを聞き終えて三本立ったハカセの指をまじまじと見つめる。

「案外シンプルなのね。」

 指から目を離さないまま言うと、彼は苦笑して「そうだね。」と笑った。

「本当はもっと細かくあるんだけど、そういうのはシンプルでいいんだ。」

 そういうものなのかしら。ふーん、と頷いて白猫を撫でる。今日も白猫は神社で私を待ち受けていて、石段に座るとすぐに私の足元にすり寄ってきたのだ。君を呼ぶ名前も考えなきゃね。猫の頭を撫でながらそう言うと、ニャアと鳴いてお腹を向けた。

「白猫だから、シロがいいよ。」

「シロ、ね。シンプルだけど判りやすくて良い。」

 ハカセの命名で即座に決定した名前に、白猫のシロはニャアと鳴いた。気に入ったみたいね。嬉しそうに私の手にすり寄るシロに顔が綻ぶ。


「さっきのタイムマシンのルールについてなんだけど、ハカセのいた未来について聞くことはルール違反になるのかしら?」

 尋ねると、ハカセはゆっくりと空を見上げて首を振った。答えられる範囲なら大丈夫だよ、と私を見て言う。

「それじゃあ、質問。車は空を飛んだ?」

 

「あはは!」

 一瞬の間を空けて、ハカセが突然笑い出した。大真面目に聞いていたのでその反応に私は驚いて固まってしまう。少しの間肩を震わせてひとしきり笑うと、目の端に涙を溜めたハカセは私に向かって首を振った。

「ごめんごめん、予想外の質問が面白くて。」

「失礼しちゃうわ。それで、車はもう空を飛べるのかしら?」

 改めて尋ねると、ハカセは今度は口元だけ笑って首を振る。まだ飛んでないよ、と小さく答えるその言葉に私はがっかりした。タイムマシンが出来ているのに、車はまだ飛べないのか。未来の技術がどこまで進歩しているのか、あまり判らないな。


「じゃあ、次の質問ね。」

「うん、どうぞ。」

 先程の車の件が相当ツボに入ったのか、私の質問に対して彼の口元はニヤニヤと歪む。

「ハカセは恋人に会えたの?」

 シロの喉元を撫でながら何となしに尋ねてみる。タイムマシンの目的はもう達成されたのだろうか。シロと戯れていてもハカセは一向に答えを口にしない。さっきまであんなに笑っていたのにどうしたのかなと隣を見ると、彼はただ静かな目で私を見つめていた。

「僕は、僕自身の知り合いに会ってはいけない。正体を明かさなくても会うことで過去を変えてしまうことになるから会えないんだ。」

 冷静にそう口にするハカセを見て、私は「そうなんだ。」と答えることで精一杯だった。

「せっかく来たのに、あんまり意味ないね。」

「意味はあるよ。会えないけど、遠くから眺めることはできる。こうして彼女の街の空気に触れることができる。」

 そう言って一度大きく深呼吸したハカセは、息をゆっくり吐いて私を見る。大切な彼女の育った空気に触れられた、それだけで僕は満足だよ。

 その言葉と共に、彼は嬉しそうに目を細めて笑った。きっと心からそう思っているのだろう。


 神社の鳥居を通り抜けて更に向こう側。ずっと遠くを見つめるハカセは、何を考えているのか私には見当もつかない。

 偽りのない言葉はあまりにも無欲で人間離れしているように感じる。嘘ではないけど本心でもない、そんな少しの違和感を覚えたのだ。


「じゃあハカセはこの神社以外、どこにも行かないの?」

「あはは、そんなことはないよ。夜にはビジネスホテルに泊まるし、お店でご飯も食べる。ただこの辺りのことは詳しくないから、結子ちゃんのお勧めがあれば是非教えてほしいな。」

 私を見てにこりと笑うハカセに、任せて!と胸を張って答える。お勧めの場所はいっぱいあるの、と勢いよく立ち上がるとシロが驚いて飛び退いた。慌ててシロに謝ると、ニャアと一言文句を鳴いてまた私の元に歩いてくる。その様子を見てハカセもゆっくりと腰を上げると、私の横に並んだ。


 さっそくハカセを内輪の木がある公園へ案内する。彼は内輪の刺さるてっぺんを見上げてクスクスと笑った。

「本当だ、まるで飾りつけされているみたいだ。不思議だね。」

「そうなのよ。どうやってあそこに辿り着いたか判らないけど、その謎が素敵でしょう?」

 私の言葉にうんうんと頷いて、内輪の木を眺めるハカセ。その反応に私は大満足だ。

 私たちのその様子を見て、シロは尻尾を一振りすると欠伸をして毛づくろいを始めてしまった。猫にはどうやら退屈だったみたい。

「今日はもう遅いから、また明日。次のお勧めも期待しているね。」

 ハカセの言葉に私は「任せて。」と頷いてみせた。




*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *




 7月○日

 今日はテスト勉強をした。

 もうすぐ始まるテスト期間に頭を悩ませていたら、ハカセが勉強を教えてくれると申し出てくれたのだ。その言葉に喜んだ私は、さっそく行きつけの喫茶店に案内すると窓際の特等席に座った。

 私はアイスティーをハカセはアイスコーヒーを頼んで、窓の外に見える景色を眺める。商店街の一角にあるこの喫茶店は、店主のおじさんが一人で切り盛りしているお店だ。お客さんもこの近辺に住む人ばかりなので、ほとんどが店主と顔なじみだった。実は私も近所に住む常連のひとりなのだけど、普段はお母さんとしか来ないので今日はとても新鮮だった。

 窓の外には向かいのクリーニング店が目に入る。商店街の中に車は入ってこられないので、クリーニングの配達はいつも自転車で回っていると店長から教えてもらった。まばらに歩く主婦や学生たちを眺めていると、目の前に座るハカセが小さく咳払いをした。

 ハッとして正面に向き直ると机の上には先程注文した品が置かれており、私はすぐにストローの袋を破った。

「じゃあ、時間もないし始めようか。」

 シロップを入れてストローでアイスティーをかき混ぜていると、ハカセは頬杖をついてにこりと笑う。その笑顔はいつも通りなのだけど、今の私には悪魔の微笑みだ。自分から勉強を頼んでいるので何も言えず、私は大人しく鞄から教科書を出してハカセに渡す。


「国語は得意なんだけど理科と数学が全く分からないの。まるで異国語よ?授業聞いてても教科書見てもお手上げね。」

 言うと同時に軽く両手を上げて座席の背もたれに倒れ込む私を見て、ハカセはクスクス笑う。本当に彼はよく笑うな、とソファから体を起こしてアイスティーを一口飲んだ。

「そうだね、ゆっくりやっていこうか。」

 笑ってアイスコーヒーを一口飲むと、ハカセは教科書をペラペラと捲っていく。時折頷いたりしているところを見て、私は首を捻るばかりだった。教科書を見て何を頷くところがあるのかしら。けれどタイムマシンを作ってしまう人なのだから、高校生の勉強なんて一目で判ってしまうものなのね。


「そういえば、シロは良かったの?」

 教科書から目を離してハカセは窓の外をちらりと見る。私もそれに倣って窓のすぐ外、喫茶店の自転車置き場に目を向ける。白くて楕円の形をしたシロの姿が目に入った。どうやら人間観察をしているらしい。私たちの方からはピクリともしない背中しか見えなかったけど、道行く人を眺めているのだと判る。

「仕方ないわ。シロは猫だからお店には入れないもの。」

 私の言葉が聞こえたのか、シロの尻尾がひょいっと揺れて地面に着地した。地獄耳なのかしら。その様子を見てハカセはまた笑う。

「シロは賢い猫だね。」

「・・・そうね。まるで言葉が判るみたい。」

 シロの後ろ姿を眺めるけれど、さっきのように尻尾は動かなかった。


 私は空を見上げる。雲一つない晴天だ。清々しい空を眺めていると、店の入り口の鈴が小さく鳴った。視線を向けると、全身黒ずくめの男が店に入ってきたところだ。この暑い日に上から下まで全て黒で統一されたシルエット。私はあの人がどこに座るか知っている。

 男は店に入ると迷うことなくカウンター席の左から二番目に腰掛けて、店主を呼ぶと注文をする。きっとミックスジュースにミックスサンドだ。

 注文を聞き終えた店主がカウンターの奥で作業を始めると、男は黙ってすぐ近くにある本棚から一冊の漫画を取り出した。


「どうしたの?」

 いつまでも男を見る私に、ハカセは小声で尋ねてきた。私は男に聞こえないようにハカセに答える。

「あの男の人、いつも同じ席で同じものを注文して、同じ漫画を読むの。」

 私の言葉と同時に店主がカウンターにいる男に商品を渡す。ミックスジュースとミックスサンド。思った通りだ。

「きっと常連さんなんだよ。」

 ハカセはあまり不思議でもないみたい。男から視線を外すとまた教科書に目を向けてしまった。予想外な反応に私は「まだあるの。」と呼びかける。

「あんな黒ずくめの恰好してて、読む本が少女漫画なのよ。変じゃない?いつも同じ漫画なんて飽きると思うのに。」

「あの人は座る席も同じなの?」

 ハカセの質問に私は頷く。あの男の人は全てが同じなの。それってちょっと不思議じゃない?もう一度ハカセに言うと、彼は少しだけ考えてすぐに首を振った。昨日は内輪の木に喜んでくれたのに、今日の反応はいまいちどころじゃない。私は机に乗り出した体をソファに戻して、静かにアイスティーを飲んだ。昨日と今日のハカセの反応に少しショックを受けたけれど、これ以上何か言っても仕方ないと判った。


 黙って下を向く私に気付いたのか、ハカセは教科書から顔を上げると私の目の前に指を一本立てて「こう考えるのはどうだろう。」と話し始めた。

「彼は最愛の人を亡くして喪にふせている。だからいつも黒服なんだよ、暑い夏の日でもね。そしていつも同じ注文と少女漫画は、最愛の人の好きだったもの。きっと二人はこの喫茶店の常連で、いつもあのカウンター席で時を過ごしていたんじゃないかな。」

 ほら、とハカセの指差す先には、一つだけ席を空けて座る男の後ろ姿。その空席の意味は言われなくても分かる。きっと最愛の人の場所。亡くなった後でもその席は彼にとって大切なものなんだ。


「ね?だから不思議じゃないんだよ。」

「・・・本当ね。」

 素直に頷いた私に、ハカセは静かに微笑んだ。もしもハカセの話が本当だとしたら、何も不思議なことはない。きっとハカセの言う通りなんだろう、疑うこともなくそう思えた。


「さて、それじゃあ始めようか。」

 黒ずくめの男性の話で心の余韻に浸っていた私に、ハカセは笑って教科書を開いて見せた。私の目の前に広がる数字と記号は、まるで何かの暗号のようだ。

 表紙を見なくても数学の教科書だと判り、一瞬で現実に引き戻されてしまう。

「あはは、本当に嫌そうな顔をするね。」

「当然でしょ。数字は敵よ。」

 眉間に皺を寄せて筆箱からシャープペンを取り出すと、ハカセは唐突に教科書にある数学の公式をひとつ指差した。

「数字は答えが明確だ。白か黒かはっきりすることは時に残酷かもしれないけど、数学の問題が解けた時は最高の気分を味わえるよ。」

 私に向けてにこりと笑うハカセの顔は、嫌々と駄々をこねる小さな子を諭すような雰囲気だった。そう思えるのはハカセが出来る人だからよ、と喉まできた言葉を飲み込んで小さく頷く。これ以上子ども扱いをされるのは面白くない。


