5-3
更衣室で水着に履き替え、シャワールームへ向かう。
蛇口をひねったその瞬間、身を震わせるくらいに冷たい水が、頭にかかった。冷水は胸の卍印を伝い、次々とつま先へ落ちていく。
ほてった体が、あっという間に冷やされていく。気持ちいい。いまが夏でよかった。それ以外の季節だと、きっと風邪をひいちゃうだろう。
蛇口をひねり、シャワーを止めた。前髪の先から、水滴がつゆのように垂れ下がり、そして落下。人っ子一人いないこの空間では、その音さえもかなり耳につく。
ぼくは蛇口をつかんだまま、息を吐いた。どれだけ洗っても、血のにおいが落ちない。落ちた気が、しないんだ。
ふたたび、手のひらのにおいをかぐ。すんすんと鼻を動かし、つぶやいた。
「……臭い」
「え! にぎりっぺでもしたの」
背後から、驚愕に満ちた声が飛んできた。
ぎょっとし、思わず振り返る。すると反対側の壁に、国沢さんがもたれている。彼女もぼくと同じく、学校指定の競泳水着を着ていた。小柄な背丈に、高校生用の水着は不釣り合いだ。中学二年生が大人ぶって着てみました、みたいな違和感がある。
「く、国沢さんっ。なんで急に入ってくるの」
ぼくは濡れた足をせかせかと動かし、元来た道をたどり始めた。シャワーで冷えたほほに、ほんの少し熱が戻っている。背後から手首をつかまれ、ますます顔が熱くなった。
「そう遠慮せずに。よいではないか、よいではないか。どうせ減るものでもなし」
う、ううん。ていうかそもそも、減るほどありはしないんじゃ……。主に彼女の、一部分は。
「陽之上くん。いま、ものすごくセクハラっぽいこと考えなかった?」
ギリギリと手首がしめつけられる。
殺気!
「まあいいや。いや、なんか陽之上くん、最近ずっと元気ないしさ。わたしでよかったら、話し相手になるよ」
国沢さんは、にぎっていた手を放した。ぼくは気恥ずかしくて、彼女のほうへ振り返れなかった。蛇口をひねる音がする。続いて水音。無数の水滴が、彼女の肌の上で弾けているのが想像できた。
ぼくはのどを震わせつつ、言った。
「ありがとう。元気がないっていうか……。やっぱりなんか、考えちゃってさ。ぼくはこの先、どういう道を歩けばいいのか」
言葉を切った。くちびるを噛み、しめらせる。そして続けた。
「戦うことをやめてしまえば、結果として犠牲者を増やしちゃうかもしれない。それは嫌だ。だけど戦いを続けていたら、きっとまた苦い思い出を作っちゃう。下手したら、殺されるかもしれない。考えれば考えるほど、怖くなったんだ。半端な気持ちで戦うのが、一番ダメだってのはわかってるんだけれど」
「そう」
きゅっ、と、蛇口のしまる音がする。
「なんかうれしいな。陽之上くんがわたしに、そこまで教えてくれるなんて」
いきなり、ぼくは腕をつかまれた。
「ちょっと来て」
シャワー室を抜け、プールサイドへたどり着く。夜空を反射し、黒く染まった水面。
「ぬっさあ!」
国沢さんは謎のかけ声を発し、ぼくを水中へ突き落した。
水深百六十センチのプールだ。ぼくはチビだから、頭の先まですっぽり沈んでしまう。
わわわ、目が痛い!
鼻がツンとするっ。
なにより、息が苦しい!
