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三分間ミステリー

不燃ごみの水曜日


 朝の路地は、新聞配達のバイクが引いた冷たい風の筋だけが残っていた。私はごみ収集課のオレンジ色ベストを着て、まだ灯りの残る家々を横目に、ゆっくり歩いた。水曜日は不燃ごみの日。燃えないもの、壊れた器、使い切ったスプレー缶、乾電池。袋の口を結ぶ手の強さが、そこまでの日々の強さを語る。そう思いながら、私はいつも最初の角で立ち止まる。角の先に、かならず一つ、結びが甘い袋があるのだ。

 

 その朝もやはり、ひとつだけ結び目が斜めに歪んだ透明袋が、カラス避けネットの外側に出ていた。私はしゃがみこんで、ひと目でわかる異物を探した。可燃と混じった不燃があれば、回収できない。袋の外から読むと、インクの滲んだ油性マジックで「伊達」と記名がある。うちの区は、記名任意だが、近年は記名率が上がった。袋越しに見えた中身は、割れた陶器と、金属製の鍋つかみ、そして乾電池。乾電池の向きがやけに揃っている。私は袋の口を一度ほどき、空気を抜いて固く結び直す。手の中で、誰かの生活が一束になっていく感じが好きだった。

 

 団地棟の二階、伊達の表札のある部屋の前には、青いサンダルが揃っていた。私は、前の週に見た若い男の顔を思い出していた。彼は引っ越してきたばかりで、私たちが収集に入った時、寝癖のまま出てきて「こういうの、どの袋ですか」と聞いた。「それは資源ごみですね」と答えた私に、男は恥ずかしそうに笑って「むずかしいな」と言った。名前は甲斐。表札の横のポストに、一度だけ彼の名字を見た。伊達は、同じ部屋に住む女の名字だろう。二人は同棲だ。窓辺の乾いた洗濯ばさみや、ベランダの植木鉢がそう教えた。

 

 午前六時。いつもなら防災無線の試験放送が流れる時刻。だが、その週は流れなかった。先週の台風でスピーカーの配線が一部落ち、復旧作業が続いているからだ。私は課の掲示で知っていた。静かな朝は、いつもより音が硬い。ごみ収集車が角を曲がってくる低い唸りだけが、遠い雷のように響いてきた。

 

 その収集が終わり、詰所に戻ったのは八時過ぎだった。アルミの長机の上に置かれた水筒の蓋をひねりながら、私は備品のノートに、今朝の気づきを走り書きした。乾電池の向きが揃っていたこと。透明袋の記名の書き方が、どこか変だったこと。丸が少し大きく、濁点が限りなく小さい。「伊達」の「達」の濁点が、虫の足のように薄い。書き慣れない字の書き慣れない濁点。私はそんなところに目がいく自分に苦笑した。収集課に入って三年、私は市役所の中でも、字を見て人となりを思う癖を持った少数派になっていた。

 

 九時、電話が鳴った。詰所のスピーカーから、警察署の落ち着いた声が流れる。「西浜団地二丁目、二〇四号室で変死体。住人の伊達ゆかりさん、二十七歳。練炭による一酸化炭素中毒の疑い。収集の時間帯に近いので、何か気づいたことがあれば」

 

 私の背中に冷たいものが落ちた。二〇四号室。あの透明袋の部屋だ。

 

 昼過ぎ、課長の指示で私は署に向かった。応接室に通されると、刑事課の山崎が立っていた。年配だが目が若い。市役所から転じて嘱託でうちの課の安全講習を何度かしてくれたこともある。今日の彼は刑事側の顔だった。

 

「来てくれてありがとう、新名さん」

 

 私は頭を下げ、今朝のことを話した。袋の結び、乾電池、記名の濁点。自分でも少し場違いな細かさだと感じながらも、口が勝手に動いた。山崎は遮らなかった。むしろ、前のめりに椅子から肘を浮かせ、断片を拾い上げるように聞いた。

 