 今日は夕日が沈むぎりぎりまで数学と格闘してしまい、喫茶店を出た時にはハカセの顔が数字に変わっていた。別れ際に何度も目をこする私を不思議そうに見ていたハカセに、何でもないと手を振った。

 テストまでは勉強をみるって。ハカセは勉強を教えるのが上手だけど、とてもスパルタだと思った。




*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *




 7月○日

「そういえば、結子ちゃんのクラスにいる博士はどんな子なの?」

 理科の教科書と睨めっこをしていると、ハカセが唐突に尋ねてきた。今日も商店街にある喫茶店で勉強会だ。窓際のソファ席で陽の当たる気持ちのいい場所で、私は眉間にたくさんの皺を寄せていた。元素記号を見つめていたのに、表の中にクラスメイトの前野君がぽかんと浮かぶ。バリウムの記号が、頬をかく前野君にそっくりだ。

「どんな子って言われても、私はあまり話したことが無いから分からないわ。とても頭が良くて、クラスの皆に勉強を教えてるから優しい人だと思う。」

 空中を見つめながら前野君のことを思い浮かべてみる。前野博士君。見た目にあまり特徴が無くて中肉中背、髪は黒くて眼鏡をかけている。街中で見掛けても気付かないくらい特徴がない人。

 クラスメイトどころか同級生とも話をしたことがない私に、前野君のことを聞かれてもあまり答えられない。話したこともない人をどう説明したらいいのか、テストよりも難しいな。

「そうなんだ・・・。結子ちゃんは博士に勉強を教えてもらわないの?」

 目の前のハカセの言葉を受けて、私は教科書の元素記号を見つめ直す。前野君記号はだんだんと元のバリウムに戻ってしまった。完全なバリウムになってしまってから、私は教科書から顔を上げる。

「私は皆みたいに勉強に積極的じゃないから。それに彼は善意で教えているのよ。それってとても大変な労力だと思うの。だからこそこれ以上彼に負担を掛けるのは申し訳ないじゃない。」

 そう答えると、ハカセは少し残念そうに「優しいね。」と笑った。何でその言葉が出てきたのか分からないけれど、それを尋ねる前にハカセから練習問題を出されてしまった。

「結子ちゃんの勉強は僕がきちんとみるからね。」

 そう言って満面の笑顔を浮かべた彼に、私は眉間の皺を深くした。ハカセのスパルタ教育は今日も健在だ。


「ねぇ、未来の話を聞かせてよ。」

 勉強の休憩時間に、氷の解けたアイスティーを一口飲みながらハカセにせがむ。私の言葉に窓の外へ視線を移した彼は、そうだねと呟くとにこりと笑った。

「未来といっても今から近い将来の話だから、何か結子ちゃんの気に入るものがあるといいけど。」

 楽しそうに腕を組むハカセを見て、私は首を傾げる。悩む姿はどこから見ても嬉しそうだ。考えても妥当な答えが出てこないので、私は「質問!」とハカセに声を掛ける。

「なんだい?」

「タイムマシンで時間を超えられるなら、宇宙にある星に人は住んでいる?」

「ああ、宇宙か。そうだね、今は火星に移住する計画が進んでいるよ。各国がたくさんの機材を持ち込んで、人が住める環境を整えようと必死になってる。まるで競争だね。」

 ハカセの話振りはにこにこと他人事のように話している。学校の先生が体育祭で競い合う生徒たちを見守るような、暖かくて一線引いた眼差しだ。

「じゃあ、いよいよ実現しそうなのね。楽しみだわ。」

 宇宙に移動する船の中から、青い地球を見られるのだろうか。テレビでしか見たことが無い地球の外側、それを見られたら最高の気分を味わえるだろうな。

 地球の外側を想像するだけで頬が自然と緩む。そんな私を見てハカセは優しそうな目をしていた。


「テストが終わったらどこか行ってみない?」

 ハカセからの申し出に私は即座に頷いた。二人で(シロも入れると3人かな)出掛ける時は神社の周りや近所の商店街ばかりで、彼にこの街の全てを案内できていない。近場だけじゃなくて水族館とか遊園地なんて行くのも楽しい筈だ。

「ハカセは何処に行きたい?」

「うーん、あまり思いつかないな。結子ちゃんのお勧めの場所をお願いするよ。」

 また笑って話すハカセに、私は顎に手を当てて考える。近場でならまだまだ面白い場所もあるけれど、私なりのお勧めの場所はあくまで近所に限られている。

「わかった。テストが終わったら考えてみるね。」

「楽しみにしてるよ。」

 話し終える頃に空はすっかり赤く染まっていて、私たちは慌てて勉強の続きを始めたのだった。


 家に帰ったらまず最初にやること。それは家の中を明るくする。玄関で靴を脱ぐと、鞄を放り出してダイニングや廊下の電気を点けてまわり、最後に自分の部屋に戻る。投げ捨てていた鞄を自室の机に置くと、私は一息ついてから着替えるのだ。

 お母さんは夜遅くまで仕事でいない。だから私が家のことを任されている。物心ついた頃から二人だけの生活なので、今さら家事のことで何か思うこともない。それに最近はハカセやシロが私の生活に参加してくれていることで、今までよりもずっと充実していた。


 夕食の支度をしてお母さんの分だけラップに包んで仕舞っておく。いただきます、と一人呟いて箸を取った。

 ダイニングテーブルから視線を右にずらすと、小さな書斎がある。そこは昔お父さんが使っていた部屋だと教えてもらった。お父さんは私が生まれてすぐに病気で亡くなってしまったけれど、お母さんの昔話と残された本たちが父についてたくさん教えてくれた。夕食を食べ終わり書斎の隣にある和室に向かうと、お父さんの仏壇の前で手を合わせて語り掛ける。

 今日もハカセに勉強を教えてもらったよ。未来では火星に移住する計画が進んでいるんだって。そんな風に一日の出来事を話すと、まるでお父さんが聞いてくれているかのように安心する。お母さんにはハカセのこと内緒だけれど、もうこの世の人ではないお父さんには話してもいいよね?


 お父さんに話すことも終わり、ふと隣の書斎に目が行った。ハカセは時間を超えるために自作でタイムマシンを作ったと言っていた。もしそれが本当ならば、きっと近い将来みんなも時間旅行ができるようになるのかな。

 単純な好奇心が私の中に芽生えた時、書斎の扉を開いて足を踏み入れていた。

 お父さんの書斎には不思議な本がたくさんある。私が不思議や非日常的なことが好きなのは、このお父さんの書斎で選ばれた本を読み続けていたからだろう。

 本棚を指でなぞりながら、目的のものを探す。世界中の不思議な事件やそれに付随する資料本などが、これでもかというくらい詰め込まれていた。難しいものから分かりやすい本まで満遍なく揃えられたこの本棚は、今では私の図書館になっているくらい。時々お母さんに「お父さんみたいな事を言うのね。」なんて笑われるくらいだ。

 一冊ずつタイトルを目で追っていくと、目的の本を見つけた。時間を超えるメカニズムやそれが実現可能なのかどうかを検証しているこの本は、これまでなら手に取らなかっただろう。紺の布カバーに金色のタイトルが施されたこの本は、手に持ってみるとかなり重い。両手で慎重に書斎から持ち出すと、自室に戻って学校の鞄の中へ仕舞い込んだ。

 タイムマシンは近い将来出来上がる。それが現実にどのくらい可能なのかどうか、私は自分の頭で考えてみたくなったのだ。わくわくする気持ちを抑えられず、私は早く明日が来たらいいと初めて思った。




*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *




 7月○日

 お昼休みに自席でお弁当を膝の上に置くと、昨日家から持ってきた本を読む。最初は重たいからと膝の上に乗せて読んでいたけれど、あまりの重さに疲れてしまい机の真ん中に広げることにしたのだ。お父さんの書斎にあった時空を超えるメカニズムを綴った本は、広げてみたはいいものの内容が全く頭の中に入ってこない。全然ダメ。

 昨日はハカセと勉強していた元素記号は暗記できたのに、本の内容は覚えるどころか理解が出来ないでいた。日本語なのに、読んでいても目が滑っているのが判る。


「面白そうな本だね。」

 机の上に広げた本を見て、クラスメイトの前野博士君が声を掛けてきた。私の前の席で、同じように自席でひとり昼食をとっていた彼は、眉間に皺を寄せて本と睨めっこしている私を見て笑いながら椅子ごと近付いてくる。

 涼し気な顔で本の内容を眺める彼を見て、私は黙ってそれを見守る。少しして「時間を超えるなんて面白いね。」と私に向けて言葉を掛ける前野君に、さすがねと感心してしまった。

「この本を見て面白いと言えるなんて、さすが前野君ね。」

「宮沢さんは面白くないの?」

 不思議そうな顔をして私を見る彼の目に、少しだけ居心地悪くなって視線を逸らす。まさか自分で選んできた本の内容が判らないなんて思わなかったのよ。でも、確かに自分で持ってきた本を面白くないという方がおかしいわね。


「最近タイムマシンについて興味があって調べていたの。この本は興味本位で借りてきたものなのだけど、内容がさっぱり分からなくて。」

 小さく両手を上げて降参のポーズをとると、前野君は少しだけ笑って頷いた。

「タイムマシン、か。確かに面白いよね。僕もそういう話好きだよ。」

 私の言葉をおかしいと笑わずに答える彼に、両手を上げたまま固まってしまった。こういう話をすると決まって皆、私のことを変人だと笑うのに。ハカセやお母さんみたいに茶化さないで話を聞いてくれる人間が、学校にいたのかと驚いてしまった。

「私でも理解できる本はあるかしら?」

「そうだね、ちょっと探してみるよ。その本、少し見せてもらっていい?」

 お父さんの分厚い本を指差されて、私はどうぞと頷いてみせる。前野君は一ページずつ捲ると、頬をかきながら目を通していく。その姿が昨日教科書で見た元素記号のバリウムそっくりで、思わず笑ってしまった。


「ん?」

「ううん、なんでもない。その本判るの?」

 本から顔を上げた前野君は眉毛を八の字にして曖昧に笑うと、「何となくね。」と答えた。

「でも専門用語が多いから上手く説明は出来ないけど。」

 そう言うとまた本のページを丁寧に捲る前野君に、私は心の中で流石だと唸ってしまった。さすが学年トップ。さすが元祖博士。


「また週明けに、宮沢さんにお勧めできる本を探しておくよ。」

 本を閉じると私に差し出しながら前野君が提案してくれる。その言葉に私は驚いてまじまじと彼を見つめてしまった。

「本当に?すごく嬉しい!ありがとう。」

 前野君は口元だけぎこちなく微笑むと、「大した事じゃないよ。」と答えた。



 いつものように喫茶店のテーブル席で社会の教科書と戦っていると、目の前に座るハカセが「何か良いことでもあったの?」と首を傾げて尋ねてきた。

 どうしてそんなことを聞くのか判らず、私は教科書から顔を上げるとハカセを見て一緒に首を傾げる。

「何だか今日は、いつもより熱心に勉強してるからさ。」

「それって、まるでいつもは不真面目みたいな言い方ね。」

 ふざけて口を膨らませて抗議してみると、ハカセは面白そうに笑って謝る。その顔はまるで反省している様子はなかったけれど、先程言われたことに何となく心当たりはあった。

「今日は同じクラスの前野君と、タイムマシンについて話していたの。クラスメイトとそんな話をしたことが無かったから、たぶんそれのせいね。」

 思い返してみても学校に通っているうちで誰かと趣味のことで満足に話が出来た記憶はない。前野君とのお昼休みを思い返してみても、やはりあれは楽しい時間だったと思う。そう思ってすぐにハッとして、「ハカセのことは話してないよ!」と慌てて付け加えた。

