2-4
午後五時、稽古終了。日はサンサンと高く燃え盛ってるけど、油断するとあっという間に落ちちゃう。夜が来る前に、学校へ戻って待機しなくちゃいけない。
でも、その前に――と。
国沢さんたちといったん別れ、家に帰ることにした。シャワーを浴びて、制服に着替えるためだ。
どうせなので、ランニングしながら家路をたどった。のはいいんだけど、特訓のおかげで足はガクガク。踏み出すごとに、スネの辺りが悲鳴を上げた。
あーあ。もしもこの世に、ドラえもんがいてくれたらな。足の痛みなんか、ひみつ道具でチョチョイのチョイだろうに。
あかね色に染まる道路を駆け抜けながら、ため息混じりの弱音を吐いた。
見ると右手側に、小さな公園がある。ぼくが生まれる前から存在する、ネコの額くらいの小さな公園。遊具っていえば、ブランコと鉄棒しかない。
そういや、昔はあそこで、兄と鉄棒をしていたっけ。
懐かしさに駆られ、入ってみることにした。軽く一周する程度なら、時間もそこまでかからないだろうし。
でもよく見ると、木影のベンチに見覚えのある姿がある。天然パーマの、少し小柄な女の子。膝の上に 買い物袋を乗せながら、じっと鉄棒のほうに視線を注いでいた。
うっ、どうしよう。特に親しいわけでもないし、気づかれたら嫌だなあ……。ぼく、世間話って苦手だし。
バレないようにそっときびすを返したけれど、どうやら気づかれちゃったらしい。恐る恐るって感じの声が、ぼくの背中に浴びせられる。
「あ、ええと……。陽之上くん、だよね。うん、そうだよね」
森永千尋さん。慣れてない感じの愛想笑いをよこしながら、両膝を閉じて腰を下ろしている。ゆったりとした薄めのポンチョを着、両手で買い物袋の取っ手を強くにぎっていた。
「あ、うん。森永さんは、買い物の帰り?」
ぼくは軽く頭をかきながら、彼女の座るベンチへ足を運んだ。
「そう。晩ごはん」
森永さんは柔和な声でそう言って、買い物袋に手を突っこんだ。
取り出されたのは、カレーのパッケージだった。燃え盛る炎をバックに、「獄殺! 鬼殺しカレー」っていう仰々しいフォントが踊っている。甘党の岳人先生が口にしたら、心臓マヒで死んでしまうかもしれない。
ぼくはへの字型に曲がりかけた口をあわてて正して、
「す、すごいね。料理、自分で作るの?」
「うん。そういう陽之上くんだって、すごいよ。うん、とてもすごい。だって、ランニング中なんでしょ、いま。何キロくらい走るの?」
「えっと。毎日一応、二十五キロ」
「ええっ。じゃあじゃあ、将来はホノルル目指せるね。ねっ」
「まさか。無理だよ、ぼくには」
「どうして? 最初からあきらめてたら、誰だって先には進めないんじゃないかな」
小首をかしげ、くりくりした目に不思議そうな色をたたえる森永さん。気弱なようでいて、意外と真意を突いた発言をしてくる。
まいったな……。ここにも、兄を連想させる人がいるだなんて。
なんて返答すべきか、困惑する。ちょうどそのとき、背後から甲高い声が飛んできた。
「お前、本当にだっせえのな。逆上がりさえできないなんてよ」
振り返ると、鉄棒の周りに、背の低い人だかりができている。小学校三~四年生くらいの、男の子たち。その子たちの視線の先には、一人の男の子が鉄棒にしがみついている。泣きそうな顔を浮かべながら、逆上がりをしようと躍起になっている。でも、うまくいかない。失敗するたびに、周囲の子たちの嘲笑が漏れ聞こえた。
「あの子ね。さっきからずっと、あんな感じでイジメられてるの」
森永さんが声を潜めた。
「助けたいんだけれど。でもね、なんかいまいち、勇気が出なくて。声をかける勇気が」
自分が悪いわけでもないのに、彼女は申し訳なさそうにうつむいている。両手を買い物袋の上で固くにぎりしめていた。
声をかける勇気。そんなの、ぼくにだってない。
鉄棒からは、あいかわらずの罵声が飛んできている。
どうする? 自分には、関わりのないことだとは思う。見てみぬふりをしたところで、バチは当たらないかもしれない。
「わたしにも、ね」
森永さんがポツリと漏らした。
「わたしにも、『やめてよ』って言える度胸がね。あればいいんだけれど」
ぼくは、いじめっ子たちの様子をしかと見つめた。飛び交う笑い声。それぞれの顔に浮かんだ、残酷なまでの無邪気さ。
彼らが見つめる先で、男の子。必死に歯を食いしばって、鉄棒に挑んでいる。でも、また失敗。「情けねえな!」心ない声がわきあがる。
見ていて気持ちのいい光景じゃあない。だけど見ず知らずの子供らに対して、どう注意をすればいいっていうんだ?
