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――なあ、とも。
朗らかな声が響いた。それは暗闇の中でのことだった。数センチ先さえも見えない闇の中で、誰かがたしかに、ぼくの右手をつかんでいる。ぼくといっしょに、歩いている。
温かくてやわらかい、どこか懐かしい感触。もう二度と味わえない肌触り。
「どうしたの、兄貴」
何気なさを装いながら、聞いた。さり気なさを演じながら、うながした。和やかで優しい声が応じる。
「もし、こんな先も見えない夜道でさ。目的地がわからなくて、迷っちゃったときとか。ともなら、どうすればいいと思う」
ぼくは顔をしかめた。考えようとしても、なんでだろ。思考に霞がかかる。
「ええと。とりあえず足元に注意しながら、来た道を戻るかな。兄貴は、どうするの」
「俺? 俺は、そうだね。仲間を探すかな。手をつないで、歩いてくれる仲間をさ」
「仲間?」
「そう。つまづいても、受け止めてくれる仲間。手を引いて、道を指し示してくれる仲間。困ったとき、いっしょになって転びあえる。そんな仲間」
兄の顔は、あいかわらず見えない。もしこの場に光があったのなら、目を細めてほほをかく兄の姿が拝めただろう。
「ぼくに、そんな仲間なんているのかな」
「いるさ。転んで泣いて、傷だらけになって。そういう辛くて苦しいときには、手探りでもしてみな。その手をつかんでくれる人はきっといる」
「でも……それって結局、その人に甘えているだけなんじゃ」
「逃げ出すよりかはずっといいさ。誰かに助けられてでも、遠回りをしてでも、前に進む。それは甘えとは違うからな」
――進む。前に。
口の中で、ぼくは小さくつぶやく。
そのとき、ふと、兄の手が止まった。
「兄貴?」
ぼくは、兄の顔をうかがおうと横を見た。でも見上げた先には、果てしのない『夜』が広がってるだけだ。
「ごめんな、とも。ここから先、俺は進むことができない」
え? それって、どういうこと。
右手から、感触が消える。
「じゃあな、とも。元気でやれよ。岳ちゃんによろしく」
「ちょ、ちょっと待って。どこへ行くの」
置いてかないで。ぼくを、一人にしないでよ。
右手を伸ばし、おぼつかない足取りで暗闇を右往左往した。もう一度、あの感触をつかむために。
出口も見えない。自分が、どこに向かおうとしてるのかもわからない。そんな状況で、一人になるのは嫌だ。ぼくにはまだ、手を差しのべてくれる存在が必要なんだ。
つま先をなにかに引っかけ、転んだ。ほっぺたに、油のような液体がつく。
なんだ? 起き上がって、足元を凝視する。暗闇の中、なにかが浮かび上がった。
深紅の鮮血。白い肉体。赤と白のコントラスト。悲鳴をこらえた自分を、このときばかりはほめてあげたい。ぼくは立ち上がりつつ、ほっぺたに手を当てた。ギットリとした感触。見ると、手のひらが真っ赤に染まっている。
足元に、兄の。
惨殺死体が落ちていた。
ほつれた髪。うつ伏せになった顔。ずたずたに切り刻まれた体。対『夜』用の戦闘服を着、腰には刀を差していた。そしてその横に、
人が立ってる。誰だ? 倒れた兄を、ただひたすらに見下ろしている。着ている白衣のすそまで、真っ赤に染め上げながら。
その人が顔を上げた。血にぬれた顔が、あらわになる。
岳人先生だ。真っ赤な存在感を放つその顔面が、ふいに。
「見たな」
こっちへ向いた。
ぼくは目を見張り、つばを飲み、そして次の瞬間には、呼吸を忘れた。
悲鳴を上げ、その場にくず折れ、くそ、体に力が入らない。大蛇ににらまれたカエルのように。逃げられない。印が。印の描かれた胸の辺りが、「ああ、あああ!」激しく痛み出し、燃え盛るようにひりついて、思考を奪う。痛みが、刺激が、灼熱が全身を駆け抜け、なにも考えることができない。
ポン、と軽い音がして、岳人先生の体に火がついた。暗闇を、白い炎が照らす。吹き上がる火の粉といっしょに、なにかが散り散りに宙を舞った。
