ガーベラ
フルール、同業者からわたしがそう呼ばれていたことを知るのは、この店に来てから三年目のことだった。
文字通り、花。
客にはそれぞれ違う花の名前で呼ばれ、頑なに本名を隠していたわたしに付けられた、あだ名だった。
そんな呼び名にも慣れて来た頃、わたしの付添人が変わることになった。
がしゃりと重い扉が開く。その先にいたのは、女ではなく男だった。
黒いさらさらした髪を垂らした彼はわたしの前でひざまずいた。
「初めまして。……本当に、真っ白なんですね」
言うに事欠いてそれか、と思ったけれど。事実だ。
「褒め言葉として受け取ります」
色素が抜け落ちた身体。世間ではこれをアルビノと言うらしいけれど。
男は、にこりと笑った。
「では……、"レティ"様。ノエルと申します」
「―――――こ、これから、」
よろしく、と言う前に遮られ、
「あなたを生涯、お護りします」
射抜くような眼差しでわたしを見やると、手の甲に唇を落とした。
「………………」
彼は、花の名以外でわたしを呼んだ最初の人間だった。
*
一週間前。
「ダリア、旦那様がお呼びです」
ぎい、と重苦しい音を立てて金色の扉が開かれる。
「分かりました。参ります」
付き添い人が左手と右足の錠を外す。少しだけ晴れやかな気分になって、でもわたしをダリアと呼ぶ人のところへ行くのは気が重かった。
三時間にも及ぶ拷問のような時間の後、ふらふらと店に戻ると、付添人はにこりと笑って分厚い神の束を差し出した。
「読んでおいてください。お客様の所へ行く時間になったら、またお呼びします」
きらびやかな封筒の中には低俗な詩のような何か、たぶん恋文が入っているだろう。
それをいちいち封を切って読むのは、いささか疲れる。
はあと重いため息をついて、鳥籠のような部屋の中に引っ込む。
また錠がかけられ、扉が閉ざされる。
数分後には、客の予約表が手元に届くだろう。
「お帰りなさいませ。この後16時より、オキザリスをお呼びです」
「18時からはアキレアを」
「22時からツバキを」
メモを次々に渡される。
オキザリス、アキレア、ツバキ、すべてわたしを指している。
わたしは客の一人一人から違う花の名前で呼ばれている。それは別に嫌いじゃない。
けれど。
「いけません。キキョウの部屋には入ってはいけない決まりなのです」
「私は客だ。通せ」
「いいえ。なりません」
「金を払っているんだ、いいだろう!」
……こんなトラブルが毎度毎度起こる。そしてこんな客は、わたしを指名した時間に必ず殴る蹴るを繰り返す。それか、もしくは。
「支配人を呼んで参ります」
「ふん、呼んで来い」
そしてあたりが静まり返った。
数分後、こつこつとゆっくりとした音が響いた。
この足音は支配人様のものだ。
また、廊下がスプラッタなことにならなきゃいいのだけれど。
わたしはそっと目を閉じた。
「ほう。あなたが、我が店の売物にケチをつけている方ですか」
「ケチなどと言わないで頂きたい」
「時間外でのご来店は厳禁。売り物を見たり手を触れたりすることもまた、厳禁です」
柔らかな冷たい声。まるで地を這うような。
「誓約書に反する行為です。貴殿はこれから先、一切の出入りを禁じます。皆さん、出しなさい」
「何をする、貴様、私を誰だと思っているんだ!」
「あなたの身分はこの店では通用致しません。さあ早く」
「貴様! この店など私の力で潰してやろうぞ」
傲慢な客に冷徹な主人。まるでどこかの滑稽劇のようだと思えた。
「お黙りください」
「貴様が黙れ。この私を何と心得ているの――――
「ああ、お黙りくださいと言っているのに」
バン、それから、どさ、と音がした。
「運び出せ」
わらわらと人の声。
またか――、としか思わなくなってしまった自身を静かに呪った。
かなりわたしに貢いでいた暴虐な客が葬られたおかげで、今日のすべての予約はキャンセルされたらしい。
暇を持て余したわたしは、溜まっていた手紙にざっと目を通して、床に就いた。
*
翌日。
「今日はアリーヌの所へお願いします。文字を教えてあげてください」
分厚い紙の束を手渡す付添人に、小さく頷く。
アリーヌは、最近この店に連れてこられた孤児だ。
「ええ」
少し複雑な思いを抱えながらも、わたしはにこりと笑った。
「では手を。……はい、これでよろしいですね」
「ありがとう」
「いってらっしゃいませ」
そろそろと立ち上がり、ドアを開けて廊下に出た。アリーヌの部屋はすぐ横だ。
ノックをして部屋に入ると、机に向かう金髪の少女がいた。
「こんにちは、アリーヌ」
そっと話しかけると、アリーヌはにこやかに笑った。
「おねえさま、おまちしていました」
