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夜、人影に潜む  作者: 影人
第3話:見えない心と、切れない糸
24/41

3-3

 この日を境に、修野くんの立場は一変した。

 クラスの何人かは、明らかに彼を遠ざけている。中には直接本人をからかう人なんかも出てきて、彼はそのたびに苦笑いでごまかしていた。その家庭環境に同情してくれる人もいたんだけれど、大概の人は極力彼と関わらないようにしているようだった。

 そんなせいもあって、クラス内での彼の立ち位置は、日を追うごとにせまくなっていった。


 ……はあ。

 放課後の教室で、ため息一つ。原因は、机の上に置かれた一枚のプリントだ。

 総合学習の時間に出された、期末テストの対策問題。全部で十教科、計五十問。それら記号問題が、A3用紙にあます所なく書きこまれている。時間内に解けなかった人は、授業後に残ることになっていた。

 で、いま、教室にいるのはぼく一人。窓辺から差しこむ夕方の日差しが、少しばかり暑い。はるか真下のグラウンドから、陸上部員たちの掛け声が聞こえてくる。

 なんだかなあ、すごくむなしい。べつに一人は嫌いじゃないけど、放課後の教室に一人きりってのは、やっぱりわびしい気持ちになっちゃう。

 早く終わらせて、職員室まで届けに行こう。さっさと部活に向かわなくちゃ。

 そうは思ってるんだけど――でもどうしても、解けない問題が何個かある。たとえば世界史。

『資本主義が発達した欧米諸国は、市場や原料をもとめてアジアやアフリカに進出し、植民地をつくった。このような動きをなんというか』

 ……?

 こんなの、習ったっけ。うう、どうしよう。わからないまま放っておくと、テストのときに困るしなあ。でも教科書、家に忘れちゃったんだよな。困ったなあ、打つ手なしだ。一生懸命に考えをめぐらせるけど、錆びついたぼくの海馬は、うんともすんとも反応しない。

 こういうとき、普通の人なら、周りの友達に頼るんだろうな。でも残念ながら、ぼくには友達なんていない。

 国沢さんは、ぼくを「友達」だって言ってくれたけど……。でも彼女とは、放課後以外はあまり話す仲でもない。一概に友達って呼んでいいのかどうか、判断に困るところだ。

「あれ? 陽之上じゃないか。ごきげんよう。今日は、部活に行かないの」

 教室の前扉が開き、清涼感のある声が室内の空気を浄化した。修野くんだった。

 スッと通った、形のいい鼻。半月型に開かれた口。朗らかさと活力に満ちた、清新な笑顔。それらが、和やかな空気をまといながら接近してくる。

 彼はぼくのかたわらに立ち、邪魔にならない角度からプリントを覗きこんだ。落ち着きを含んだ声で、

「ああ、これ六限目の」

 ぼくはなんだか気恥ずかしくなり、プリントに視線を落としたまま赤面した。

「ん、そう。ぼく、全然できなくてさ」

「そうだったのか。でもあれ、ほかにもできてない奴はたくさんいたよ。陽之上も、バックレちゃえばいいのに」

「バックレるって。それは、その……イケナイことだし」

 ぼくは赤い顔のまま、うつむいた。修野くんが目を細めたのが、わかった。

「マジメだな、陽之上は。そこがきみのよさなんだけど。国沢は、もう保健室に行ったのかい」

「うん。なんか、ぼくを手伝いたくて仕方なかったみたいだけれど」

 でも、自分のことは自分で片づけなくちゃいけない。だから、丁重にお断りした。

「国沢らしい話だな」

 修野くんは微笑した。ふと言葉を切って、

「陽之上ってさ。国沢と付き合ってるわけじゃ、ないんだよね?」

 彼がどうしてそんなことを聞くのか、ぼくにはわからなかった。

 わかりたくない、って気持ちが、働いたのかもしれない。

 彼がどんな表情をしているのか気になり、顔を上げた。修野くんは心ここにあらずって感じの顔で、窓辺に視線を泳がせている。

「ごめん、いまの質問は忘れてくれ。それより、どこでそんなに詰まってるんだ」

「え?」

「プリントだよ。いったいなんの問題で、そんなに頭を悩ませてるのさ」

 修野くんはぼくのペン先にあった空欄を一目見て、

「ああ、『帝国主義』か」

 こともなげに解答を告げた。

 そ、そっか! 

