文化祭の始まり
朝の校門は、まだ湿っていた。
夜のあいだに一度だけ降ったらしい。アスファルトの色が斑になっていて、看板を運ぶ一年生が滑らないよう、誰かが養生テープで矢印を貼っていた。
水瀬晶は、段ボール箱を二つ抱えて渡り廊下を歩いていた。
「副会長!そっちの箱、二年C組!」
「分かってる」
「分かってるって言って、去年、一年A組に置いたよね!」
「去年の話をするな」
体育館の前では、実行委員がステージ照明の位置を直している。中庭には模擬店のテント。三階の視聴覚室では、大学の研究室と機構が共同で出す「安全な遺物の展示」が、開場前の最終確認をしていた。
晴れていた。予報どおりだ。汐見渚が作った雨天時の代替案は、封筒に入ったまま生徒会室の机の上にある。
「先輩」
その渚が、渡り廊下の反対側から歩いてきた。
進行表を持っている。持ち方が、いつもと少し違った。指が、紙の縁を強く握っている。
「おはよう」
「おはようございます。その箱、C組です」
「知ってる」
「一昨年、A組に置いたと聞きました」
「去年だ」
「去年でしたか」
渚は、そのまま晶の横をすり抜けて、三歩進んで、止まった。
「先輩」
「なんだ」
「中庭のテント、三番目の脚の位置を、三十センチ内側へ寄せてもらえますか」
「三番目?」
「はい。焼きそばのところです」
「なんで」
「風が出ます」
晶は、空を見上げた。雲は薄い。旗も垂れている。風はほとんどない。
「今?」
「九時十五分ごろです」
「天気予報にそこまで出てたか?」
「出てません。私の予想です。外れたら、寄せた分だけ戻します。三十秒で済みます」
渚はそう答えて、進行表をめくった。
「じゃあ、やっとくか」
晶は、それ以上聞かなかった。
◇
開場は九時だった。
開場のチャイムとほとんど同時に、校内の照明が一度だけ落ちた。
歓声とも悲鳴ともつかない声が上がり、数秒後、非常電源へ切り替わって明かりが戻った。受付では直樹がスマートフォンを持ち上げていた。
「圏外だ。そっちも?」
周りで何人かが端末を見て、同じ顔をした。
校内放送は、設備障害を確認中だとだけ告げた。照明は戻っている。水も出る。文化祭は、そのまま始まった。
開場前から校内にいた保護者や卒業生も、そのまま各会場へ散っていった。正門では、直樹が開場直前にできた受付の列を捌き終えたところだった。
「宮下、テント少し動かすから手伝ってくれ」
「おう。……なあ晶、汐見さんどうした?」
「なにが」
「今朝から、なんか、すごくない?」
直樹は、受付台の向こうを顎で示した。
渚が、体育館の入口で、一年生の女子生徒を呼び止めていた。
「その台車、階段の手前で降ろしてください。二人で持ってください」
「え、でも、こっちの方が早いです」
「早いですが、三段目でタイヤが引っかかります」
「引っかかりますか?」
女子生徒は、納得しないまま台車を降ろした。降ろして、二人で持ち上げて、階段を上がった。
三段目のところで、片方が「あ」と言った。
段の縁が、五センチほど欠けていた。
「なあ、あれ、下見してたのかな」
直樹が、口笛を吹きそうな顔をした。
「してたんだろ」
「何時間?」
「知らん」
晶が引っかかったのは、渚が動き出した順番の方だった。
階段を確かめてからでも、台車を確かめてからでもない。女子生徒が台車を押し始めるより前に、渚はもうその階段へ向かっていた。
◇
九時十五分。風が出た。
中庭のテントが、いっせいに揺れた。一番大きく煽られたのは三番目のテントで、脚が浮きかけて、それから地面に戻った。三十センチ内側へ寄せた分、重心が内側に寄っていた。
風は、十秒ほどで収まった。
「先輩、脚を寄せてくれてありがとうございました」
いつの間にか渚が晶のそばに来ていた。
テントは倒れなかった。何も落ちなかった。誰も気づかないまま、中庭の客足は続いていた。
「寄せなかったら?」
「……」
「寄せなかったら、どうなってた」
晶は、テントのロープの結び目へ指をかけた。
「倒れてました。鉄板の上へ」
締め直しながら、その一言を覚えた。
◇
昼の体育館は、混んでいた。
軽音楽部のステージが終わって、ダンス部の準備が入っている。晶は生徒会の腕章をつけて、ステージ袖で機材の出し入れを見ていた。
「水瀬くん!」
小日向美緒が、両手にケーブルを抱えて走ってきた。
「これ、どこ!」
「三番のコンセント。二番はもう埋まってる」
