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夜、人影に潜む  作者: 影人
第4話:それでも花は、日向に咲く
35/41

4-8

 ここでやっと、話は現在に戻る。

 森永さんの家を訪れてから、二日後。日曜の深夜。

「森永千尋が、いまだ家に戻らないらしい」

 岳人先生はそう言って――森永さんを捜しに行ってしまった。

「森永さん、いったいどこへ行っちゃったのかな」

 二人きりになった保健室。ぼくは誰に宛てるともなく、つぶやく。

 時刻は二十四時を回っていた。いくらなんでもこんな時間まで、唐田とデートってのは考えにくい。じゃあいったい、彼女はどこに?

「そうだ。唐田に聞けば、なにかわかるんじゃないかな。今日一日、森永さんといっしょに映画見てたわけだし」

「それがね。唐田くんもまだ、帰ってきてないみたいなの」

 冷静に言って、パイプイスにもたれる国沢さん。

「ちぃちゃんのお父さんがね、唐田くんのご両親に、彼が帰ってるかどうか聞いたんだって。そしたら、まだ帰ってきてませんって。まあ、もともと夜遊びの多い子みたいだから、向こうの家族はあまり気にしてないみたいだけど」

 そっか……。じゃ、手がかりゼロってこと? ぼく、唐田の連絡先とか知らないし。

 それっきり、ぼくらは押しだまった。無音。そして沈黙。

 時計の長針が二週くらいしたとき、

「だーっ!」

 ガタンと盛大にイスを揺らして、国沢さんが立ち上がった。

「やっぱわたしも、ちぃちゃんを探しに行くよ。じっとなんてしてられないよ」

 彼女がそう言うのを、ぼくは心のどこかで待っていたんだろう。反射的に返答した。

「じゃ、じゃあ。ぼくも、いっしょに行っていいかな」

「気持ちはうれしいけど、べつに無理する必要ないよ。陽之上くん一人でも、ここで待機してたほうがいいんじゃない」

「む、無理は、してないよ。ただ、夜の校舎に、一人きりで残りたくないんだ。もし『夜』が出てきても、ぼく一人じゃ太刀打ちできないし」

 それに……こんな遅い時間に、国沢さんを一人歩きさせたくはなかった。

「うーん。でも陽之上くんなら、だいじょうぶじゃない? なんせ初めての戦いで、敵を真っ二つにしちゃったんだし」

「あんなの、奇跡だよ。ぼくの力なんかじゃあない」

「違うと思うけどなあ。まあいいや。そういうことなら、捜しに行こっ」

 言うや否や、国沢さんは部屋から飛び出した。

 ぼくはあわてて、その背中を追いかける。

 なんだかなあ。仕事をサボるみたいで、ちょっぴり罪悪感があるよ。どうか今日は、『夜』が現れませんように。

 辺りを見回しながら、小走りで校門を駆け抜ける。

 小雨がぱらついていた。まあいいや。ボディスーツにチョッキ、ベルトポーチ。そして頭には、ヘルメットをかぶっている。いつも通りの戦闘スタイル。これなら、ぬれても大したことはない。

 それはいいんだけど……外でこの格好するの、なんか恥ずかしいな。まあ深夜の田舎町なんて、通行人もめったにいないから、こんな心配はいらないだろうけど。

「ねえ、見て」

 国沢さんが、胸ポケットから黄色い物をのぞかせた。

 走りながら、横目で見る。取り出されたのは、折り紙で作られたタンポポだった。

「五月の事件のとき、わたしら三週間くらい入院したでしょ? あのとき、ちぃちゃんと病室がいっしょで。ヒマつぶしに二人で作ったんだ。お互い一つずつ折って、交換したの」

「へえ。にしても、すごいね。とっても綺麗に折られてる」

「でしょ。ちぃちゃんってね、手先が器用なんだよ。手芸部にも入ってるし、すごくおいしいご飯も作ってくれるし。まるでお母さんみたい。いつもいつも、すっごいお世話になってるの。だから」

 国沢さんは目を閉じ、折り紙のタンポポに顔面を押しつけた。

「絶対絶対、ぜぇーったい、無事でいてね」

 森永さん。

 いったい――どこに行っちゃったんだろう。

 らしくもなく、思案に暮れた。その直後のことだ。

「陽之上くんっ。見て、あそこ!」

 見た。

 目の前の、横断歩道。長さ五メートルくらいの、決して大きいなんて言えない横断歩道。赤信号になっている。深夜なのに、左側から一台のトラックが迫ってきていた。

 その横断歩道のまんなかに、

「森永……さん?」

 タンポポの髪かざりでたくし上げられた、軽めのパーマ。離れた位置からでも、ほっぺたのそばかすが確認できた。

 間違いない。森永さんだ。私服姿の森永さんが、横断歩道の中間でたたずんでいる。

「なにやってるの、ちぃちゃん」

 口を開け、心ここにあらずって様子で、なにも持たずに棒立ちする森永さん。国沢さんの声にも、気づいてないみたいだ。たった三メートルくらいしか離れてないのに。

 迫りくるヘッドライトが、森永さんを照らし出した。だけど彼女は、動こうとしない。ブレーキ音が響き渡る。彼女が着ているワンピースのすそが、わずかにはためいた。

「危ない!」

 ぼくは思わず目を覆った。

 瞬間、真横で、風を切る音。

 飛び出した国沢さんが、森永さんを突き飛ばした。ヘルメットが地面に当たり、硬い音を立てる。キィーっていう金切り声を上げて、車が横切っていった。車体が二人の姿を隠すその一瞬が、ぼくにはたまらなく長く感じられた。