「住人の彼氏が通報者だ。甲斐という。昨夜、言い争いをしたが、彼は出ていき、朝六時の防災無線で目覚めて戻ってきた、と言っている」

 

「防災無線、今週は止まっているはずです」

 

 自分の声が少し高く跳ねた。山崎はうなずく。

 

「そう。だから彼の話は矛盾している。だが彼は、『スマートスピーカーに六時のチャイムを設定してある』と言い、実際に家の機械は朝六時きっかりに『ふるさと』を流していた。防災無線ではなく、家のスピーカーの音だ、と言い張っている」

 

 私は甲斐の眠そうな笑顔と、今朝の袋の結びの甘さを思い出した。スマートスピーカーなら、防災無線が止まっていても、六時には鳴る。アリバイは再び、音で自己修復されたことになる。

 

「じゃあ、彼は本当に六時に起きたのかもしれない。でも——」

 

 でも、何だ。私の頭の奥で、ごみ車の走行ルートが地図の上に浮かぶ。今日の不燃ごみは、西浜団地はいつ通った? 私は自分の腕時計を見た。八時五分に詰所に戻った。団地は最初のルートだ。六時半には、あの角にいた。乾電池の入った袋は、そのときすでにネットの外に出ていた。だとすれば、袋は六時以前に出されたことになる。

 

 私は、現場の写真を見せてもらえないかと頼んだ。山崎は一瞬迷い、肖像の映る部分を外した広角の写真を数枚見せた。六畳の居室にこたつ、壁際にレンジ台、窓の近くに小さな練炭の火鉢。火は消えているが、白い灰が縁に固まり、その向こう、布団の上に女の姿。口元に吐瀉の跡はない。苦しまずに眠るように往ったのだろう。練炭の灰が「新しい」白さだ。床には、空気の通り道を作るためにドアの隙間に挟まれたスポンジが残っている。典型的な一酸化炭素中毒の現場写真。しかし私は、一枚の隅に目を止めた。

 

 台所の隅、レンジ台の下のかご。透明袋が一つ。中には、使い切ったカセットボンベと、何本もの乾電池。袋の口はほどかれ、転がり出た電池が床で止まっている。乾電池の向き——あの路地角の袋と同じ、+側がひとつの方向に揃っている。

 

「袋を二つに分けたんですか?」

 

「何が?」

 

「不燃ごみの袋。台所の袋と、路地角にあった袋。同じ人がまとめた手つきです。向きを揃える癖はなかなか出ない。しかも、台所の袋は“資源”用の黄色が混じっている。資源袋は火曜。今日は水曜。不燃ごみ。混ぜています」

 

 山崎は写真を拡大し、ふっと鼻から息をもらした。

 

「資源と不燃の取り違えか。だが、それと事件はどう繋がる」

 

「乾電池の回収は、第二と第四の水曜に限られます。今日は第一水曜。乾電池は出せない日です。なのに、路地角の袋には乾電池が入っていました。つまり——誰かは、乾電池を急いで外に出したかった」

 

 私の声は次第に早口になった。甲斐の言葉がよみがえる。「むずかしいな」。難しいから、メモでも見たのだろう。それとも、誰かが急いで、出してしまったのだろうか。急いで、何を隠そうとした?

 

「練炭の灰の白さが“新しい”と感じたのは、換気の仕方が不自然だからかもしれません。火鉢のそばに、扇風機がある。冬に、扇風機」

 

 写真の隅の立て札のような影を指し示すと、山崎は苦笑した。

 

「推理は嫌いじゃないが、扇風機の存在だけで何かは言えない」

 

「わかっています。ただ、乾電池です。あの揃えられた向きは、きっと甲斐さんの手。路地角の袋の記名『伊達』の濁点が小さすぎた。濁点は、書き慣れない人が小さく、控えめに打つ癖がある。女の『伊達』ではなく、男の『伊達』」

 

 山崎は目を細めた。彼は、私の変な癖を以前から知っている。

 

「つまり、新名さんは、甲斐が朝六時以前に部屋にいて、不燃ごみの袋を出した、と見ている?」

 

