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高校入学から早くも一ヶ月が経ち、ぼくはいわゆる五月病って症状におちいっていた。
もともと幼稚園のころから友達なんていない、空気くん兼いじめられっ子のぼくである。高校に入ればなにかが変わるかもって淡い期待も抱いたけれど、クラスメイトが恐れの対象へと変わるのに、それほど時間はかからなかった。
そんなぼくがいまひそかに「なんだかなあ」って感じてるのが、部活動への入部だった。この高校では、部活動への参加が義務づけられているらしい。
部活なんて、いじめの温床じゃないか。
カッターシャツの背中にうっすらと汗をにじませながら、放課後の廊下をとぼとぼと歩く。窓の外に映えるみずみずしい若葉が、いまのぼくには少しまぶしい。通学カバンはまるで鉄球のように重たく、肩に容赦なくヒモを食いこませた。
周囲を歩く生徒たちは、どの人もなかなか活気づいていた。少なくともぼくみたいに、肩を落としてうつむき、どんよりオーラを周りにまいている子はいない。
できるだけ楽チンそうな部活を求めて校舎内を探索してるんだけど、なかなかメガネにかなった部はお目にかかれない。もっとも、ぼくはメガネなんてかけてないんだけど。
……やっぱりここにも、ぼくなんかの居場所はないんだな。
「おっと、そこのアンタ! ぜひ、恵まれない新聞部に愛の手をっ」
うだうだ考えてたところで、「ビスィ!」と目の前に新聞が突き出された。
情報屋として有名なクラスメイトの女子が、新聞の束を小脇にかかえ、ぼくの前に立っている。ぼくより背が高い。女の子に負けるなんて、少しショックだ。チビでなければ、いじめも受けずにすんだかもしれない。
「んーと、名前なんだっけ? まあとりあえず、んっ」
快活に笑いながら、彼女は突き出した新聞をパタパタさせる。
迫力におされ、手に取った。学級新聞のようだ。彼女、新聞部に入ったらしい。歩きがてら、読んでみる。ありきたりな記事の中から、ひときわ目を引くのを見つけ出した。
紙面のすみっこに掲載された、『この学校のこわ~いうわさ』って題のコラムだ。『特派員は見た! 深夜に出没、謎の影』って見出しが、おどろおどろしい書体でつづられている。
興味本位で目を通そうとしたところで、前から歩いてきた誰かとぶつかった。
見上げた先にある顔を見て、ぼくはハッと息を詰まらせる。
「ご、ごめん。……唐田」
手から新聞が落ちた。早鐘を打つ心臓とは対照的に、体中から血の気が引いていく。
「はん」
不機嫌そうに眉をいからせながら、唐田はぼくを見下ろした。
「〝さん〟をつけろや。殺すぞ」
ぼくより頭一つ分以上高い身長。引きしまった体型で、全身に威圧感を漂わせている。
唐田はぼくをジロリとねめつけ、はっきり、あざけり笑いを浮かべた。
「部活見学か? やめとけよ。お前の居場所なんざ、どこにもねえっての」
最悪だ。いまの気分に比べれば、さっきのぼくは鬱でもなんでもなかったと言える。
いきなり、襟首をつかまれた。唐田はそのままぼくを引き寄せ、カッターシャツの胸元をずり下げた。少し赤面すると同時に、言い知れない屈辱を覚える。
唐田は鼻を鳴らした。ぼくはくちびるを噛む。
「お前、まだこのタトゥー残してたのかよ。目ざわりだから消せっつったろ」
ぼくの胸元、鎖骨と鎖骨の間には、ビー玉サイズの紋様が描かれている。丸い印の中に、卍を収めた形だ。
「ぼ、ぼくがつけたわけじゃないよ」
「うっせ。キモい声で言いわけすんな」
言い終わるやいなや、唐田はぼくのみぞおちにつま先をたたきこんだ。内臓がぎゅっと押しこまれ、お腹に鈍い痛みが響く。ぼくはたまらず、お腹を押さえてうずくまった。
丸めた背中に、片足が置かれる。そのままの体勢で、何度も踏みつけられた。
周囲を歩く人はみんな、ぼくを助けようとはしなかった。見てみぬふりをする人の気持ちは、まあわかる。だけど通行人の中には半笑いを浮かべて遠巻きに見物している人なんかもいて、なんだろう、ぼくは人通りの多い廊下にいながら、うらさびしい荒野にぽつんと取り残されたような気持ちになった。
そんなときだ。凛とした声が、ぼくの世界を彩ったのは。
「卑怯者、弱虫!」
唐田の攻撃がやんだ。間近で人の立つ気配がして、ぼくはいじめの現場に割りこむ、奇特な第三者の存在を知った。
「いじめなんて、かっこ悪い人のすることだよ」
顔を上げると、ニーソックスを履いた足が見えた。上のほうにリボンがついた、オシャレだけれど子供っぽいソックスだ。