「国沢さん、森永さんっ」

 叫びながら、彼女らの元に駆け寄る。国沢さんは森永さんに覆いかぶさる形で、うつぶせに転がっていた。よかった。二人とも、どこにもケガしてないみたいだ。

 国沢さんはムクリと起き上がり、森永さんを無理やり歩道へと引っ張り寄せた。かがみこんでゼーゼーしながら、座りこむ彼女をにらみすえ、

「ばかっ。死んだらどうするの!」

 カッと眉をいからせ――彼女のほっぺたを、思いっきり引っぱたいた。

 森永さんは、文句一つ言わない。血の気の失せた彼女のほほに、ほんのちょっぴり赤みが戻った。

「痛いでしょ? 死んだらもっともっと、痛いんだよ。もっともっと、苦しい目に遭うんだよ。だから、軽々しく死のうだなんて思っちゃダメ」

「じゃあ、どうやって生きてけばいいの? 生きる支えがなにもない状態で」

 森永さんは無表情で、淡々とつぶやいた。

「いじめられても、お母さんの顔を見れば立ち直れた。テストでいい点を取れば、お母さんがほめてくれた。でも、そのお母さんはもういないの。うん、もういない」

「それがどうしたの。お母さんが亡くなった? そんなの、大人になったらみんな経験することじゃない。そんなんで死のうとするなんて、バカらしいにもほどがあるよ。大事なのは、そこから立ち直ることでしょ」

「そんなの無理だよ。お母さんがいないと、わたし……なにもできないもん」

「それは、どうだろう」

 ぼくは言った。

「なにもできないってあきらめちゃったら、そこから先には進めない。なにもできないって思うからこそ、なにかをできるようになろうって、がんばらなくちゃいけない……んじゃないかな」

 そこで一度、息を吸った。

「でもまあ、辛いときは、泣いて誰かにすがりついてもいいと思う。ぼくだって兄貴を失くしたとき、いっぱいいっぱいそうしてきた。自分なんかいなくなればいいって、自己嫌悪におちいったこともある。でも、死のうって考えたことはない」

「そうだよ。それにちぃちゃんは、なにもできない子なんかじゃないよ。折り紙上手だし、お料理もお裁縫もできる。勇気を振り絞って、いじめっ子たちと向かいあって意見もした。『やめてよ』って。一人きりだとなにもできないなんて、そんなことはない」

「あんなの、勇気の内にも入らないよ。それにいまのわたしには、とても無理。もう、なにもかもがどうでもいいんだ。なにもしたくないの、もう。だからね。こんなわたしなんて、生きていたって仕方がないんだよ。わたし、もう嫌なの。生きていても辛いの」

「だから逃げるの? 死んで逃げるの? そんなの、間違ってるよ。生きるのが辛い?  当たり前のことじゃない。ちぃちゃんはね、人を殺して、大勢の人を悲しませようとしてるんだよ。その意味を考えて」

 そのとき、コール音が鼓膜を突いた。発信源は、ヘルメットに備えられた通信機だ。

 国沢さんがハッとする。彼女のヘルメットにも、同じ連絡が来ているらしい。ぼくらは同時に、側面に付いた通話ボタンを押した。

「俺だ。大人しく留守番してるだろうな」

 岳人先生の毅然とした声が、スピーカー越しに放たれる。

「ごめん、いま学校の前。実はね、ちぃちゃん見つけたの」

「なんだと。じゃあ、勝手に抜け出したのか。まったく、お前たちは……。まあいい。ともかく、森永を見つけたんだな」

「うん、ごめん。お兄ちゃん、無駄骨だったね」

「いいさ。それよりさっさと、森永を帰して学校に戻れ。少しまずいことになったぞ」

 そこで先生は、ぐっと声を潜めた。

「二時間ほど前なんだがな。路地裏に、人間の右足首が捨てられていた」

 えっ。

 なんだそれ。

 足首?

 なんで、そんなものが。

 誰か、人が――死んだってことか?

「発見時には体温が残っていた。よって、犯行からさほど時間は経過していないものと思われる。現場はそう遠くない。なにか大きな牙らしき物で、足から上を無理やり食いちぎられたようでな。いま『組織』の連中が総力を挙げて、身元の確認を急いでいる。あと少しで、遺体が誰かも割り出せるだろう」

 人殺し。殺人。

 実感なんて湧くはずもない単語が、急に胸の中へ押し寄せてくる。

「お兄ちゃん、それって……」

 国沢さんが息を呑む。

「ああ。切断面から、特殊な物質を含む唾液が検出された。間違いない」

 先生は言葉をためこみ、この瞬間、ぼくが最も聞きたくなかった単語を。

 口にした。

 ――『夜』。

「の仕業だ」

 なにか、動く気配。

 振り返り、足元を見る。直径三十センチくらいのまん丸い影が、道の奥でジグザグとうごめいていた。少しずつ、こっちに向かってきている。

 影って言っても、その影の上にはなにもない。ただ、地面にペッたりと、影だけがついている。早い話が、地面を走る平面状の黒丸だ。右へ左へ忙しそうに動く様子は、筐体の中ではじけるパチンコ玉を思い出させた。

