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夜、人影に潜む  作者: 影人
第2話:大きな声で小さな一歩を
18/41

2-10

 いた。唐田と、森永さんだ。

 ぼくと国沢さん、岳人先生は、塀の陰からこっそり前方をうかがう。

 街灯の下に、立ち止まった二人の背中。半端な距離を置きながら、向かい合っている。

「あまりしゃべるなよ」

 岳人先生が、小声でぼくらに念を押した。

「こんな格好で出歩くお前らを見たら、森永たちは不審に思うだろう。できうる限り気配を消して、いざというときになったら飛び出すんだ。いいな」

 辺りに、車は見当たらなかった。人の姿もない。先生の仲間が暗躍したらしい。付近の通行を規制したのか。それとも人のいない所へ、唐田らをそれとなく誘導したのか。どっちにしても、冗談みたいに手際がいい。

「あいつらが唐田を引き離してくれていたら、なおよかったんだがな。このままでは、奴の命が危険にさらされることになる」

 鞘走りの音がした。同時に、白い光が目に飛びこむ。国沢さんが抜刀していた。戦闘準備は万端のようだ。

「戦いたいと強く思え。そうすれば、陽之上の手にも現れる」

 ぼくは目を閉じた。目の前に、黒い空間ができ上がる。

 ――戦おう。

 念じた。

 ――国沢さんや、岳人先生といっしょに。

 目を開けた。

 だけど両手は、なにもにぎってなんていない。

 やっぱり、だめか……。

 しょせんぼくは、陽之上明日だ。先のことばかり怖がって、自分の殻を破れない。

 ――わたしにとっての、ヒーローだよ。

 ぼくは、ヒーローなんかには、なれない。

「俺はただの小悪党だ。ヒーローなんかじゃねえ」

 唐田の声が、ぼくの思考をさえぎった。落ちこんだ響きをしている。らしくもない。

「小悪党? それってどういう意味。唐田くんは、いつもわたしを助けてくれるじゃない。小学校のときだって」

 森永さんは、つばを飛ばしかねないくらいに声を弾ませた。

「わたしがいじめられてたとき……いじめてた子たちを、やっつけてくれたでしょ」

 初めて聞く情報だ。

 いじめられっ子を救った唐田。そんな彼が、なんでいじめる側にまわったんだろう。

「わかんねえのか。それこそが、俺がいじめを始めるきっかけだったんだよ」

 続けざまに放たれた返答に、ぼくはますます耳を疑った。

 え? それって、どういうこと。

「……初耳、かも。うん、初耳」

 どことなく軸の見当たらないぼんやりとした口調で、唐田は言った。

「人を殴れば、周りの奴らに賞賛される。それが案外、気分よくてよ。だから俺は、いじめを始めた。手頃な奴をいじめて、周囲の視線を集める。いじめられた奴は、一生俺を忘れないだろう。マンガの主役にでもなったような気分だった」

 ……知らなかった。唐田がどんな気持ちを抱きながら、ぼくをいじめていたのかなんて。

「だがこの間、俺と明日ともろうの前に意味のわからない事態が降りかかったとき……俺は逃げることしかできなかった。しかも結局、明日ともろうに助けられたんだ。いつも俺にいじめられていた、モヤシ野郎なんかに。それで気づいた。明日ともろうにとって、俺は主役どころか、単なる小悪党の一人に過ぎなかったんだってな」

 そこまで言って、ふと、われに返ったようだ。

「……て、なんでお前なんかにこんな話をしてんだ? 馬の耳に念仏だぜ」

 軽く振り上げたこぶしを、森永さんの天然パーマに落とした。

 森永さんは目をきゅっとつぶり、殴られたところを軽くなでる。

「わたし、見栄を張る唐田くんよりも、こんな風に弱さを出してくれる唐田くんのほうが好きだよ。うん、好き」

「はあ? お前の好みなんか聞いてねえっての。自意識過剰すぎんだよ、このバカ」

 ポカリ。また、げんこつを落とす。

「あの野郎、なにしてくれてんだ」

 国沢さんが、聞いたこともないような低い声を発した。

 いや、あの。キャラ違くない?