「立てる?」
その女子は振り返り、ぼくに手を差し出した。ぼくはなんだか恥ずかしかったので、その手を取ろうとは思わなかった。ぼくに残った小さなプライドが、女の子の手を取るという行為に×(ペケ)をつけたんだ。
痛みをこらえながらなんとか立ち上がると、彼女は心配そうにぼくを見た。同じクラスの、国沢明日歩さんだった。
肩まで伸びた、栗色の髪。ぼくも小柄だけど、国沢さんはもっと小さい。百五十センチ、あるかないかだろう。そんな体格に似つかわしくないするどい眼光で、彼女は唐田をにらみ上げた。
「唐田くんって、本当に弱い人だね」
一言一句区切るように言い放って、腕を組む国沢さん。セーラー服の左腕には、『学級委員』って書かれた腕章がはめられている。
「あ?」
唐田はひるんだ様子もなく、あごを突き出した。
「なんだお前、ドラマに出てくるマジメちゃんかよ。いじめはかっこ悪い、だと? ――あのなあ。俺みたいないじめっ子ってのは、いじめられてもしかたのない奴をいじめるんだよ。嫌われてる輩を進んで攻撃するわけだから、むしろヒーローと言ってもいい」
唐田は、言葉を続けることができなかった。
なぜかって、国沢さんに足払いを食らったからだ。
一瞬、宙を舞う唐田。国沢さんはその瞬間を見逃さない。ジャンプして、唐田のほほに必殺ビンタをたたきこむ。まるで、バレーのサーブを打つような動きだった。
「がっ……」
悶絶したのもつかの間、唐田は重い音を立てて床に激突した。
「早く、いまのうちに」
国沢さんはぼくの腕をつかみ、いちもくさんに走り出す。
ぼくは彼女に引っ張られながら、手首から伝わる感触にどぎまぎしていた。直接手をにぎり合っているわけでもないのに、なんとも情けない。
三十秒ほど走り、昇降口の近くまで来たところで、国沢さんは手を離した。
「ここまでくれば、もう平気だよ」
言って彼女は、目の前の教室の戸を開け、中に入った。そして、「おいでおいで」と手招きをする。少しとまどったけれど、逆らおうっていう気持ちは湧かなかった。
そこは保健室だった。半開きになった奥の窓から、穏やかな日光が差しこんでいる。外からの微風で、カーテンがかすかに揺れていた。
部屋の奥には、なぜか大型の冷蔵庫が置いてある。薬を管理するのに必要かもだけれど、あんなに大きくなくてもいいんじゃないかな。
先客はいなかった。校医の先生も、どこかに行っているらしい。ただ一つ設置されたベッドも、空っぽの状態だ。
「ああ、やれやれ!」
国沢さんは先生用のイスにどっかと腰を下ろしながら、ほっとしたように息をついた。これほど快活なため息を、ぼくは聞いたことがない。
「男の子って、なんであんなに威圧感があるんだろ。唐田くんみたく背の高い子は、特にねえ」
だけど、と彼女はセリフを区切った。なにを思ったのか、ななめ上にカッチョよく右手を突き出す。しゃっきぃん。学級委員の腕章がきらめいた。
「正義は必ず勝つ、だよ」
ノリのいい性格だ。若干、ついていけない空気を感じてしまった。
それでまあ、彼女はぼくに、手前のイスへ座るように言った。ぼくはやや遠慮がちにうなずきながら、カバンを横に置いてイスにかける。
「えっと。きみ、たしか陽之上くんだよね。陽之上アシタくん」
意気揚々と目を輝かせながら、意気揚々と人の名前を間違える国沢さん。名字はそれで当たりだけれど、下の名前は違う。ぼくの下の名前は、明日。「明日」って書いて、トモロウって読む。
それを国沢さんに伝えると、彼女は両手で軽く口を押さえた。
「どわお、ごめんっ。わたしまだ、クラスのみんなの名前、覚えきれてなくて」
……なんだかなあ。
新聞部の子がぼくの名を覚えてなかったときは、ショックなんて感じなかったのに。
国沢さんに名前を覚えてもらえてなかったって事実が、ちょっと悲しい。
「でも、わたしとおそろいの名前だね」
前言撤回。すごくうれしい。
「ようし、じゃあ服を脱いで。傷の手当したいからさ」
「え! いやいや、いいよいいよ。べべ、べつに、なんていうかその。い……いまはどこも、痛くもかゆくも、なんともないし」
「だめだめ、ていっ」
カッターシャツを引っぺがされ、タンクトップ一丁になるぼく。思わず、ひゃうって悲鳴が漏れた。
「うっわー、ひどいアザ。こんなアザができるくらい強く蹴るなんて、どういう神経? 人の体をなんだと思ってるんだろ」
背中の青アザに声を荒げながら、国沢さんは丁寧に湿布を貼ってくれる。冷却湿布の冷たい感触が、続けざまに背筋を襲った。