 なんだ……? この黒んぼ。

 首をひねっているところへ、岳人先生の指示が飛ぶ。

「お前たちは森永を送り届けたのち、緊急待機。どうせ怪物は学校へ来るだろう。わかったな、これは喫緊事項だ――どうした、返事しろ。グズグズしている時間はないぞ」

「遅いよ、お兄ちゃん」

 国沢さんが言った。その声は、震えている。

「なに?」

「いま、その『夜』が出てきたよ」

 その言葉に対し、先生がなんて返答したのかはわからない。

 ぼくらは同時に通信を切った。そして、影に向かって駆け出す。

 ――『夜』というのは、あれで案外賢い生き物でな。大勢の目に付くことを恐れる。

 前に、岳人先生が言っていたことを、思い出した。

 ――人気の多い場所では、絶対に姿を見せない。捕食対象の前でのみ、本性を現す。

 つまり。

 ――普段は、影のような形態になって移動するんだ。

 地面を走っていた影が、

 消えた。

 影があった場所には、鋼鉄の――

 巨人。ぼくらの身長の倍はあるだろう巨人が、起立している。

 身の丈ほどもある金棒を右手に提げ、そして左手の甲からは、直径五十センチはあるだろうドリルを、突き出させていた。胴体に関しては、大の大人がめいっぱい両手を広げている姿を想像してほしい。それと同じくらいの幅がある。

 目は、ない。V字型に裂けた口からは、気味の悪い排気音が聞こえていた。いましがた、一人の人間を噛みちぎった、凶悪な口だ。排気音といっしょに血のにおいが香ってくるようで、ぼくは思わずぶるりと震える。

「ろ、ロボットって」

 誰だか知らないけど……どんな悩みを抱いたら、こんな『夜』が出来上がるんだ?

 巨体が、音もなく動いた。両足の下につけた車輪で、コンクリートの上を難なく直進する。ぼくらの脇をするりと抜け、一瞬で森永さんの前に立ち――

 一切の無駄も、微塵のためらいも見せない動作で、金棒を振り上げる。

「え」

 森永さんは危機に直面したネコのように体を固化させ、無機質な鉄の体をまじまじと見上げた。

「させない!」

 国沢さんが体をひるがえし、ターンした。コンマ数秒遅れるかたちで、ぼくも続く。踏み出すごとに鼓動が胸を突き、ピリリとした空気が肌に触れた。

 怖い。死ぬかもしれない。けど、ためらっている時間はない。

 怪物が金棒を振り上げる。そこへぼくらは割りこんだ。両手を真上にかざして、

 来い!

 現れた黒と白の二対の刃が、振り下ろされる金棒を受け止めた。硬い音が空気を震わせ、全身を小刻みに揺り動かす。歯がガクガクと鳴った。腕の感覚のほとんどが、一瞬にして奪われる。

「早く逃げて、ちぃちゃん!」

 国沢さんの声が、耳をつん裂く。その叫びに、森永さんが応じた。

「二人とも、どうしてわたしを……。わたしの命なんてどうでもいいのに」

「もう一度言ってごらん」

 国沢さんの声が、一気に落ちこんだ。森永さんが目を丸くしているだろうことが、背中越しにも伝わってくる。

「『どうでもいい』って、もう一度言ってごらん。わたし、ちぃちゃんを絶対に許さない」

 森永さんは絶句している。構わず、国沢さんは続けた。

「陽之上くんもわたしも、命をかけてあなたを守ろうとしてるんだよ。ちぃちゃんのお父さんもお祖父さんも、きっとちぃちゃんのために身を削るような思いをしている。ちぃちゃんのお母さんだって、きっとすごく苦労しながら、ちぃちゃんを育てた。あなたがどうでもいいって思ってる命も、たくさんの人に支えられてるんだよ。そんな人たちのがんばりさえ、ちぃちゃんは踏みにじるの?」

 ぼくは歯を食いしばり、両腕と太ももに全身全霊をこめ、迫り来る恐怖を迎えうった。刀に亀裂ができ、こぼれた破片がほほをかすめる。視界が反転した。激しい焦燥感に襲われ、鼓動が一段と早くなる。目の前に、「死」があった。V字型の口でヒュウヒュウと呼吸し、こっちの命をすすり取ろうと挑みかかってくる。