「……わたしも、弱い自分を出せたらいいんだけどな」

 ぶたれた部分に手を当てながら、森永さんは夜空を見上げた。星のない空へ、ため息を放つ。

「わたしね、ときどきね。わたしをいじめた人が、一人残さず不幸になればいいのにって考えてるの」

 胸を突くセリフだった。「天然」というベールの下に、彼女がどれだけの苦悩を隠しているのか。その一端が垣間見えた気がする。

「表ではそれを隠して、ニコニコして。嫌な部分も弱い部分も、ほとんど心の奥にしまっちゃうの。弱くてひどい自分をさらけ出して、周りのみんなに嫌われたらやだなあって思うから。だけどそうやって嘘をついてる自分も、それはそれで嫌いだったりするの。これって、おかしいよね。変だよね」

「いまは違うのかよ」

「えっ」

「いまのお前は、俺に対して弱さをぶつけたんじゃないのか。嫌な自分ってヤツをよ」

 その反論は森永さんにとって予想外だったらしい。だまりこみ、つま先をじっと見据えた。

「つうか、お前が強かったことなんて、一度たりともありゃしねえ」

 カバンを肩にかつぎなおし、唐田は再び歩き出した。その背中を、あわてて追いかける森永さん。

「ついてくんじゃねえっての。うっとうしい」

「だって道、いっしょだもん」

 お隣さん同士なんだから、そりゃそうだろう。

 唐田は小さく舌打ちした。くるりときびすを返して、来た道を戻りだす。ぼくたちのほうへ向かってきている。

「あっ、どこへ行くの」

「うっせ。どの道を行こうと、俺の勝手だ」

 唐田は両手をポケットに突っこんだ。そこから、なにか小石のような物が落下する。

 ぼくは目を見張った。国沢さんも、「あっ」と口を丸くする。

「唐田くん、これは……」

 森永さんは、ひろい上げた。タンポポの形をした、自らの髪かざりを。

 唐田はハッとし、口をつぐんだ。言葉を探すかのようなそぶりで、うつむいている。

 そのときだった。

「来るぞ」

 緊迫した様子で、先生。

 短く言った。

「『夜』だ」

 影が動いた。

 森永さんの影。街灯の下、異様な早さで伸びていく。

 まるで沼の底から這い上がるかのように、地面から頭らしき物が出てきた。

「ぎゃっ」

 のけぞり、尻もちをつく唐田。森永さんは首をひねり、彼の視線を追って振り返った。

 そこにあった顔と、目線があう。

 顔。顔だ。宙に浮かんだ、二メートルはあるだろう、女の人の巨大な顔。やせこけた真っ白なほほに、ぬれた黒髪を惜しげもなくたらしている。無表情で、目だけがひどく落ちくぼんでいた。顔から下は、ない。

