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明日を知らない

目が覚める瞬間が、いちばん怖い。


汐見渚は、天井を見る前に、枕元へ手を伸ばした。


指が触れたのは、目覚まし時計ではなかった。機構が用意した宿舎の、備え付けの小さな照明だった。


渚は、そこで一度、動きを止めた。


それから、上体を起こして、部屋の中を見た。


昨日の夜に自分が置いた場所に、鞄がある。畳んだ制服がある。書きかけの名簿がある。


名簿は、消えていなかった。


渚は、スマートフォンの日付を見た。


見なくても分かっていた。分かっているのに、見た。


機構から説明された、外界側の日付が表示されていた。


少なくとも、文化祭当日の午前九時ではなかった。


十五回目の九時は、来なかった。


渚は、しばらくベッドの縁に座っていた。


頭の中の表を読もうとして、読む必要がないことに気づいた。


今日、この時刻に、何が起きるのかを、渚は知らない。


知らないまま、朝が進んでいる。



その日の夕方、晶と渚は、封鎖線の手前の縁石に並んで座っていた。


境界が消えてから、学校の周りには機構の車が三台と、警察の規制線が増えていた。負傷者はすでに全員が搬送され、生徒は自宅か親戚の家に戻っている。


死者はいなかった。


「先輩」


「なんだ」


「私、家に帰れません」


「そうだな」


「昨日の夜、御影さんが本邸へ連絡しました。端末の返還を求められています」


「返すのか」


「返しません」


渚は、そう言った。


「返したら、私が決めたことが、なかったことになります」


晶は、うなずいた。


「揉めるな」


「揉めます」


「手伝えることはあるか」


「まだ分かりません」


二人は、崩れた校舎を見た。


昨日までなら、次に何が起きるかを渚は知っていた。


今日は、知らなかった。



三日後、機構から通知が来た。


学校は当面使用できず、生徒は近隣の三校へ分散して受け入れられる。水瀬晶と汐見渚は、時間異常の記憶保持者として一時保護の対象となり、監督下で専門教育を受けるため、機構付属高校へ一時的に転校する。