 助けて、兄貴。

心のどこかでつぶやいた。……やっぱり、胸の印は光らない。

 無理だよ。こんな化け物、倒せるわけがない。

 でも……だったらどうして、ぼくは逃げなかったんだ? こいつに勝てないってことくらい、一目見たときからわかっていたのに。

「わたしたちは、ちぃちゃんを守る。だからちぃちゃんは、わたしたちの気持ちを守ってちょうだい」

「で、でもっ。ほぅちゃんたちを置いて、逃げるなんて。そんな、逃げるだなんて」

「いいから、さっさと行け!」

 国沢さんは、叩きつけるような大声を放った。その絶叫からは、普段の面影を感じ取れない。あまりに生々しく鮮烈なその叫びには、ある種の生臭ささえ感じさせた。

 もう限界だ。

 口から悲鳴がほとばしる。肩から先が、粉々に砕けてしまいそうだ。刀身の亀裂は、広がるばかりだ。歯が軋む。腕が、肩が、ビリビリと振動する。

 そのさなか――背後で、走り去っていく足音がした。

 よかった。

 いままさに、死のふちに立たされてるっていうのに――ふとそんな、場違いな感情を覚える。それは国沢さんもおんなじだったようだ。

「そう、それでいいの。ちぃちゃんは死ぬべきじゃない」

 彼女は笑った。

「わたしが、死ぬ気で守るんだっ」

 国沢さんの刀が、一気に膨れ上がった。元の大きさの倍はある。ゆっくりと、少しずつ、怪物の金棒を押し返し始めた。

「はああああああああああああ!」

 声が燃え盛った。国沢さんは顔面の皮膚が張り裂けそうなくらい、形相を激変させている。ついには、敵の武器を弾き返した。鉄の魔人は大きくよろめき、その場から二、三歩あとずさる。

「すごい……」

 ぼくは息を呑んだ。なんとなく、わかってはいた。きっとこの刀は、持ち主の闘志によって強度を変えるんだ。あっさり砕けることもあれば、そうでないときもある。

 いまの国沢さんの闘志は――たぶん、鋼以上に硬い。

 彼女は刀の切っ先を前方に突きつけ、そして敵の胸元をシンと見すえた。

 ギュイン――と。

 ギュインギュイン――と。

 モーターの回る、激しい音。敵は左手の甲を前方に構えて、突っこんでくる。突き出された巨大なドリルが、高速回転しつつ凶悪な輝きを放ち、しかし、

 一瞬後には、粉々に切り裂かれていた。

 鋼の破片が宙を舞う。くうを裂いて突撃した日本刀が、夜の帳を突き破った。

 化け物が、あお向けにひっくり返る。重々しい音といっしょに、地響きが起こった。

 勝った……。

 ため息をつくのと同時に、刀が砕ける。ぼくの物だけじゃない。国沢さんの太刀も、光に包まれながら消えていった。

 国沢さんは立ちくらみを起こし、背中から倒れこんだ。ぼくはあわてて、その肩を抱き止める。

「国沢さん、しっかり! あ、血が……」

 国沢さんのボディスーツ。右手のひらが、真っ赤ににじんでいた。この間、花ビンの破片で切った箇所だ。必要以上に力をこめたせいで、傷が開いたのか。

「だいじょうぶ、平気だよ」

 気丈に笑いかけてくれるけれど、その声からは疲労が伝わってくる。いまのいままで死ぬような危機に遭っていた人が、どうして、「だいじょうぶだ」なんて言えるんだ?

「だってケガしても、陽之上くんが包帯を巻いてくれるもん。花ビンで手を切ったときだって」

「なっ……」

 ぼくはこのとき、はたから見ればすごくマヌケな顔をしてただろう。二~三秒くらい口を半開きにしてから、急に恥ずかしくなって目をそむけた。

 国沢さんの手に包帯を巻いたのは、岳人先生だ。ぼくはあのとき、彼女を引っ張って、保健室まで同行したに過ぎない。そりゃあたしかに、女子の手を引くってのは、ぼくとしてもかなり冒険したと思う。でもそれはただ、無言で血を流す国沢さんを見て、いてもたってもいられなかったからだ。……それと、少しの下心。

「あのときは、ありがとね。うれしかったよ」

「お、お礼を言われることじゃないよ。ぼくはただ、保健室まで同行しただけだし」

「ブー、違う。そういうときは、『どういたしまして』って胸を張るんだよ」

「で、でもぼくだって、国沢さんに湿布を貼ってもらったことがあるし」

「ふぇ、そうだっけ? まあいいや。じゃ、おあいこってことで」

 ヘルメットからしたたる雨粒が、次々と胸元に落ちた。冷たさを感じるたび、生きてるって実感がわいてくる。

 ぼくは足元に転がる、『夜』の死骸を見た。雨に打たれた鉄の破片は、捨てられたガラクタを連想させる。

 一ヶ月前に現れた、女の顔を表した『夜』。その直後に出てきた、タンポポ型の怪物。そして、この間の大グモ。斬ったあとはどれもこれも、すぐに跡形もなく消滅していた。

 でも今回の『夜』は、消える気配がない。

 どうしてだ?

「ほぅちゃん、陽之上くん」

 かすれきった声がした。左足を引きずりつつ、角の向こうから森永さんが歩いてくる。血のにじんだ国沢さんの手を見て、絶句した。

「あっ、その手。ケガしたの、その手」

「ん、ああ、この傷? だいじょうぶ。戦いとは関係ないから」

「痛い?」

「うん、すっごい痛い。だって、生きてるんだもん」

 国沢さんは安堵の息をつき、しゃがみこんで森永さんのワンピースをめくった。

 おどろいた森永さんが、「きゃっ」と黄色い声を上げる。ワンピースの下にあった白い膝が、大きくやぶれていた。直径三センチくらいの、赤黒い傷。彼女のことだ。逃げる途中で転んだのかもしれない。

「でもね。痛くても苦しくても、包帯を巻いてくれる人がいる。こんな自分でも、支えてくれる人がいる。わたしはね、そんな人たちの気持ちを裏切りたくないんだ。ちぃちゃんはどう?」

 国沢さんはベルトポーチから消毒クリームを取り出し、森永さんの傷口に塗り始めた。森永さんは注射を怖がる子供のように目をつむり、ひとさし指で傷口をなでられるたび、肩を反射的に上下させた。