こういうとき、兄貴だったらどうするかな……。
声をかける勇気はない。なら、どう行動すべきなんだ? この場合、ぼくにできることがあるのかどうか。
そういえば。
ふと思い出す。ぼくも昔、あの子と同じようにいじめられていた。ぼくも、逆上がりは苦手だったんだ。
いくら練習しても、うまく一回転ができなくて。周りの子たちから、毎日のようにからかわれた。泣きながら帰ってきたぼくを、兄がこの公園まで連れ出してくれたんだ。
「お手本を見せる」とか言いながら、兄は鉄棒をつかんで、地面を蹴って。だけど――
「……そうだ」
ぼくはきびすを返し、鉄棒のほうへと歩き進んだ。
「陽之上くん?」
森永さんが疑問げにつぶやく。いじめっ子たちは、ぼくに気づく様子もない。
ぼくは彼らの横に立った。横って言っても、彼らからは数メートルくらい離れている。鉄棒をつかんだ。公園内で、一番大きな鉄棒だ。ゆっくりとつばを飲み、深く呼吸し、目をつぶって、
「え、えいっ」
大きめの声を出し、地面を強く蹴飛ばした。いじめっ子らが、ぼくに注目するのがわかった。
逆上がりなんて、小学校以来だ。案の定、足は思うようには持ち上がらなかった。でも、これでいいんだ。ここで成功してしまえば、意味がない。
タイミングを見計らい、両手を離す。瞬時に、お尻を地面に打ち据えた。キャッという、森永さんの黄色い悲鳴が聞こえてきた。
尾てい骨、激震。お尻をさすりながら立ち上がろうとしたんだけど、頭上にあった鉄棒に、おでこを思いきり打ってしまった。
「痛っ」
で、再び地面に倒れこむ。こればかりは、完全なるアクシデントだ。
「なんだこの兄ちゃん、だっせーの!」
いじめっ子らが、口々にぼくをせせら笑う。どうやら、うまく口撃対象をそらせたみたいだ。
いじめられていた子の様子を、横目でさり気なくうかがった。ぼくの気のせいでなければ、その顔は少し安堵していたようにも感じられる。
それがうれしくて、ついついぼくは破顔した。
「な、なはは」
他人のために、役に立てた。
不思議と心の中に、そんな満足感がある。
とはいえ、こんなの単なる自己満足だ。ぼくはただ、無様にみじめに失敗した、ただのバカな道化役。いじめられている子を助けただなんて、思い上がりもいいところだ。
でも、なにもしないよりかは、ずっとずっとよかった。
ねえ、そうだよね。
夕空をあおぎ、問いかける。
この夕焼けのどこかにいるだろう、兄に向かって。
――兄は結局、お手本を見せることができなかった。
何度やっても、兄の体は綺麗に空中で回らなかったんだ。
とうとう最後は、手をすべらせて尻もちをついた。
兄は照れ隠しに頭をかきながら、
『あ、あれ? ああ、しまった。そういや、俺もできないんだった、逆上がり。な、なはははは』
って、しまりなく微笑んでた。
それを見て、ぼくは少し安心したんだ。それまでは、逆上がりができない自分が、すごくみっともないって感じていた。
だけど兄のおかげで、その劣等感が和らいだんだ。ここにも、自分と同じ立場の人がいる。できないのは、ぼく一人だけじゃない。そう思うだけで、なぜだか自然と、笑顔になれた。
だけどその笑顔は、そう長くは続かなかった。
それからまもなくし、兄は、ぼくの前から、
消えた。子供たちは、バカにした笑みをぼくに向けつつ、公園内から姿を消した。
いじめられていた子も、なにも言わずに出て行ってしまった。狭い公園内に残っているのは、ぼくと森永さんの二人だけだ。
「じゃあ、ぼくもこれで」
そう言って駆け出そうとしたところで、
「待って」
呼び止められた。なんだろうと思って振り返ると、森永さんの手が目の前に伸びてきている。ビックリして、あとずさりした。すると額に、ひんやりした感触。さっき、鉄棒にぶつけたところだ。
……あ。
「ばんそう、こう?」
「うん、そう。絆創膏。たんこぶできてたから。陽之上くん、包帯取れたばかりでしょ。念のために、病院行ったほうがいいんじゃない?」
そうは言っても、今日はもう時間がない。
大事に至らないといいけどなあ。
「でもね。さっきの陽之上くん、すごくかっこよかったよ」
森永さんは両手を胸の前でにぎり合わせ、声をわずかに弾ませた。
「ほめられることは、してないよ。きっとまたすぐ、あの男の子はいじめられる。それを助けたりは、できないんだ」
ぼくはくちびるを噛み締めた。森永さんはなにか言葉を探すかのように、視線を落としている。
腫れ上がった額が、かすかに痛んだ。




