1‐7
保健室に行くと、ベッドの上で国沢さんが、逆立ちしながら腕立てをしていた。
めくれ下がったスカートの下には、ハーフパンツをはいている。セーラー服は、下がらないよう、すそをベルトの中に突っこんでいた。
なんだろう。ちょっと残念。
なはっ。
「朝っぱらからすごいね。ケガはもういいの?」
部屋のすみにカバンを置きながら、国沢さんの背中へ声をかけた。
そこでようやく、彼女はぼくの存在に気づいたようだ。
「え? ……あっ、うぎゃ」
逆立ちのまま振り返ろうとした瞬間、腰を痛めたらしい。派手な音を立て、ベッドから転がり落ちた。
「ご、ごめん。だいじょうぶ?」
「いてて……。ギックリ腰、やらかしちゃった」
立ち上がろうとして、また腰の痛みにやられたらしい。ゴギャアと悲鳴を上げ、再び彼女はうずくまった。
「陽之上くんこそ、だいじょうぶなの? まだ頭の包帯、取れてないみたいだけれど」
国沢さんは目に涙をためながら、腰を押さえて慎重に立ち上がった。一瞬、手を貸してあげるべきだったかと後悔する。
「まあね。包帯なんて、ものの数時間で取っていい物じゃないし」
「ま、そりゃそうだよね」
神妙に目を伏せる国沢さん。
どうしたんだろう。どこか、気落ちしているようだ。
そう考えていたところで。
「ごめん、陽之上くん」
彼女はいきなり、頭を下げた。
「え。ど、どうしたの。急に」
ぼくは、目をぱちぱちさせた。あっけに取られる光景って、こういうのだろうな。
「ろくに説明もしないまま、こんな戦いに巻きこんじゃって……。しかもわたしが不甲斐ないばかりに、ケガまでさせちゃうなんて」
一向に頭を上げようとしない彼女を前にして、ぼくはなんだかやりきれないほろ苦さを感じていた。
国沢さんは、悪くなんかない。彼女のケガは、ぼくの責任だ。なのに彼女は、そんなぼくに向かって、頭を下げている。そんなの、おかしいじゃないか。
こんなことをされちゃ、わざわざ朝早くに来た意味がない。まだ日も出ていないうちに学校へ来たのは、国沢さんに謝りたいと思ったからだ。
部室に彼女がいるなんて確証は、どこにもなかった。だけどぼくは、いっこくも早く彼女に謝罪の言葉をかけたかったんだ。
「顔を上げてよ、国沢さん。国沢さんは、なにも悪くない。謝るのはぼくのほうだよ」
語尾を若干震わせつつ、腰を直角に折り曲げ、頭を下げた。こうすれば、彼女の怒った顔を見ないですむ。
「今回は、本当に、ごめん」
「そんな。やめてよ、そんなの。頭なんか、下げないで」
「いやだ。ここできみと向かい合わないと、ぼくはまた、自分から逃げ出すことになる」
床を見たまま、言い放つ。すると、国沢さんは無言になった。ギックリ腰なんて忘れたかのような足取りで、部屋の奥へ遠ざかる。
たっぷり数十秒経ったあと、彼女は再びぼくの前に立った。
「陽之上くん」
「はい」
思わず顔を上げる。
「あーん、して」
有無を言わさない勢いで、口になにかが突っこまれた。反射的にそれをかじる。
「ひっ――」
声を漏らすと同時に、ぼくは背筋を「ひええっ」とさせた。
冷たいソーダの感触が、一気に喉もとまで流れくだる。むせ返りそうになるのを必死でこらえ、アイスの棒を口から抜いた。
「お互い、少し頭を冷やさない?」
ニッコリと目を細め、自分の分のアイスにパクつく国沢さん。
「謝るのは、生きてる実感をたしかめてからでも、遅くないと思うんだ」
正直、食欲なんて全然なかった。あの血生臭い『夜』のあとに、朝食なんて摂れるわけがない。ましてや、嫌いな食べ物なんて。
だけど気づけば、ぼくは二口目に挑んでいた。しゃくしゃくとアイスを噛み、清涼感のある喉ごしを感じるたび、自分が生きて食べ物を口にしていることへ、喜びを覚えた。お腹が鳴ると同時に、じょじょに空腹感が呼び起こされていく。
「う」
涙がこみ上げてきた。
おいしい。
懐かしい味わいが、舌を駆け抜ける。ぼくはなにがなんだかわからないうちに、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしていた。
立ったまま食べるのは行儀悪いと思い、近くのイスに腰かける。
「ゲタ箱でさ」
ティッシュを差し出しつつ、国沢さんは真向かいの回転イスに腰を下ろした。