「はい」

 

「しかし彼は、スマートスピーカーのアラームで六時に起き、六時二十分に部屋に戻って彼女を発見した、と言っている。部屋には彼の指紋もある。だが同棲なら当然だ。加えて、練炭の購入記録は彼女名義。行為の準備に彼の介在は見えない」

 

 私は黙り込んだ。乾電池の向き、袋の結び、濁点。そういうものは状況を語るが、決め手にはならない。決めるのは、時刻。時間は嘘をつかない。嘘をつくのは、人だ。

 

「回収車のドラレコ、ありますよね」

 

 言いながら、私は自分の指先が震えているのを見た。

 

「朝六時三十四分に、西浜団地の角で、私はあの袋を結び直した。ドラレコには、私がしゃがんでいる背中が映っているはずです。音も入る。遠くでチャイムが鳴ったら、それも入る。防災無線ではなく、家の中のチャイムなら——」

 

「路上にいた君の耳には届かない?」

 

「いえ、届きます。団地の廊下は外廊下で、窓も薄い。ただ、防災無線の『ふるさと』と、スマートスピーカーの『ふるさと』は、音色が違う。ドラレコは低音に強いマイクです。でも、聞き慣れていればわかる」

 

 山崎は、勘定するように指を折った。

 

「ドラレコ、確認する価値はあるな。『六時に起きた』という甲斐の言葉が、自動の音によって成立しているのか、人の手で成立させられたのか。もうひとつ、新名さん——乾電池の件、どう決め手にする?」

 

「乾電池の回収日。第一水曜は不可。彼は“今日が乾電池の日だ”と勘違いしていたか、“今日に限って出さねばならない理由があったか”のどちらかです。前者なら単なる無知、後者なら操作の意図」

 

 山崎は椅子から立ち上がった。

 

「ドラレコの映像と音、自治体の放送記録、そして——袋。現物は残っているか?」

 

「詰所に保管しています。結び直した袋は回収しましたが、乾電池が混じっているので、分類のために積み分けた場所に」

 

「それを押収させてくれ。記名の文字を筆跡鑑定に回す。濁点の話は面白い。警察は案外そういうところに盲目だ。新名さん、協力を頼む」

 

 私は頷いた。人の生活の結び目に触れている者として、ほどくべき結びを見つける、その役目を引き受けるべきだと思った。


      *


 ドラレコの記録は、午後のうちに確認された。映像は、六時三十三分五十秒、西浜団地の角にゆっくり寄せる車体の揺れから始まる。助手の私が飛び降り、カラス避けネットをめくり、袋を一点確認して結び直す。六時三十四分十八秒、遠くから音楽が聞こえ始める。「ふるさと」。しかし、低音のベースが豊かで、最後の小節でエコーがかかる。防災無線のものではなく、スマートスピーカーの音色だ。鳴っている源は、道路に向いた開き戸の隙間から、微かに漏れている。団地二〇四号室の方向だ。

 

 音は六時三十四分ちょうどに鳴り始め、約三十秒で止む。甲斐が言う「六時に起きた」は、六時三十四分に鳴った音に引きずられた可能性が高い。つまり、彼は六時以前に部屋に居たのだ。スマートスピーカーの時刻設定を間違えたのか。いや、もっと単純だ。甲斐は六時に目覚めたことにしなければならなかった。だから、わざと六時三十四分に鳴るように設定した。私たちが団地の角に来る時間に合わせて。車の音が近づき、私がしゃがむ時間帯に合わせて。「証人」の前でチャイムが鳴ることを狙って。

 

 ならば、なぜ六時三十四分を知っていた? 答えは簡単だ。彼は、先週の水曜日にも、私たちの収集を見ている。引っ越してきたばかりで分別がわからず、路地角で話しかけてきた時、彼は腕時計を気にしていた。時間に神経質な人だ。先週のドラレコの記録も参照され、同じ時刻に車が角に差し掛かったことが確認された。収集ルートは工事や事故がない限り、数分単位で同じだ。

