2-1
「よっしゃあ、ゴール!」
かけ声とともに、国沢さんが校門を突っ切った。
ぼくは最後の力を振りしぼり、あとに続く。悲鳴を上げる足を必死にはげましながら、校内に侵入。
その瞬間、ふわりと体が軽くなった。うっかり、しまりの悪い笑顔を浮かべてしまう。
……も。
戻ってこれたんだ。やっと、学校まで。
ぼくはよたよたと歩み進んだ。数メートル歩いたところで立ち止まり、前かがみになって息をはく。 昇降口からはき出されてきた生徒らが、ぼくらを見ては怪訝そうな顔をする。その視線も、いまは気にならない。
も、もうダメ……。
体が内側からほてりだした。まるで、体内のモーターがフル稼働したみたいだ。
胸が激しく上下した。湿気をたっぷり含んだ息が、口からせわしなくあふれ出る。頭に巻かれた包帯が、汗でむれてしかたない。体操服も、すっかりびしょびしょだ。
「はーっ、疲れたね!」
額の汗を手の甲で拭いつつ、国沢さんは盛大に息をはいた。セリフのわりに、声には余裕が感じられる。息も絶え絶えなぼくに対し、元気にその場足踏みをする国沢さん。同じ距離を走ったはずなのに、この差はいったいなんなんだろう。
「市内一周……距離にして、ざっと三十キロってところかな。がんばれる範囲でいいから、できるだけ毎日、走ってみて。『夜』と戦うんなら、基礎体力くらいはつけとかないとね――ていうか、暑っ。中庭で休まない? いっぱい走ったら、喉がかわいちゃって」
「でも、いいの? いまって一応、部活動の時間だよ」
「なあに、五分くらい休んだところで、罰は当たらないよ。悩み相談なんて、どうせ滅多にこないんだし。休憩だって、仕事の一つだよ」
そんな風に押し切られちゃったら、ぼくとしても反対の余地はない。ステップを踏みながら遠ざかっていく彼女の背中を、あわてて追いかける。
ま、待って。頼むから、これ以上走らせないで……。
「うん?」
中庭に来たところで、国沢さんは首をひねった。
「あの子、森永ちゃんだよね」
庭の中央には、直径五メートルくらいの小さな池がある。いま、一人の女子生徒が入りこみ、背中を丸めながらなにかをひろい上げていた。
そばかすだらけの、リンゴみたいに赤いほほ。パーマのかかった、薄い色あいの髪の毛。
たしかに、クラスメイトの森永千尋さんに他ならなかった。
「やっほー。なにか探し物?」
国沢さんは片手を挙げつつ、池のふちから呼びかける。
森永さんが振り返った。前髪についたタンポポの髪留めが、風を受けて揺れ動く。
どこか沈んだ表情をしていた。水に浸しているのは太ももまでなのに、まるで頭から冷や水を被ったみたいに青ざめている。
「あ、国沢さん。それに、えっとえっと」
森永さんはぼくのほうへと視線を移し、口を半開きにしたまま硬直した。
「……ガミガミくん、だったっけ」
「ひ、陽之上だけど」
な、なはは。まあ、忘れられるのには慣れてるし。
「はっ。そうだった、ごめんなさい。あの、えと。頭のケガ、だいじょうぶ?」
頭を下げたうえに、ケガの心配までしてくれた。話すのは初めてだけれど、なかなか親切な人らしい。
なのに、不思議だなあ。彼女が誰かと親しげに話してる姿って、見たことないんだよ。
「落し物でもしたの? よかったら、手伝うよ」
前かがみになって水底を覗きこんだ国沢さんは、ハッと目を見開いた。なにを思ったのか靴下を脱ぎ、水音を立てて池の中に入っていく。
水は彼女の膝下あたりまでをぬらした。体操服姿とはいえ、入るには少しためらいを感じる深さだ。
「ひどい!」
憤慨しつつ水底からひろい上げたのは、黄緑色のペンケースだった。
ペンケース。
どれだけ不運を重ねたところで、普通、池のまんなかになんて落とさない代物だ。
――誰かが意図的に放り捨てたのなら、話は別だけど。
「これ、森永ちゃんの? 誰かがこっそり、ここへ投げたんだね。犯人に心当たりとかないの。こんなことするなんて、絶対に許せない!」
「え、あっ。う、うん」
やつぎ早に問いただす国沢さんの迫力に押されたんだろう。森永さんは首を縦に振りながらあとずさった。
「誰がやったのかは、わたしにもわからないのね。うん、わからないの」
だけどたぶん、と、彼女は視線をそらしながらつぶやいた。
「誰かがわたしに、嫌がらせをしているのかもしれない。うん、かもしれない」
自分に言い聞かせるように反すうする。
ふと、国沢さんが目を細めた。
なんだろうと思って視線を追うと、背の高い男子が一人、遠くの丸イスに座っている。
唐田だ。
ひょっとして、あいつのしわざなのか?