 ぼくは、流れるような筆致で答えを書きこむ。

「ありがとう、助かったよ。でも……よかったのかな。結局、人の力を借りちゃって」

「他人の力を頼るのは、悪いことじゃないよ。がんばってもできないときは、誰かの手を借りるのも一つの手段さ。それに」

 軽くハネた黒髪を、修野くんはサラリとなでつける。

「うれしいんだよ。こうやって、誰かの役に立てることが。人の役に立つってことは、その人の未来を切り拓くってことでもあるしね。……なんて、大げさな物言いだけれど」

「だ、だったら、今度は」

 どもりながら、ぼくは言った。顔が一気にほてりだす。な、なんでこんなにも、照れてるんだ? 自分で自分が、よくわからない。

「今度は、ぼくが助けるよ。今度、その……。きみが、困るようなことがあったら」

 開いた口から、たまりにたまった熱い感情がほとばしった。

「そうか。じゃ、なにかあったらよろしく頼むよ」

 修野くんの、優しい声。それを聞くのが、ちょっとばかり小っ恥ずかしくて。でも、だけど、うれしい。

 ぼくは今日、修野くんに助けられた。だから今度は、ぼくが修野くんを助けなくちゃいけない。

 ぼくはゆっくりとうなずいた。

「……頼まれた、よ」

 そのとき、誰かが無造作にドアを開け、教室内に入ってきた。

「お。めずらしい組み合わせだな。勉と、えっと。名前なんだっけ」

 クラスメイトの男の子だ。体はそこまで大きくはないけど、足音はうるさい。廊下側から二番目の列に入り、机の中に手を突っこむ。そして中から、一枚のA3用紙を取り出した。いままさに、ぼくが取り組んでいるプリントだ。

「おお、あったあった。やっぱ教室に忘れてたのか。取りに戻って正解だったぜ」

「家でやってくのか、そのプリント」

 修野くんが尋ねた。クラスメイトが応じる。

「おうよ。やらないよりかはマシだろ。なんか教室だと、いまいち身が入らなくてよ。つうか勉。そういうお前は、早く帰らなくていいのか? あんまり遅いと、ママンが心配するぜ」

「ああ、まあね」

 修野くんはあいまいな笑いでごまかした。あまり触れられたくない話題だってことは、一目瞭然だ。なのにまた、小バカにするような声がかけられる。

「本当、アクティブな母親だよな。めちゃくちゃ過保護っぽいし。なあ勉。お前って、ひょっとしてかなりのマザコン?」

「さあ。どうだろうね。自分じゃ、あまりそういうつもりはないんだけれど」

「なんだよ、その煮え切らない態度。つうかお前、いいのか?」

「えっ。なにが」

 首をひねる修野くん。

 クラスメイトは口元に笑みを含ませながら、視線をぼくに移した。

「自分の立場くらい把握しとけよ、勉。クラスメイト間におけるお前への信頼は、ただでさえ大暴落中なんだ。それなのに、こんないじめられっ子なんかにかまっちゃってよ。そんなんじゃ、人気滑落に拍車をかけるだけだぜ」

「それって、どういう意味だよ」

 修野くんの声色が一変する。穏和という名のオブラートによって包まれた、冷たく、冷たい――怒気。

「い、いいよ、修野くん」

 背中が総毛立つのを感じながら、ぼくはたまらず声をかけた。そうでもしないと、この目の前の優等生は、いまにもその穏やかな眉を吊り上げ、猫の皮の下に隠された、仁王のような表情を浮かべるんじゃないかと、そう危惧したから。

 そんな心配を抱いてしまうくらい――修野くんの笑顔は、凄烈だった。

 彼は、笑い。

 そして怒り。

 怒っている。

 ほかでもない。

 ぼくのために。

 なんで、どうして。彼とぼくは、友達とさえ言えない関係だ。親しいとさえ言えない関係だ。それなのになんで、こんなぼくをかばったりするんだ、修野くんは。

 いったい。

 どうして。


――事件が起こったのは、この日の夕方だった。

 修野勉は、誰に告げるともなく、行方をくらませたんだ。


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