「なんで知ってるの?」
「さっき通った」
「さすが!」
美緒は笑って、ケーブルを持っていった。晶は、ステージ袖の暗がりから客席を見た。
通路にケーブルが一本渡っている。養生テープで固定してあって、角を三角に折る巻き方だった。渚がやる巻き方だ。
その渚は、いま三階にいるはずだった。
◇
異変は、そのあとも続いた。
緩んで床を濡らしていた水道の蛇口も、展示用の測定器へ伸びる生徒の手も、渚が先に着いて潰していた。
どれも、事故ではなかった。事故になる前に、全部終わっていた。
晶は、十四時四十分に渚を追いかけて、三階の廊下の突き当たりで追いついた。
渚は、窓の外を見ていた。
窓の下は、校庭だった。午後の部の準備で、実行委員がステージの櫓を組んでいる。
「汐見」
晶の言葉に、渚が振り向いた。
「今日、何回時計を見た」
渚の肩が、わずかに動いた。
「突然どうしたんですか」
「いいから」
「……数えていません」
「俺も数えてない。けど、多い」
晶は、窓の枠に手をついた。
「それから、お前、今日ずっと、起きてないことを警戒してる」
「準備は、そういうものです」
「……テントの脚。階段の三段目。ケーブルの養生。水道。測定器。全部、起きる前に潰した」
「たまたまです」
「五回続いたら、たまたまじゃない」
「六回です」
渚が、そう言った。言ってから、自分が言ったことに気づいた顔をした。
「……六回目は?」
「一年生が、体育館の裏で足首を捻ります。私が段差にテープを貼って対策しました」
晶は窓の枠から手を離し、渚に向き直る。
「汐見。……今、何周目だ?」
渚が、目を見開いた。見開いたまま、動かなかった。
窓の下で、櫓の四本目の柱が立った。空は晴れていて、風は止んでいて、下では誰かが笑っていた。
晶は、自分の呼吸が一度浅くなったのが分かった。分かったので、意識して深く吸った。
——落ち着け。まだ、何も分かってない。
「……なんで」
渚の声が、掠れた。
「なんで、その聞き方をするんですか」
「答えてからにしてくれ」
渚は、進行表を胸へ抱え直した。抱え直して、それから、言った。
「……四周目です」
そこで一度、息を継いだ。進行表を握っていた指が、少しだけ緩んだ。
「この文化祭は、繰り返しています」
晶は、うなずいた。
「先輩。証拠を、見せろとは言わないんですか」
「証拠は、あとでいくらでも見せてもらう。今聞きたいのは別のことだ」
晶は、渚の顔を見た。今朝にはなかった疲れが、もう目元に滲んでいた。
「終わりの時刻は?」
「十八時です。毎回、鐘が鳴って、九時へ戻ります」
「あと何時間ある?」
「三時間と少しです」
晶は、廊下の壁に背中を預けた。
預けてから、渚に見えないように、両手を一度だけ握った。握って、開いた。
「先輩?」
「なんでもない」
「顔が」
「なんでもない」
嘘だった。
嘘だと分かって言ったが、いま説明する場面ではなかった。渚は四周目で、たった一人で駆け回って、誰にも言えずに三階の窓から校庭を見ていた。
——その相手に、俺が言うことじゃない。
「お前以外に、覚えてる人間は?」
「御影さん……私の家の教育係が、たぶん何か残っています。三周目に話が通じました。記憶そのものではありません」
あとは、渚が続けて答えた。
九時になると学校の外へ出られなくなり、電話もインターネットも境界を越えないこと。戻れば物は何も残らず、自分が貼ったテープも毎周消えること。原因は三階の視聴覚室にある黒い円盤らしく、三周目に志保と校内の機構職員が突き止めたこと。
「黒い円盤。それは止めたか?」
「三周目に、機構の方と一緒に止めました。動かなくなったのを確認しました」
「それで?」
「また動いていました。今日の朝、確認しました」
晶は、廊下の天井を見上げた。蛍光灯が二本、並んでいる。片方が、わずかに明滅していた。
「先輩」
渚が、初めて自分から一歩近づいた。
「私、どうすればいいですか」
「それは、あとだ」
「え」
「今日、あと三時間ある。三時間で、俺が今日のことを全部覚えるのは無理だ。次の九時、俺は忘れる」
「……はい」
「だから、今日やることは二つに絞る」
晶は、廊下を歩き出した。渚が横に並ぶ。
「まず、学校と機構の人に状況を共有する。境界と通信断を正式に確認して、文化祭は止める。そのうえで残り三時間を、事故なしで終わらせる。お前が全部覚えてるんだから、俺が動けば楽になる」
