5-5
キュッ、と剣道場の板が鳴るのと同時に、突進してくる影があった。
先生だ。岳人先生だ。
振りかぶられたその竹刀が、ぐわんぐわんと急降下し、ぼくの頭めがけて襲いかかってくる。
本物の剣にも勝る迫力で繰り出される竹刀を、ぼくはただ防ぐことしか出来なかった。持っていた刀を、頭上にかざす。竹刀と竹刀が、頭の上でかち合う。
「陽之上。何度も言ったはずだぞ」
先生はすばやく、刀を捨てた。
「敵は決して、形式ばった戦い方はしないんだ」
ぼくはギョッとし、刀を前方に構えなおそうとする。
でもそれは、一泊遅い。先生のこぶしが、ぼくのお腹を思い切り押し出した。
内臓が潰れそうなほどの衝撃。ドミノ板のように、背中から倒れこんだ。
「が、うぁ……」
喉の奥から、すっぱい物がこみ上げてくる。あわててそれを飲みこんだ。
じんじんと痛むお腹が、全身から力を奪い取っていく。立ち上がりたい。けれど、体が言うことを聞かない。しょせんぼくには、これが限界なのか。
目を開いた先に、天井。高い。手を伸ばしても、ぜんぜん届かないや。
いまのぼくはちっぽけで。
きっとどこにも、登りつけない。
「いいか陽之上。戦いの際は、体以上に頭を動かせ。相手の動きに合わせて、即座に対応を切り替えろ。そうでなければ、死ぬ」
先生が、倒れているぼくの顔をのぞきこんだ。
『死ぬ』。なんの遠慮もなく放たれたその言葉から、ぞっとするほどの恐怖を感じる。
「……だがまあ、今日はよくがんばったな」
がんばった。なにを? ぼくはまだ、なにもやり遂げてなんかいないのに。
「もう正午だ。休憩にしよう。ちょうど、腹も減っているだろう」
先生は無機質な声でそう言って、無表情のまま片手を差し伸ばしてくる。
その手を受け取ろうとは思わない。両手を床につけ、上半身を起こそうと試みる。へその辺りがズキリと痛み、思わず肘を折った。
「無理をするな。一人で立ち上がろうとする勇気も必要だが、誰かの手を取る勇気も、いざというときには大事なんだ」
でもいまは、そんな勇気、必要ない。
いつも手を差し伸べてくれていた人が、いまは窮地に追いこまれているんだ。そんなときくらい、自分の力で立ち上がれなくてどうする。
もっとも――こんな風に自立しようとしたところで、状況はなに一つとして変わらないのだけれど。
「平気です。無理って言われるほど、体を酷使してはいませんから」
「そうか。よかった。昼飯がてらに、明日歩の容態をうかがおうと思っていたところなんだ。陽之上。お前も、明日歩の寝室に行かないか?」
「それは……、行きます。行きたいです」
ぼくは即座に身を起こした。
国沢さん。三日前の夜に倒れて以来、一度も顔を合わせていない。彼女の容態はいま、どうなっているのか。あまりよくないってことは聞かされている。だからこそ直接、この目で見たい。確認したい。
「行きたい、か。おどろいたな。まさかお前が、こんなに強く自分の意思を表明するとは。これも成長の証か」
成長。そんな大それたものを遂げた覚えはない。ただ知りたかっただけだ。いま現在の彼女の容態。一目見て、確認しておきたかった。
表に出て、先生のワゴンに乗りこむ。
そのまま十分くらい走ったところで、窓の外に純白の大きな塀が見えてきた。見渡す先まで、ずうっと広がっている。
「屋敷周辺の土地は、すべて国沢家が管理している。俺たちの家は、この塀の向こうだ」
なるほど。それで、辺りに民家が見当たらないのか。
やがて目の前に、荘厳な雰囲気を放つ鉄の門が現れた。
先生が、液晶画面に浮かんだ数字を押し始めた。どこかへ電話をかけているらしい。どうやらつながったようだ。スピーカーに向かって呼ばわる。
「俺だ。門を開けてくれ」
かしこまりました、っていう義務的な声が返ってきた。
早く開けてくれ。膝がカクカクと貧乏ゆすりを始める。
数秒後、閂が外れる音がした。続いて、門がひとりでに開いていく。
オートロックの自動ドア、か。よくわからないところに、お金を注ぎこんでいるなあ。
