3-5
保健室に行くと、ベッドの上で岳人先生が腕立て伏せをしていた。
正座した妹さんを背中に乗せながら、汗ダラダラで、おいっちに、おいっちに。
すごい……。けど、なんだか見てはいけない光景を見てしまった気分。
目が合った瞬間、先生は神速の動きで跳ね起き、転がりこむようにイスへ着席した。額をキュッとひとぬぐいし、なにごともなかったかのように会議を始める。
「今回の件。修野勉に『夜』が宿っているのだとしたら、見過ごすわけにはいかないな」
さすがって言うべきか、国沢さんはネコのようなしなやかさで先生の背中から飛びすさり、パイプイスに腰かけている。
だけど心なしか、浮かない表情をしていた。そういや、昨日からずっとこんな感じだ。まさかいまごろになって、お腹の傷が開いたとか?
そんな妹さんの姿は、岳人先生の目にもしっかりとらえられていたらしい。
「気をしっかり持て。傷が痛かろうとそうでなかろうと、お前たちに休みはないんだ」
「うん、ごめん。でもいまは、それだけじゃなくてさ。なんていうか……女とお腹のダブルパンチっていうか」
「知ってる。二日目なんだろ」
「あしたへ向かって打つべしっ」
顔を真っ赤にして、目にもとまらないストレートを繰り出す国沢さん。
いまここに、壮絶な家族対決の幕が上がろうとしていた! ――んだけど、突然の入室者によって妨害された。
「へっ、わっ。すみません、お取りこみ中でした?」
入ってきたのは、森永さんだった。彼女は、こぶしを放つ国沢さんと、片手一つで受け止める先生を交互にながめて、どんぐり眼をぱちくり。
その両手にたずさえた重箱を見るや、国沢さんはあっという間に機嫌を直した。
「おっ。いつもありがとね、ちぃちゃん」
この間の一件以降、森永さんはときどき部室を訪れては、こんな感じでぼくらに夕食を振舞ってくれている。国沢さんたちへの恩を、まだ返しきれてないって思ってるみたい。気にしなくていいんだけどな。
「今日はちぃちゃん、めずらしく私服だね。アルプスの少女みたい」
森永さんは白と青の半そでブラウスを着、タンポポの髪かざりで前髪をたくし上げていた。そばかすだらけの赤いほほが、あいかわらず目立っている。
「そうかな。唐田くんには、『お前の野イチゴ面にあう服なんざ、地平線の向こうにだってありゃしない』ってののしられたんだけれど」
ほっぺが赤くてブツブツしてるから、野イチゴ面か。唐田、座布団一枚。
聞くと森永さんは、唐田といっしょにお母さんのお見舞いに行っていたらしい。家が隣同士なものだから、唐田も、森永さんの家族とは面識があるとのことだ。
だけど、なんていうか、まあ……。修野親子がクラスメイト間での話題をかっさらったおかげで、唐田たちの交際がうわさされずにすんだってのも、皮肉な話ではある。
「さてっ。なにはともあれ、腹が減っては戦はできぬ! ご飯ご飯っと」
国沢さんは鼻歌を交えながら重箱を開けた。そして、固まる。
「どうかしたの?」
ぼくは首をかしげた。
「ほう、これは」
重箱の中を覗きこんだ先生が、うなる。
五つの箱の中身は、赤。全部お赤飯だった。箱はすみからすみまで、小豆色をした米粒で埋めつくされている。
ううん……。二日目である国沢さんには、ある種の皮肉とも取れるわけだ。それを悟ったんだろう。岳人先生はわざとらしくうなずきながら、赤飯をほおばった。
「うむ、実においしい。過度のねばり気もなく、かといってパサパサしているわけでもない。理想の舌触りと言える。ほのかに効いた塩加減とゴマの感触がアクセントになっていて、オカズがなくとも物足りなさを感じさせない。絶品だ。うむ、うむ、うむ」
国沢さんへのあてつけだ。ロリポップのときの仕返しかな。