目の前に落ちたそれは、花びらだった。名も知らない、白く大きな花びらだ。
「見られた以上は仕方あるまい――我は、貴様に問わねばなるまい」
声が、地の底を這った。聞き覚えのない声だけれど、しかしそれは、岳人先生の口から漏れている。
「あっ」とぼくが声を上げたのは、その直後だ。
先生の顔が、ロウソクのように溶け落ちた。ぼくはつぶりかけた目を、次の瞬間、めいっぱい見開く。くずれた顔の下から、見たこともない顔が現れた。
顔。いや、あれは……仮面だ。どこかの国の呪術師が被っていそうな、おどろおどろしい面。
ギョロリと開かれた目には、まぶたがない。骨のように細く白い指先から、血の色をした爪が伸びている。背は異様に高く、目測で二メートルを超えていた。いつの間にかマントをまとっている。その黒マントで、首から下をすっぽり覆いつくしていた。マントのすそで、炎が白く揺れ動いている。燃え盛る白炎が、仮面に描かれた笑みを静かに照らした。
そいつがゆっくり、音もなく、ぼくの前に立ち。
「我は、貴様に問う」
ぼくの視界は、かざされた手のひらによって、奪われた。
「我、貴様に問う」
頭が痛い。あぶら汗が、ほほを伝う。暑い。なんなんだ、ここは。こいつはいったい誰なんだ。岳人先生? 兄を殺したのは、岳人先生? いや、まさか。じゃあこの怪人は? こいつはいったいなんなんだ。
「我、貴様に問う――」
毒々しいくらいまっさらな手が、ぐんぐんとこっちに迫ってくる。
視界を闇が覆いつくした。闇。白い闇。白くてまっさらな、なにもない、闇。
問う? 問うって、なにをだ。それよりも眠い。なんだかすごく、どうしようもないくらい眠たい。真っ暗な空間が、真っ赤な夢が目の前に広がって、ああ、もう、なにも。
なにも、考えられ、
「……きて、陽之上くんっ。ねえ、起きてってば!」
目を開けた。
そこに天井があった。明かりの消えた蛍光灯。視界が揺れる。小さな手が、ぼくの体を揺らし続けている。
ボディスーツ姿の国沢さんが、ベッド脇のパイプイスに腰掛け、ぼくを揺すっていた。
息を詰め、ベッドから体を起こす。胸が激しく上下した。全身の毛穴から吹き出る汗が、ボディスーツをじっとりとしめらせる。
周りを見渡し、ようやく、ここが保健室だってことを思い出した。
いまのは……夢、だったのかな。いやまあ、そう納得するしかないよなあ。兄がぼくの手をにぎるなんて、もう絶対に、ありえっこないんだから。
壁にかかった時計は、午前零時を指していた。寝始めて、ざっと二時間ってところだ。仮眠は三時間交代って決まってるから、まだ起きるのには早いはずだ。
「国沢さん、どうしたの。ひょっとして、『夜』が出たとか?」
「違うの。あんまりにも、陽之上くんがうなされてたから。なにか変な夢でも見た? 汗、すごいよ」
国沢さんは前かがみになって、ぼくの頭にハンカチをあてがった。彼女の顔が数センチ先にあり、わ、わわっ! ――ほっぺたが少し、熱を持つ。
「な、なんでもないよ。ありがとう」
もそもそした、毛虫ののたくるような声でお礼を言った。
「お礼なんていいよ。こら、横向かない」
国沢さんの顔が、青白い月明かりに照らされる。細められた両目が、まっすぐ伸びた二本のアーチに見えた。白く光った肌。まぶしい。
「ちょうどよかった、陽之上」
部屋の隅から咳払いがした。岳人先生が、腕を組んで壁にもたれている。
そのやせた体を見たとたん、ぼくの胸はかすかに痛んだ。印がうずいている。
あの夢は……いったいぜんたい、なんだったんだ。
先生が、兄を殺した? いや、そんなまさか。
「喫緊事項だ。お前たちにはしばらく、留守番をしていてもらおう」
国沢さんが、両腕を固く抱きしめる。ボディスーツの袖を、強くにぎりしめていた。だけれどその顔は、相も変わらず微笑んでいる。まるで、強い不安をこらえるみたいに。
「喫緊? なにかあったんですか」
ぼくは思わず、ベッドから身を乗り出した。
「ああ」
先生は目を伏せた。
「森永千尋が、いまだ家に戻らないらしい」




