1‐5
その日の夜。九時五十分。
先生のセリフがどうしても気になったぼくは、恐怖をこらえつつ、夜の校舎へと出向いた。
窓からの月明かりを頼りに廊下を歩いていたところで、前方から差しこむ一筋の明かりに気づく。
懐中電灯の光だ。ひょっとしたら、岳人先生かな?
だけど違った。
「あん?」
相手はぼくを見つけて、間の抜けた声を上げた。そして大股でズカズカと、足早にこちらへ向かってきた。その顔を見て、ぼくは早くもここに来たことを後悔する。
「なんだ、明日くんじゃねえかよ」
唐田の底意地の悪い笑みが、ぼくを見下ろしていた。ぼくが昼間と同じく学校のカッターシャツを着ているのに対し、唐田は私服だ。少なくとも、唐田も一度は家に帰ったんだろう。
「幽霊かと思って期待しちまっただろうが。お前も肝だめしか?」
肝試し? なんのことか、よくわからない。
「なんだ、知らねえのかよ。出るんだぜ、この学校」
出るって、なにが。
「はっ、化け物に決まってんだろうが。うわさじゃあ二メートルを超すデカブツで、生きた人間をむしゃむしゃと食うらしいぜ。それも頭から」
学級新聞に載っていた、あれのことかな。唐田はうわさを検証しに来たらしい。
「それより、国沢への嫌がらせはどうなった。ちゃんとやったんだろうな」
「そ、それは」
ぼくは言葉を詰まらせ、下を向いた。
「ちっ。失敗したのかよ」
懐中電灯を放る唐田。電灯はぼくの頭に命中し、床下に落ちてぼくらを照らした。
「やっぱ、お前なんかじゃ無理だったかあ。お前、女子に守られる落ちこぼれだもんな」
言いつつ、唐田はぼくのお腹にこぶしをたたきこんだ。たまらずその場にうずくまろうとするけど、唐田はそのすきさえも与えてくれない。
「あの女、次に会ったらぶっ殺してやる」
唐田の瞳は、狂気に彩られていた。普段の彼よりも、さらに凶悪性の増した顔つきだ。
「いじめはかっこ悪い奴のすること、だあ? 正義面してんじゃねえよ、偽善者が」
国沢さんへの不満を発散するかのように、ぼくに向かって三発、四発。
怒りとも屈辱とも恐怖とも言えない感情が駆けめぐり、涙となって目尻に伝った。
殴りたい。唐田を。殴りたい。自分を。
だけどぼくには唐田を殴る度胸もなければ、自分を殴れる強さもない。
「物事ってのはなあ、『いい』『悪い』だけじゃ分別できねえんだよ。こいつ一人を犠牲にクラス中の笑いが取れるってんなら、それこそお釣りがくるレベルじゃねえか」
つぶやきつつ、手を休めない唐田。五発六発と、こぶしがなんの遠慮もなくお腹に刺さる。ガードするタイミングを失い、されるがままになってしまう。
唐田はもう、ぼくを見てすらいなかった。
こいつの眼中にあるのは、国沢さんだ。きっとまた明日にでも、国沢さんへの嫌がらせを計画するんだろう。
だけど、ぼくはそれを止めることができない。ぼくなんかが、国沢さんを守れるわけが、ないのだから。
殴られた衝撃で、ぼくは少しずつあとずさっていた。落ちていた懐中電灯に、かかとが触れる。電灯はころころと向きを変え、ぼくらの影を教室側の壁に落としこんだ。
――ふと。
唐田が、こぶしを止めた。
「な、なんで」
口をあんぐりと開ける唐田。揺れる瞳を、電灯で照らされた壁へ向けている。
「なんでお前……影がそんなに、デカいんだ?」
壁に映ったシルエットを見て、ぼくは仰天した。
ぼくの影は唐田のそれに対し、明らかに大きい。ざっと見る限り、大きさは倍以上だ。影だけを見れば、唐田を取って食おうとしている怪物にも見える。
突然、雄たけびがとどろいた。廊下中に響くその声は、まるで野獣の咆哮だ。
「なんだこりゃ、なにがどうなってやがる!」
耳をふさぎながら、唐田が怒鳴る。
びりびりと鳴る鼓膜を押さえながら、ぼくはふと影に目をやった。そして、息を呑む。影は山形に生えそろった牙を見せ、天井に向かって叫びの様子をかたどっていた。声は、ぼくの影から出ていたんだ。
懐中電灯の明かりが、なんの前触れもなく消え落ちた。廊下は再び、暗闇に包まれる。同時に、雄たけびもやんだ。
「電池切れかよ、くそ!」
声を荒げる唐田。その口調からは、緊張とあせりがにじみ出ている。
混乱の中、ぼくは、空中に二つの赤い丸が浮かんでいるのを見た。丸は横一列に並んだまま、一ミリも動かない。
なんだ……?