「一人で泣くことも、必要だとは思う。だけどそれより、みんなといっしょにたくさん笑って、さびしさを吹き飛ばそうよ」

「……そうだね」

 森永さんは下を向き、はにかんだ笑みを浮かべた。

「死ぬのは、やめることにするよ。うん、やめることにする」

「それがいいよ」

 傷口に絆創膏を貼り、軽くたたく国沢さん。にこやかに笑った瞬間、彼女のお腹がググゥと鳴った。ペロリと舌を出し、目を細める。立ち上がってから背伸びをし、森永さんの肩に両腕を回した。

「お腹すいちゃった。ちぃちゃんのお弁当、また食べさせてね」

 森永さんの目が、ぬれていた。キラキラと光沢を放つその瞳は、月を映した夜の水面を連想させる。降り続く雨は、その体をしっぽりと湿らせていた。

 目をそらそうとも考えた。けれど、ついつい見入ってしまう。

 雨の中で抱き合う二人の姿は、さながら血のつながった姉妹のようで、ぼくはほんの少しだけ、彼女たちをうらやましく思った。

「さ、家に帰ろ」

 国沢さんがヒッソリとつぶやいた。

 森永さんの目が、細まる。あふれ出た大粒の涙が、雨粒といっしょに流れ落ちた。

「ほぅちゃん、陽之上くん。本当にありがとう」

 国沢さんに抱きしめられて、森永さんは顔を少し赤らめていた。コホコホと息苦しそうに咳こみ、潤んだ流し目でこっちを見つめる。

『ありがとう』。

 その一言が、ひどくやさしく染み渡る。

 ぼくは肩をすくめて、息をついた。

 胸に手を当てる。

 トクン。

 体が、温かい。

 ……こんなぼくでも、友達の命を救えるんだな。

 その事実が、どうしようもないくらいにうれしかった。

 まあ実際のところ、がんばったのは国沢さんだ。ぼくはその脇から、非力な手を差し伸べたのに過ぎない。

 それでもぼくは、満足していた。わずかでも、友達を生かすためにがんばれたからだ。

「わたしたち、まだ知り合って二ヶ月じゃない。お別れっていうには、早すぎるよ。わたし、ちぃちゃんのこと、もっともっと知りたいんだ」

 国沢さんが、森永さんを一層強く抱き寄せた。そして微笑む。

「だから、これからもよろしくね」

「こっちこそ」

 森永さんは柔和に微笑んで、そっと親友の背中に手を回した。赤く丸みを帯びたその両手は、国沢さんの背に優しくあてがわれる。

 そして一気に爪を立て、地面に鮮血をまき散らした。

「ぐっ」

 うめきを上げたのは、国沢さんだ。まるで山野を下るマグマのように、背中から血を垂れ流している。血は雨粒といっしょに伝い落ち、淡い朱色となって地面にたまった。

 ぼくは自分の目を疑った。

 鋭くとがった五つの爪が、国沢さんの背中に深々と突き立っている。もっと信じられないのは、その爪が、森永さんの右手から生え伸びているってことだ。

 森永さんの右手。

 いや……。本当に、彼女の手なのかな。

 だってその手は、毒々しい緑に変色している。太さも、三倍くらいに膨れ上がっていた。手のひらは、野球用グローブと同じくらい大きい。表面で、どくどくと血管が脈打っていた。人間の手にはとても見えない。

 ぞぶりと音を立てて、爪が引き抜かれる。国沢さんは受身を取ることもなく、あお向けに倒れこんだ。助け起こそうと駆け寄るけれど、間に合わない。ヘルメットがコンクリートにぶつかる、鈍い音が響いた。

「く、国沢さんっ。しっかり!」

 ぐったりとした彼女を、抱え起こす。頭はだらりと垂れ下がり、真っ白な喉を惜しげもなくさらしていた。背中の穴から、粘り気のある血が噴き出ている。それはまたたく間にぼくの手を、そして心さえも、真っ赤に染め上げていた。

「ち、ちぃちゃん。どうして」

 国沢さんは弱りきったまぶたを開け、血にぬれた親友をしかと見すえた。

 森永さんは、ポカンと口を開いて直立している。まるでスローモーションのような動きで、自分の右手に視線を落とした。

 そして絶句する。

「えっ。な、なに、これ。な、なんなの。この、怪物みたいな。わ、わたし、なにを」

 血に染まり、グロテスクに変化した右手。それを見て、泣き出しそうな顔をしている。

 通信機が鳴り響いた。耳障りなその音が、がらんどうの脳内をむなしく反響する。ぼくらはあわてて我に返り、通話ボタンを押した。

「たったいま、捨てられていた足首の身元が判明した」

 岳人先生の声が、耳を素通りする。

「森永千尋」

 えっ。

「間違いない。ちぎれた足首の持ち主は、森永千尋。お前たちの友人だ」

 ――そ。

 混乱を隠せない面持ちで、国沢さんが反論した。

「そんなの、なにかの間違いだよ。だって、ちぃちゃんはわたしたちの前にいるんだし」

「それは森永千尋じゃない。本物は、死んだ。足首だけを残して食い殺された」

 なっ……。

 なにを言ってるんだ、先生は。

 シンダ?