たまらず、手足をばたつかせた。やっとのことで両足をつけ、背伸びをする。鼻と口を水面に出し、
「ぷはあ!」
なんとか呼吸を確保。自然、空をあおぐ姿勢になった。
そして、
「……!」
息を呑む。見上げた先には、大小さまざまな宝石たちが散らばっていた。名前も知らないたくさんの星が、遠くはるかかなたから輝きを届けている。
何十……いや、何百。ひょっとしたら、千を越えているかもしれない。
さえざえと散りばめられた絢爛豪華な星々は、その一つ一つがきらびやかな様相を呈していて、ぼくは。
ぼくは思わず、息を引っこめた。
星が――
星の光がこんなにもやさしいってことすら、ぼくは忘れてしまっていた。いつも足元にびくびくしながら、下ばかり向いて生きてきたから。
「どう、きれいでしょ。デネブ、アルタイル、ベガ。夏の大三角がくっきり見える」
いつの間にか国沢さんが、隣に立っていた。プールサイドに両腕を乗せ、体を浮かせている。
「すごいと思わない? この町。山奥でもないのに、夜にはたくさん星がまたたく。星のありかって、言われるだけのことはあるよ」
「星の……ありか」
初めて聞いた。この町には、そんな小じゃれた異名があったんだ。
国沢さんは続けた。
「うつむいてたら、見えるものも見えてこない。顔を上げて初めて、見えてくるものもある。昔、そう言ってくれた人がいたの。小さかったわたしを救い、導いてくれた、とても大切な人。その人の言葉を、陽之上くんにも伝えたかったんだ」
つまりその人は――国沢さんにとっての、憧れの人。
彼女の一部分を作り上げた、かけがえのない人ってことか。
「いまは、その人とはどうなってるの」
星空に目を奪われつつも、ぼくは聞かずにはいられなかった。
国沢さんはどこか陰のある笑みを浮かべ、視線をそらした。
「死んじゃったよ。何年も前に」
……聞くんじゃなかったな。
「だからこそ、わたしはあの人の代わりに伝えたいんだ。下ばかり見ていても、なんにも楽しくなんかない。それを伝えていくためにも、わたし自身もっともっと前に進まなくちゃいけない。それでもどうしても、落ちこんじゃうときってある。そういうときはね、空を見るの。そしたら星が輝いてる。そうするとね。不思議とまた、前に進もうって気になれるんだ」
「でも……前に進むことばかりが正しいとも、限らないんじゃないかな」
ぼくは眉をひそめつつ、言った。
「それって結局、つらいことをつらいって言わないまま、我慢してるだけな気もするんだ。ケガした足を引きずって、無理やり歩いてるって感じで。……つらいとは、思わないの?」
改めて、国沢さんの顔を見た。彼女は目を丸め、星が彩る空を静かにながめていた。その瞳がかすかに揺れている気がして、ぼくは少しばかり動揺した。
「はっきり言って、ぼくは嫌だよ。友達を失って、いつ殺されるかもわからなくて。それでもがんばって、笑い続ける。ぼくには無理だ、絶対に」
ぼくはもう、
「二度と笑えは、しないと思う」
そこまで言ったところで、またしても腕をつかまれた。
「ねえ、見て。さそり座」
国沢さんはそうささやき、もう片方の手で星空を指さした。
言われるまま、ぼくは上空を見上げる。正直、指で示されたところで、どこからどこまでがさそり座なのかよくわからない。
そんなぼくの様子なんてお構いなしとでも言わんばかりに、国沢さんは詩を読み上げるような口調で語りかけてきた。
「知ってる? まんなかで、大きく光ってる赤い星。通称『サソリの心臓』。アンタレスっていうんだけどね。双子星なんだよ」
「フタゴボシって、なに」
「二つの星が、互いに互いの周りをグルグル回ってるの。つまりね、二つで一つの星ってこと。二つでないと輝けない。二つでないと惹かれない。互いに共存しながら回ってるんだよ」
ふうん……。
それがいったい、どうしたっていうんだろう。
発言の意図を考えようとしたそのとき、国沢さんの冷たい手が、にゅるりとぼくの両脇へすべりこんだ。その指がせわしなく動く。
「うっひゃうん!」
ぼくは反射的に脇を閉め、襲いくる手から逃げようと試みた。だけどいくらもがいても、手はぼくを捕らえて離さない。ぼくはライオンに襲われたシマウマのごとく、その身を振って抵抗した。
「こちょこちょこちょ!」
国沢さん、笑っている。まるで赤ん坊にちょっかいをかける、お母さんみたいな顔だ。ぼくも思わず、顔面の筋肉を引きつらせた。
「ほらほらほら、ここがええのんかー?」
「はっ、はは、やめっ。そういうの、弱い……」
手足をばたつかせ、涙目になりながら抵抗する。
ばしゃばしゃばしゃ!