ぼくは目を凝らし、丸の正体をたしかめようとした。丸の中央には、大きな黒点がある。まるで、死んで充血した魚の目のようだ。
そのとき窓から、淡い光が差しこんだ。月明かりだった。その光が、赤い丸の正体を暴いた。
「ギャア」と唐田が大声をあげる。ぼくは腰を抜かし、その場に尻もちをついた。
壁際に、見たこともない怪物が立っていた。
二メートルを超す巨体。手は頭の何倍も大きく、両腕の筋肉は岩石のように盛り上がっている。平たく突き出た口から、紫色の液体がしたたっていた。赤い丸は、怪物の目だったらしい。
「た、助けてくれえ!」
恐怖で理性が飛んだんだろう。唐田が声を裏返す。
その声に刺激されたのか、怪物の腕が動いた。逃げようとした唐田をつかみ、壁に向かって投げ飛ばす。唐田の体は壁に当たってバウンドし、そのまま動かなくなった。
怪物は目を細め、のろのろと身体を揺らしながら、唐田へと近づいていく。
ぼくは震えを押さえながらも、その光景から目が離せなかった。
いくらいじめっ子とはいっても、このまま見殺しにしていいんだろうか。
怪物と唐田の距離は、もう腕一本分もなかった。紫の汁を垂らしながら、怪物は大きく口を開けた。生えそろった剣のような歯が、闇の中で不気味に輝いている。
我慢できず、ぼくは目をつむった。お尻をついたまま、少しでも距離を取ろうと後退する。
十メートルくらい下がったころだろうか。遠くから、肉が裂かれる音といっしょに、なにか鉄のような臭いが漂ってきた。
ケダモノの雄たけびが響く。
ぼくは最初、怪物が唐田にかぶりついているのだと思った。だけどよくよく耳をすますと、様子が違う。
はっきりと、息づかいが聞こえた。ぼくでも唐田でも、ましてや怪物でもない。女子のそれだとわかる、細い息。
ぼくは恐る恐る、目を開けた。目もくらむような濃厚な血のにおいのせいで、空気に色がついたのかと錯覚する。
一筋の白光が、目に映えた。それは刀だった。刃先から、誰かの鮮血がしたたっている。
刀を持った人物の前で、怪物はうめき声を上げていた。背中を袈裟懸けに斬られたらしい。出血した部分が、どくどくと脈打っている。
唐田は――無傷だった。
「く、国沢さん?」
刀を持った少女に、ぼくの目は吸い寄せられた。膝を折って呼吸を整えているのは、国沢さんにほかならなかった。
普段とまったく違う姿をしている。体のラインにフィットしたレオタードのようなスーツで、肩からつま先までを包んでいた。その上にチョッキをはおり、腰にはベルトポーチをつけている。頭にはヘルメットをかぶっていた。肩まであった栗色の髪は、その中に収納しているようだ。
衣装は全部、黒で統一されていた。白銀の刃が、闇の中で毅然とした存在感を放つ。
国沢さんは目を細め、怪物へと突進した。
怪物も負けじと、こぶしを振り回して応戦する。しかし国沢さんはやすやすとそれをかいくぐり、がら空きになった胴体に斬撃を浴びせた。普段の彼女とはまた違った迫力に、ぼくは息を呑むことすらも忘れる。
「なにをしている。早く加勢してやれ」
背後から、声。
いつの間にいたんだろう。岳人先生が腕を組んで直立し、冷たい目でぼくを見下ろしていた。いまの彼は白衣を脱ぎ、サマーセーターだけを上着にしている。
「彼女はいったい、なにと戦ってるんですか」
「『夜』だ」
先生は短く答えた。
「この学校で生まれる化け物さ。生徒の影に寄生し、個々人が抱く悩み・劣等感を糧に育つ。いま戦っているのは、言うなればお前自身の心の闇だ」
言われて、気づく。あの怪物は恐らく、ぼくの影から出てきたのだ。つまりあれは、ぼく自身の悩みを食べた、正真正銘の化け物だってこと……?