「あれが、『夜』……ですか?」

 ぼくのときと、姿が全然違う。完全に別の生き物だ。

「奴らの外見は、食べてきた悩みによって大きく変わる。同じ個体は二つとない」

 それってつまり、毎回まったく違った敵と戦えってこと? そんなの、対策のしようもないじゃないか。……聞いてないよ、そんなの。

「危ない!」

 国沢さんは、駆け出すと同時に一閃。キラリと白刃がまたたき、『夜』の鼻柱を正確に斬り薙ぐ。風といっしょに血がサアッと吹きしぶき、暗闇をわずかばかり彩った。

「え、えっ。なに、これ」

 身をすくめ、腰を落とす森永さん。

 そんな彼女の前に立ち、国沢さんは刀を構えた。大声で唐田に呼ばわる。

「ちぃちゃんをお願い。早く!」

 心ここにあらずといった感じの唐田だったけど、どうにか言葉の意味を受け止めたらしい。森永さんの体をひょいと持ち上げ、両手にかかえて走り出した。

 ぼくと先生がいるほうへ、一直線に駆けてくる。そのまま塀の陰へ入った。荒い息をはきつつ森永さんを降ろしたところで、ぼくと目を合わせる。

 お互い、口をつぐんだ。なにを言ったらいいのか、とっさには思いつかなかった。

「先生たち、どうしてここに……?」

 森永さんだけが、状況を飲みこめていない。

「陽之上。まだ、迷っているのか」

 ぼくは再度、目を閉じた。

 戦いたい。強く強く、そう念じる。

 だけど……いつまで経っても、右手は空をつかんだままだ。

 国沢さんの優勢は続いた。彼女が斬りかかるたびに、『夜』の肉片が宙を舞った。

 なぜか知らないけど、敵は反撃一つしてこない。どころか固く口を引き結んだまま、その場からまったく動かなかった。まるで死んでいるみたいだ。

 ぼくは身震いした。嫌な予感がする。

 国沢さんは敵の顔面を蹴飛ばし、一気に頭上へおどり出た。振り上げた刀で、敵の額をたたき割ろうとしている。

 そのときだった。敵の口が、かすかに開いた。すき間から、闇が覗く。

「いかん、離れろ」

 岳人先生が忠告するよりも早く、国沢さんは刃を降ろした。その攻撃は敵の額に、血の一文字いちもんじを刻みこむ。

 とたん、

 恐ろしい叫びがこだました。黒板を引っかいたような、ヒステリックな女の悲鳴。『夜』は天をあおぎ、聞けば悪夢にでもうなされそうな声を延々と発し続けた。

 くぼんだその両目から、とめどない涙があふれ出ている。血の色をしていた。

 赤黒い涙をたたえた両眼が、引き裂けそうなほどに見開く。ふいにそこから、まばゆい光がほとばしった。

 なにかくる!

 右手に、硬い感触。鞘に納まった、日本刀。それを認識するより先に、ぼくは駆け出していた。

「国沢さん、下がって!」

 一瞬、飛び散る。

 爆発音といっしょに、コンクリートの破片がヒョウのように降り注いだ。数メートル先の地面に、クレーターができている。

 国沢さんは無事だった。間一髪でよけたらしく、地面に片ひざをついている。

 彼女めがけて敵の両目がピカッと光り、

「させないっ」

 ぼくは抜き打ちざま、敵の眼球を片方、貫いた。黒光りの刀身は綿でも断つようないきおいで肉に沈みこみ、敵に狂気の悲鳴をあげさせた。引き抜くと、二つに割れた眼球が垂れ下がる。

 黒髪をなびかせ、女の顔は頭上高くに浮かび上がった。生えそろった犬歯をむき出しにして、こっちへ急降下してくる。

 横っ腹に衝撃。国沢さんがぼくを突き飛ばしていた。さっきまで立っていた所に、『夜』が突っこむ。コンクリートの地面が、いとも簡単にえぐり取られた。

 敵はすぐに軌道を変え、目線をこっちに合わせた。また、突進。数メートルの距離を、一瞬でゼロに縮める。上下に生えた牙が、凶悪そうに光った。

 ギリギリの距離でかわす。なんてこった。これじゃ、取りつく島もない。

 そのとき、目の前に、精悍な背中が割りこんだ。岳人先生が、ぼくらの前に立っている。

「俺がオトリになる。お前らはそのすきに、奴を討て」

「なっ」と国沢さんが口を開くのを待たずに、岳人先生は駆け出した。

 黒髪の合間からのぞく血ぬれの片目が、先生をとらえる。怒りとも悲しみとも取れる張り詰めた叫びを上げ、『夜』は先生に覆いかぶさった。

「ああ、もう!」

 国沢さんが地面を蹴った。ぼくも彼女に続く。二人同時に、敵の背中を取った。

「なんでいつも、一人で勝手に飛び出すの。このバカ兄!」

 ぼくらは飛び上がり、左右両方向から、刀を振り下ろす。刃が頭蓋骨に当たって、硬い音を立てた。だけどそれも一瞬のことで、次の瞬間、絶叫。ぱっくりと割れた後頭部をさらしながら、『夜』は空高々に悲鳴を放った。