「ハカセのことを抜きにして、タイムマシンがどうやって出来るのか話をしただけなの。」

 そう弁解すると、ハカセは柔らかく笑って頷く。大丈夫だよ、結子ちゃんはちゃんと約束を守ってくれるって知っているから。

 そこまでハッキリと言われてしまうと、何だか複雑な気持ちになってしまう。確かに約束を守る自信はあるけれど、そんなに手放しで他人を信用してしまうハカセが心配だった。いつか誰かに騙されて悲しい思いをしないだろうか。


「それで、その前野君は何か教えてくれた?」

 アイスコーヒーを飲んだハカセが私に問いかける。私は教科書を閉じて首を振ると、お昼休みに聞いた前野君の言葉を思い出してみた。

「まだまだ今の技術だと難しいってことだけは判ったわ。」

 前野君はあらゆる方面から話をしてくれたのだけど、私には何が何だか判らないままにお昼休みは終わってしまったのだ。結局理解できたのはそれだけ。

 正直に話すと、ハカセは声を出して笑った。




*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *




 7月○日

 週が明けてすぐの月曜日に、前野君は約束通り時間に関する本を持ってきてくれた。

 朝教室に入ると私が席に着くなり、彼は一冊の本を机の上に差し出してきたのだ。

「たぶん、この間見ていた本より判りやすいと思うから。」

「ありがとう。」

 用件だけ済ませると、前野君は「じゃあ。」と言ってくるりと背中を向けると自席についてしまった。人と話すのがあまり得意ではないのかもしれない。私も同じだから何となく判るけれど、前野君は普段誰かに勉強を教えていたりするので気が付かなかった。自分でもマイナスなこの性格なのに、誰かと同じだと思うだけで面白く感じる。人とのコミュニケーションが不得手。変な共通点がおかしくて少しだけ笑ってしまった。


 HRまでの短い時間に、前野君から借りた本を読んでみる。もくじに目を通すと、お父さんの本よりもひらがなが多く使われていることに気が付く。気になる項目を開いて内容を読んでみると、専門的な言葉が判りやすいように噛み砕いて解説されていてすんなりと頭の中に入り込んできた。彼の言う通り、これなら私にも理解できそうだ。


 授業の合間に黙々と読み進めていると、色々なことが勉強出来た。時間と空間の奥深い考え方に面白さを覚える。未来は未知だ。科学の現代でも解明されていないことがまだまだある。その事実に心がわくわくした。


「前野君の本、とても判り易くて面白かった。」

 お昼休みに目の前の席で食事をしている彼に話し掛けると、私を振り返る前野君はおにぎりを口に含んだまま頷いた。口いっぱいにお米を頬張るその姿は、普段あまり見かけない間抜けさも含まれていて思わず笑ってしまう。私に笑われたことで、彼は慌てて口の中の物を咀嚼して飲み込むと、咳払いをして改めて「どういたしまして。」と呟いた。

 

 私の席に椅子ごと移動してきた前野君に、本の内容がどれだけ面白かったかを話す。彼は私の話を黙って聞いて、ぎこちなく笑う。

「前野君はタイムマシンが実現すると思う?」

「うーん、どうだろう。今はまだ難しいけど技術は進歩するだろうし、研究が続いていればいつか実際に完成するかもしれない。」

 前野君の言葉に、クラスの博士が言うならば間違いないだろうと思う。それに私は、実際に時を超えた未来人を知っている。

 それが自称であることは心もとないけれど、未来は可能性で溢れているのだ。不可能と決め付けるには早すぎる。


「宮沢さんはタイムマシンに興味があるんだね。いってみたいのは過去?それとも未来?」

 おにぎりを食べ終えた前野君は私を見て問いかける。私はサンドイッチを食べようとして、その言葉を理解すると手を下ろした。そういえば一度も考えたことがなかった。前野君のシンプルで誰でも思い描くことを、今の今まで思いつかなかったのだ。


 私は自称未来人のハカセと出会って、タイムマシンについて考え始めた。普通はタイムマシンがあったら、と考えて初めて過去か未来のどちらに行こうか思い描くことなのに。私にはその考えがなかった。今になって改めて考えてみる。もし目の前にタイムマシンがあったら、私はどちらに行こうとするだろうか。


「未来は・・・少し怖いかな。もし自分が死んでいたらショックだもの。それを知ってから戻ってきて今まで通り生きていけるかって言われたら判らない。きっと死にたくないって思うから、自分が死んだ原因を取り除こうとすると思う。でもそれって、未来を変えることになるのよね。」

 話しているうちに頭がこんがらがってしまい、目の前の前野君に助けを求める。眉間に皺を寄せて見つめる私に、前野君は笑って「難しい問題だよね。」と答えた。

「もし自分が未来にいっても過去に戻っても、それは何かを変える可能性があると僕は思う。もしかしたら、何かを変えるためにタイムマシンに乗る人もいるかもしれない。けれど過去を変えても、もしかしたら僕たちの今は変わらないかもしれない。」

「どういうこと?過去を変えても影響がないの?」

 私が首を傾げると、前野君は自分の鞄からノートを取り出して私の机の上に広げた。サンドイッチを食べながら、ノートに何かを書き込む彼の姿を眺める。


 顔を上げた前野君とそれを覗き込む私の距離が近くて、彼と一瞬見つめ合ってしまった。前野君は咳払いをすると、体を起こして私に向かって指を二本立てて話し始める。

「二つの可能性について考えてみるね。本当はもっとたくさんの可能性があると思うけど、まだ解明されていないことが多い分野だから。代表的な二つの仮設について話すよ。」


 そう前置きをすると、前野君は持っていたシャープペンでノートに1と書いてある数字を丸で囲った。私は黙って頷く。

「まずはパラレルワールドという考え方。僕たちのいる世界が同じ時間軸で幾つも存在しているという仮説だ。目には見えないし、たくさんの地球がある訳でもない。

僕たちの生きている時間はいつも平行なんだ。過去、現在、そして未来。この流れはいつも同じ方向に流れていて、絶対に行き来できるものじゃない。」

 タイムマシンは例外だね、と笑う前野くんはノートに一本線を引いた。とても綺麗に真っすぐ伸びたその線に、私は感心してしまう。


「パラレルワールドっていうのはその一本で結ばれた線が何本も存在している、もしくは一本線から色々な線がさらに枝分かれしているという考え方なんだよ。

例えば僕のお昼ご飯はおにぎりだ。これは学校に来る前にコンビニで買ったものだけど、もしもおにぎりじゃなくて焼きそばパンを選んでいたら、今とは違う未来になっていたかもしれない。そんな風に考えるんだ。そして実際に焼きそばパンを買った僕が、こことは枝分かれした先にいるかもしれない。」

 そう言ってノートの一本線に違う線を書き込む前野君。新たに書かれた線には焼きそばパンと文字が加えられていた。私はその話をただ黙って聞く。

「大した時間の分かれ目ではないかもしれないね。だけど、もしもこの焼きそばパンが賞味期限切れのまま売られていたとしたら、そして僕がそれを買って今食べていたとしたら。そしたらきっと、僕は今頃トイレから出られないまま宮沢さんとこうやって話をすることもないままお昼休みは終わっていたと思う。」

 前野君は焼きそばパンと書いた線をさらに伸ばして、今度はその線の先にトイレと書き込んだ。そして最初に書かれた一本線におにぎりと書くと、更に線を伸ばして宮沢さんと話すと書き加えた。

「こうやってみるとどうかな?少しの選択肢の違いで、僕と宮沢さんのお昼休みの未来が変わってしまうんだ。そういうちょっとした分かれ道って、日常生活にたくさん転がっていると思う。そして選択した先と捨てた先では違う未来が待ち受けているなんて、少し面白くない?無数に枝分かれした未来が広がっている、これがパラレルワールドなんだ。」


 シャープペンで書き加えられたたくさんの線を目で追いながら、ふむふむと頷く私は、顔を上げて前野君に聞く。

「パラレルワールドの考え方は何となく判ったけれど、それが過去を変えても影響がないっていうこととどう結びつくの?」

 私の問いかけに、前野君は眼鏡を指で押し上げると頷く。シャープペンを持ち直すと、「どうだね。」と呟いてまた口を開いた。

「枝分かれした時間が無数にある、それがパラレルワールドだっていうことはいい?それでね、僕が言っていた過去を変えても変わらないっていうのは、選択肢を消したところで変わらないって話なんだ。」

 そう言うと、前野君は先ほど書き込んでいたおにぎりに1を焼きそばパンに2の数字を付け加えた。

「例えば僕が焼きそばパンを買って腹痛を起こしたとする。トイレに籠りながらあの時焼きそばパンではなくおにぎりを買えば良かったって思うだろうね。そこでタイムマシンに乗り込んで、僕が朝コンビニへ行った過去へ戻るとする。

コンビニで焼きそばパンを手に取っている自分に言うんだ。おにぎりにしろ、焼きそばパンを食べると腹痛を起こすって。その忠告を聞きいれた過去の僕はおにぎりを購入し、焼きそばパンを買っていた未来の僕は安心して未来へ戻る。ここまではいい?

ここからが本題だ。さて過去を変えた僕はまたお昼休みに戻ってきて食事をしようとする。だけどそこには焼きそばパンがそのまま残っているんだ。それはどうしてか?枝分かれする場所でおにぎりを買うという選択肢を過去の自分に選ばせただけで、未来の僕の過去は変わっていないってことなんだよ。」

 一度に話す前野君の言葉に、私は頭の中がぐちゃぐちゃになっていくのを感じた。1の前野君はおにぎりを買って、2の前野君は焼きそばパンを買う。ただそれだけのことをここまでややこしく出来るなんて、タイムマシンが挟まるだけですごい壮大なお昼休みになってしまっている。


 私の眉間に深々と刻まれた皺を見て、前野君は苦笑して「ごめん、判りにくかったね。」と頭をかく。私は首を振って大丈夫と先を促すと、彼は一度考え込むとまた口を開いて続きを話し始めた。

「つまり、焼きそばパンの僕とおにぎりの僕は枝分かれした時間で過ごしているってこと。枝分かれしているから、その時間軸に干渉しても元の時間軸には何も影響がないんだ。だから僕はもう一人の自分を腹痛から守っただけで、元々の腹痛を起こした自分は何も変わっていないってことだね。

お互いがそれぞれの時間軸で流れているから、別の時間軸を変えても自分の時間軸は何も変わらない。これが過去を変えても影響がないっていう話なんだよ。」

 ノートいっぱいに引かれた線の間に書かれた、おにぎりと焼きそばパンの線を見つめる。この一本一本の線は独立していて、もしもの世界でお互いが生きている。それはややこしいけれど、とても魅力的な考えだった。


 私は前野君に「何となく判ったわ。」と笑い掛けると、彼は「よかった。」と息を吐いて脱力したように笑った。私に判るようにたくさんの線を引いてくれた彼に礼を言うと、すぐに問いかける。

「それで、もう一つの仮説ってなに?」

「そうだった、もう一つの話はもう少しシンプルだよ。」

 そう答えた前野君は、線でぐちゃぐちゃになったページの隣に棒人間をひとつ書いた。そしてその棒人間をシャープペンの先で叩くと、「これはとても非現実的だけど。」と前置きをして話し始めた。


