青のうねり
海が近づき風に潮の匂いが混じると、懐かしい記憶がよみがえるようだった。
東京の家から飛行機と電車を乗り継いで六時間以上の長い道のりを越えると、目の前には海が広がっていた。灰色の雲を浮かべた空は雨でも降り出しそうで、海鳴りが鼓膜を揺さぶった。その轟音は心の中を掻き乱すようにハウリングした後、夏の風鈴の音が尾を引くのにも似た微かな寂寥感を残して海へと帰っていく。
その町で僕は何ヵ月かを過ごしたことがあった。東京に引っ越してからも半年に一度ほどの割合でこちらに泊まりに来ていた。自然ばかりが視界に入る田舎町に特有の閉塞感がそこにはあった。都会のように色彩過多なわけもなく、雲の灰色と海のうねり、それに呼応するように動きのない、止まった時間がそこにあるようだった。目を閉じると、ずっと昔の波音が今の海鳴りに重なった。それらは互いに反響し、不協和音を生み出した。その後に残されたのは、涙の味にも似た塩辛さだった。
上着の右ポケットに突っ込まれている携帯電話が振動した。祖父からの着信だった。あと数分で駅に着くらしい。通話を切ると、肌寒い風が吹いた。僕は近くの自動販売機でホットドリンクを買った。どうせ気休め程度にしかならないが、数分温かければ問題ない。
ちょうど缶コーヒーを飲み終えたころに、駅前の坂を上ってくる祖父の姿が見えた。日本人にしては高い身長は例え人ごみの中にあっても分かりやすい。ロマンスグレーの髪をオールバックに整えている。軽く手を振って合図するとこちらに気付いたようで、少し歩調を速めた。
「久しぶり」と当り障りのない挨拶をする。祖父も「おう、久しぶり」と拍子抜けするほどあっさりした挨拶を返してきた。家族の二年振りの挨拶なんて、こんなものなのかもしれなかった。
「また大きくなったか?」と祖父は訊いた。
「もう一七だよ。そう変わらないさ」
並んで緩やかな坂道を下る。隣を歩く祖父は少し痩せたのかもしれない。目線の高さはそう変わらないが、小さく見えた。
「猫はもう飼わないの?」
「まぁ……そうだな。俺もそう長くないだろうから」
祖父が飼っていた猫が死んだのは去年の、丁度今頃だった。死因は老衰だった。サクラというその雌猫は九年前にも祖父の膝の上にいたから、きっと相当な年だったのだろう。そして、祖父も相当な年だった。サクラが死んで以来、体調を崩すことが増えたらしい。新しい猫を迎える前に、そもそも自分のことすら分からないのだ、と祖父は笑った。
僕は「そう」とだけ言って黙々と歩を進めた。僕にも懐いていたサクラの話をするのは、正直、辛いことだった。
そうして一五分ほど海沿いから離れるようにして歩くと、祖父の家に着いた。おぼろげな記憶の中にあるものとそう変わりはない。
田舎ゆえの広い敷地、家庭菜園とビニールハウス、松の木、錆びたスコップ……それら視界に入るほとんどのものは、サクラの死とともに時間を止めてしまったのだろうか。それは寂しい景色だった。
昨日とは打って変わって、晴天だった。サクラの墓は庭の一角の木陰にあって、木漏れ日を受けてまだらに光っていた。盛った土に板切れを刺した簡素なものだったが、手入れはしっかりとされていた。板も定期的に変えられているらしい。
サクラは三毛猫の雌で、花弁のような白い斑点が背中にいくつかあった。だから、サクラと名付けたという。本当かどうかはわからない。名付け親の祖母は、四年前に亡くなっていた。
僕はその墓の前にキャットフードを置いて、そういえばサクラは生魚が好きだったなと思い出した。どこから持ってくるのか知らないが、戦利品を掲げるように小さい魚をくわえている姿をよく見た。
「何だった?」
僕は家に戻ると、今でテレビを見ていた祖父に尋ねた。
「何が」
祖父はやや季節外れのみかんを口に運びながら尋ね返した。
「サクラが好きだった魚だよ」
「ああ、ありゃヤマメじゃないか」
今なら川で釣れるぞ、と聞いたので、僕は支度を始めた。納屋から釣り具を借りた。少し傷んでいるが、十分に使えるだろう。声をかけたが祖父は来ないようだった。
家からヤマメが釣れるという渓流までは、半時間程度歩く。山や森を迂回するように敷設されたアスファルトの上を、木陰に入るようにして進んでいく。歩きながら町並みを見ていると、やはり寂しい町だった。そう多くない家々は画一的に茶色っぽい色をしている。人はほとんど見掛けない。風が枝をざわめかせる音に僕の足音だけが響く。それがこの感覚の原因なのかもしれなかった。この町で僕を知る者のうち、祖母は死に、サクラも死に、祖父もまた、僕の記憶にある姿とは離れつつある。僕はまだ町を覚えているが、そのうち、この町は僕のことを忘れ、他人として排斥するようになるのだろうか。埋めようのない距離と、虚しいばかりの時間に負けて、そうして関係というものは終わるのだ。