門をくぐり、さらに直進。門から屋敷までの広大な空間を使用すれば、きっとサッカーができるだろう。整備された庭木たちを両脇に、車はまっすぐ突き進む。鮮やかな緑が、目に映えた。精神に余裕さえあれば、一流の高級旅館に来た気分を味わえたことだろう。
屋敷が間近に迫ってきた。歴史を感じさせる木造建築。視界一杯に広がる日本家屋を前に、このときばかりは息を飲んだ。
屋敷の前には、幅三メートル程度の川が流れている。その上にかかる橋を器用にわたり終えたのち、車は止まった。
屋敷に入る。先生の背中に付き従い、黙々と歩いた。
本当ならすぐにでも国沢さんの所へ突っ走りたいのだけれど、ぼくは彼女の寝室がどこにあるのかを知らない。それに、この迷路みたいな屋敷に案内もなしに踏みこめば、きっと迷ってしまうだろう。
数分間、歩いた。先生はふと、一枚のふすまの前で足を止める。
「入るぞ」
その言葉を、ぼくと国沢さん、どちらに当てたのかはわからない。先生はそっとふすまを開けた。
十畳くらいの空間が、目の前に広がる。畳敷きの部屋のまん中に、真っ白い布団が敷かれていた。
国沢さんはその上に、うつ伏せで寝かされていた。下半身は白い寝装束をはいているけれど、上半身は肌をむき出しにしている。毛布一枚かけていない。
普段だったら目のやり場に困る光景だけれど、このときばかりは、そんなことを考えているヒマもなかった。
「……」
ぼくはただただ、言葉を失う。
彼女の上半身は、すでに人ではないなにかによって支配されていた。額からおへその下にかけて、線状の青アザが何十本と走っている。いびつな形で伝うアザたちは、まるでその一本一本が一匹の生き物であるようにさえ思えた。
国沢さんは眠っている。……眠っているんだよな? 目を閉じ、まるで死人のように動かない。肌はぞっとするほど白く、日頃の彼女の面影はまるでない。
「思った以上に進行が早いな。いつ成体になっても、おかしくはない」
先生は彼女の枕元に膝を立て、渋面を作りながら妹さんの顔色をうかがった。
「昼食の用意をしてくる。すまんがそれまで、妹のそばにいてやってくれないか。こいつを守ってやってくれ」
言って音もなく立ち上がり、そのまま寝室から出て行った。
部屋には、ぼくと国沢さんだけが残される。
静けさがやけに重々しくて、胸に圧迫感を覚えた。
ぼくは国沢さんの枕元で、膝をたたんだ。
浮き上がったいくつものアザ。見ていられない。かたわらに転がっていた毛布を取り、彼女の体にかぶせる。国沢さんはしばらく息を止めたあと、また荒々しく呼吸を始めた。
いまの彼女に、ぼくがしてあげられることなんてあるのかな。
死のふちでもがき苦しんでいるだろう国沢さんに、ゆっくりと手を指し伸ばす。そんなことが、本当にできるのかな? このぼくに。
戦う資質さえもない。死を覚悟することも、殺す度胸だってない。悲しみに直面する勇気すら、どこにもないんだ。
もしこの戦いに負けたとしたら、ぼくは死ぬかもしれない。国沢さんは殺されるだろう。最悪の結末。血のエンディング。そればかりが頭をよぎる。
「国沢さん。ぼくは……ぼくは」
もうこれ以上、嫌な思いをしたくはない。
ほっぺたを、雫が伝っているのに気づいた。
泣いちゃだめだ。泣いたらいけない。男が泣いてどうするんだ。女の子の前で、こんなにも弱い自分をさらけだすなんて。そんなこと、あっちゃいけない。
口元を押さえて、嗚咽をこらえる。だけど、涙は止まらなかった。押しとどめようとすればするほど、膝に落ちる雫の量は増していく。
静かな部屋に自分の惨めな泣き声が反響して、それがなんだか、どうしようもないくらいに嫌だった。
ごめんよ、国沢さん。
ぼくは、きみをまた、見殺しにするかもしれない。
「どうして、泣いてるの」
柔らかな指が、目尻に触れた。
ぼくは思いがけず、出しかけた涙を引っこめた。
国沢さんが片手をゆるやかに持ち上げ、ぼくの涙をすくい取っている。そしてクスリと目を細めた。その笑顔は、弱った赤ん坊を連想させた。
「わたしのことなら、だいじょうぶだよ。こんなの、自分の力でなんとかするから」