 

 だが、もうひとつの問題、練炭のことが残る。購入記録が彼女名義なら、彼の直接の関与は弱くなる。山崎は調べを進め、すぐに一枚のレシートを持ってきた。コンビニのもの。三日前の夜、伊達ゆかりが単身で購入。だが、レシートには、彼女の電子マネーではなく、現金。いつもは電子マネーを使うのに、その日に限って現金。監視カメラでは、背後に甲斐がいる。商品を選ぶのは彼女だが、会計の直前に何か囁かれ、彼女は早口で頷く。甲斐の指は、商品のバーコードを指し示している。

 

 動機は、借金。賃貸契約は彼女名義、カードローンは彼の借り入れ。彼女が同棲解消を言い出したという近所の証言も集まる。彼は、泣き出しそうな声で否定した。六時に起きた、と繰り返した。スマートスピーカーが証言してくれる、とも。

 

 私は、押収された袋を見た。濁点はやはり小さい。乾電池は、すべて+側が右を向いている。私はふと、袋の内側を覗き込んだ。透明袋の内側に、薄い赤の影が反転して滲んでいる。「回収日 第二・第四水曜 乾電池」。袋の外側に印字された赤い注意書きが、湿気か何かで内側に転写してしまったらしい。転写は、どこか一点だけが濃い。私は、その濃い部分に指を当てた。ちょうど「第二」の「二」のあたり。内側に、小さな擦過傷のようなキズがある。電池の角で擦れてできたのだろう。乾電池を入れ、出し入れするうち、印字が内側に触れ、転写された。つまり——袋は、つい昨夜、濡れた手で触られたのだ。台所で水仕事をしたあと、急いで乾電池を詰めた手が、袋の内側まで少し湿らせてしまい、印字が移った。前からベランダに置かれていた袋なら、内側の転写はできない。内側が湿るのは、直近の作業。昨夜の遅い時間。第一水曜の前夜。

 

 山崎にそれを伝えると、彼は顎に手を当てて笑った。

 

「新名さん、君は袋の法医学者だな」

 

「ごみの袋は、生活の皮膚です」

 

「ならば、袋は昨夜詰められた。乾電池は本来出せない日なのに外に出された。甲斐は、六時三十四分にチャイムが鳴ることを“見せた”。そして、濁点は小さい」

 

 山崎は座っていた椅子を引き、立ち上がった。

 

「逮捕状を請求する。決め手は時間だ。六時の“見せかけの目覚め”は、六時三十四分の演出。演出家は犯人だ。練炭は彼女名義だが、扇風機のリモコンから彼の指紋が新しく出た。換気のために扇風機を回していた。練炭の火に酸素を送り、早く一酸化炭素濃度を高めるために」

 

 私は目を伏せた。扇風機。冬に不自然な風。死を早める優しい風。扇風機は、夏には涼しい。冬には——冷たい。どちらにせよ、人は風を信じる。目に見えないものを信じる。音も、風も。

 

「ありがとう、新名さん。君の“濁点”が、点を打った」

 

「いえ。打たれたのは、誰かの生活の句点です」

 

 私は、透明袋の結び目を思い出した。角の路地の、結びの甘さ。人の終わりかたには、いつもどこか、結びが甘いところがある。結び直したところで、ほどく力には勝てない。

 

 けれど、ほどかれた結びを見つけるのが、きっと今の私の仕事だ。


      *


 翌朝、私はまた路地の角に立っていた。オレンジベストの胸に、昨日の息がまだ残っている気がした。カラス避けネットの向こうで、透明袋が風にわずかに鳴った。私はしゃがみ、結び目を解いて、ぎゅっと固く結び直した。袋越しに見える、割れた皿の縁が白く光る。乾電池は一本も入っていない。濁点は、大きく、くっきりしている。「鈴木」とはっきり書かれていた。書いた人は、自分の名をはっきりと、ここに出すことに、迷いがない。

 