「あくまで仮説だと思って聞いてね。もう一つは予定調和という考え方なんだ。まず人間の寿命は最初から決まっていて、死を免れることは出来ないって話。」

 前野君は眼鏡を指で押し上げると、棒人間をもう一度シャープペンで指示した。

「例えば彼が明日の朝、車に轢かれて死んでしまうとしよう。きっと彼と親しい誰かはそれを防ぎたいから、タイムマシンに乗って助けにくるだろうね。

だけど、彼はまた同じ時間に車に轢かれて死んでしまうんだ。もしも轢かれずに助かったとしても、次の瞬間に通り魔に刺されて死んでしまう。そういう風に予め決められていた寿命に合わせて、彼を様々な手で殺めようとするんだ。」

「・・・誰が彼を殺めにくるの?」

 棒人間の横に車や包丁の絵を書き込んでいた前野君は、私の問いかけに顔を上げると少しだけ躊躇して口を開いた。

「神様。」

 それはあまりに非現実的で、だけど何故かとても恐ろしい響きだった。



 英語の単語をノートに書き込みながら、目の前でアイスコーヒーを飲むハカセを盗み見る。いつものように学校帰りに喫茶店でテスト勉強をしていたけれど、今日はどうしても集中できないでいた。

 お昼休みに前野君と話していたことが頭の中で何度も巡る。パラレルワールドや神様の話は、仮説にすぎない。だけど話をしていて思ったことは、タイムマシンに乗る人は、何かを変えようという明確な目的があるのが普通なのではないかということ。過去を変えるため、未来を知るため、何かの目的があって時間を超えるという考えが一番しっくりくるのだ。


 もしもハカセが嘘をついていて、恋人を見に来たのではなく過去を変えるためにここにいるのだとして、それは彼を救うことになるのだろうか。

 恋人の昔の姿を見たいだけなんて、今にして思えばあまりに欲がなさすぎる。もしも私の考えが当たっていて、ハカセが何かを変えるために過去に来たのだとしたら・・・。

「どうしたの?」

 ハカセが私を心配そうに見つめている。盗み見ていたつもりが、考え込むうちに彼を凝視していたみたいだ。私は慌てて首を振ると、英語の教科書に視線を落とす。ハカセは首を傾げていたが、それ以上何も言ってこなかった。


 もしもハカセの目的が過去を変えることだったとしても、きっと私には教えてくれないだろう。そんな素直な人にも思えないし。教科書を見ている口が歪む。ちらりとハカセを見ると、彼は窓の外を静かに眺めていた。私に何か出来ることはないのかな。




*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *




 7月○日

 テストは初日からずっと調子が良かった。最終日である今日、最後のテストが終わると、私は達成感と手応えを感じて思い切り腕を伸ばした。自分でも意外なくらい答えが判るなんて、これまで一度もなかった。きっとハカセとの勉強の成果なのだろうと、今頃シロと戯れている彼に向かってありがとう、と呟いた。

 テスト終了のチャイムが鳴ると、答案用紙を教壇へ回して席を立つ。テスト週間はいつも午前で終わりだ。前の席に座っている前野君に歩み寄ると、私は鞄の中から一冊の本を取り出す。

「この間借りていた本、とても面白かったわ。ありがとう。」

 そう言って前野君から借りた本を差し出すと、彼は口元だけ歪めてぎこちなく笑った。テストから解放された教室内は喧騒で、前野君は何かを呟いたようだったけれど私の耳に届くことはなかった。きっと、どういたしまして、なんて言ったのだろう。ありがとうの返事はいつもそれだと、私は知っていた。


「テストが返却されたらもう夏休みね。その間にもっとたくさんの本を読んで、タイムマシン談義が出来るように頑張るわ。」

 ふざけて力こぶを作るように見せると、前野君は笑って自分の鞄からまた一冊の本を取り出した。

「それじゃあ、休みの間これを貸しておくね。」

 差し出された本は図鑑のように分厚くて、私は両手で受け取ると丁重に鞄の中へ仕舞い込んだ。休みの前までに読めるものではなさそうだ。前野君は見かけによらずスパルタだなと少し笑う。

「その本、結構ボリュームがあるから最後まで読むのにすごく時間がかかると思う。だけど僕がこの分野で初めて興味を持った本だから、きっと宮沢さんも気に入ると思うよ。」

 そう言って嬉しそうに話す前野君の顔を見て、彼が言うのだから面白いのだろうと頷く。今日の夜から早速読み進めようと決めた。



 今日は神社でシロと戯れる。最近はテスト勉強ばかりでずっと構っていなかったから、シロもゴロゴロと喉を鳴らして気持ち良さそうに寝ころんでいた。ハカセはそんな私たちの様子を見てニコニコと笑っている。

 もうすぐ訪れる長い休みに心が躍る。何をしようか、そればかりが頭を巡っていた。

「あ、そういえば夏休みになったら皆で出掛けるって話、ハカセ覚えてる?」

 テスト勉強中にした約束を思い出して、私は隣に座るハカセを見る。もちろん、といつものように笑うハカセに胸を撫で下ろして、またシロを見て考えてみた。どこに行くか何も候補がないまま今日まで来てしまったけれど、シロも含めてどこに行こうか。

「ハカセはどこか行きたい場所はある?」

 シロを撫でながら尋ねると、ハカセは少し考えるように顎に手を当てて空を見上げた。本当だったら私と遊ぶより、この時代にいる恋人と過ごしたい筈だ。それでも彼はそんな素振りを一切見せない。これが大人なのかな、といつも遅くまで仕事をしているお母さんを思い出す。

 お母さんも私の前では決して疲れた顔をしない。家ではいつもニコニコ笑っている。怒るととても怖いけど、私はそんなお母さんが大好きだ。


「結子ちゃんのお勧めの場所がいいな。」

 考え込んでいたハカセが、にこりと笑って私を見た。それって自分で考えることを放棄してない?そう言うと、ハカセは「あはは。」と笑って誤魔化した。

 まぁ、いいわ。気を取り直して考える。もしもハカセの恋人のことを知っていれば、その人に関係する場所に連れていくことも出来るのだろう。だけど彼に恋人のことを聞くことは禁止されているからそれも出来ない。やはり私の行きたいところへ案内するしかないのだ。


「うーん・・・水族館とかプラネタリウム、そういうのしか思いつかないわ。」

「いいね、結子ちゃんの行きたいところに行こうよ。」

 まるで賛成するかのようにシロがニャアと私を見て鳴く。2対1なら私の負けね。私は降参して、お腹を上にして寝転がるシロを思い切り撫でまわす。行きたいところと言われると、頭の中に何も思い浮かばない。普段から近所しか出掛けない私に、遠出の候補地を挙げさせるのは得策ではない気がする。

「夏休みに入るまでに考えておくわ。」

 そう言ってハカセを見ると、彼は笑って頷いた。その笑顔が誰かと被る気がしたけれど、それが誰なのか判らなかった。




*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *




 7月○日

 テストも全て返却されて今日は終業式だ。返ってきた答案用紙はほとんどが丸で埋め尽くされていて、今までで一番の成績だった。担任の先生にも「よく頑張った。」と褒められたし、お母さんもすごく喜んでくれた。

 これもハカセのお陰かな。私は上機嫌で終業式に出たのだった。

「宮沢さん、今回のテストでかなり順位上がったんじゃない?僕ももっと頑張らなくちゃいけないって思ったよ。」

「学年トップに言われても嫌味に聞こえるわ。だけどありがとう。」

 終業式が終わった教室で前野君と話す。教室の中で残っている生徒もまばらになっていた。他の皆は早々に夏休みに向けて帰路についているのだろう。前野君も鞄を肩に掛けると、笑って「また休み明けに。」と言って教室から出て行った。


 前野君の笑顔にぎこちなさが無くなっている。彼が出て行った教室のドアを見つめてそう思ったけれど、それに気が付いているクラスメイトは何人いるだろうかと考えて首を振る。きっとそんなことは大したことじゃない。それよりも休み中に彼から借りた本を読み終えて、また教室で話がしたい。ハカセとお母さん以外にそう思ったのは初めてだ。



 いつものように神社の石段に座り込んで、シロと遊ぶ。テストが明けてからずっと構っていたからなのか、最近私が撫でるとすぐにハカセの隣へ行ってしまうのが不満だった。ほら、今日も少し頭を撫でただけでハカセの後ろに逃げて行ってしまった。シロを恨めしそうに眺めていると、すぐ隣に座るハカセと目が合った。

「そういえば、ハカセはこの時代で何をしていたの?」

 ハカセの顔を見て唐突に思いつく。ハカセの年齢も名前も判らないからこそ、今のハカセはどこで何をしていたのか単純に気になったのだ。名前や住んでいる場所を聞かなければハカセという人間を特定することにはならないだろう、と軽い気持ちで考えた質問だった。


 けれどハカセは私の予想に反して、空を仰ぎ見ると考え込むように目を閉じてしまった。そんなにいけない質問だったかな?と首を傾げてみる。少しの間が空いてもハカセはじっと考え込むように姿勢を崩さないので、私は前野君から以前借りた本を鞄から取り出した。

「答えられないならいいの。ちょっと興味があっただけだから。」

 そう付け加えて、本のページを捲っていく。昨日の夜はどこまで読んでいたかな、と記憶を呼び起こしながら文字を目で追っていく。すると黙り込んでいたハカセが「それは?」と尋ねてきた。


「これは、クラスメイトの前野君から借りた本。ほら、前に話していた私のクラスにいる博士よ。」

 そう笑って教えるとハカセは「ああ、例の。」と頷いて笑い返してくる。

「ボクもそういう本ばかり読んでいたよ。結子ちゃんくらいの時にはね。」

「さすが未来のタイムマシン研究者ね。高校生のうちからこんなに難しい本ばかり読んでいたなんて。」

 尊敬するわ、と感心しているとハカセは少し笑った。

「そんな大したことじゃないよ。本ばかり読んでいて友達らしい人は一人もいなかったし。今思うと、少しだけ勿体ない学生生活だったと後悔してるんだ。」

「ハカセでもそんなこと思うなんて意外ね。タイムマシンが作れるくらい極めてるんだから、後悔なんて無縁だと思ってたわ。」


 驚いてハカセを見ると、彼は珍しく眉間に皺を寄せて困ったように笑う。その顔は苦しそうに歪むと、すぐに下を向いて何か呟いた。

 後悔してなかったら、タイムマシンは作らないよ。そう告げたハカセの声はとても小さく、けれど静かな神社の中でははっきりと聞こえた。それって、やっぱり何かやり直したくてここにいるの?そう喉元まで出てきそうだった言葉を飲み込む。隣に座るハカセの姿を見て、それ以上何も言えなかった。

 ハカセは顔を上げると空を見上げる。その横顔はいつもの穏やかな表情に戻っていたけれど、その様子が余計に痛々しく思えた。



 家に帰るとすぐにダイニングのパソコンを起動させた。夏休み中に出掛ける場所を決められないまま今日を迎えてしまった。明日は何処へ行こうか、そう考えながら適当なキーワードを打ち込んで検索していく。たくさんの候補が出てくるけれど、どれもいまいち決め手にならない。

 どうしようかな。ハカセと会ってから家の近所しか行っていないし、折角時間があるのなら遠出したいとも思う。


「お母さんは、お父さんとどんな場所でデートしてたの?」

 早めに仕事から帰ったお母さんと、夕食をとっている時に尋ねてみる。唐突な質問にきょとんと目を丸くさせて、「どうしたの?」と聞き返されてしまった。いいから、と私が促すと、お母さんは顎に指を当てながら思い出すように話し始める。