最後にお腹にも湿布を貼ろうとした彼女は、そこでふと、ぼくの胸元に視線を向けた。
「これは?」
指で示した先にあるのは、あの卍形の、唐田が言うところの「刺青」だ。
「なんでもないよ」
ぼくは適当にはぐらかす。ぼく自身も、これがなんなのか、いまだによくわからない。
国沢さんは刺青への興味をものの数秒で失ったらしく、最後の湿布を貼り終えたあと、
「よし、これでオッケー! もう服を着てだいじょうぶ」
と、なぜか無意味にガッツポーズをとった。
ぼくは屈辱感と幸福感がブレンドした不可思議な気持ちを味わいながら、再びカッターシャツを着た。膝に視線を落とし、生ぬるいため息をはく。
自分がひどく情けない。いじめっ子に歯向かえもせず、あまつさえ同級生の女子にかばってもらうだなんて。国沢さんみたく強い人間になれたら、どれだけいいだろう。
「どうしたの。まだどこか痛い?」
ぼくは答えず、ただ静かにうなだれた。
国沢さんはおもむろに立ち上がり、奥の冷蔵庫に歩み寄る。キンキンに冷えたソーダアイスを二本、取り出した。
「食べる?」
「いや……アイスは、ちょっと」
一番苦手な食べ物だ。かじると背筋が「ひええっ」てなる感じが、どうも受けつけられない。
でもなんで、保健室の冷蔵庫に、アイスなんかが入ってるんだろう? むむ。なんだか「みすてりぃ」のスメルがぷんぷんだ。
「ここ、『お悩み相談部』の部室でもあるんだ。わたしが部長をやってるの」
嬉々とした様子で、国沢さんは声を弾ませた。
ぼくは、「へえ」と返答する。聞いたこともない部活だ。
「ほかの部員は、どうしたの」
「部員ねー」
彼女は遠い目をした。
「実はわたしだけなんだ。マイナーな部活だから、全然人がこないの」
あきらめの混じったため息をはいたかと思えば、急に「ねえ!」と身を乗り出してくる。
「陽之上くんって、まだ部活、決めてないよね。よかったら、入部してみない?」
滅多にない女子からの誘いに、ぼくは正直とまどっていた。
本心を言えば、入りたい。入部して、国沢さんともっと話をしたいと考えている。こんなに他人と関わりたいと思ったのは、ずいぶん久しぶりのことだ。
だけど……。
ぼくと関われば、彼女もいじめの標的にされかねない。それだけはなんとしても避けたかった。ぼくを守ってくれた人に、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
でもその一方で、この誘いを蹴るのは非常にもったいない気もしていた。
いまここでNOと答えれば、彼女と話せる機会はほとんどなくなるだろう。ぼくはいままでどおり教室の片すみで細々と生息しながら、つまらない部活動に入って高校生活の荒波に淘汰されるんだ。他人との会話の楽しさを久しぶりに感じ取ったいま、それはちょっとさびしさを感じる。
「べつに無理じいはしないよ。嫌なら嫌で、それは陽之上くんの自由だし」
むむ。国沢さんは待ちの姿勢だ。
結局ぼくはお得意の優柔不断スマイルで、この場をごまかすことにした。
「とりあえず、保留ってことでいいかな。……なはっ」
その日はそれでお開きになった。
国沢さんと別れ、校舎を出る。
とにかく、明日の放課後までには正確な結論を出しておこう。実際、ぼくはどっちを選びたいと思っているんだ? YESかNOか、男ならきっちり決めておくべきだ。
なんて考えていたとき。
校門を通り抜けた先で――ぼくはまたもや、唐田とはち合わせた。
「よう、明日。会えてうれしいぜ」
思わず身構えるぼくの肩に、なれなれしく手を回してくる唐田。顔は笑っているけど、小ずるく光ったその目は、こっちの心をえぐるような鋭利さを秘めていた。
「安心しろ。いまはなにもしねえよ。ちょっくらお前に、やってほしいことがあってな」
ぼくに、やってほしいこと?
「ああ」
唐田はうなずき、耳元で低くささやいた。
「明日中に、国沢の奴へ嫌がらせをしてこい」
耳を疑う指示だった。やっぱり国沢さんは、ぼくなんかをかばうべきじゃなかった。
「い、嫌だよ」
ぼくはたまらず、唐田の汗臭い腕をほどいた。
「ああ?」
とたん、不機嫌になる唐田。
「お前が国沢の代わりにいじめられたいってんなら、こちとらそれでもかまわねえぜ。俺様のサンドバッグになるか?」
唐田は両手の指を組み合わせ、関節を鳴らした。意地悪く曲がったそのくちびるは、はっきりと笑みをかたどっている。
サンドバッグ。
なんで、ぼくが。