両手を床につけ、起き上がろうとしている。
「だめだよ!」
彼女の手をとっさにつかみ取り、床に押しつけた。自然、押し倒すような格好になる。
毛布がはだけ、国沢さんの白い胸元があらわになった。
「あっ、いや。ごめん」
頭にカーッと血がのぼる。ぼくは反射的に手を引っこめた。顔を背けながら、彼女の体に毛布をかぶせなおす。
「国沢さんは、寝てなくちゃだめだ。こういうときくらいは、その」
ぼくにまかせてよ。
開いた口は、確実にそう告げようとしていた。でも、言えない。言葉がうまく声にならない。
国沢さんは毛布に包まりながら、クスリと鼻をくすぐるような笑い方をした。
「変なの。陽之上くんって、ムキになって怒鳴るタイプだっけ」
「……怒鳴れる人間に、なったのかもしれない」
「あはは、なにそれ」
怒鳴れる人間には、なった。けれど他人の命をしょいこめるほど、器用な人間に離れない。きっと、永遠に。
「わかったよ。そんじゃまあ、頼りにしてるから。ね、相棒」
国沢さんは目を閉じた。数秒後、その口からかすかな寝息が漏れてくる。
『相棒』。
残された単語に、なんでだろう、ぼくは少し歯がゆさを覚えた。彼女はぼくを、パートナーとして信じてくれた。自分の命を預けてくれた。自分で自分を信じることもできない、こんなぼくなんかを。
ぼくに国沢さんを守ることなんてできるのかな。いや、やらなくちゃいけない。だけど失敗した先に待っているのは、彼女の死。またぼくは味わうのか。身近な人間が、惨殺されていく恐怖を。
思わずぼくは、声に出した。
――そんなの、嫌だ。
「なら、逃げちまえばいい」
ちりん。
鈴の音。
「人生、自分がいいと思う道に進んだほうが、楽に決まってらあ。そうだろう? ヒョータンナスビくん」
意地の悪そうな、甲高い声。背後からだ。
振り向くと、部屋の隅に見慣れた影がある。腕を組んで壁にもたれ、片目をネコみたいに見開きながらニヤニヤしていた。背広姿の痩身。星のマークが入った眼帯。腰にはポーチをつけている。
「どうして、あなたが……」
ぼくは声を失った。たぶん、一ヶ月ぶりくらいの対面だ。
「どうして? ――ハッ! んなもん、ぶっ倒れた妹のバカ面拝むために決まってんじゃん。俺様の情報網を甘く見んなよ。お前らが来るのも、とっくの当に予想済みだっての」
言って。
国沢夏乃さんは、とがった八重歯をキヒヒと見せた。
「で、でも。いったい、どうやって。いつの間に」
「どうやってって。そりゃおめえ、ふすまを開けて入って来たに決まってるじゃねえか。お前がめそめそ泣いてる間によお。面白そうだからしばらく気配を消してたんだが、お前らときたら気づきもしねえでイチャこきやがって。いいかげん退屈だったから、手っ取り早く声をかけたって寸法よ」
こともなげに言ってのけ、部屋の中をぐるぐると歩き回る。
「いやー、ざっと一ヶ月ぶりだな。そういや、おさのんは元気かい。ほら、修野っち。あんときゃー俺、中途半端なところで退場しちまったからさ。奴に関しちゃ、ちこっとばかし気がかりなんだよ。ま、電話すればいいだけの話だが。あ、そうそう。これ」
夏乃さんは思い出したようにポーチをまさぐり、中から網に包まれた団子を取り出した。
『熊本名産 いきなりだんご』――網には、そう書かれた紙が貼られている。
夏乃さんはそれを一つつまみ取って、
「食うかい? やらねえけど」
見せびらかすように、自分の口へと押しこんだ。
あくまでマイペースに接する彼に対し、ぼくはなんて言葉をかければいいのかわからなかった。
「ふふん。あのときの素敵イケメンお兄様が、なんでこんなむさ苦しい屋敷に? って面してんな。んなもん決まってるじゃねえか。そこでグースカ寝ているクソ妹」
夏乃さんが、聞いてもいないのにまくしたててくる。いきなり、右の手袋を脱ぎ捨てた。鋼の義手があらわになる。冷たく光るその指先で、眠っている国沢さんを指さした。
「そいつを殺しにやってきたんだよ」
「……! こっ」
殺す? 実の妹を?