「お父さんは変な人だったからね、有名な場所にはあまり出掛けなかったかな。ほら、遊園地とか動物園ってみんなが行くじゃない?そういうところが好きじゃなかったのよね、あの人。」

 口元に手を当ててクスクスと笑うお母さんは、普段とは違って少女のように笑う。お父さんの話をしている時は、いつものお母さんじゃないのだ。その顔が好きで、私はよくお父さんの話を聞く。


「だからお父さんのお勧めの、変なところばかり行ってたわよ。隣町にある雑貨屋さんは店長が面白い人でね、世界中を旅しては各地のマイナーなものを仕入れてお店で売ってたわ。一つ一つの品に店長さんの思い出話が添えられているの。それも分厚い取扱説明書みたいなもので、初めてくるお客さんは驚いていたわね。

でもとにかく色々なことが書かれていて、どこの国のどんな人から買ったものか、この品物がどういう思いで作られたか、手書きでずらりと書き連ねてあったわ。おかしなお店だったけど、店長のおじさんも面白くていつもたくさんの話を聞かせてくれたのよ。」

「へー、良いなぁ。お父さんとお母さんはそこで何を買ったの?」

 私はダイニングを見渡して部屋に置かれた小物をじっくりと眺める。住み慣れたこの家の中に、どこか遠い国の品物があるの。それはどれだろう、と壁にかかった絵やテレビラックの上に置かれた小物を見る。どれもそれっぽいし、違うようにも感じた。


 部屋の中をキョロキョロと見渡す私に、お母さんはクスクス笑って首を振った。

「それがね、いつもお父さん買わなかったのよ。店長さんと話してる方が面白いんだって笑ってたわ。」

 その言葉に「なにそれ。」と思わず吹き出してしまった。お父さんってやっぱり変。夜が更けても、私たちは長い間お父さんの話をしていた。




*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *




 7月○日

 今日は電車に乗って隣町まで行ってきた。ハカセがいつの間にか買っていた猫用のケージにシロを入れて、3人でお出掛けだ。シロは電車に乗り慣れているのか興味がないのか判らないけれど、隣町に着いて改札を出るまで一度も起きなかった。


「今日は何処へ行くの?」

 隣を歩くハカセに私はにこりと笑って、先日お母さんから聞いたお店の話を教える。お母さんに書いてもらった手書きの地図を頼りに、2人と1匹で知らない土地を歩く。ハカセはお店の話を聞くと面白そうだと喜んだ。

「そのお店も楽しみだけど、店長のおじさんもたくさん面白い話をしてくれるんだって。」

「へー、店長さんも面白いなんてますます楽しみだね。」

 ハカセの持つ猫用ケージの中から、シロのニャアという鳴き声が聞こえる。覗き込むと歩く度に揺れているケージの中で、器用に座って尻尾をぱたぱた動かしていた。

「シロも楽しみなの?」

「ニャア。」

 その返事は「早く行こう。」と言っているようで、私とハカセは顔を見合わせて静かに笑った。


 小さな商店街の一角にあるそのお店は、ボロボロの看板からかろうじて名前が判別できる状態で建っていた。随分と寂れていて、先程までのわくわくした気持ちが一瞬で萎んでいったのが判る。

 『おもしろ屋』とあからさまな名前がついた店の扉の前に立つ。入り口の扉はガラスの引き戸になっていて、片方にはカーテンが下がっていた。もう店仕舞いしてしまったのではないかと不安になる。お母さんとお父さんが結婚する前に来ていたお店なのだから、今から20年くらい経っているのだ。閉店していても不思議ではない。

 私とハカセがお店の前で佇んでいると、ケージの中からシロが飛び出してきた。ニャアと鳴くとカーテンのかかっていないガラス戸の前まで来て、迷うことなく前足で扉を引っかき始める。カリカリと扉を爪で引っかく音を耳にして、シロが私たちよりもこのお店を楽しみにしていたことを知った。


「シロ、ドアが傷ついちゃうよ。」

 そう言ってシロを抱き上げたのと、店のガラス戸が引いたのはほとんど同時だったと思う。私とシロ、そして店の中から顔を出した髭のおじいさん。お互いに顔を見合わせて固まってしまった。

「すみません、まだお店は開いてますか?」

 沈黙を破ったのは私のすぐ隣にいたハカセだった。その言葉に髭のおじいさんは改めて私たちを見ると、ニカッと笑って「いらっしゃい。」と店の中へ招き入れてくれた。


 店の中はどれもこれも埃を被っていて、もう何年も商品として物を売っていないことが判る。所狭しと並べられた商品棚とレジカウンターの間から、おじいさんがお盆をもって現れた。店内を見渡す私とハカセに冷たい麦茶を手渡すと、底の浅い器に入った水をシロの目の前に優しく置いた。

「いやー、この店にお客さんが来るのは何年振りかねぇ。」

 顔の半分以上が髭に覆われているおじいさんは、そう言うとがははと豪快に笑う。シロは「ニャア。」と鳴いてから目の前のお水をぴちゃぴちゃと舐め始めた。その姿を見て私も「いただきます。」と一言告げてから麦茶を飲む。暑さで火照った体に冷たい麦茶がすーっと染み渡っていく。

「もうお店はやっていないんですか?」

「まぁ、やっていない訳じゃないがね。なんせ一人でずっとやっていると体がしんどくてな。今は体調が良いときに開けるくらいだよ。」

 おじいさんは顎髭を手で梳かしながら店内を見渡すと、「それもいつまで続くかね。」と小さく呟いた。


「実は私のお父さんとお母さんが、よくこのお店に通っていたんです。ここの店長のおじさんはとても面白いって教えてもらいました。お父さんはこのお店が大好きで、だから私も来たかったんです。」

 私は先日お母さんから聞いた話を、カウンターに座るおじいさんに話して聞かせた。もしかしたら二人のことを覚えているかもしれない。私が生まれる前のお母さんとお父さんを誰かに教えてほしかったのだ。仲睦まじい二人の姿を見たかったのかもしれない。

「ああ、その二人か。よぉく覚えているよ。」

 おじいさんは真っ白な眉毛を押し上げて、ゆっくりと私を見るとくしゃりと笑って頷いた。

「そうか、国生君と千恵さん娘か。そうか、そうか。」


 その名前は間違いなくお父さんとお母さんのものだった。私は覚えていてくれたことが嬉しくて、何度も何度も頷いた。

 シロはいつの間にかおじいさんの座るカウンターに来て、ゆっくりと座ると私たちの様子を静かに眺めていた。おじいさんはシロを優しく撫でると、店の入り口に視線を移して眩しそうに目を細める。まるで二人が入ってくる姿を求めているようだ。


「国生君はよくここに遊びに来ていたよ。来ると絶対にこのカウンターに張り付いて、『おじさん、今度はどの話をしてくれるの?』って目をキラキラさせて私にせがむんだ。私の趣味で始めたこの店を、商品を、私の次に好きでいてくれたのはあの子だったね。

そのうちに国生君の隣には千恵さんがいるようになったよ。私と彼が話している時は、あの棚の所からにこにこと笑っていたっけなぁ。とても優しい子でね、この子なら国生君も安心するだろうって思ったよ。

そうして二人が結婚してからは隣町に引っ越しちゃって、少しだけ寂しくなったりしたよ。だけど国生君だけはたまに店に顔を出しにきてくれたね。」

 昔の二人が目の前にいるみたいにあちらこちらに視線を移して笑うおじいさんは、最後に私を見て「あの二人の娘さんか。」と嬉しそうに目を細めた。


「国生君と千恵さんは元気かい?」

 にこにこと笑うおじいさんに、私は一瞬言葉に詰まる。少しの間をおいて頷いてから、私は口を開いた。

「お父さんは私が一歳の時に亡くなりました。顔も声も覚えていないんです。けれどお父さんの残してくれた不思議で面白い本と、お母さんの話しを聞いて育ったので寂しくはありません。今はお母さんと二人ですが、元気に暮らしてます。

お父さんの話を教えてくれてありがとうございました。帰ったらお父さんに伝えますね、おじいさんの話。」

 空になったコップをカウンターに置くと、悲しそうなおじいさんと目が合う。お父さんがこの世にいないことを初めて知らされたのだと気付いて、私は申し訳ない気持ちと悲しい思いで胸が詰まった。先ほどまで優しくて嬉しそうに細められた目が、今は悲しみと寂しさでいっぱいになってしまっている。


「またお父さんの話を聞きに来てもいいですか?」

 お母さん以外の人から聞くお父さんの話は、知らない一面もあってわくわくする。お父さんの生きていた時を知っている人。私はたくさん教えてほしい。

「ああ、いつでもおいで。君たちも、来たい時に来るといい。」

 今まで口を開かないまま商品棚を見ていたハカセは、自分のことを言われていると気付いて会釈をする。シロは相変わらずカウンターに座ったまま、言われなくても通うつもりだと言わんばかりに大きく伸びをした。


「おじいさん、これはおいくらですか?」

 コップをお盆の上に片付け始めたおじいさんに、ハカセは一つの薄い箱を差し出した。それは長方形で薄いもの。ハカセからその箱を受け取ったおじいさんは、それをじっと見つめると何かを思い出しように私を見上げた。

「これは、君のものだ・・・。」

 そう言って私にその箱を差し出すと、おじいさんは口髭を触って俯いてしまった。私は何が何なのか判らないまま、おじいさんから受け取った箱を見つめる。

 元々は黒い箱だったのだろうが、年月が経って埃を被ったそれは白くなっていた。何処かのお店のロゴマークが箱の中心部に少しだけ見えるけれど、それ以外で何も書かれていないシンプルなもの。持ってみるととても軽い。

 恐る恐るその箱を開けてみる。側面を指で押し上げると意外なくらいあっさりと開いた。

「ネックレス・・・?」

 箱の中に入っていたのは、銀色の細いチェーンの先に青い石の付いたネックレスだった。見覚えのないそのものにおじいさんを見ると、彼は静かに目を閉じて話し始めた。


「それは君のお父さん、国生君がここに置いていったものだ。さっきも話したけれど、国生君は結婚してからもこの店に顔を出していたんだよ。

千恵さんのお腹に子供がいるって嬉しそうに教えてくれた時があってね、女の子だって喜んでいたよ。将来その子が大きくなった時、またこの店に一緒に来るからって。その時にプレゼントするから、この箱を預かってくれって言われたんだ。」

 目尻にたくさんの涙が溜まって、おじいさんが話すたびにボロボロと髭に滴っていく。あの時のことを思い出して涙が溢れてくるのだと、おじいさんを見ていて判った。涙と一緒にお父さんとの思い出が溢れて止まらないのだろう。シロがおじいさんの膝の上に座り、優しく鳴いた。

「君がここに来たのも、きっと国生君の想いが突き動かしたのだろうな。この箱を見るまで私はすっかりその約束を忘れていた・・・。彼に怒られてしまうなぁ。

不思議なもので、君たちと一緒に二人のことを話していると、今まで忘れていたことまでどんどん出てきて止まらないんだ。」


 耐え切れずにおじいさんは両手で顔を覆うと、静かに嗚咽を漏らしていた。私はネックレスを箱から取り出すと、丁寧にチェーンロックを外して首に着ける。いつの間にか私も泣いていた。

「ありがとうございます。お父さんのプレゼント、ありがとうございます。」

 ネックレスを首に掛けると、おじいさんに深々と頭を下げた。お父さんのプレゼントを今日まで置いてくれてありがとう。二人の話を教えてくれてありがとう。今日までお店を続けてくれてありがとう。

 言いたいことはたくさんあるのに、言葉が詰まって出てこなかった。伝わればいい。私の想いがおじいさんに届けばいい。私たち二人を慰めるように、シロが「ニャア。」とまた鳴いた。



 おじいさんの店を出ると、外はすっかり夕焼けに染まっていた。泣いて腫れた目をこすりながら、隣を歩くハカセにお礼を言う。

「どうしたの?」

「ううん、だってハカセがネックレス見つけてくれなかったら、おじいさんも忘れたままだったかもしれないでしょ?だから、ありがとう。」

 きょとんとするハカセは私のその言葉に、「ああ。」と頷いて首を振った。

「それはボクじゃなくてシロのお手柄だよ。」


 ハカセは手に持っていたケージに目をやると、私に言ってみせた。シロが?