「そうだ。お前自身の自己嫌悪が、自身の弱さに関する劣等感が、あの怪物を育んだ。だから本来、あいつは陽之上、お前がしとめるべき獲物なんだ。もしお前が本当に強い人間になりたいと望むのなら、自分の問題は自分で解決できるようにならないとな」
先生の言っていることが本当なら、あれを作ったのはぼくってことになる。だったらなるほど、責任はぼくにあるんだろう。でも、だからといってこんな化け物と戦えだなんて。そんなの理不尽すぎるよ。
逃げ出したかった。いっこくも早く、ここから。
だけどいま、国沢さんはぼくなんかのせいで戦っている。もう、彼女に借りを作ったまま、逃げたくはない。
「成長した『夜』は、やがては人肉をも求めて徘徊する。いまがその状態だ。さっさと決断しなければ、全員オダブツだぞ」
ゲタ箱での一件を思い出す。
あのとき、ぼくは駆け出していた。いま逃げるということは、あれをくり返すってことだ。あんなみっともない態度は、もう取りたくない。
でも、なにができる。ぼくなんかに。たった一人のいじめっ子にすら逆らえない奴が、こんな途方もない化け物を倒すなんてこと、できるわけがない。
戦いは国沢さん有利で進んでいた。だけど彼女の顔には、あぶら汗がいくつも伝っている。
疲労を感じさせる国沢さんとは逆に、『夜』のほうはなぜか元気になっているようだ。動きにキレが増し、少しずつ形勢をかたむかせている。背中の傷は、早くもカサブタになっていた。
「早くしろ。『夜』はお前の悩みを吸い続けている。お前が迷えば迷う分、奴は力を回復するぞ」
岳人先生がせきたてた。ぼくは頭をかかえ、現実から逃避しようと目をつむる。
ぼくは、弱いんだ。こんなぼくが戦ったところで、殺されるに決まってる。国沢さんを助けるなんてこと、できるわけがない。
そんな心情を悟ったのか、岳人先生がぼくの頭に手を乗せた。
「陽之上。お前は一つ、誤解している。弱い奴とは、自分に甘え、強くなるための努力を恐れる奴のことだ。実力の劣る者のことではない」
ぼくはハッと顔を上げた。これと同じセリフを、昔、ほかの誰かが言っていた。
兄だ。
「お前は弱者になりたいのか?」
先生は眉にいっそうの力をこめ、ぼくを見た。一点の光もない、黒々とした瞳で。
ぼくは、尋ねずにはいられない。
「先生は、兄を知っているんですか」
「いまは答えている余裕などない」
先生の声は心なしか切迫していた。腕を組み、あごで怪物のほうを示す。
形勢は完全に逆転していた。国沢さんは呼吸を荒げながら、『夜』の豪腕をギリギリの距離でかわしている。勢いあまった怪物のこぶしはそのまま床へと激突し、直径三十センチくらいのヒビを生じさせた。
肩で息をしながら、再び『夜』へと飛びかかる国沢さん。喉をしぼりきるような声を発しながら、彼女は刃を振り下ろす。刀は『夜』の肩に食いこんだ。しかし『夜』は血を出すどころか、痛がる素振りさえ見せない。
「すまない。明日歩を助けてくれ」
岳人先生は腰を折り曲げ、ぼくに向かって深々と頭を下げた。
思いもよらない態度に、ぼくはギョッとする。
表情こそ冷徹さをかたどったままだけれど、言葉は切実な響きに満ちていた。
「年端もいかない子供相手に、無茶を言っているのはわかっている。だが『夜』を倒せるのは、能力を持った一部の子供だけなんだ。そしてお前には、その力が備わっている。『夜』を打ち破る能力が」
能力? 力? 先生の言っている意味が、よくわからない。
「頼む。あいつは俺の……たった一人の妹なんだ」
いまさらながら、その事実に気づく。名字が同じだから、まさかとは思ってたけれど。
でも先生の願いは、ぼくには荷が重すぎる。あんな化け物と戦える強さは、ぼくにはない。この状況がぼくのせいだとしても、こんなのどうしようもないじゃないか。
「あとはお前の気持ちしだいだ。お前自身が戦う気にならないと、刀はお前の手元に現れない」
意味がわからない。先生は、ぼくをマンガのヒーローだとでも思っているのか。だったらそれは、ひどい間違いだ。ぼくには誰かを守る力もなければ、英雄面をする資格もない。
そのとき、『夜』の雄たけびといっしょに、なにかやわらかいものがたたきつけられる音がした。
国沢さんだった。数メートル先まで吹き飛ばされた彼女は、床に背中を打ちすえ、ピクリとも動かなくなった。
刀は粒子となって、刃先からゆっくり消滅していく。
「く、国沢さん!」
怪物の前であるにもかかわらず、ぼくはとっさに叫んでしまった。
恐れていたことが、ついに起こってしまったんだ。
怪物は舌なめずりをしながら、国沢さんの元へ歩み寄っていく。
これで、いいのか? ――そんな思いが、心の中で湧き起こる。
ここで行動を起こさないと、ぼくはこの先の人生、ずっと後悔し続けるんじゃないか?