な、なんでっ。
どうして、そんなまねを。
「がはは。なんだよ、『……! こっ』ってよお。コッココッコ、てめえはニワトリかあ? あーん? きひひ、ちぃーっと考えればわかっだろ。てめえみたいなヒョータンナスビくんじゃ、成体化した『夜』を討つのは不可能。結果として能力者は全滅し、この町は魑魅魍魎が跳梁跋扈する無法地帯になる。そうならねえようにするには、いまここで明日歩ちゃんごと敵を討つ。最悪の事態よりかは、マシだろうよ」
「で、でも、そんなことをしたら、国沢さんがっ。実の、妹なんでしょう」
「かっ。いまさら家族に対して、情なんざわかねえっての。ごちゃごちゃ青臭えこと抜かしてんじゃねえよ。言葉はなにも意味をなさねえんだから」
夏乃さんは左手の関節をボキボキと鳴らし、戦闘態勢を取る。ぼくも思わず、防御の姿勢を取った。夏乃さんの実力は、以前戦ったときに嫌ってくらい理解している。全力で挑んでも、勝てるかどうかわからない。
結局――戦うしか、ないのか。
「止めたいってんなら、俺を殺す気でかかってきやがれ。その覚悟さえもない奴に、戦う資格なんてねえ――まあ、とは言ったものの」
夏乃さんは固めていたこぶしを解き、肩をすくめるようなしぐさを取った。
へ?
ぼくは一気に気を抜かれ、目を丸くする。
「なにせ俺は、白いハトのような平和主義者だからな。実のところ、争いごとはあまり好きじゃあねえ。てことで、ここは一つ、ジャンケンで勝負だ」
ジャ、
「ジャン……ケン?」
ジャンケンって、グーとかチョキとかパーを出しあう、あのジャンケンだよな。
実の妹の命を、そんなもので左右するのか?
「そ、ジャンケン。お前が勝てば、俺はすぐにこの場を立ち去る。俺が勝てば、俺はかわいい妹を絞め殺す。ナイスアイディアだろ? フェアでなおかつ、平和的だ」
状況はこれ以上ないくらい理不尽だし、とても平和的だとは思えない。でもそれをこの場で指摘したところで、夏乃さんは聞く耳を持たないだろう。
彼はにやりと笑って、固めたこぶしを振り上げる。
「じゃあいくぞ。最初はグー、ジャンケン、」
わ、わわっ。
ぼくは立ち上がり、出遅れないようにとグーを出した。夏乃さんにどんな思惑があるのか知らないけれど、国沢さんの命がかかっているんだ。やらないわけにはいかない。
恐る恐る、手元を見た。勝敗を見るのが怖い。けれど、見ないわけにはいかない。負けたら負けたで、そのときは全力で彼女を守ろう。
はたして結果は――ぼくのグーに対し、夏乃さんはチョキ。
「……か、」
勝った。
思わず、安堵の息が漏れる。
でも、それはつかの間の安心に過ぎなかった。
直後、大きく猛った鋼鉄のこぶしが、油断しきっていたぼくのあごへと襲いかかった。
骨が砕けるんじゃないかって思えるくらいの、衝撃。反動で、思わず倒れそうになる。
「ばあか。なんでお前、すなおにジャンケンなんかやってんだ」
残酷な声が落ちてくる。ぼくはお腹を押さえながら、畳の感触を味わい続けた。
「そ、それは、だって」
「俺にそう言われたから、だろ。それがてめえの悪いところだ。他人の言うことには唯々諾々と従う。どうせ『夜』を討つ仕事だって、兄ぃか誰かに吹きこまれたから始めたんだろ。やれって言われたから、やる。そんな風に人生決めてちゃ、いつかきっと後悔すっぜ」
放たれた爪先が、再びへその辺りを襲う。全身から、力という力が奪われていく。防御することもできない。これじゃあ本当に、なすがままだ。
「唐突だが、ここで一つ、心温まる童話を紹介しよう」
凶悪な光を帯びた隻眼が、ぼくを見下ろす。