いきおいよく水が立ち、暗闇の中できらめいた。
襲いくる魔手をやっとのことでしりぞけ、振り返る。
水面から、海坊主が顔をのぞかせていた。よく見ると、それは国沢さんだった。背伸びをしているんだろう。かろうじて、鼻を水上へ出している。ぬれた髪が鼻の辺りにペッタリと垂れ下がっていて、暗闇で見るとそこはかとなく不気味だ。
でもこのとき、ぼくの脳は「恐怖」よりも、「混乱」のほうにウェイトを置いていた。なので、疑問を率直にぶつける。
「いったい……。国沢さんはなにを」
言い終わらないうちに、国沢さんはビッと、ぼくの顔面に指を突きつけた。ぼくはふと、自分のほほが緩んでいるのに気づいた。
国沢さんは片目をつぶった。もう一方の目は挑発的な光りをたたえながら、まっすぐにこっちを射抜いてくる。
「あのね、陽之上くん。陽之上くんが笑えなくなったら、わたしがなんとしてでも笑わせるよ。だってわたしらは」
言って、高らかに天を指す。見上げた先、はるか上空では、サソリの心臓が赤く激しく燃え盛っていた。
ぼくは言葉を呑みこんだ。夜空を目指して伸びる国沢さんの全身を、くまなくじっくりと見つめなおした。
天を指していたその手が、スローモーションで下ろされていく。まるで太陽を目指して咲き誇っていた花が、しなやかにうなだれていくかのようだった。
「だからね。できれば、もう少しだけ……。あと少しだけ、戦い続けてくれないかな。わたしが強くなるまでは」
ぼくは言葉を失った。
どうしよう。なにか言いたいことはあるはずなんだけど、頭にポンと浮かんでこない。
国沢さんはとたんに表情を崩し、照れたような笑みを浮かべた。
「って、すっげえワガママ言ってるね、わたし。ごめん、いまのなしなし」
静寂が落ちた。毛先からしたたったしずくが、水面に小さな波紋を作る。
ぼくは。
「……ありがとう」
やっとそれだけ、口にした。
すると、国沢さんは――
ゆっくり、倒れこむような形で、ぼくに抱きついてきた。
「えっ!」
一瞬、思考が停止する。右肩のあたりに彼女の鼻が当たり、かすかな呼吸が感じられた。口からはハアハアと、少ししめった息が漏れている。
変だな……。どこか、様子がおかしい。
ぼくはそっと、彼女の顔色をうかがった。
闇に浮かんだ、国沢さんの顔――青白い。苦しそうに目を閉じている。息づかいも、少し荒い。
全身からサッと、血の気が引いた。
「どうしたの、しっかり!」
肩をつかみ、何度も揺さぶる。だけど国沢さんは、ぐったりと目を閉じたまま、答えない。
ぼくはふと、手のひらになにか違和感を覚えた。つかんだ彼女の右肩から、なんだか不思議な感触が伝わってきている。
なんというか……、国沢さんの肩とぼくの手の間で、ミミズかなにかがのたくっているような。
奇妙に感じたので、手をどけた。
そして次の瞬間、「ヒャッ」と叫ぶ。
「なんだコレ」
そこにあったのは、「異常」以外のなにものでもない。
生白く光った彼女の肩からは――そう、異常とも言えるくらい太くなった血管が、何本も浮き出て、
どくどくと。
どくどくと。
禍々(まがまが)しいリズムを刻みながら、脈打っていた。
まるで、そう。肉厚のチューブを、無理やり肩にねじこんだかのような――そんな違和感を、そして異常感を、これ以上ないくらいに表している。
これはなんだ。
なんなんだ。