「店に入ってすぐに、おじいさんと結子ちゃんが話し始めたでしょ?あの時棚の上をじっとシロが見つめてるから、何かあるのかなって持ち上げてみたんだ。そうしたら、そのネックレスの箱を前足で一生懸命取ろうとしてたからさ。」

 こんな風に、と空いている手を空中で上下に揺らすハカセを見て、私は驚いてしまった。シロがどうして判ったのだろう。

 私が不思議そうにケージを見つめていると、「猫には不思議な能力があるっていうしね。」とハカセが笑って答えた。

 シロの不思議な力で、私はお父さんからのプレゼントを受け取れた。そのことだけを思って、私はシロにありがとうと小さく呟いた。




*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *




 8月○日

 今日は図書館で前野君に会った。私は夏休みの課題に使う本を探しに、彼は受験勉強をしに来ていたところだった。館内の勉強スペースで前野君を見掛けて声を掛けると、丁度休憩をしようとしていたと言うので、一緒に1階にあるカフェに来たのだ。

 私はアイスティーを、前野君はアイスカフェオレを注文すると、さっそく先日行ったおもしろ屋の出来事を彼に話した。


「それってやっぱり、シロには何かがみえていたんじゃないかな。」

 カフェオレを飲んでいた前野君は、眼鏡を指で押し上げると話を続けた。

「動物には人にみえないものがみえるっていうじゃない?部屋の中で誰もいないところに向かって鳴いたりするってよく言うし。もしかしたらシロにも宮沢さんのお父さんがみえていたのかもしれないよ。」

 アイスティーを飲んでいた私は、彼の意外な言葉に驚いてしまった。理系男子であり学年トップの前野君が、非現実的な幽霊の話をさらりと口にしてしまうところが信じられなかったのだ。

「どうしたの?」

 何も言わずに前野君を凝視している私に、彼は訳が分からないと首を傾げる。その様子を見て、彼が冗談ではなく真面目に話をしているのだとようやく気が付いた。

「ううん、ちょっと驚いただけ。前野君でも幽霊とか信じてるっていうのが意外だったから。」

 素直に白状すると、「ああ。」と頷いて彼は笑う。


「僕だって全部を科学で証明できるとは思っていないよ。いまだに解明されていないことはたくさんあるし、そういう話の方が宮沢さんの得意分野でしょ?

それに、全部が全部分かってしまうよりも、幽霊とか神様の仕業だって言われるところがあっても良いと思ってる。その方が夢があるからね。」

 照れたように笑う前野君は、教室で見るよりずっと自然な表情をしている。その言葉に私は大きく頷いた。そうだよね、私もそう思う。


「前に過去か未来ならどっちに行くかって話、したじゃない?」

 セミの鳴き声が耳に残る。もうすぐお昼時なのか、カフェの中にぱらぱらと人が入り始めた。私たちの隣の席には女の子が三人、忙しく話しながら座っていた。同じ学校の友達同士なのかな。きゃあきゃあと時折声が弾んでいた。

 その子たちを横目で見て、私はアイスティーを一口飲むと話を続ける。

「タイムマシンがあったらどちらに行きたいかって質問、ずっと考えてたの。私は未来も過去も怖くて行けないって思ってた。だけどこの前、お父さんのネックレスの件があってから考え直したわ。お父さんに会えるならば過去に行きたい、って。」

 あの日から考えていた。もしもの話だからあまりにリアリティがないことだけど、もしも行けるなら私が生まれる前に遡ってお父さんに会いたい。


「前野君が言っていたパラレルワールドがもし本当だったとして、そしたら私はお父さんに会って色々な話がしたい。未来を、今を変えちゃうことになるかもしれないけど、それでも一目見たいって思った。」

 手に持っていたアイスティーは、熱のせいですっかり氷が溶けてしまった。グラスについた水滴を、おしぼりで丁寧に拭き取る。目の前にいる前野君をちらりと窺うと、彼は私を見てゆっくりと頷いた。

「良いんじゃないかな。お父さんと不思議談義で盛り上がると思うよ。」

 彼のその言葉は、私の心にじわりと沁み込んでいく。うん、と頷いてから、前野君に話して良かったと心から感じた。



 前野君と図書館で別れて、私はいつものように神社へ向かった。今日はハカセと一緒に自由課題のテーマを決めようと、図書館で借りた本を片手に道を急ぐ。

 休みも残り一カ月を切ってしまったけれど、これから始められるテーマって何だろう。道中考えてみたけれどこれというアイデアが出ないまま、私は神社の鳥居をくぐったのだった。


「自由課題かぁ。また時間のかかるものを残したね。」

 乾いた笑いを零すハカセに対して、私は何も反論できず項垂れてしまう。

「別にわざと残してたわけじゃないのよ。だけどどうにも良いテーマが思い付かないまま、いつの間にか8月に入ってただけ。」

 口を尖らせて足元にいるシロの背中を撫でると、ちらりと私を見て大きく欠伸をした。シロはいいわね。私も猫になりたい。

「おじいさんのお店にほとんど毎日通っていたから、ボクはもう夏の課題は全部終わってるとばかり思っていたよ。」

 ハカセは私に追い打ちをかけると、腕を組んで自由課題のテーマについて考え始めた。私も一緒になって首を傾げながら、一生懸命頭を捻ってみるけれどやっぱり何も出てこない。

 もういっそのことハカセのことを発表してやろうかと自棄になっていると、隣で考えていた本人が私を呼ぶ。


「結子ちゃんの課題なんだから、自分の得意なこととか好きなことをテーマに考えてみたらどうかな?」

 にこりと笑うハカセに、私の得意なことってなんだろうと考えてみる。小学生の頃から家事をしていて得意だけど、それをテーマにするって難しい気がする。我が家の献立なんてまとめてみても特に変わったこともないし、それはテーマとして成立するのかも怪しいものだ。

 家事を頭から切り離して、好きなことを考えてみる。世界中の不思議な出来事を調べることが好きだ。近所の変なものを探すことも好き。うん、テーマとしてはこちらの方がずっと考えやすい。

「決めた。近所の不思議なスポットを地図にしてまとめるわ。それならあまり時間もかからないし、とっても面白そう。」

「それはいいね。ボクも手伝うよ。」

 ハカセとシロと三人で課題に取り掛かるために、さっそく持っていたノートにやることを書き出していく。ハカセが写真係でシロが不思議スポットを探す係。二人で明日から何処へ行こうか相談していると、あっという間に夕日が落ちてしまった。




*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *




 8月○日

 難関だった自由課題もハカセの協力のおかげで順調に進んでいた。これが終われば夏の課題は全て終わるので、今日は骨休めにしようと決めて電車に乗って少しだけ遠出をすることにした。


 電車に乗って30分。海の香りが風に乗って私の元へ届く場所。ここにお父さんは眠っている。

 駅の改札を出てケージから解放されたシロは、私に抱えられてキョロキョロと辺りを不思議そうに見渡していた。知らない場所で戸惑っているのか、今日はいつもよりそわそわしていて落ち着かない様子だ。

「もうすぐ着くよ。遠いところで不安なのかな?ごめんね。」

「大丈夫だよ、シロは賢いからすぐに慣れるさ。」

 隣を歩くハカセの額にうっすら汗が滲んでいた。夏の日差しが照り付けるお昼時だから、当然と言えばそうだろう。いつも涼し気なハカセの生身の反応に、私は少しほっとしていた。

 生きているのだから暑いと汗もかく。当たり前なことなのに、彼が未来人だからだろうか、あまりに現実味が薄いと思っていたのだ。


 ゆるい傾斜の丘を登ると、一本の木が立っている。そこが今日の目的地だった。丘を登りきると、その木を通り越して端の柵まで歩いていき下を見る。眼下に海が広がるここは、お父さんとお母さんの思い出の場所だ。

「この木で休もうか。」

 近くの自動販売機で買ってきたお茶を飲み、私たちは木陰で涼むことにした。

「ここはね、お父さんがお母さんにプロポーズした場所なんだ。」

 木を見上げてお母さんから聞いた話を思い出す。『桜の季節にお父さんが連れてきてくれたの。海の近くで一本だけ満開の桜の木を、今でも思い出すわ。潮の香を感じながら桜に見惚れていたら、お父さんが唐突に『結婚しようか』って言うから・・・。』

そう言って当時のことを思い出すお母さんの顔は、少しだけ熱で赤くなっていた。


 見上げた木の葉は潮風に吹かれて、さわさわと涼しい音をたてる。その音に耳を傾けながら、私は目を瞑ってまたお母さんの言葉を思い返していた。

『突然どうしたの?って聞いたら、何て言ったと思う?想像つかないわよね。あの人ったら、桜が祝ってくれたからって言ったのよ?そう、本当にそう言ったの。

どういう意味か分からなかったけど、そういうところも含めて好きだったから。』

 困ったように笑って仏壇へ視線を向けるお母さんを見ていると、私もその桜を一目見たいと思ってしまったのだ。


「素敵なプロポーズだね。」

「ハカセには判るの?桜が祝ってくれるって話。」

 驚いて尋ねると、ハカセは笑って首を振った。

「ボクはこの木が桜を咲かせているところ見たことが無いから、どういう風に祝ってくれたのか判らないよ。だけどお父さんがそう言ったのなら、きっと祝ってくれたのだと思う。」

 そんなものなのかな、と私は釈然としない気持ちで木を見上げた。桜を何度か見たことがあるけれど、他の桜とどう違うのか判らなかったけどな。なんて思い返してみる。


 シロが気を見上げて尻尾を大きく振ると、私を見て「ニャア。」と鳴いた。「そういうものだ。」と言っているみたいで、何だか面白くない。

 大きく息を吸い込んで、私たちは来た道を下りて行った。今日の目的地はもう一つある。それはお父さんの眠るお墓。


 丘を下りて少し歩くと、町の中に一か所だけ墓地がある。丘が見えて海の香りが届くこの場所は、生前にお父さんが希望した土地だった。『君と夫婦になると決まった場所なら、きっと墓参りも楽しめるだろう。』なんて言ったのだと、お母さんは笑って教えてくれた。

 宮沢国生と書かれた墓石には、お盆の時に供えた花が綺麗に残っている。入り口で借りた桶に水を入れて、墓石とその周りに水をかけていく。

 家から持ってきた線香に火を点けると、私たちは静かに手を合わせた。私の足元でシロが姿勢良くお墓を見上げている。


 お父さん、ネックレスありがとう。大切に使うね。

 目を開けて首につけたネックレスを手で触る。シロは「ニャア。」と鳴いて私たちに背を向けると、てくてくと歩き出してしまった。

「どうしたんだろう?」

 首を傾げてシロの後ろ姿を見つめていると、「きっと何かみえてるんだよ。ボクたちにはみえないものが。」とハカセが悪戯っぽく笑った。そういえば前野君もそんなことを言っていたな。