 それはいったい、どこの国の言葉だ。

「『夜』は宿主の抱く願望を、自らの行動に反映させることがある」

 なにを言っているのかわからない。

「宿主が『死にたい』と考えれば、それを実行することもありうる」

 わけがわからない。意味がわからない。理解不能だ。

「自殺願望を持っていた宿主を、楽にさせたということさ。そしてその姿と記憶を借り、自身が怪物であることすら忘れさった。人間界に溶けこむためにな。これまでいくつか、俺も同じような事例に出くわしている――つまり、端的に言おう」

 先生は、声を地の底まで落としこんだ。

 ぼくは森永さんに視線を移した。血の斑点がついたワンピース。普通の人の数倍太い、変わり果てた右腕。そして、どこまでも平凡な――あどけない、少女のようなリンゴのほっぺ。

「やめてよ。ねえ、やめて。お願いだから、それ以上はなにも言わないで」

 国沢さんの声は、かつてないくらいに震えている。瞳が、虚空をさまよっていた。

 でも、先生は聞く耳を持たない。

 怜悧な声で言い放った。

「そいつは『夜』だ」

 そのときだった。ぼくは森永さんの取った行動に、心の底から怖気を感じた。

 彼女は爪からしたたる血液を不思議そうに眺めてから、ふと小さな舌を伸ばして。

 ぺろり。

「どうして、かな。うん、どうして」

 ゆっくりとなめ取ったあと、かわいらしく小首をかしげる。そして、顔をくしゃくしゃにゆがませた。

「どうして、血がこんなにもおいしいの。どうして、友達を見て――『食べたい』って思っちゃうの?」

 背筋に悪寒を感じ、思わずその場から飛びのいた。一気に距離を取る。

 国沢さんは地面にへたりこんだまま、血をすする親友をぼう然と見上げていた。

 しまった。傷の痛みで動けないのか!

 あわてて駆け戻ろうとしたとき、

「殺せ」

 先生の声。冷たい指令が、体の芯を凍りつかせる。

「そいつは、お前らの知る森永じゃない。人を食べる怪物だ。心を鬼にし、始末するしか手立てはない。頼む。ここで殺されたりはしないでくれ」

「そんな……。友達を殺して、生き延びろって言うんですか」

「割り切るんだ。そいつは友達じゃない。『夜』だ。人の肉と苦悩をむさぼる、お前たちの敵だ。辛いだろうが、殺す以外に道はない。殺せ。そして絶対に、死ぬな」

 それだけ言って――通信は切れた。

 ぼくは、ただただ立ちすくむ。ヘルメットを打つ雨粒の音も、いまは耳に届かない。

 殺す? ――なんで。

 なんで、殺さないといけないんだ。

 ついさっきまで、「生きろ」ってはげましてきた相手を。

 涙を流しながら、「ありがとう」って言ってくれた友達を。

 どうして。

『迷う必要がどこにある』

 声。低い声。誰だ。体内から響いてくる。ひょっとして、ぼくは錯乱でもしてるのか?

『殺される前に、殺す。生き物として当然の行動だ』

 殺される。森永さんに? どうして、クラスメイトに殺されなくちゃいけないんだ。森永さんはそんな人じゃない。ささいなミスでも動転して、一生懸命に頭を下げて。お母さんを愛していて、国沢さんと仲良しで、そして唐田にあこがれている。

 ただの普通の、女の子だ。

 化け物だなんて。本物は、もうこの世にいないだなんて。

 そんなの、信じられるはずがない。

 森永さんが、ぼくたちを殺す。食い尽くす。ウソに決まってる。これは夢だ、悪夢だ。現実じゃない。そうだっ。一度、目を閉じてみよう。きっと現実に立ち戻れるはずだ。

 目を閉じた。開けた。

 すると巨大な腕が振りかぶられている。しゃがみこんだ、国沢さんめがけて。

「戦えるわけ、ないじゃない」

 国沢さんは荒い息を繰り返しながらつぶやいた。地面に尻もちをついたまま、小さく震えている。その場から動こうとしない。いや違う。動けないんだった。背中に穴が開けられてるんだ。動けないのは当たり前だ。

「逃げて、ほぅちゃん。早く。体が言うことを聞かないの。このままだと、わたし……」

 森永さんの腕は、その爪を振りかざしたまま、空中で静止していた。小刻みに微動するその腕は、まるで見えない糸にでもつなぎとめられているようだった。糸が切れたその瞬間、豪腕は振り下ろされるだろう。それを食らえば、国沢さんも無事ではすまない。

 となると、ぼくが。

 森永さんを、殺すしか。

 ――嫌だ。

 嫌だよ。そんなの、絶対に嫌だ。

 肉を切る。骨を断つ。恐怖と戦う。全部、普段からやってることには違いない。けれど人間が、それも知り合いが相手となれば、話は別だ。血のにおい。肉の臭み。死の香り。そしてクラスメイトの断末魔。ぼくには無理だ。耐えられない。たとえ目の前の彼女が、人の皮をかぶった化け物だったとしても、そんなのどっちだっておんなじだ。ぼくが悲鳴を聞くことに変わりはない。血肉にまみれた死骸。 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

「どうしてなの、ちぃちゃん」

 国沢さんは自分の膝元をむなしげに見つめながら、誰に対するともなくつぶやいた。

「どうして、わたしが来るまで、生きていてくれなかったの!」

 からからに枯れたその叫びに、胸が揺れ動く。

 ぼくが戦わないと……どうなる? 森永さんを殺すのは、国沢さんの役目になるんじゃないのか。

 そんな! そんなの、させられるわけがない。だって彼女たちは、親友同士だ。親友の体に刃を立て、殺す。そんな役割を、彼女に務めさせるわけには行かない。

『人間一人斬れない。そんな生半可な考えでやってけるほど、化け物退治は甘くない』

 かつて受けたセリフが、体内で響く。

 もう、迷っている時間はない。捨てるんだ、生半可な考えを。

 ここはやっぱり、ぼくが森永さんを。

 ――討つしか。

「逃げて、ほぅちゃん。もうダメ!」

 操り糸が切れるようにして、大岩のようなこぶしが振り下ろされた。

 まずい!