晶は、袖口の下の右手首へ一度だけ触れた。
文化祭の真ん中で〈星綴り〉を使う気はなかった。
——使わずに終わるなら、それが一番いい。
晶は、頭を掻いた。
「それと、次の俺が五分で状況を理解できるようにする」
「五分で」
「そうだ。次の九時、俺はお前から五分で聞く。それを四周目のうちに練習しておけば、次は五分で済む」
「練習」
「何をどの順番で言えば、俺がいちばん早く理解できるか。今日のうちに決める」
渚は、進行表の角を折って、また戻した。
それから、息を吐いた。朝からずっと止めていたものを一度に出したような音だった。
「先輩。怒らないんですね」
「なんでだよ」
「私、自分からは言えませんでした。一周目は、自分がおかしくなったんだと思いました」
渚の声は震えていた。
「二周目に先生と機構の方へ言って、最初は信じてもらえませんでした。三周目に御影さんも交えて調べて、そこで原因らしいものまで見つけてもらえました。でも、止まりませんでした」
下の階から、模擬店の呼び込みの声が上がってくる。誰かが笑って、誰かが「まだ売り切れてない!」と叫んでいる。
普通の文化祭の音だった。
四回目の。
「汐見……よく持ったな」
渚は俯いたまま、進行表を胸へ押しつけた。
晶は、それ以上言わなかった。
◇
十分後、校内にいた機構職員が正門側の境界と通信断を確認した。
教頭の判断で文化祭は中止になった。来場者も生徒も外へは出られない。校内放送で、全員その場に待機し、教職員と実行委員の誘導に従うよう繰り返された。
残りの時間は、二人で潰した。
渚が時刻と場所を告げ、晶が人を動かし、設備を直した。櫓の筋交い、詰まりかけた排水口、熱を持った照明のケーブル。文化祭が止まって起きなくなったものもあれば、待機の人の流れで場所を変えた危険もあった。
どれも、事故になる前に終わった。
校庭には生徒と来場者が集まり、教職員と実行委員が人数を確認していた。非常灯の白い光が、校舎の窓から落ちている。
晶は、校庭の端に立って、それを見ていた。
十八時が近づいたころ、隣に渚が来た。
「先輩。今日、事故はゼロでした」
「そうだな」
「四周目で、初めてです」
渚の声には、達成感がなかった。あるのは、疲れだった。
「次も、また同じことをします」
「そうだな」
「先輩は、忘れます」
「忘れる」
晶は、校舎の明かりを見ていた。
「けど、忘れるのは俺だ。お前は覚えてる。だから次の九時、お前が俺に五分話せば、俺は今日の続きから始められる」
「……続きから」
「そうだ」
「一つだけ、聞いてもいいですか?……先輩は、こういうことがあると知っていましたか?」
晶は、校舎の方を見たまま答えた。
「知ってる」
「え」
「時間が戻る遺物が実在するのは、知ってる」
渚が、こちらを向いたのが分かった。晶は、渚の顔を見なかった。
見たら、たぶん、今の顔で見せてはいけないものが出る。
「詳しいことは、今日は言わない。次の俺は、それも忘れてるしな」
「はい」
「これだけ言っとく」
晶は、そこで初めて渚の方を向いた。
「あと何周も続けていいものじゃない。これは、そういうものだ」
渚は、うなずいた。
うなずいた顔は、まだ半分納得していないように見えた。晶は、それを今日は指摘しなかった。
◇
十八時まで、あと数分だった。
生徒会室に戻ってきた晶と渚は、窓から校庭を見下ろしていた。
机の上に、紙が一枚ある。渚が書いたものだ。「次の九時、先輩へ五分で話す順番」と題がついていた。
消えると分かっていて、書いてある。
渚が、進行表を持って扉のところへ移った。
「そろそろ、時間です」
「時計はどこを見てる?」
「もう見なくても分かります」
「四回目だからか」
「四回目だからです」
晶は、窓から離れた。離れながら、両手を一度、握って開いた。
——大丈夫だ。
——一日だ。数百年じゃない。
——一日を、何回か繰り返すだけだ。
自分に言い聞かせるという行為は、たいてい、言い聞かせる必要がある状況でしか起きない。
「次の九時、俺のところへ来い。すぐに」
「行きます」
「五分で頼む」
「五分で話します」
渚が、扉を開けた。
廊下の照明が、二人の足元に伸びた。
そして、どこかで、低い音が鳴った。
鐘に似ていた。校内のチャイムではない。もっと低くて、遠くて、床から響いてくるような音だった。
晶は、その音を初めて聞いた。
渚は、四回目だった。