 そういうものなのかと思い、空になった桶を手に持って私たちは墓地を後にした。




*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *




 8月○日

 自由課題も終わりに近づいた頃、私は課題に使うためお資料を探しに図書館に訪れた。勉強スペースで必要な項目を抜き出していると、いつの間にか隣の席に前野君がいて驚いた。朝来た時には誰も座っていなかったのに、と目を丸くしていると、彼は「やっと気が付いた。」なんて言って小さく笑った。


「いつから来ていたの?全然気が付かなかった。」

 館内にあるカフェで注文を済ませると、私は目の前に座る前野君に話し掛ける。彼は少しだけ笑ってから「1時間くらい前だよ。」とさらりと答えた。

「宮沢さんがすごく集中していたから邪魔しちゃ悪いと思って、声を掛けるタイミングを逃してしまったんだ。」

 困ったように眉を八の字にした前野君を見て、それで1時間も待っているなんて忍耐強い人なのだなと感心してしまった。ふと彼の鞄に大学別の参考書が数冊しまってあることに気が付く。

 私は夏の課題を片付けることで精一杯なのに、前野君はもう進路について考えている。同じクラスの生徒でも、やはり前野君はすごい。

「前野君はすごいね。」


 私の唐突な言葉に「どうしたの?」と聞き返した前野君。私は彼の鞄からのぞく参考書を指差してもう一度すごいと言った。

「しっかり進路のこと考えてるなんてすごいよ。将来に向けてもう準備してる。」

「別に将来なんて考えてないよ。どの参考書も見てみるだけで、自分が何をしたいかなんて一つも決まっていないんだ。それでも受験だけは決まっているから、志望校を選んでいるだけ。おかしいよね、受験があるから大学を決めるなんて。」

 苦々しく話す前野君だけれど、私にしたら学年トップを取ってしまう彼でもやりたいことが無いと悩むことに驚いていた。


「前野君ならなんにでもなれるよ。」

 慰めでもなく、励ましとも違う。ただ純粋にそう思った言葉だった。

「なんにでも、か。それは余計に迷うなぁ。」

 私の言葉に静かに笑う前野君。その顔はいつもの彼だ。穏やかで静かなその顔を見て安心したところで、そういえば課題を片付けなければと今日の用事を思い出す。注文したアイスティーを急いで飲んでいると、不意に目の前に座る前野君に聞いてみたいと思った。

「前野君はタイムマシンがあったら、未来と過去のどっちに行きたい?」

 その質問は以前、私が頭を悩ませたものだった。


「僕は、きっと過去に行くと思う。」

 少しの間をおいて彼はあっさりと口にする。それは静かでとてもはっきりとした物言いだった。

「たくさん後悔したことがあるから。あの時こうしていたらって考えることがいっぱいある。

でも、それって考えだしたらキリがないことなんだよね。それよりもこれからのことを考えていく方がよっぽど建設的だと僕は思うよ。」

「前向きなのね。」

 前野君の模範的で理想的なその答えに感心していると、彼は困ったように笑って首を振る。

「みんなそうだと思うんだ。タイムマシンがあったらなんて考えていても、生きている時間が長くなるにつれてどこからやり直そうか迷うと思う。

失敗したことや後悔したことも含めて今の自分があるんだって、僕は考えたんだ。そうやって悩みを抱えて格好悪い自分を、どこかで認めてみる。他の人もきっとそうやって今を生きていると思うよ。」


 前野君の口から出てくる言葉は、不器用だけど力強いものだった。確かに彼の言う通り、きっと誰にでも後悔はある。それをやり直したい、消したいと思う人間はどれだけいるのかな。

 そこまで考えて、私はタイムマシンを作りさらに使ってしまったハカセの後悔を思う。彼は私には想像もできないくらい大きな悲しみを抱えて、今の時代に来たのではないか。

 そう考えだしたら頭の中でぐるぐると巡って離れない。ハカセの目的は何だろう。



 神社までの道のりがいつもより遠く感じた。図書館で課題を終わらせて気分は最高な筈なのに、ハカセのことを思い出して心の中に不安が広がっていく。

 どうしてだろう。判らないけれど、これ以上踏み込んではいけない気がしてずっと言えなかった言葉。ハカセはどうして過去にきたの?


 神社の鳥居をくぐるとハカセとシロの姿が見えた。いつも通り、ハカセは石段に座って本を読んでいる。その足元で昼寝をしているシロを見て、私は胸の奥がきゅっと苦しくなった。

「結子ちゃん、お疲れ様。課題は無事に終わった?」

 ハカセは私に気が付くと、読んでいた本を閉じて笑う。

 心の中でぐるぐると渦巻く言葉が、我慢できずに口から飛び出してしまいそうだった。私の様子を見て「どうしたの?」と立ち上がり顔を覗き込むハカセに、私はただ俯いて目を瞑ったまま答えられずにいる。

 それでもこの胸のつっかえを取ってしまいたい。明日も笑ってハカセと会いたい。意を決して顔を上げた私を見て、ハカセは何かを感じ取ったように悲しそうに笑った。まるで私の心の中を読んでしまったかのように、優しく頭を撫でて諭すように話す。

「また明日。明日になったら教えるよ。今度はちゃんと全部話すから。明日は家まで一緒に帰ろう。」

 だから、明日もまた会おうね。とハカセはとても辛そうに笑った。明日も明後日もその後も。何度も何度もそう言って笑うハカセに、私はそれ以上何も言葉に出来なかった。

 私の疑問なんてどうでもいい。この人を悲しませることなら、二度と口にしないで忘れよう。肩に置かれた手を取って強く握りしめる。ごめんね、ハカセ。辛い思いをさせてごめん。


 私たちは今日、ずいぶんと長い間そうしていたと思う。また明日も明後日も会いにくるから、そう言うとハカセは何も言わずにただ頷くばかりだった。

 今日はお母さんと話をしよう。お父さんとの思い出の場所をたくさん教えてもらって、またハカセとシロと一緒にたくさん出掛けよう。




*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *




 日記はそこで終わっていた。

 最後のページを読み終えた僕は、宮沢さんと自称未来人のハカセについて考える。目の前に座っていた宮沢さんの母親は、僕が日記を閉じたことに気が付いてお茶のお代わりを取りに行ってしまった。

 日記の中ではいつも笑っている彼女の母親だけれど、僕はまだ一度もその笑顔を見ていない。

「ありがとうございました。僕なんかに大切な日記を読ませて頂いて。」

 日記を机の上に置くと、お茶を差し出してくれた彼女にお礼を言う。彼女、千恵さんは力なく首を振って「いいのよ。」と短く口にした。その声はあまりに弱弱しく消えてしまいそうなほど小さなものだった。

「あの子が亡くなって、この家に訪れたお友達は前野君だけなの。日記にもあなたの名前が出てきていたから、きっと結子も怒らないと思うわ。」

「そう、ですかね。」

 仏壇に置かれた二つの写真は、宮沢さんとその父親のものだ。


 8月の終わり頃、宮沢結子は死んだ。聞いた話では車道に飛び出して車に轢かれたという。

 2学期になって最初のHRで担任からその話を聞かされた僕は、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。

 宮沢さんは決して友人が多かったわけではない。むしろ話をする人が僕以外にいたとは思えないくらい一人で過ごしていた。クラスの中では馴染むことが無いまま、休み時間は決まって本ばかり読んでいた印象だ。けれど担任からの訃報を聞いたクラスメイトたちは驚き、数人の女子はすすり泣きまで始めた。

 そんな風に知らない生徒が宮沢さんの死を偲んでいるなか、僕だけが空っぽな後ろの席に寂しさを感じていた。


 二年になって席替えもないまま、ずっと出席番号で決められていた席に座っていた。僕の後ろは宮沢さん。ずっと誰とも馴染まず己の世界を確立している彼女に、僕はいつの間にか憧れを抱いていたのだ。勉強だけしか出来ない僕。放課後に遊ぶ友達もいなければ、悩みを相談できる相手もいない。テストの前になると話し掛けてくるクラスメイトに愛想笑いをして、黙って勉強を教えていた。みんなの名前も曖昧なまま、だけど不都合はなかった。

 仲間外れにされたくなくて、何を頼まれても断らなかった。人に教えることは嫌いじゃない。皆の判らないところを教えただけで感謝されるし、「博士」なんて愛称をつけてもらえた。


「宮沢さんって変わってるよね。」

 ある時、テスト勉強をしていたら誰かが口にした。教室の中でじっと本を読む彼女は、クラスの中であからさまに浮いていたから仕方がないとその時は考えていた。

 友達もいないで本ばかり読んでいる。何を考えているのか判らない。だから不気味。安易なその方程式に、聞いていた僕は落胆してしまう。

 確かにそう思うのは仕方がない。だけど誰かの顔色を窺うこともなく、自分の世界を持っている宮沢さんは格好いいのだ。そう言えない自分に一番がっかりした。


 宮沢さんが亡くなって一週間が経った頃、クラスで初めての席替えが行われた。彼女の席は窓際の一番後ろにぽつんと取り残され、誰の隣になることもなくひっそりと教室の奥へ追いやられてしまったのだ。

 そして二学期が終わる頃には、クラスの中で誰も彼女の話をしなくなった。彼女の席の花もいつの間にか片付けられ、皆が日常へ戻っていった。僕だけを残して。



 三年生になり本格的に受験シーズンを迎えていた僕は、進路について決められないまま今日まできてしまった。担任からは「どこでも大丈夫だけど、夏までには志望校を決めておけ。」と念を押されてしまう。途方に暮れた頭の中に、宮沢さんが言っていた言葉がぽつんと出てきた。

『前野君なら、なんにでもなれるよ。』

 図書館のカフェでそう勇気付けてくれた彼女の笑顔に、無性に悲しさが込み上げてくる。宮沢さんに会いたい。

 次の日、二年の担任だった教師から宮沢さんの連絡先を聞き、その日のうちに彼女の母親である千恵さんに電話をした。

 

 仏壇の前で白猫はじっと写真を見つめている。日記に書かれていたシロ、だろうか。千恵さんはシロを見つめると「ずっとそこに座っているのよ。」と、少しだけ笑った。

「結子のことが大好きだったのね。」

 その言葉に僕は頷く。もう一度日記を見て、僕は考えていた。この中に出てきた自称未来人のハカセが、もしも本当にタイムマシンを作っていたとしたら。きっと近い将来それが実現可能なのだと裏付けるものになる。

 現実離れしている考えだと判っている。突拍子もない夢物語だけど、それでも少しでも希望があるのなら僕はそれに縋りたい。心に空いていた穴が少しずつ塞がろうとしていた。


 未来人のハカセはあの後どうなったのだろうか。全ての話を聞く前に、宮沢さんは亡くなってしまったので、彼の真意は判らないままだ。

 だけどそんなことはどうでもいいか。と僕は頭を振って自分の考えなければいけないことに集中する。もしタイムマシンが完成させられるならば、それは僕の生きる希望になるだろう。