気が付くと、目的地はもうすぐそこまで来ていた。肩に背負う釣り竿の位置を整えて、ぽっかりと口を開ける森を見た。地図があった。現在地から目的地の渓流までは、ここから少し山登りになる。
湿った山道を、足元の大きな石の感触を確かめながら歩く。木漏れ日が差し込み、周囲に植物が繁茂し、すぐ傍で細く浅い沢が流れている。この浅さでは魚はいないようだった。まだ釣りは解禁されていないのだろうか、釣り具を持った人に遭遇することはなかった。あるいはこの天気では釣果が期待できないのか。釣りに疎い僕には知る由もないことだった。
その浅い沢を上流に向かって進んでいくと、空気の変わる感触があった。少し遠く、流れ落ちる滝の音が聞こえ、一気に沢に幅と深さが出た。涼しく清澄な風が前方から吹き付ける。澄んでいながら荒々しい飛沫が舞い、霧が薄いヴェールのように空間を覆う。木漏れ日がきらきらと反射した。渓流だ。
流れの中、苔に覆われた岩に腰掛ける。足先を駆けていく水が心地よかった。適当な石を拾い上げてくっ付いていた虫を捕る。釣り針に引っ掛けて放る。一連の作業が終わってしまえば、あとは待つだけの仕事になってしまう。誰が待つわけでもない釣果を独り、待ち続ける。
僕がサクラのためにこのようなことをするのはそれが初めてだった。それは今更のことだった。思えば、そういうことはいくらでもあった。全てがちぐはぐで、何も得るものがないことがあった。蔑ろにしてきたものを恋しく思うときがあった。それがこの川を流れる、雪解けのように遠く不可逆なものであるからこそなのだろうか。まるで自分が2人いるような気分がして落ち着かない。痙攣でもするように川面に浮き沈みを繰り返す釣り糸を眺めながら、その落ち着かなさを誤魔化すため何度も座り直した。
次第に滝の音が大きくなっていく。揺れる木の葉が煩わしい。神聖な霧も視界を奪うように濃さを増していく。今この瞬間まで、清涼な空気に満たされていたはずの空間が、突然苔むしたものになった。本当はそんなはずはないのかもしれないが、今や視点は二つに分かれ、そのひとつは確実に物事の負を見ていた。痙攣を繰り返す釣り糸が小さな力で引っ張られた。それを手に感じ取ると、どうしようもなく叫びたい衝動に駆られ、僕は腰かけていた岩の苔を毟り取る勢いで釣竿をかなぐり捨てた。ぐっと迫り上げる胃に全身を圧迫されながら、渓流に背を向ける。次第に早足になっていく。さっき辿ってきた道は下り坂になっていた。走る。走る。走る。走る。走る、走る、走る、走る、走る、走る走る走る走る走る走る――。
視界を横切る風景はごちゃ混ぜになって茶色になり、やがてどす黒くなっていく。それが僕の速度のせいか、あるいは酸欠によるものなのかは、すでに判然としない。
あてもなく走ったつもりだったが、何かに導かれたのかもしれない。気が付くと僕は潮の香りに包まれている中を走っていた。鼻孔をくすぐる、つんとした刺激が強くなった。そして、古びた商店街を抜けた時、開けた視界が、一瞬で青に染め抜かれた。
もう走れないと思った。おぼつかない足取りで堤防を越えると、もうそこは海だった。荒い息を繰り返す、ふいごのような呼吸音に交じって、波の音が聞こえる。もう行き止まりだ。ここから先には道がない。その証拠に、足はもう動かなかった。大理石のように真っ白な砂浜に膝をついて、海を眺めた。その色は、とても悲しい青に見えた。
海が青い。空が青い。どこまでも広がる青い世界は、しかし互いに交差することなく続いていく。ずっと向こうでつながっているように見える2つの青い世界は、僕の方に近づくにつれて距離を開いて、取り返しのつかない有限を生み出した。なぜだかそれは、とても孤独なことのように思えた。かろうじて起き上がっていた胴体が、ぼとりと砂浜に落ちた。口の中に苦い砂糖のような感触が広がった。唇がわななき、僕の両手が砂浜を鷲掴みにした。ひゅるり、と喉から風が抜けていくのを感じた。そのまま僕は顔だけを持ち上げて、砂浜に叩き付けた。喘ぐような呼吸をしながら、苦痛に顔を歪めながら、まるで海に向かって土下座を繰り返すように、顔面を何度も白い砂浜に叩き付けた。砂に埋もれるたび、自分がなくなっていくようだった。細胞の一つ一つが壊死れていくようだった。涙も、声も出さずに泣くとはそういうことなのだと知った。
いつしか僕は拳まで振り上げて、砂浜を叩いていた。止まらなかった。真っ白だった僕の周りの砂は乱され、捲れ、黒い土が覗いていた。すべてのものは、そういうものなのかもしれなかった。