唐田もこっちに気づいたらしい。バツが悪そうな面持ちで立ち上がり、ぶらりぶらりと体を揺らして遠ざかる。
「ちょっと待って!」
国沢さんがするどい一声を飛ばすけれど、唐田はかまう様子もない。渡り廊下を歩いて、校舎の中に姿を消した。
「唐田くんが、どうかしたの」
ただ一人、森永さんだけが「ぽんやり」している。われながら変な造語だと思うけど、彼女の様子を表現するのに、これ以上ピッタリな響きは見つからなかった。
「いや……。唐田くんだったら、こんなこともするんじゃないかなって思ってさ」
「そんなことない」
ぽんやりした態度から一変、いやにはっきりと首を振る森永さん。
「唐田くんは、わたしをいじめたりはしないよ。たしかに乱暴で、意地悪ばっかりするけど……。でも、根はすっごくいい人なんだよ」
うわずった口調で両手をにぎりしめ、森永さんは力説した。思いもかけない強気な態度に、さすがの国沢さんも気をそがれたらしい。
「ううん、そっか。森永ちゃんがそこまで言うんならなあ。まあ、唐田くんって、誰でも彼でも手当たり次第にいじめるタイプじゃあないしね」
なんだかなあ。
ぼくはなんとなく賛同できない。
国沢さんが唐田の肩を持つっていうのは、正直言って面白くなかった。
「そうだ、森永ちゃん。連絡先、交換しとこうよ。またなにかされたら、遠慮なく電話して。絶対だよ」
ちょっと目を放している間に、彼女らは池のふちまで上がってきていた。国沢さんはハーフパンツからケータイを取り出し、小首をかしげてにこりと笑う。
森永さんのリンゴ顔が、ますます赤らんだ。それは喜びに満ちた色をしている。「うん」と彼女はうなずき、ポケットからピンクのケータイを出した。
「赤外線って、どうやるんだっけ? ごめんなさい、こういうの使い慣れてなくて。番号交換する人なんて、ほとんどいなかったし……」
「ほほう、どれどれ。オジサンに見せてごらん」
なぜか紳士口調の国沢さん。森永さんのケータイを覗きこむなり、
「あれっ。この人って、森永ちゃんのお母さん? 若いねー」
待ち受け画面かなにかに、興味を吸い寄せられたようだ。
「あ、これ? ええと、うん。あのね。一昨年、家族で伊豆に行ったときの写真なの」
口に手を当て、コロコロと笑う森永さん。だけどその表情が、ふいにくもった。
「……具合、よくなるといいんだけどな」
「えっ。お母さん、どっか悪いの?」
「うん。去年のいまごろ、病気が見つかって。いま、入院してるの」
う……。
結構、ヘヴィーな話だ。
「そっかぁ……。治る見こみは?」
森永さんはあいまいな表情をつくろった。聞くと、かなり難しい病気のようだ。
彼女は前髪につけた髪留めを、大切そうになでた。目をきゅっと細めて、言う。
「だいじょうぶ。うん、きっと。絶対、だいじょうぶ」
その笑顔は、どこか悲しみをたたえているような気がした。
森永さんと別れ、ぼくたちは校舎に向かって歩き出した。なんだかもう、休む気にはなれない。
道すがら、ぼくは切り出した。
「結局……。今日一日、唐田、なにも言ってこなかったね。昨日の戦いについて、なにか聞いてくるかもって思ったんだけれど」
『昨日の戦い』。ぼくの影から現れた、『夜』って生き物との戦闘のことだ。
唐田は、『夜』を目撃している。
そのことについてなにか言ってきてもおかしくないと思うんだけれど、今日の唐田はやけに大人しかった。ぼくをからかうどころか、話しかけようともしない。目があうたび、いまいましそうに視線をそらしさえした。
「うーん。唐田くん本人も、あれが本当にあったことなのかどうか、判断できてないんじゃないかな。わたしが唐田くんの立場だったら、あんなの夢だなって思うもの。あんなのが現実であってたまるかって」
たしかに。ぼくもそのポジションに置かれたら、きっとそう考えるだろう。
「陽之上くんにも話しかけづらくなると思う。あんなことがあったあとじゃ、気まずいのなんの」
会話を重ねつつ、ほの暗い校舎へ、吸いこまれるように入りこんだ。
午後五時半。じきに、夜がくる。