そして、最後の一項。


水瀬晶による〈星綴り〉の広域使用について、正式な調査を行う。無許可の広域使用に該当する可能性がある。


「これ、覚悟してました?」


通知を持ってきた機構の職員が、晶へそう聞いた。


この学校に閉じ込められていた解析担当ではない。別の部署の、事務方の人だった。


「してました」


「割と、大きい話になります。あなたを庇う人と、あなたを止めたい人が、両方います。どちらが多いかは、まだ分かりません」


職員は、そう言って、書類を置いていった。


置いていった書類の中に、身元引受人あての控えが一通あった。


宛名の欄は、空白になっていた。



転校の前の日、晶は崩れた学校へ行った。


封鎖線の内側には入れない。校舎は半分のまま立っていて、体育館は瓦礫の山になっていた。


そこに、直樹と美緒がいた。


「よう」


「来ると思った」


直樹が言った。


「なんで」


「なんとなく」


三人は、封鎖線の前に並んで立った。


「あのさ」


美緒が言った。


「昨日、説明会があったの。体育館が使えないから、市民会館で。保護者と生徒。二十分で終わった」


「行ってない」


「時間異常事案でした、調査中です、それだけだった。私、手を挙げて聞いたんだよ。時間異常って何ですかって」


美緒は、そのときの答えをそのまま言うように、平坦な声を作った。


「『調査中です』」


「俺も聞いた」


直樹が言った。


「同じ答えだった」


「だから、水瀬くんに聞く」


美緒は、封鎖線の向こうを見たまま続けた。


「あの日、水瀬くん、崩れるって先に言ったよね。校舎に人を残すなって。崩れる前に」


「言った」


「なんで先に分かったの」


どこまでなら言えるかを、晶は先に決めた。


あの一日は、機構が事案として記録している。五年前のことは、そこに入らない。


「同じ日を、繰り返してたからだ」


美緒が、息を吸った。


「……何回」


「十四回」


直樹が、こちらを向いた。


「は?」


「十四日ぶんだ。同じ一日を、十四回」


「一日じゃなくて」


「一日じゃない」


直樹は口を開けて、何も言わずに閉じた。


「私たちは、一日しか覚えてない」


美緒が言った。


「そうだな」


美緒は、封鎖線のテープの端を指で挟んだ。


「じゃあ、前の十三日は、なかったことになったんだ」


「なってない」


晶は、そう言った。


「汐見は全部覚えてる。俺も途中から覚えてる」


美緒は、そこで初めて、泣きそうな顔をした。


泣かなかった。


「覚えてないのに、あったことにはなるんだね」


「あったんだ」


美緒は、崩れた体育館の方を見た。


「私、ここの片付けの当番、来週まで入ってたんだよ」


それきり、しばらく誰も話さなかった。


「私、あのとき行かなかった」


美緒が言った。


「校庭で。宮下くんは走っていったのに、私は立ってただけ」


「知ってる」


「怖かったんだと思う。水瀬くんがじゃなくて、行って何て言えばいいのか分からなくて。分からないまま近づくのは、失礼な気がした」


美緒は、指に挟んでいたテープの端を離した。


「でもそれ、たぶん私が楽なだけだった」


「来なくてよかったと思う」


「そう言われると、余計に困る」


「本当だ。あそこで声をかけられてたら、俺は返事ができなかった」


美緒は、テープの端をもう一度つまんで、まっすぐに伸ばした。


「じゃあ、今言うね」


「うん」


「あれ、すごかった。すごかったし、二度と見たくない」


「俺も見たくない」


「そういう返事なんだ」


「ほかに持ってない」


直樹が、横から口を挟んだ。


「聞いたな、小日向」


「聞いた」


美緒は、少しだけ笑った。


「聞くって、決めてたから」


「なあ、晶」


直樹が、封鎖線の向こうを見ながら言った。


「お前、転校するんだって?」


「する」


「いつ帰ってくる」


晶は、答えられなかった。


「分からない」


「分からないのかよ」


「分からない」


直樹は、鼻から息を吐いた。


「じゃあさ」


「うん」


「連絡先、消すなよ」


「消さない」


「絶対だぞ」


「絶対だ」


直樹は、そこで背を向けた。


「あー、腹減った」


「まだ昼前だぞ」


「腹減ったって言わないと、他のこと言いそうになるだろ」


美緒が、少し笑った。


晶も、笑った。



翌朝、機構の車が晶を迎えに来た。


助手席の窓から、渚が手を振っていた。手を振るというより、確認するように、手を上げていた。


「先輩、遅いです」


「三分だ」


「三分です」


車に乗り込むと、渚が膝の上でファイルを開いた。


「転校先の書類です。提出物が七点あります。三点は今日中、四点は今週中です」


「早いな」


「昨日のうちに整理しました」


「寝てないだろ」


「寝ました。四時間」


晶は、それについては何も言わなかった。


車が走り出した。


窓の外を、見慣れた通学路が流れていった。コンビニ。パン屋。信号。曲がり角。


その先に、崩れた学校がある。


渚の目は、ファイルの提出期限の欄から動かなかった。


「先輩」


「なんだ」


「明日って、どんな日でしょうか」


晶は、渚の方を見た。


渚は、ファイルから顔を上げていなかった。


「分からない」


晶は、そう答えた。


「分からないんですか」


「分からない」


「……そうですか」


渚は、ページをめくった。


めくってから、小さく言った。


「分からないのって、久しぶりです」


五年前の九月一日のことを、晶は一度だけ思い出した。


そのことは言わずに、答えた。


「そのうち、慣れる」


渚は、うなずいて、ファイルのページをもう一枚めくった。


めくった手が、そこで止まった。


「先輩」


「なんだ」


「時間割が入っています」


「そりゃ入ってるだろ」


「専門科目の欄に、初回の教材名が書いてあります」


渚は、その一行を、声に出して読まなかった。


代わりに、ファイルを晶の方へ傾けた。


 専門授業:遺物災害事例研究

 初回教材:地方都市公立高校文化祭時間異常領域事案


晶は、その二行を二度読んだ。


読んでから、シートへ背中を戻した。


「……採点されるのか。あれを」


「されるみたいです」


渚は、ファイルを閉じた。


閉じてから、窓の外を見た。今度は、崩れた学校の方角を見た。


「私たちの昨日を、私たちじゃない人が、これから読むんですね」


答えるべき言葉を、晶は持っていなかった。


車は、信号を一つ越えて、知らない道へ入った。

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