5-4
「『侵食型』……」
ベッド上でうなる国沢さんを眺めながら、岳人先生がつぶやいた。水着を着たままの彼女の胸へ、聴診器を押し当てる。
「心音に異常がないのが、まだ救いか」
「侵食型って、なんですか」
初めて聞く単語だ。『侵食型』。それも、『夜』の一種なのかな。
「宿主の体に住み憑き、そいつの体力を奪っていく、特殊なタイプの『夜』。俺も過去に、一度だけ遭遇したことがある」
そこで首をひねった。
「だが妙だな。この俺が、妹の体内に巣食う『夜』を感じ取れなかったなんて」
いや。それを言うなら、なんで先生はいままで、『夜』の気配を察知できていたんだろう。
聞こうかどうか迷ったけれど、うっ血した国沢さんの顔を見て、やめようと思った。いまは、無駄なおしゃべりをしている時間じゃない。
「……悩みがあるなら打ち明ければよかったものを、このバカ妹が」
先生は半ば、やけになった口調で漏らした。
そうか……。
ぼくは、喉の辺りに、なにか冷ややかな物が下るのを感じた。
そうだ。『夜』に憑かれている以上、国沢さんも悩みを抱えていたに決まっている。この場合、彼女がなにに心を痛めていたのかは明白だ。
森永さんの死。彼女を殺めた、自分自身に対する罪悪感。
「いつもそうなんだ、お前は。悲しくても、こっちには涙一つ見せやしない。涙で充血した目さえも、必死にごまかそうとする」
ぼくはいつだか、国沢さんが冗談めかして言っていたセリフを思い出した。
『どんなときでも、笑って周りを元気付けなくちゃいけない。弱みを見せたら、いけない』
『だってわたしは、みんなを守るヒーローだから』
ぼくはバカだった。そして愚かだった。ぼくは最低の鈍感男だ。
自分自身の悲しみにだけ囚われて、自分が世界で一番かわいそうだと言わんばかりに悲嘆にくれて。本当にかわいそうな人から、ずっと目をそらし続けてきた。国沢さんがあの笑顔の下でどれほど慟哭していたのか、考えもしなかった。彼女の悲しみを、汲み取ろうとさえ。
国沢さん。
国沢さん、国沢さん、国沢さん。
ぼくは叫びだしそうになるのをこらえ、その反動で彼女の手を強くにぎろうとした。でもそれも、すんでのところで思いとどまる。ぼくがこの手をにぎってはいけない。彼女の悲しみを理解できなかったぼくに、触る資格なんてない。
それに……ここにはもっと、彼女の手を取るのにふさわしい人物がいる。
「辛いだろうな、明日歩。だが心配するな。お前は必ず、助け出してみせる」
先生は。岳人先生は。
その大きな手で、やさしくゆっくりと、妹さんの手を包みこんだ。
険しい顔をしながら。だけどもどこか、しっとりとした口調で。
そしてぼくへと振り返った。
「すまない、陽之上。少し席を外してくれないか。すぐに終わる」
終わる? なにがだ。いったい先生は、なにをやろうとしているんだ。
若干の疑問を抱いたけれど、言われるがままに、保健室から退出した。
廊下に出てドアにもたれかかる。すると室内から、なまめかしい声が漏れ聞こえた。
あえぎ声。国沢さんのだ。さっきまでのうなり声とは、少し毛色が異なっている気がした。
なんだ……?
どうしても気になり、ドアを数ミリばかり開けて覗きこんだ。
薄暗い部屋の中。先生が、ベッドの上で国沢さんを組み敷いている。濡れそぼった彼女の上をかき上げ、首筋をそっと露出させる。そしておもむろに身を低くし、
噛んでいる。
噛んでいるよな……? あれ。
まるで――血を吸うヴァンパイアのような仕草だ。
しかし、先生とヴァンパイアでは、決定的に違う部分があった。
直後、先生はむせ返ったんだ。何度も咳きこみ、口の中の血を吐き捨てる。そこでふと、扉の隙間に目をやった。
ぼくと先生。目と目が合わさる。
「……見られていたのか」
先生は、ため息をついた。
「いまのはいったい、なんだったんですか」
ぼくはつばを飲んだ。ドアを開け、再び室内に踏み入る。
先生は静かに顔を上げ、口元にこびりついた血を拭い取った。
「悩みを吸い出そうとしたんだ。案の定、失敗したがな」
「悩みを吸い出すって……。彼女の体内から? そんなの、できっこないですよ。普通の人間には」
「普通じゃないんだよ、俺は。過去に一度、『夜』を食べている。だから俺の中には、かすかにだが『夜』の血が流れているんだ」
「なっ……」
食べている? 『夜』を?
だから――だからあんなに、傷の治りが早いのか? 『夜』の気配を、察知できるのか?
あの背中のアザだって。
ひょっとして、それが原因で?
「それってつまり、どういう」
「追って説明をしていくさ。いまはまだ、話したくない」
先生はつと顔をそらした。
話したくないというのは本当らしい。
ぼくはあふれ出る好奇心を抑えながら、続く先生の説明を待った。
「『侵食型』は厄介だ。まるで結核菌のように体内で潜伏し、ある日突然猛威を振るう。それからは日を追うごとに宿主の体を蝕み、充分な栄養を得たところで、完全なる成体へと変態する」
一瞬の静寂。
「宿主の体を、その身に取りこんでな」
「そんな……」
ぼくは激しく呼吸する国沢さんを見下ろしながら、言葉を続けた。
「それって、このままだと国沢さんが死んじゃうってことですよね。手立ては、」
再びつばを飲み、
「なにか手立てはないんですか」
額に、嫌な汗が流れる。
「あるとしたら、ただ一つだ。孵化直後の成体を、速やかに始末する。明日歩が取りこまれるよりも先にな。俺の経験則からして、制限時間はおよそ三分。それを超過した場合、明日歩の生存は絶望的だ」
さ、三分以内に倒すって。
そんなの――そんなの、絶対に無理だ。
「いまはまだ、敵も明日歩と同化している。この状態で始末するということは、明日歩そのものも犠牲にすることに他ならない」
犠牲にする。国沢さんを。殺す。国沢さんを。化け物ごと。そんなこと、できるはずもない。
森永さんと同じ末路なんて。
もうこれ以上、誰にもたどってほしくはないから。
「陽之上」
先生の目が、まっすぐにぼくを捕らえる。一点の光もない、黒曜石のような瞳。
「もう一度、戦ってはくれないか」
ぼくが、戦う。もう一度、刀を構えて。血を浴び、叫びを聞き、夜の道を突っ切って。
「あるんですか。勝つ可能性は」
「ないことはない。だが正直、ハッキリと保障することは出来ない。いまの段階では、敵の力も未知数だ。勝つかどうかだけならまだしも、明日歩を救うとなると、ハッキリ言ってかなり厳しい」
『厳しい』。『かなり』。それはずいぶんとオブラートに包まれた表現だった。『ない』とキッパリ断言されたほうが、まだしも救われていただろう。ぼくなんかに、国沢さんを助けられるわけなんてない。一人きりじゃ、刀を持つ手さえも震えてしまう、こんなぼくなんかじゃ。
救いたい。助けたい。でもしょせんぼくごときに、助けられる命なんてない。
森永さんの命さえ守れなかった。こんな、こんなぼくなんかじゃ。
「……ぼく」
ぼくは言った。ゆっくりと、顔を上げて。
「ぼく、死んじゃうんですか」