先生は言っていた。この『夜』は、ぼく自身の心の闇だと。ここで国沢さんが食べられてしまえば、 それはつまり、ぼくが彼女を殺したことになる。
助けてくれた女の子を、殺す。人として、やっちゃいけないこと以前の問題だ。
『夜』は歩行しながら、これでもかってくらいに口を開いた。もう少しで顔が断裂するんじゃないかとすら思える。
「明日歩!」
先生が駆け出した。怪物の横から、渾身の体当たりをお見舞いする。だけど岩のような筋肉に対し、それはあまりに無意味な行為だった。
怪物は虫でも払うかのような仕草で、先生の背中を引っかいた。
あれは爪というより、刃だ。なにせ一枚が、人間の頭と同じくらい大きい。
先生は辺りに血を飛び散らせながら、短い悲鳴を上げてうつぶせになった。床と頭蓋骨がぶつかりあい、嫌な音をたてる。
『夜』は爪の先にこびりついた血をなめ、人間の味を少しばかり楽しんだあと、今度は四つんばいになった。国沢さんとの距離は、もう二メートルもない。
極上のエサを前にし、荒れ狂った野犬のように喉を鳴らす『夜』。勝利の余韻を楽しむかのごとく、ゆっくりとした動きで着実に歩み寄っていく。
真っ白になった思考にムチ打ちしつつ、ぼくはうつむいた。
視界がぶれる。胸が恐ろしいほどの速さで鼓動を打ち、体中のありとあらゆる穴から汗がふき出してきた。
ぼくは。俺は。
自分を助けてくれたクラスメイトさえ、見殺しにするのか?
自分のせいで、傷つけたのに。
だけどぼくには、怪物に対抗する力がない。こんなぼくに、やれることなんてない。
――『できる』『できない』かじゃない。
ふと。
昔聞いたセリフが、頭に浮かんだ。
――大事なのは、『やる』か『やらない』か、だよ。
目をつむると、まぶたの裏に兄のうしろ姿が描かれていた。兄はぼくの顔を見ることもなく、憂いを秘めた声で言い放った。
『できる』『できない』じゃない、か……。
そんなの、誰もが口にできる一般論だ。熱意や根性だけじゃ、なにも救えなんかしない。
力だ。
正義を守るには、圧倒的な力が不可欠なんだ。そしてぼくには、そんな強さは微塵もない。ぼくが化け物に歯向かったところで、なにも変わらない。せいぜい無残なひき肉が一体、廊下に転がるだけだろう。
――『できない』『不可能に決まってる』。そんな風に決めつけてたら、自分はいつまで経っても自分のままだ。
またしても、兄の声が脳裏を突く。
――最初からあきらめてたら、強くなれる奴だって強くなれない。強くなれるのは決まって、自分の限界を超えようって思える奴なんだよ。
「……」
ぼくはこぶしをにぎりしめた。手はすっかり汗ばみ、あぶらぎった嫌な感触がする。
力がない。勇気がない。勝つ可能性がない。逃げ出す理由としては、充分過ぎるくらいだ。
でも。
だけど。
いまこの場で、みんなを見捨てて逃げ出したところで――それは結局、自分を殺すことにほかならないんじゃないか?