 地面を蹴る。駆け出した。彼女たちとの距離、およそ四メートル。間に合わない。

「よけて!」森永さんの悲鳴が、闇を切り裂く。しかし国沢さんは、ああ国沢さんは、目を丸めたまま両手をうしろにつき、口を大きく開け、動こうとせず、彼女めがけてクマのような爪が落下、

 ぼくは抜刀、そして絶叫。黒い刃。彼女らの側面に回り、刀をかざして、森永さんの下腹めがけて突き出し、そしてギュッと目をつぶって、

 刺され。

 刺さらないでくれ。

 矛盾した願いを、同時に抱いた。

 肉を断つ感触。ずぶり。人の声とは思えない、身の毛もよだつような悲鳴。ぼくは刀から手を離し、国沢さんたちの間に割って入った。足元で血がはねる。両手を広げて、国沢さんの前で仁王立ちした。目の前の光景を、彼女に見られたくはなかった。

 地面に、新たな血だまりが生まれていた。森永さんが出血している。彼女はわき腹に入りこんだ黒い刀身を見て、大声を上げた。大量に咳きこんで、赤い霧をまき散らす。

 ぼくはとっさに、森永さんの体から刀を抜き取った。刃先から、ボタボタと血が落下。

 純白だったワンピースは真っ赤に汚され、お腹の裂け目からはピンク色の腸みたいな物がはみ出していた。

 そんな彼女の喉が、不意に大きく膨らんだ。まるで獲物を飲んだヘビのようだ。彼女はカッと目を見開き、雨空を見上げた。その口が、耳まで裂けていく。

 そしてなにかが吐き出された。つま先に、べったりとした感触。ぼくは「ぎゃっ」と悲鳴を上げ、足を引っこめた。

「陽之上くん、それはいったい……」

「見るな!」

 背後から顔を突き出そうとする国沢さんを、するどく一喝する。

 だけど彼女は、見てしまった。そして一瞬にして呼吸を止める。

 吐き出されたのは、人の体だった。ぼくらとそう変わらない身長。皮膚は胃酸で焼けただれ、パッと見では性別すらも判別できない。だけどその死体は、白いワンピースを着ていた。そして左足首がちぎれている。片方の目がドロリと飛び出て、地面の上に転がっていた。軽い色合いの天然パーマには、見慣れたタンポポの飾りが付いている。

 認めたくはなかった。だけども、その体型、服装、そして髪飾りが物語っている。

 これが誰の死体であるのかを。

「助けて――助けて、『ノボル』さん」

 国沢さんの声は、吹けば消えてしまうロウソクの火のようだ。

 ぼくはなるべく、その死体から目をそらした。油断すれば悲鳴を上げて逃げてしまうだろう自分が、そこにいた。

 森永さんは呼吸を整えながら、かすれた声でため息を吐いた。

「わたし……、オバケだったんだね」

 声を曇らせる彼女。そんな彼女の目に、ぼくは刀の切っ先を突き構えた。

 覚悟を決めなくちゃ。――覚悟?

 なんの覚悟だ。

 人を殺す覚悟か?

 いや、違う。これは人じゃない。『夜』だ。人を食べる、ぼくらの敵だ。でもそれでも、姿形は森永さんと生き写しで。それがどうしても、ぼくらの心に躊躇を生んでしまう。

 だからせめて。せめて苦しまずに死ねるように、喉を突いて即死させる。

 呼吸を整えた。森永さんの首に狙いを定める。

 ぼくは爆発した。喉が裂け破れそうな大声を放ち、額からどっと汗を噴き出させ、刀を突き出し、森永さんの首を突き破る。肉の柔らかさが、指先にまで伝わった。

 彼女は口を開け、舌を突き出し、ヒキガエルのような短い悲鳴を上げる。声が鼓膜にこびりついた。鮮血が刀身を伝い、足元に落ちていく。そこで刃は止まった。まだ、二センチくらいしか食いこんでいない。でも、なにか硬い物に邪魔されてる。

 だめだ。これ以上は、刺せない。

「――痛い」

 恐ろしいことに、喉を突かれてもなお、森永さんは言葉を発し続けていた。

「痛い、痛い、いたい」

 痛い。ぼくも、たまらないほど痛かった。胸が痛い。視界がにじむ。息をするのも苦しい。お願いだからもう口を開かないでくれ。彼女が喉を震わすたびに、その振動がこっちの手にまで伝わった。