ぼくはかたわらで寝息を立てる国沢さんを見た。どうにかして、彼女だけでも助けないと。大声を出そうにも、お腹に力が入らない。代わりにのどからは、うめき声が漏れている。
「昔々とある高校に、品行方正で誰からも好かれる超美形の紅顔少年と、真面目で大人しい文学少女がいました。二人は『夜』とかいうわけのわからん怪物と戦いながら、日々イチャついておりました」
少年。少女。そして、『夜』。
ひょっとしてそれは……夏乃さん自身の、過去なのか。
「その少年には、気心の知れた親友とも言うべき男子生徒がおりました。その男子は、文学少女の幼馴染でもありました。少女に心底ほれこんでいた彼は、少女と少年の関係を、ひそかにねたんでいたのです」
さながら喜劇を語るかのようにウキウキとした口調で、話を続ける夏乃さん。優越にまみれた笑顔。ぼくのお腹を、何度も蹴飛ばす。
「がが、ぐっ」
胃がギュッとへこみ、喉もとめがけて液を押し出す。
「さて。ここで問題になってくるのが、『夜』の特性。『夜』は宿主の抱く願望を、自らの行動に反映させることがあります」
知っている。嫌というくらい、体験している。
森永さん。
彼女の『夜』が、まさにそれだった。
「男子生徒の影からは、とても強い『夜』が出てきました。そしてその『夜』は、片思いの相手である少女を強姦しました。それも、パートナーである少年の目の前で」
ヘドが出る話だ。夏乃さんが戦いを嫌っていたのは、たぶんこれが原因だろう。好きな人を、目の前で強姦される。しかも、原因を作ったのは無二の親友。ぼくならきっと、一生消えないくらいの傷を心に受ける。
夏乃さんは狂気に浮かされた口調で続けた。
「そして少女は化け物の胃に納められ、助けようとした少年も、左目と右腕を失いました。めでたしめでたし」
特大の一撃が放たれた。足じゃない。振り下ろされた右こぶし。わき腹に、重々しい感触。激痛。もう少しで、内臓が風船のように破裂していただろう。ひょっとしたらもう、どこかの部位はそうなっているのかもしれない。
唾液が畳を汚した。それはうっすらと赤い色を混ぜ合わせている。
横目で、国沢さんを見た。堅く目を閉じたまま、ぴくりとも目を開けない。
助けて、っていう甘ったれた感情を。
よかった、っていう、安堵の気持ちで打ち消した。
病床の彼女を起こしちゃいけない。命さえ危ぶまれている彼女に助けを請うだなんて、そんなの、もってのほかだ。これはぼくの戦いなんだ。どんなに辛くても、ぼくが国沢さんを守らなくちゃ。
畳に爪を立てる。せいいっぱいの力を手足にこめ、立ち上がろうとする。
虫を見るようなあざけり笑いが、背中越しに感じられた。
「どうだ、教訓的な話だろう。『戦って得るものなんか、一つもない』。『人間関係ってのは面倒だ』。その二つのメッセージを、たった一分で伝えてくれる。一粒で二度おいしい童話だな」
ぼくはつばを飲む。こぶしを握り、爪を手のひらに食いこませる。
こんなにがんばっても、得るものなんかなにもない。
それはたしかに、そうかもしれない。でも、がんばることが無意味だとは、思いたくない。
「俺が放浪の旅を決意したのも、この出来事がきっかけさ。この町にいると、いろいろ思い出しちまうんだよ。辛い記憶とか、楽しかったころの思い出とか。そういう過去に縛られるのが嫌で、俺は家を出た――でもよお」
彼は続けた。ため息を一つ吐き、心なしか語調を和らげる。
「なんでだろうな。どれだけ遠くに行ってもよ。ちっと油断すると、すぐにここへ戻ってきちまうんだ。嫌で嫌でたまらねえのによ……!」