いま彼らを置いて逃げ出したら、そしたらぼくは。
たぶん二度と、強い人間を目指すことはできない。
恩を仇で返し、恩人たちを見殺しにした、意気地なしの卑怯者。自分自身にそんなレッテルを貼りながら、生きていくことになる。
――それでいいのかもしれない。命と引き換えにできるものなんて、この世の中にあるはずがない。
そう考える自分と。
――自分より大きいものを前にして、また逃げ出すのか? 自分の殻をやぶりもしないまま。
心の中に住むもう一方の自分が、対立する。
そんなぼくの葛藤なんて、怪物にとってはどうでもいいようだ。敵はついに国沢さんの足元にまで到達した。あと数秒もすれば、その鋭利な歯を彼女の喉へ突き立てにかかるだろう。
数秒先の未来を予想した。鼻がもげ落ちるような悪臭の中、内臓を散らかされた国沢さんの死体。血だるまになって、一心不乱に彼女へ覆いかぶさる、『夜』。
そんな。
「……そんなの、絶対に」
昨日、国沢さんに助けられたときのことを思い出す。自分よりもずっと大きい唐田から、ぼくを守ってくれた彼女。
次はぼくが、恩返しをする番だ。怪物と刺し違えてでも、ぼくは国沢さんを助けなければいけない。こんなぼくの命と引き換えに彼女が助かるのなら、それに越したことは。
ない、はず。
ないはずなんだ。
それに彼女は、言った。正義は必ず勝つ、って。
――国沢さん。
「ぼ、ぼくは」
ぼくは、
ぼくは、
ぼくは。
あいつを、討つ。
「ぼく自身の、悪い心を」
ゆっくりと目を開く。手の中に、一本の日本刀が現れた。
不思議と重さは感じさせない。鞘を抜くと、真っ黒に染まった刀身があらわになった。形は国沢さんの物とそっくりだけれど、色は正反対だ。
手が、まだ微妙に震えている。だけどもう、迷っている余裕はなかった。怪物は国沢さんにのしかかり、いまにも喉もとを食いやぶろうとしている。
ぼくは声を裏返しながら、『夜』に向かって突っこんだ。夜闇にまぎれた右手の刃を、相手の脳天めがけて振り下ろす。切っ先が額の肉を裂き、浅い傷を与えた。
怪物はなにごとかと顔を上げ、にごった両眼でぼくをとらえた。そして、咆哮。ぐわんぐわんと空気を突っ切り、こぶしが飛んできた。ぼくはよけきれず、刀でそれを防ごうとする。
でも、失敗だった。刀は衝撃に耐えきれず、直後、粉々に砕け散った。
反動で、ぼくは壁にたたきつけられる。背骨を打ったとたん、全身から力が抜けていくのを感じた。
ダメなのか、やっぱり。
背中からズルズルとずり落ちながら、ぼくは血のしたたる頭をがっくりと下げた。
『夜』が立ちはだかり、充血した目でぼくを見下ろした。喉を鳴らし、凶悪な牙をあらわにする。食事を邪魔した腹いせに、ぼくのほうから食べてやろうって魂胆か。結局ぼくは誰一人守ることもできないまま、みじめにぶざまに死んでいくんだ。
こんなんじゃ。
こんなんじゃあ、兄や国沢さんのような強さからは、やっぱりずっとずっと、ほど遠い――
「陽之上くんっ」
夜を討ちやぶる声がした。
意識を戻した国沢さんが、横たわったまま、喉をからし口を広げ、声を張り上げる。
「がんばって!」
とたん、心臓が焼けるように熱くなり――直後。
ぼくは目を、強く見開いた。
あれ……?
どういうわけだか、周囲が昼間のように明るい。遠くの物さえ、やけに鮮明に見える。
熱を持った胸元が、不気味に赤く輝いていた。ちょうどあの、卍の印をなぞる形で。
そこへ手を当てる。ひときわ大きい鼓動と同時に、ぼくの手はなにか棒のような物をつかんでいた。棒は、印の部分から突き出ている。
意を決して、その棒を引き抜いた。
現れたのは、むきだしの刀身だった。さっきの刀と同じく、色は黒い。だけど大きさはケタ違いだった。刀身は天井に届きそうなくらい長く、その幅は人の顔幅と同じくらいある。
「なんだ? この感覚。やけに背中が、ざわつく」
岳人先生までもが目を覚まし、上半身を起こしてつぶやいた。血の混じった息をはきながら、背中をぶるりとふるわせる。
「陽之上二世め。どうやら期待以上の力を発揮してくれそうだ」
ぼくは立ち上がった。頭からの出血も、もう、あまり痛いとは感じない。
目の前の、化け物。こいつは国沢さんを傷つけ、あまつさえその事実から逃げ出そうとした、ぼく自身の卑劣な心だ。
――消えちまえ。
怪物が絶叫し、こぶしを突き出した。
遅い。
ぼくは即座に身をひねり、折りたたんだ足をバネに跳躍した。空中で太刀を振りかぶり、うしろ足で 天井を蹴る。
そして落下の勢いを利用し、敵を頭から真っ二つにした。