はじまり
大好きな先輩がいる。格好良くて、恩着せがましくなくて、淡白な人。オレのいっこ年上。
「これからは気をつけろよ」
ぶっきらぼうに優しさを隠して放たれた言葉。陽気な祭囃子に消されてしまいそうなくらい小さな声。
あの日からずっと、あの人のことを考えていた。あの日からずっと、あの人のことだけを見ていた。
そして今、目の前にあの人がいる。
穏やかな小鳥のさえずりに起こされて、わずかに目を開く。カーテンごしに差し込む光は柔らかく、今日もいい天気だと知らせていた。俺はゆっくりと上体を起こし、伸びをする。寝ているうちに固まってしまった体は、ところどころ音をたてた。立ち上がって着替えをしていると、部屋のドアが勢いよく開けられた。
「兄さん、いつまで寝てるの、もう朝食だよ早く来い!」
肩までの黒髪を揺らしながら入ってきたのは妹の風音だ。父親似の釣り目には、「朝食」しか映っていない。外の穏やかな景色は見えていないようだ。
「寝てない。少しは待つことを覚えろバカ」
「こちとらもう五分も待ってるんだよ、オムライス目の前にして食べられない私のもどかしさを知れ」
「知るか」
俺はワイシャツを着て、風音の横を通り抜けた。階段を降りて、居間に向かう。居間からはいつもの和やかな会話が聞こえた。
「ねえ、お父さん。今日は一日晴れるみたいよ」
「そうだな。せっかくだから遊んで来たらどうだ?」
「あ、そういえば、向かいの城田さんがお父さんに用事があるって言ってたわ。都合のいいとき連絡してって」
「……わかった」
見ての通り、話を聞かないマイペースな母さんと、それに振り回されている父さんだ。二人は俺に気づくと優しく笑って、「おはよう、直矢」といった。「おはよう」と俺も笑顔で返す。そんな俺を押し飛ばして、風音は居間に飛び込んだ。
全員が着席したところで、俺たちは箸を動かし始めた。
いってきますと声をかけて玄関を出ると、向かいの城田の家が見えた。親同士の仲がいいことは知っている。さっき母さんは言っていた用事というのも、おそらく今度出かける日を決めることだろう。母さんもその日は大抵城田さんのお母さんと遊びにいく。
しかし、子どもの仲はそうとは限らない。城田ゆず。俺と同じ学校で、同じクラス。喋ったことはほとんどない。基本女子とはほとんど喋らないが、城田とは喋らないというより喋りたくない。彼女の笑顔は、どこか薄気味悪い。
そそくさと家を通り過ぎると、「なおちゃーん!」という底抜けに明るい声が飛んできた。隣に住む、三島涼佑だ。彼はこの近くの大学に通っている。中学高校と世話にはなっている先輩だ。高身長で、後姿だけならモテるだろうが、驚くほど童顔なものだからモテない。
俺は「なおちゃん言うな」と言ってから、家の塀から覗き込んでいる彼の頭をはたいた。ギリギリ届いた。「なおちゃん酷い」と頬を膨らませた涼佑だったが、俺の家の玄関が開いた音を聞いて表情を変えた。すぐさま家の敷地を出てくる。そして歩いてきた人に飛び掛かった。
「風音ちゃーん!会いたかったよ~今日もかわいいね」
「気色悪い、離れろ、どっか行け」
風音は思い切り涼佑の頬をひっぱたき、彼を冷たく見下ろした。涼佑はずっと風音に片思いをしている。毎朝風音が出てくるのを待って愛情表現をしているのだが、いつもこうなる。愛情の裏返しだと思うようにしている、と以前泣きながら言っていた。哀れになる。
「あのさぁ、朝っぱらから人の兄のことボロボロにしないでくれる? 風音」
哀れな男の後ろから、一人の少女が颯爽と現れた。三島弥生。涼佑の妹で、風音と同じ中学に通っている。普段猫を被っている風音の、素で張り合える友人の一人だ。その友人に風音は青筋を浮かべる。
「このハグ魔をどうにかしてくれたら考えてもいいよ、ヤーコ」
ヤーコというのは、風音が勝手につけた弥生のあだ名だ。センスのなさには、ある意味舌を巻くレベル。ちなみに、このあだ名に弥生は何も苦情を言っていない。あだ名なんてなんでもいいじゃん。それが彼女の意見だ。
風音と弥生が言い合いを始めて、俺と涼佑が置いてけぼりになったころ、俺の携帯が震えた。メール。送信者を見て、俺はため息をついた。
「友達?」
涼佑が俺の手元を見ようとしたので、「後輩だよ、中学の」と答えながら、そっとその目を避けて携帯を閉じる。
「じゃあ、俺行くから。そろそろ仲裁入ってやれよ、涼佑」
「うわ、裏切者」
涼佑の抗議を背に受けながら、俺は高校に向かって歩き出した。
高校の手前の坂の下まで来た。その坂は桜がずらっと並んでいて、この時期は華やかになる。薄桃色の間から見える、さわやかな青色はとても綺麗で、思わず見とれた。そして、その色合いの中に、つややかな黄色が入り込んだ。朝日に照らされて一層輝いているそれは、天然の金髪。被っているのは、クローバーの刺繍がしてあるいつもの帽子。
彼はいつも帽子をかぶっている。お気に入りなのか、それとも意味があるのかわからない。とりあえず俺は勝手に彼を「帽子くん」と呼んでいる。正直言って、名前を知らないのだ。
物憂げにうつむいていたその少年は、俺に気づくと、その空色の瞳をこちらに向けて微笑んだ。
「おはよーございます、先輩」
「おはよう。お前な、朝からあんなメール送るなよ」
メールの文面を思い出しながら、俺はため息をついた。
『朝から親しげに話してた人は誰ですか? オレより大切な人ですか? 早く学校来てください』
朝からこんな重いメール、涼佑に見せられるわけがない。そんな俺の反応に、彼は恥ずかしそうに笑った。
「思わずですよ、許してください」
「思わずって……お前なあ」
「楽しそうに話しているから、どんな人なのか知りたくなったんですよ」
俺たちは昇降口を目指して歩き出した。時計はまだ7時40分を示している。
彼と知り合ってからいつもこの時間に学校に来ている。入学式の数日後に知り合ったから、もう二週間になるだろうか。それまではもっと家でゆっくりできた。だが悲しいことに、この時間の登校がもうすでに日課になってしまった。
「お前が知らなくてもいいだろ、俺の友達なんだし」
俺が少し見下ろしながら彼に言うと、「何言ってるんですか」と彼も俺を見た。
「オレの大事な先輩ですよ? 知ってなきゃ、いざって時に動けなくなる」
いざって時……?
聞こうとしたが、無意識のうちにそれを自分自身で拒否してしまった。彼の瞳に、暗く冷たい色が一瞬見えたからかもしれない。
帽子くんはすぐにいつものなつっこい笑顔を浮かべて、「じゃあ、先輩のクラスお邪魔しようかな!」と駆け出した。
冷や汗をかいた事実を無視して、俺は帽子くんの後を追いかけた。
二話へ続く
自作サイトに連載しようと思っていたんですが……サイト運営がちょっとつらくなってきたので、こちらで連載しようかと。頑張って続けられるようにします。
キーワードのGLは今後出てきますっていうことで……1話ではまだBL要素も薄いです