 ぼくは、なにをやってるんだ? 早く、トドメをささなくちゃ。

 森永さんに痛い思いをさせないためにも。

 ――ありがとう。ほぅちゃん、陽之上くん。

 はにかんだ彼女の顔が脳裏をよぎる。ぼくは必死に頭を振った。

 だめだ、自分。しっかり現実を受け止めろ。森永さんは、死んだんだ。ここにいるのは化け物。まがい物だ。

 ――ちぃちゃんは、わたしが死ぬ気で守るんだ。

 ぼくが、この手で、殺さなくちゃ。

 ――親が子供に望むのはね。たくさん笑える、いい人生。

 そんな人生は、終わった。彼女はいま、全身を使って泣いている。これ以上、苦しませるわけにはいかない。

「痛いよう、おかあさん。痛いよう……」

 血と体液にまみれた小さな手が、黒い刀身をつかんだ。両手からの出血をものともしない様子で、彼女はぐっと力をこめる。刀身は抜き取られ、そしてパキンっていう軽い音を立てて、へし折られた。その喉元から一斉に噴き出した鮮血が、ぼくの顔面へ襲いかかる。

 ぼくは我慢できずに顔を背けた。地面に這いつくばって、激しく咳きこむ。血の絡まった痰が、コンクリート上に吐き出された。

 無理だよ、もう。クラスメイトを相手に、闘志なんて湧くわけがない。

「わたし、死にたくない。うん、死にたく、ないよ」

 むせび泣く彼女の背後で、突如、影が走った。

「ごめんね、ちぃちゃん」

 国沢さんだった。その手には白銀にまたたく刃がある。

 地面に血の足跡をつけながら、彼女は横一直線に刀を振るった。

 森永さんの悲鳴が、再び闇夜をつんざく。もう一つ、別の声が混じっていた。言うまでもない。国沢さんだった。彼女は半狂乱に近い叫びを上げながら、森永さんの首に刃を切りこませた。それは真ん中まで断ったところで、急に止まる。骨に当たったんだと気づくのに、数秒かかった。

「嫌だ! 嫌だ、嫌だ、いやだー」

 森永さんは子供のように泣き叫び、国沢さんを突き放そうと無我夢中でもがいていた。

 そんな彼女を国沢さんはすかさず羽交い絞めにして、身動きを封じる。そして片手で刀を器用に持ち替え、バイオリンの弓のように押し引きし始めた。背中に穴を空けられながら、あの屈強な右手を押さえこんでいる。尋常じゃない。いったいどれだけ頑強な精神が、彼女を立たせているんだろう。

 ぼくはふと、アスファルトに視線を落とした。国沢さんたちの足元に、赤いジャムみたいな物の入った小ビンが寝かされている。

 ……なにかの、薬だったような。ぼくも岳人先生から、もらった記憶がある。

 あれがどんな効果を持つのか思い出したいところだけれど、むせ返るような臭気が邪魔をしてくる。とても考えていられるような余裕はない。

 血と肉の強烈な臭みが、夜の空間を赤黒く支配していた。

 ……やばい。

 もう限界だ。

 胃から逆流して来る物を、ぼくは吐かずにはいられなかった。たまらず、口元を押さえる。けど、その手の隙間からヨーグルト状の物体が次々とこぼれ、溶けかかった「誰か」の死体へと落下した。

「あ、あなたは……ちぃちゃんじゃない。ちぃちゃんを殺した、憎い敵。人を、食べる、生き物なの」

 国沢さんは、強く強く目を閉じる。口元を引くつかせながらも、その手を決して休めない。ゆっくりとだけれど、確実に骨を切っていく。

「だ、だから。だから、だから、だから。放ってなんて、おけないから。だからわたしが、この手で。この手で」

 その続きは涙でにじみ、かすんで、声にならずにつぶれていった。

「死ぬのは嫌。死ぬのは、死ぬのは。さっき、さっき、『生きろ』って言われた……」

 森永さんが大音声を上げた。その目尻に涙がたまり、赤い水となってほほへ伝う。それが彼女にとっての死化粧だった。

「助けて、お母さあん。おかあさーん!」

 直後、ゴフ、っていう声がして、森永さんの首が宙を舞った。噴き上がった命の液体が、世界を真紅に染め上げる。主を失った彼女の体は、居場所を求めるように中空をさまよい、やがて音を立てて地面に倒れた。

 血まみれになった国沢さんの腕から、ぬるりと刀が滑り落ちる。コンクリートに当たり、ガラスのように砕け散った。

 国沢さんの顔が、真っ赤に染まっていた。しかしくちびるだけは青い。冷たい雨に打たれ、ブルブルとわなないている。

 ぼくは口を開いたまま、言葉を失った。足元では、首のちぎれた死体がビクビクと痙攣し、血の川を広げている。それより視線を右に向けると、今度は吹き飛ばされた首と視線が合った。ぱっちりとした、かわいらしい二重ふたえ。なにかを問うような物悲しい目で、こっちをにらんでいる。

 ――どうして、わたしを殺したの?

 友達だったのに。

 友達だったのに。

「違う」

 ぼくらは、敵を討っただけだ。人を食べるぼくらの敵。心の影に巣食う悪魔の手先。それを倒しただけに過ぎないんだ。

 友達を――友達を殺しただなんて。

 そんなこと、あるわけがない。

「終わったね、陽之上くん」

 国沢さんは、やさしい口調でぼくに言った。

「終わっちゃった」

 降りしきる雨の中。

 彼女の目尻に、光るものがある。


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