 国沢さんは敵の正面に回りこんだ。叫びがやむ。敵の喉を突いたらしい。

『夜』の体はとたんに生気を失い、横倒しになった。重たげな音といっしょに、地面が軽く震動する。

 や、った……。

「お兄ちゃん!」

 巨体の下から、血だるま状態の岳人先生が現れた。あお向けに倒れている。セーターは見るも無残に引き裂かれ、胸は弱々しく上下していた。

「バカ兄、バカッ。本当にバカ」

 国沢さんは涙まじりの声を放ちながら、先生を思いっきり抱きしめた。バキメキグシャ! ――先生の体が、身の毛のよだつ音を立てながら軋む。

 ぼくは倒れている敵を、恐る恐るうかがった。

『夜』は脳みそをまき散らしたまま、ピクリとも動かない。よく見ると、その体は少しずつ半透明になっている。数秒後には、全身が跡形もなく消滅していた。

 え。

 消えるの?

 愕然と目を見開いていたところで、塀の陰から森永さんが顔をのぞかせた。

「だいたいの事情は、唐田くんに聞かせてもらった、よ」

 吐き気をこらえるような口調で歩み出るやいなや、彼女はいきなり頭を下げた。白く照らされたコンクリートに、一滴、二滴と涙が落ちる。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい。わたしのせいで、大変なことになっちゃった。いまのわたしには、もうこうするしか――」

「めそめそすんな。よけい腹立つ」

 唐田が現れ、乱暴な手つきで彼女の頭をかき乱した。

 涙で腫れた森永さんの目が、前髪で隠れる。唐田なりの配慮だったのかもしれない。

「ていうか、これがちぃちゃんのせいだなんて、誰も思ってないよ」

「俺以外はな」

 鼻を赤くする唐田。

「なにはともあれ、一件落着だね」

 晴れやかな笑顔を咲かせつつ、国沢さんは岳人先生の肩を持った。体格差のせいで、少し持ち上げにくそうだ。ぼくはあわてて、もう一方の肩を支えに行く。

 先生の体、すごい。見た目は細身なのに、服の下の筋肉は岩みたいに盛り上がってる。

 ……ん? 