まるで八つ当たりでもするかのように、ぼくの背中にかかとを落とす。ぼくは再びくず折れた。夏乃さんはヒュウと口笛を吹き、国沢さんの体にまたがった。その手がゆっくりと、彼女の白い首に触れていく。
「やめろっ」
ぼくは反射的に身を起こした。鋭利な痛みが、全身にビインと駆け抜ける。でも、ソンなのに構っているヒマはない。両手を広げ、国沢さんの前に立つ。
「ここから先は、指一本も触れさせない」
荒い呼吸が、口から漏れる。
分不相応なことを口走っているのは、わかっていた。鈍い輝きを放つ白銀の義手が、視界の中央で凶悪な雰囲気を漂わせている。ぼくなんかの細腕が、あれを止められるはずもない。
「ははっ――活きがいいなあ、青少年」
夏乃さんは、片目を丸く見開いたまま。
ずい、と踏み出し。
びり、と、空気を切り破る。
ちりん、と。
鈴の音を響かせながら。
「なかなか熱い気持ちだ。だがよ。そんなにぬるい熱意だけじゃ、事態はどうにもなりっこねえ。それはおめえだって、痛いくらいにわかってんだろ」
その目が細まる。異様に長い舌が、べろりと飛び出た。
「気持ちだけでうまく事が運ぶのは、少年漫画の中だけさ。奇跡だとか根性論だとかに身をゆだねたって、救われるはずがねえ。だからその前に」
鋼のこぶしが、
「しかるべき対策を、打つまでよ」
重厚にきらめく。
――そして、突き出された。
まっすぐうねりを上げ、一瞬でぼくをなぎ倒し、そのいきおいを保ったまま国沢さんの頭へ、
振り下ろされて、
「やめろっ!」
ぼくは金切り声を上げた。悲鳴が喉を裂くかとさえ思えた。瞬時に腰を浮かす。けど、間に合わない。夏乃さんのこぶしは国沢さんの頭へ、ああ、いままさに頭へ!
だけど……。
夏乃さんの手が、ピタリと止まった。彼のこぶしと国沢さんの額との間には、上一枚分の隙間しかない。
あっけに取られて固まるぼくに、夏乃さんはいびつな笑みをよこした。
「殺す気なんざハナからねえよ。つうかそもそも、殺せるわけねえじゃん。俺は能力者じゃあねえからな。明日歩ちゃんを殺せても、その中にいる『夜』までは倒せない。やーい、だまされてやんの。ばーかマヌケ」
そ、そういえば、そうだった。普通の人には倒せないからこそ、ぼくや国沢さんががんばらないといけないわけで。
「そうだってわかってるのなら、いったいなんでこんなことを」
「たしかめたかったのさ。お前がどれだけの覚悟を持って、この仕事に接しているのか。戦う心構えはできてるのか。それを確認したかったからこそ、あえて危機的状況を作り出した。相方の危機に、お前がどう対処するのか」
覚悟。心構え。
そんなもの、ぼくには。
「結論から言うと、てんでダメだ。気持ちもまるで中途半端だし、なにより実力が伴ってねえ。その調子で行けば、『夜』の餌食になるのは確実だ」
夏乃さんはふすまを開けた。一歩部屋を出、きついまなざしで振り返る。
「考えな。自分がこのまま、戦い続けるのかどうかをよ。でないと本当、笑えなくなるぞ」
「ぼくはもう、笑う気なんてありませんよ」
ぼくは少しずつ胃が冷えていくのを感じた。さっきまでたかぶっていた気持ちが、すーっと潮のように引いていく。
夏乃さんは軽く笑んだ。ふところからケータイを取り出し、耳に当てる。
「おうおう、久しぶり。元気してたか? 俺だよ俺。いやなに。実はちょっくら、ウケる話を仕入れてよ」
彼はそこでふすまを閉めた。だから電話の相手は誰だったのか、そして会話の内容はなんだったのか、ぼくは知るすべを持たない。ただ一つ言えるのは、ぼくのかたわらには相変わらず国沢さんがいて、ときおり苦しげに眉をひそめながら、刻一刻と死への道のりを歩んでいるということだった。