「ありがとう。でははじめましょうか」
「ねえ、おねえさま」
アリーヌは大きな眼を見開いて、わたしの裾を掴んだ。
「なんでしょうか」
「どうしてなきそうなかおをしていらっしゃるの?」
内心、ぎくりとした。
口元は確かに笑みをたたえている筈なのに――、子どもの洞察力というか、共感力というか。とにかくそういったものには参ってしまう。
「そんな顔していませんよ。さあ、はじめましょう」
アリーヌをせかして、文字を教え始める。
彼女は覚えがとても早いので、教える身としては助かっている。
金色をふわふわさせながら、小さな手を黒インクで汚していく姿も、かわいらしいと思えてくる。
時折、
「おねえさま」
とわたしを呼んで、分からないと言った顔をする。
彼女も、数年後には売物と呼ばれることになるのだと思うと気が重かったけれど、今はなるべくそのことを考えないように考えないように、ただ羊皮紙に目を走らせていた。
すると、二時間と経たないうちにドアがノックされた。
「失礼いたします。カンナ様、アリーヌ様」
顔を出したわたしの付添人は、酷く青ざめた顔でわたしを見た。
「カンナ様。……急いで、部屋へお戻りください」
「分かりました。アリーヌ、また今度お話ししましょう」
「ええ、おねえさま。また」
こんな、聞き分けの良い所も気に入っているところの一つだ。
自分の部屋に入り、錠と足枷をつけられたわたしは、付添人を見上げた。
「何かあったのですか」
「……ええ。支配人様が、カンナ様を、――
「げほっ!」
突然せりあがってくる、なにか。
「カンナ様⁉」
付添人がわたしの背を撫でる。
込み上げてくる、硬い、もの。
「げほっ、げほっ、う、うぇえ……っ」
ばらばらばら、と指の間から、口から出たものが零れ落ちる。
床に当たったそれらは、ごろごろと転がった。
「カンナ様⁉ ……これ、は……⁉」
「けほっ……」
床に膝をつき、それらを拾い上げる。
付添人もわたしに従おうとする。
「触らないで……!」
「は、はいっ、すみません!」
がしゃがしゃと音を立ててすべてを拾い上げると、付添人はわたしにそっと尋ねた。
「なん、だったんですか……、それ」
「けほっ、知らなかったんですね、わたしは、……」
ドレスの裾を広げて、自分の指でつまんでみせた。
「水晶を、吐く……、世界で唯一のアルビノなのです」
付添人の手にそっと握らせる。
「握って、もう一度開いてください」
彼女は恐る恐る指を開いた。
「え……何で……⁉」
緑色の、石に変わっていた。
「アマゾナイト。穏やかな心。まるで貴女ですね」
「どうして……ですか……?」
付添人の手に握らせ、仕舞っておいてくださいと言う。
彼女は神妙な顔でそれをポケットに入れた。
それを見届け、ふう、とため息を吐く。
「わたしは、稀に宝石を吐きます。それは、わたしが触れているか、誰も触れていないときは水晶なのです。……けれど、違う方が触れると、色が変わるのです。それはまるで、」
「その人の、性質をあらわす……と……?」
「そうです。それと、血も、です。そのためか……、よく、傷をつけられます」
「ああ、……それで、カンナ様はいつも、」
付添人は、はっと口を噤んだ。
「ええ。物珍しさと、富欲しさに、群がるのです。支配人様も同じ」
「そうなのですか……」
ええ、と頷き、革袋に水晶を全て詰めた。
「これは全て、貴女へ。少しでしょうが、お金になるでしょう。今までありがとうございました」
「いえ……そんな……、こちらこそ、ありがとうございました」
そっと、部屋を出ていく彼女を見届けた。
次の付添人も、彼女のような人がいいと思って。
*
思っていたのに。
「どこでその名前を知ったのですか」
「貴女の本当の名を、支配人に訊きました」
ノエルは、にこりと笑った。
「それを呼ぶことは、あの人でさえも許されません。ノエル様」
「様付けなんてしないでください。俺は貴女を貴女として見たいんです」
「余計なお世話です。替えてもらうように頼んで――
「御冗談を」
ひどく、つめたい声だった。
ぽかんとして見下ろすと、しまったとでも言うようにノエルは手で口を覆った。
「わたしが冗談を言うように見えますか」
「いえ。出過ぎたことを申しました。しかし……」
「何です」
すこし躊躇する姿勢を見せて、低く呟いた。
「知らないのですね。貴女が、」
「わたしが?」
絞り出した声は、すこし震えていた。
「貴女は、近々殺されます」
ガーベラ――――神秘的な美しさ
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