「陽之上くん、わたしの靴を盗もうとしたじゃない。あわててる陽之上くん見てたら、なんか事情、わかっちゃって。唐田くんに歯向うこともできないんだなって、少しがっかりした」
ぐうの音も出ない正論だった。弁解する気にもなれない。
「でも違ったね。殺されそうになったわたしとお兄ちゃんを、陽之上くんは勇気を振りしぼって助けてくれた。普通できないよ、そんなこと。素手でヒグマに向かうのと変わらないもん。強いよ、陽之上くんは。陽之上くん本人が、強い自分を否定してるだけ」
国沢さんは目を細めて笑い、ぼくの頭を軽くなでた。まぶたを飾るまつげの長さに、女の子なんだなと改めて気づかされる。
「そんなことないよ」
「あ。またそうやって否定する」
「国沢さんのほうがずっと強いじゃないか。あんな怪物に、堂々と立ち向かうんだから」
正論のつもりだった。だけど彼女は意外にも顔をくもらせ、声の調子を急激に落とした。
「わたし、ちっとも強くないよ」
国沢さんは沈痛そうにうつむき、視線を手元によこす。よく見るとその両手は、小刻みに震えていた。ぼくはそこで初めて、彼女の手が思いのほか小さいことに気づいた。
彼女も、ぼくと同じなんだ。能力者である前に、一人の高校生でしかない。
ぼくは無性にその手をにぎりしめたくなったけれど、すんでのところで我に返った。
「わたしも、実戦は初めてだったの。上のお兄ちゃんたちがみんな能力者だったから、何年も前から戦う覚悟はあったんだけどさ。でもいざやってみると、とても怖かった。知らなかったよ。生き物を斬るのが、あんなに怖いだなんて」
いつもとは違う弱気な態度を見て、ぼくはどう返せばいいかわからなくなった。数秒間言葉をためたあと、べつの切り口から質問してみる。
「国沢さんは、これからも戦うの? あの怪物たちと」
少し迷うそぶりを見せてから、彼女はうなずいた。
「わたしが逃げたら、わたし以上に怖い思いをする人が出てきちゃう。それが家族や友達だったら、わたしは一生、自分を許せない」
「そっか」
ぼくは顔をそむけた。天井のすみを見つつ、ぽりぽりとほほをかく。
「ぼくらって、弱い者どうしだね」
彼女は否定しなかった。そうしてくれたほうが、ぼくとしてもうれしい。
ぼくは深呼吸し、言った。
「ぼくも、入っていいかな。その……『お悩み相談部』に」
「え」
国沢さんはこちらを見上げ、ぼんやりと口を開けた。その視線にさらされるのがくすぐったくて、ぼくは鼻の下をこすりつける。
彼女を守りたい。彼女を守れる、強い人間になりたい。彼女と並び立てるくらい、強く、立派な人間に。
そんな気持ちが、『夜』への恐怖心より――ちょっぴり、ほんのちょっぴりだけ、勝った。
――弱くたっていいんじゃないか。
兄の声が胸に響く。
――持てる力をせいいっぱい使って、よりいい自分を目指してこうぜ。
ぼくは決心した。国沢さんを守る。そのためには、もっともっと、努力をしなくちゃいけない。
国沢さんは、数秒くらい硬直していただろうか。虚を突かれたように口をまん丸にしたあと、やがて「うん」とうなずき、回転イスの上へ飛び乗った。
「いっしょに、強くなろ」
手を差し伸べる彼女。見るとその指先は、まだかすかに震えていた。
窓から差しこんだ朝日が、室内をまばゆく黄金色に染め上げる。それはあたかも後光のように、彼女を背後から照らしていた。
ぼくは目を細め、国沢さんの顔を深く見つめた。
はにかみを混ぜた照れ笑いが、兄のものと重なる。どんなものにも屈しない彼女の生きざまは、生前の兄を思い出させた。
「覚悟しろよ。わが『お悩み相談部』は毎日、しかも朝まである。昼は悩み相談、夜は戦いで大忙しだ。授業中は、バレない程度に仮眠を摂れ」
いつの間に入室したんだろう。神出鬼没の岳人先生が、壁にもたれたまま、くわえたタバコをゆっくり持ち上げた。
教育現場で喫煙? 一瞬、なんだかなあって思ったけど、なんのことはない。よく見れば、タバコじゃなくてシガレットだ。
「どうせまたすぐ、奴らは来るさ」
彼は目を細めた。
「そこに人がいる限り、夜が途絶えるなんてありえない」
(第一話 終わり)
というわけで、第一話「明日編」でした。
ありきたりでデジャヴ満載の展開でしたが、二話以降で少しでも変えていけたらと思います。
次回はあの人物がキーパーソン。新キャラも登場します。