 なんだろう、これ。露出した背中に、アザみたいなのが大きく浮き出てる。

 左右の肩甲骨に描かれた、紫色の二つの丸。その下に点。一番下の半円は、耳まで裂けた口のようだ。

 それら一連のアザは、まるで魔物の顔のようで。

「……!」

 なぜか急に、身震いが起こった。

 本能か、はたまたそれに近いなにかが、警告を訴えている。思わず、身を引いた。

 なんだ……? このアザ。

 胸に手を当てた。心音が、異常なくらい耳に響く。

 ――そのとき、背後。

 唐田の悲鳴。

 振り返ると、なにかが、地面の上を這っている。

 ――唐田の影から、這い出ている。

「あ、ああ……あああああああああ!」

 唐田はかろうじて立ちながら、だけどもその足を小刻みに震わせていた。

 森永さんはといえば、口を両手で覆い、青ざめた顔で彼の前に立ちつくしている。

 目の前に、花が咲いていた。

 タンポポ。多年生の植物。道の端にひっそりと生え伸びる姿を見れば、誰もがほっこりすること確実な、幸せの運び屋とも言うべき植物だ。

 ただし目の前のそいつは、端どころか道幅いっぱいに、その巨体を利かせている――唐田の倍くらいもある直径。見る見るうちに、根を地面へ張りめぐらせている。

 茎の上に開いた、花の部分だ。その中央が円形状に開き、中からはすき間なく並んだ細かな歯がのぞいている。

 植物とも怪物とも表現できないその存在は、一同の視線に答えるように鎌首をもたげた。いくつもの切れこみが入った、八枚の葉。そのうちの一枚を、そろりと動かす。

「なんてこった」

 声が震える。歯が、うまく噛み合わない。

「『夜』は二匹いたんだ!」

 右手がなにもにぎっていないことに、気づく。刀が消えていた。こんなときだっていうのに、戦う気持ちが少しもわいてこない。

 そんなぼくを尻目にわれへと返った国沢さんは、さすがとしか言いようがない。

 右へ左へと跳んで、敵を翻弄。神速の剣さばきで、葉を四枚、一気に切断した。

「すごいっ」

 森永さんが息を呑んだ。

 ぼくもただただ、彼女の勇姿に目を奪われる。

 だけどそこまでだった。背後から襲った一枚の葉が、国沢さんの胴を貫いた。

 彼女は口から血をまき散らし、手足の下がった状態で高々とつり上げられた。

 クワリと目を見開き、微動だにしない。気を失ったか、あるいは――

「うそだ」

 国沢さんが、やられるなんて。それじゃ誰が、この化け物を倒せってんだ。

 ぼく? 無理だよ。ただでさえ弱いうえ、丸腰。勝算なんて一パーセントだって、

「よけろ、森永!」

 唐田が跳ね起きた。だけどそれよりも早く、肉を刺す音。そして悲鳴。女の子の悲鳴。

 森永さんの。

 短い、悲鳴。

『夜』はさも見せしめとでも言いたげな様子で、森永さんの体をつるし上げた。宙にかかげた女の子二人を、食べることもせずに、ぐるぐる巻きにしてぶら下げている。

「野郎、見せしめのつもりか」

 唐田が歯を軋ませた。そのとき、視界のすみで、むくりと影が起き上がる。

「おちおち寝てもいられないな」

 やぶれたお腹を押さえつつ、岳人先生が息を荒げていた。身をかがめながら、ふらついた千鳥足で『夜』との距離を詰めていく。

「待ってください、殺されちゃいます!」

 たまらず、ぼくは止めようとした。だけど先生は、足を休める気配もない。

「多くの人を守るためにも、あのバカ妹は必要だ。それに命なら、八年前に捨てている」

 そうやって歩き進む先生の前に、影が立った。唐田だ。

「悪いが、先に行かせてもらうぜ」

「ほう。ほれた女子の前では、ヒーローでいたいってことか」

 先生は疲れた様子でうそぶいた。

「じ、自殺行為だよ! 勝てないってわかってる相手に、素手で歯向かうなんて。どうして、そんなことができるの?」

「じゃあてめえが戦えよ。いっちょまえに刀まで持てるってのに」

 唐田の容赦ない視線が、ぼくを捕らえる。

「俺はよ。力があるのに泣き言ばかり言ってる腰抜けヒーローよりかは、無力でもぶざまにがんばる小悪党のほうが、まだましだと思ってる」

 そういう唐田のこぶしは、かすかに痙攣していた。

 怖いんだ、唐田も。でもそれをこらえて、目の前の現実に立ち向かおうとしている。

 それに比べて、ぼくは。

 ぼくは――なにをやってるんだ?

「じゃあな、ビビリくん」

 言い捨て、唐田は駆け出した。裏返った叫びを上げ、体当たりをかまそうとする。その行為が無謀であることを、ぼくは痛いくらいに理解していた。

 案の定、貫かれた。三枚目の葉に。

 喉を焼きつくしかねないほどの、痛烈な悲鳴。じょじょに持ち上がっていく唐田の体は、ぼくの心に「絶望」っていう名の二文字をこれでもかってくらいに刻みこんだ。

 助けて、兄貴。

 胸元に手を当て、強く願う。

 この間みたいな不思議な力で、あの化け物をたたき斬ってよ!