 考え込んでいると、いつの間にか一冊の本を手にした千恵さんが僕の隣に立っていた。

「これ、あの子が借りていた本。長い間返せなくてごめんなさいね。」

 渡された本は、二年生の夏休みに入る前に僕が貸したものだった。

「ありがとうございます。」

 お礼を言ってそれを鞄に仕舞う。机の上にあった彼女の日記を見つめて、名残惜しい気持ちで席を立とうとしたとき、千恵さんが日記を差し出してきた。


「これ良かったら持っていって。あの子のお友達が持っているなら、結子も喜ぶと思うの。」

「そんな、頂けません。」

 焦って大きく手を振るが、千恵さんは首を振って今度は強引に日記を僕の手に持たせた。

「いいのよ、持っていってちょうだい。私はまだ全部を読める程吹っ切れなくて。」

 だからお願い、と震える声で懇願されてしまい、僕は大人しく日記を鞄に仕舞った。

「判りました。これは僕がお借りします。だから・・・またここへ来てもいいですか?」

「もちろんよ。」

 顔を上げて僕を見る千恵さんの目尻には、涙がきらりと光っていた。


 玄関まで見送られて、僕は千恵さんに頭を下げる。鞄の中には僕の本と宮沢さんの日記が入っていた。

「今日はありがとうございました。」

 礼を言うと千恵さんは「またいつでも結子に会いに来てね。」と笑ってくれる。もちろんです、と心に誓うとシロがドアの外に出てきてしまった。僕の足元にちょこんと座ると「ニャア。」と鳴いて見上げるシロ。見送りに来てくれたんだね、としゃがみ込んでシロの頭を撫でる。


 電話のベルが鳴り、千恵さんは慌てて家の中へ入って行ってしまった。マンションの廊下でシロを撫でながら、僕は話し掛ける。シロ、僕はね。

「僕は絶対にタイムマシンを作って宮沢さんを助けてみせるよ。いつになるか判らないけれど、絶対に完成させて彼女を助ける。それを君には伝えておきたかったんだ。」

 目を細めて僕の言葉を聞き終えたシロは「ニャア。」と鳴いた。それは「がんばれ。」とも「やめておけ。」とも聞こえるけれど、ただ鳴いただけかもしれない。


 シロの頭をもう一度撫でると、僕は立ち上がって廊下を歩く。いつか必ず宮沢さんを助ける、彼女を生かすために僕は生きる。おこがましいことだと判っているけれど、それが今の僕に生きる希望をくれるのだ。

 後ろの方でシロがまた鳴いた気がした。




*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *




 ドアが開く気配を感じて見上げる。ガチャリと開いたドアの奥から、きょろきょろと辺りを見渡している妻の顔があった。

「ああ、前野君帰っちゃったのね。シロが見送ってくれたの?」

 私に話し掛ける千恵に、「そうだよ。」と答えるが実際に口を飛び出すのは「ニャア。」という鳴き声だけだ。

「シロはお利口ね。」

 体を抱き上げられ千恵と共に家の中へ入る。自分が猫になってから何度目かのため息が零れた。


 私は宮沢国生。猫に生まれ変わってしまった、と付け加えるのが正確かもしれない。仏壇の前に降ろされ、二つの飾られた写真を見つめる。人として生きていた私と、先日目の前で亡くなった最愛の娘の写真。並べられた二つの写真を見ていると、幾度もあの日のことを思い出す。



 結子が亡くなったあの日、私たちはいつも通り神社で過ごしていた。私は何を話しても鳴き声しか出てこないので、最近では諦めて寝ていることが多かったのだが。いつものように結子が家に帰るからと立ち上がる。もうそんな時間だったのか、と私とハカセも腰を上げた。

「シロは本当によく寝るのね。」

 私を見て笑う娘に、「猫は話せないからね。」と嫌味で返してみるが、その言葉も全て「ニャア。」と鳴き声に変わってしまう。何度も繰り返して判っていたことだが、どうしても言葉にしようとして口を開いてしまうのだ。人としての性が残っているのか、それとも娘と話がしたいだけなのかは分からない。


「今日は家まで送っていくよ。」

 ハカセのその申し出に、私と結子は思い出す。昨日二人が約束していたことだ。彼は本当のことを話すと結子に約束し、家まで送り届けるとも言っていた。今日はいつも通りの時間を過ごしていたので、てっきり約束は有耶無耶になったのかと思っていたけれど、ハカセはずっと心に決めていたのかもしれない。

 結子は黙って頷くと、私を見て「みんなで一緒に帰ろうか。」と笑っていた。


 二人の後ろをてくてくと歩いてついていく。車の行き来が激しい大通りに差し掛かった時、私は通りの向こう側に千恵を見つけてしまったのだ。

 猫になってからずっと会いたかった妻の姿。結子が学校に行っている間や家に帰ったあと、千恵の帰り道を一人で歩き回ったが今日まで姿を見掛けることが出来なかった。そんな待ち焦がれていた妻に会えた。そう思った時、私の体は本能のまま走り出していた。


「シロ!」

 私の後ろで娘の叫び声が聞こえる。ふと気が付くと私の眼前に迫りくる車と、耳が引きちぎられんばかりのクラクションの音が飛び込んできた。体が勝手に硬直する。私はまた死ぬのか。二度目となると覚悟も出来るものなのか、私は目を閉じてその瞬間にじっと耐えていた。

 しかし、予想に反して私の体は温かく柔らかい何かに包まれたまま、目を開けると宙を舞っていた。私だけではない。私を包んでいるのは、娘の結子じゃないか!

 一瞬の出来事がまるでスローモーションのように長く感じた。娘の腕の隙間から半透明の何かを通して景色を眺める。この半透明はなんだ?娘の体を覆うようにして被さっているその半透明の正体は、なんとハカセの体だ。

 私を庇った娘。そして娘を助けようと身を投げ出して庇っているハカセ。三人が一緒になって宙を舞う姿は、どこか現実感のないものだった。


 私を抱きしめて離さないまま、結子は地面に叩きつけられた。その衝撃で外に放り出された私は、急いで娘の元へ駆け寄る。横たわったまま目を開けず、頭から血を流す結子に私はただ鳴くことしかできなかった。

「また・・・守れなかった・・・。」

 弱弱しく呟く声に気が付き辺りを見渡す。じっと目を細めると薄れていく体のハカセが、結子のすぐ傍で力なく項垂れていた。今にも消えていきそうな自分の腕で、必死に結子を抱き上げようとする。周りの喧騒のなか、彼の姿は私にしか見えていないのかもしれない。

 実体を伴わなくなっている彼の腕は、結子の体に触れることも出来ず空を切るだけだった。それでも何度も何度も娘に触れようと動かすハカセを、私はただ見つめることしか出来ない。

「また・・・また、戻ってくるから。すぐに・・・。」

 結子の頬に手を添えたハカセは、その言葉を最後に私の目の前から姿を消してしまった。



 ハカセが結子のために過去へ戻ってきたこと、そして彼が結子のクラスメイトであること。それは前の晩に私が彼から教えられた事だった。

 結子に全てを話すと約束したその日の夜、ハカセが私に語り掛けてきたのだ。娘を見送り神社の石段に座り直すと、彼は私を撫でてから一枚の写真を見せてくれた。それはぼろぼろに色褪せていたが、そこに写っているのは間違いなく結子だった。それも先ほどまでここにいた娘のままだ。

「僕はね、シロ。結子ちゃんを・・・宮沢さんを助けるためにここに来たんだ。」

 ぽつりぽつりと話し始める彼は、私でも写真の結子でもなく何処か遠い空を見上げていた。


「クラスでただ一人、僕のことを見てくれたんだ。たぶん知り合う前からずっと憧れていたんだと思う。彼女と話すことが僕の唯一の楽しみだったんだよ。

もっと話したい。もっと彼女のことを知りたい。ただそれだけのために、僕はタイムマシンを作ったんだ。まさか、彼女の日記に出てくるハカセが僕自身のことだなんて、思いもよらなかったけどね。」

「上手くできてるよ。」と笑ったハカセの顔は、これまで見たこともない自嘲的なものだった。


あの時は彼が何の話をしているのかさっぱりわからなかったが、先程玄関先で見送った結子のクラスメイトをみて確信した。あの子はタイムマシンを作って、絶対に結子を助けると言っていた。きっと近い将来、その夢は実現するのだろう。けれどその結末はあまりにも悲しいものだと私は知っている。


 あの日の晩、ハカセは結子を助けるためにタイムマシンを使って過去へ遡ってきたと言っていた。その言葉通りだとしたら、彼はタイムマシンのルールを破ることになるのではないか。ある時彼自身が結子に話していた三つのルール。

 ルール一.過去を変えてはいけない。ルール二.未来人や未来の話を他言してはいけない。ルール三.自分や知人の未来を聞いてはいけない。

 このルール、過去を変えてはいけないという決まり事を彼は正面から破ろうとしている。

 訴えるようにハカセを見上げると、私の思いが伝わったのだろう。彼はゆっくりと口元を歪ませて私に向かって「大丈夫だよ。」と笑う。その笑顔は結子の前で一度もしたことが無い、仄暗さのあるものだった。

「シロは賢いから、きっと僕の矛盾に気が付いたんだよね。でも大丈夫。宮沢さんに教えたルールなんて、僕がでっち上げた嘘なんだから。」


 彼は罪の告白をしている罪人のように、どこか芝居がかった仕草で私を見やると話を続けた。

「僕のいた時代でもタイムマシンは公に出来ていなかった。このタイムマシンは僕だけが作り出した試作品。高校を卒業してからずっと研究を続けて、やっと完成したものだよ。

だから実用性も安全性も判らない。いつ元いた時代に戻れるのか、もしくは戻ることが出来るのかも未知数。不安要素の塊なんだ。そんな非公式のタイムマシンが、これ。

だから、誰もしたことがないタイムトラベルに法律なんてないんだよ。あのルールは僕がやろうとしていることを、宮沢さんに知られないための都合のいいでたらめさ。」

 雲の隙間から月明かりが差し込む。ハカセの姿を暗闇から浮かび上がらせる一筋の光。彼の目に迷いは微塵もなかった。


 

仏壇の前で項垂れる。タイムマシンを作ると決めて去って行った後ろ姿。結子の体を抱き上げようと苦痛にもがく横顔。どちらも同じ前野博士という人間だ。おかしな運命のレールに組み込まれて、救いのない輪の中に飛び込んでいく彼。

人の言葉が話せたのなら、私は今すぐ彼を止めたい。前を向いて自分の未来を切り開いてほしいと、心から思う。


「二人とも居なくなっちゃって・・・本当にどうしてかしら。」

 仏壇の前で涙を流す千恵に、私はただ「すまない。」と呟いた。

 すまない。私が君に似た人を見掛けなければ、走り出さなければ。私は自分の娘を殺した最悪の父親だ。


 生前、私は信じもしない神に祈った。まだ一歳になったばかりの娘と、甲斐甲斐しく私を見舞う千恵を想い願ったのだ。

 娘の傍にいたい。妻と一緒に、これからも生きていきたい。大きくなる娘にたくさんのことを教えたい。世の中には面白いことがたくさんあるのだと伝えたい。だから神さま。もしもいるのなら、私を娘の傍にいさせてください。


 死んですぐに目を覚ますと、あの路地にいた。制服を着た女子高生を見て、私はすぐに娘の結子だと気が付いたのだ。神様に感謝をした。願いを叶えてくれてありがとう、と。

 それが皮肉なものだ。娘を殺したのは私。生まれ変わらなければ、娘はまだ生きていたのではないか。あの少年も娘と共に前を向いて未来へ進んでいけたのではないか。全てを壊した自分を呪った。信じもしない神に祈った罰が当たったのだ。

 毎日仏壇の前で謝り続ける。すまなかった、と口にするたびに「ニャア。」と鳴く声が虚しく響く。

「結子のこと、大好きだったのね。」

 私を見て弱弱しく笑う妻に、ニャアと鳴いて部屋を後にした。


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