ぼくも、稽古のおかげですっかり腹ペコだった。国沢さんには悪いけど、両手を合わせて、いただきます。
「どうしたー、明日歩。胃袋魔人のお前が、こんなうまい物を食べないというのか」
ぐぅ、と、国沢さんのお腹が鳴った。それが踏ん切りの合図だったらしい。彼女は手にした重箱をものの三十秒で空にし、岳人先生が持っていた食べかけの箱を奪い取った。さかさまにして、中身を口の中に放りこむ。そしてほほをパンパンにして、
「ふんっ」
とそっぽを向いた。
先生はあきれたように嘆息し、しかたなくべつの箱を手に取る。
「あの……。お赤飯、塩と砂糖でも間違えてたかな」
ごきゅん! 口いっぱいの赤飯を一瞬にして飲み下し、国沢さんは笑顔になる。
「ううん、とってもおいしかったよ。さすが、ちぃちゃんだね」
「そっか、よかった。うん、よかった。……にしても、大変だね。修野くんのお母さん。いまごろきっと、必死になって修野くんを探してるよ。うん、きっと探してる」
「それはそうなんだろうけどさ」
国沢さんは箸を置いた。
「あの人が気にかけてるのは、あくまでも勉くんの成績だよ。彼本人じゃない」
「それは違うんじゃないかな。うん、違うと思う。どうでもいいだなんて思ってたら、成績なんて気にかけないもの」
森永さんは、語りだした。
「昔ね、お母さんが言ってたんだけどね。親が子供に望んでることって、お金持ちになることだったり、いい大学に入ることじゃないんだって」
「じゃあ。じゃあじゃあじゃあ。真の望みって、いったい」
それはね、と言葉を区切る森永さん。
「たくさん笑える、いい人生――だから修野くんのお母さんだって、最終的にはそれを送ってもらうことを目的にしてるんじゃないかな。ただそこに着くまでの過程が、普通の人とちょっとずれてるだけなのかなって、わたしは思うの」
不慣れなことを言ったせいだろうか。森永さんはやや酸欠気味な様子で、胸をなでおろした。少しほほを紅潮させながら、
「うん、思うの」
縮まった声で、だけどもはっきり、意見を言い終えた。
「……お母さんといっしょにいて、楽しいって人もいるんだなあ」
またね――と言って退室する森永さんを見送りながら、国沢さんがつぶやいた。
「うん。まあ、ぼくも、最近は親と話す機会があまりないから……たまにだけれど、会話の一つくらいはしたくなるよ。向こうも向こうで、子供が普段どういう風に過ごしてるのか、会話を通して知っておきたいだろうし」
「そっかあ。陽之上くんって、けっこう大人な考え方してるね。親思いっていうか」
そんなんじゃない。兄が消えたときの親の反応が、子供心に焼きついてるだけだ。
不眠症におちいり、日々やつれていく母さん。そんな母さんを元気づけるため、父さんはいつも明るく笑っていた。げっそりとこけたほほの肉を、せいいっぱい使って。
あんな思い、二度とさせたくない。親にはもう、よけいな心配をかけたくはなかった。
だけど……それならぼくは、なにをやってるんだ?
夜になっても帰らず、大量のアザまで作って。心配させたくないって思いながら、これ以上ないくらい心配をかけている。
これって、結構、どうしようもない、
矛盾。
……ん?
着信音が響いている。国沢さんのポケットからだ。
「あれ、電話だ。いったい誰から……って、どわお! 勉くんじゃん!」
「えっ」
思いもかけない事態を受け、ぼくは彼女のケータイを覗きこんだ。発信者名のところには、たしかに修野勉と表示されている。
いまごろになって、いったいどうして。しかもなんで、国沢さんに?
「明日歩、とりあえず出てみろ」
「うん。もしもし?」
すると、電話口から、かすかに。
機械を通した、冷たい声が漏れ聞こえた。
「おたくの生徒――修野勉をあずかった」