 念じた。眉間が痛くなるくらい、固く固く両目をつむって、ひたすら奇跡を祈った。

 だけど、印が光る様子はない。

「じゃあ、次は俺の番か」

 言って、岳人先生は歩き出した。

「なんとしても食い止めないとな。犠牲者を出さないためにも、ここで倒すしかない」

「無理しないでください。あんな化け物を相手に、どうやって勝つって言うんですか」

「無茶であることは重々承知さ。俺は、あの三人を助けられない。だけどな。お前はさっき、刀を出したとき――いちいちあと先のことを、考えていたのか」

 そうじゃなかった。さっきはただ、夢中だったんだ。国沢さんを助けなくちゃって思ったとたん、体が勝手に突っ走っていた。

「一つ質問だ、陽之上」

 岳人先生は振り返らないまま、言う。

「八引く四は四。ではそこからさらに四を引いたら、答えはいくつだ」

 一瞬、意味がわからなかったけれど。

「……!」

 次の瞬間、理解した。

 ぼくが目を見開いたのを悟ったんだろう。先生は、ゆっくりとうなずく。

「お前の刀に、妹たちの命は重過ぎるかもしれない。だがそれを承知の上で、いまはあえて言わせてもらおう」

 かすかに、笑った。

 ような気がする。

「『夜』を討て、ヒーロー」

 先生は『夜』の根元に駆けつけ、血ぬれの両手をめいっぱい広げた。

「来い、化け物。お前の大好きな血のにおいだ。そんなちんちくりんなバカ妹より、俺のほうが食べごたえもあるだろう」

『夜』は動きを止め、値踏みのしぐさを見せた。だけどそれも数瞬。次の瞬間、葉の先端をスラリととがらせ、いきおいにまかせて先生を突き刺した。

 くぐもった声を上げながら、岳人先生は粉のような血をはき散らす。

「やっぱ、外見通りのザコキャラだな。このタンポポオバケ」

 宙づり状態のまま、唐田が息も絶え絶えなかすれ声であざけった。

「俺たちがなんの武器も持たずに、ただやられに行っただけだとでも思ってんのか」

 答えは「いいえ」だ。八引く四は四。敵には最初、八枚の葉があった。それが国沢さんの手で、半分にまで減らされている。残った四枚にはいま、それぞれ誰かの体が刺しこまれていた。葉は何重にも巻かれ、人質たちをしめつけている。

 つまり敵は、手足とも言える葉を完全に塞いじゃってるってことだ。

 いまなら勝機もある。

 勝負は一瞬だ。失敗したら、命はない。迷っている時間なんて、どこにもなかった。

「さっさとやれや、明日ともろう。それとも、また逃げるのかよ」

 無意識のうちに、背筋が伸びる。背骨がまるで、一本の刀にでもなったみたいだ。

 右手に、刃。すでに鞘はなく、黒の刀身が洗練された輝きを放っている。

 つばを飲んだ。敵を見すえる。このかん、だいたい一秒。

 逃げちゃいけない。怖いだなんて、考えるな。

 深呼吸し。

 もう一度、深呼吸。

「……っ」

 飛び出した。

 コンクリートを蹴飛ばし、股が裂けそうなくらい足を広げて、走り、走り、ひたすら前へ。刀を振り上げ、足を折り曲げ、跳んだ。

 ねらうのは、花の下の茎部分。人間なら、首に相当するだろう箇所だ。

 ヒーローなんて、ぼくの器じゃあない。ぼくなんかが他人を助けるなんて、荷が重過ぎるとさえ思う。

 だけど、誰かを。誰かを見捨てて逃げ出すような、そんな根性なしにだけは。

 できる、ことなら。

 かわいた叫びを上げる。振り下ろした刀は、敵の喉元に深く深く、こっちの両手をしびれさせるほど硬く食いこんだ。化け物の放つ甲高い悲鳴が、両肩を突き抜けていく。ぼくは柄をにぎり、歯を食いしばり、この一撃に全身全霊をこめた。

 ふいに刀身が、ガクンと一気に沈みこみ、そして一瞬の、

 

 それを吹き飛ばすかのように、どう、という地響きがして、サア、と赤い水が噴き上がり、続いてシン、とした静寂が――

 夜を覆いつくした。


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