 遠くで、低い唸りがする。ごみ収集車が近づいてくる。朝は始まる。昨日も、今日も、明日も。私は結び目を指で確かめ、立ち上がった。そして、自分の胸の中の結び目に、そっと指をかけた。ほどけそうなところはないか。甘いところはないか。昨日の彼女の部屋の白い灰が、胸のどこかに薄く降り積もったように感じられたからだ。

 

 車が止まり、運転手が私に目配せする。私は頷いた。袋を抱え、金属の口の中へ押し入れる。がらりと音がして、暮らしの欠片が飲み込まれる。私は残ったネットをかけ直し、路地を見渡す。風は、静かに通り抜けていく。

 

 スマートスピーカーのチャイムはもう鳴らない。防災無線も今日はまだ止まっている。静けさは嘘をつかない。嘘をつくのは、音のほうだ。私はそう思いながら、次の角へと歩いた。

 

 途中、小さな女の子が母親の手を引きながら、私の足もとに近づいてきた。女の子は、紙袋を胸に抱えている。折り紙で作った花が入っていた。彼女は恥ずかしそうに私を見上げた。

 

「これ、燃えるごみ?」

 

 私は少し笑ってから、膝を折った。

 

「うん、燃えるごみ。でも、きれいだから、もう少しだけ、家に飾ってからでもいいよ」

 

 女の子は目を丸くし、そして、花を見た。彼女の母は、黙って微笑んだ。私は立ち上がり、二人の背中を見送った。袋の結びも、花の形も、人の手が決める。人の手がほどく。人の手が、ある朝、結んだものが、ある夜、ほどけるかもしれない。けれど、その間の一日一日を、私は見ている。名前の濁点も、乾電池の向きも、扇風機の位置も。そういう細部で、人の嘘は破れる。あるいは、人の真実が残る。

 

 詰所に戻ると、机の上に山崎からの封筒があった。薄い紙に、短い便り。「あの“濁点”は、決め手の一つになった。ありがとう」。便りはそれだけだった。私は封筒を裏返した。返送先の筆記体の「Y」は、濁点よりもずっと大きかった。私は笑い、封筒を引き出しにしまった。

 

 昼、私は団地の近くの定食屋に入った。カウンター越しにおばちゃんが声をかける。

 

「今日も早いね、不燃?」

 

「はい。乾電池は第二と第四だけですよ」

 

「知ってるよ。あんたから聞いたんだから」

 

 笑い合ったあと、私は味噌汁をすすった。湯気が、冬の扇風機の風を思い出させ、白い灰の色を薄めていく。人は、結び直せる。すべてではないけれど、いくつかは。

 

 午後の巡回に出る前、私は備品のノートに、いつものように書き込む。「袋の結び、良好。乾電池、適正。記名『鈴木』、濁点くっきり」。書いたあと、ペン先を止めた。濁点、と書きながら、私は再び伊達の字を思い出す。小さな濁点。声を潜めるような濁点。あれは、ためらいの記号だったのかもしれない。名を晒すことへのためらい。自分がそこにいたことへのためらい。あるいは——自分がそこにいなかったと嘘をつくためらい。

 

 ノートを閉じ、私はベストのファスナーを上げた。外に出ると、風は少し強くなっていた。風は、結び目を試す。甘い結びは、ほどける。固い結びは、形を変える。私は歩き出しながら、自分の胸の中の結びを固くした。ほどけないように。何かを見逃さないように。音に騙されないように。

 

 遠くで、また低い唸りがした。私の一日は、もう一度、始まるところだった。

2 / 12


返却期限の誤差


 分館の鍵を開けると、紙の匂いに混じって微かな鉄の匂いがした。古いスタンドのネジが湿気で錆びると、朝いちばんにだけこうして鼻を刺す。私は匂いの来所を確かめるみたいに、閲覧室をひと巡りしてから、返却ポストの底板を外す。カタン、と軽い音がして、一冊だけ落ちてきた。


 『黒い万年筆』——来週、講演会で招く作家の代表作。帯には「直筆サイン入り初版本」と赤いラベル。背の上部に指をかけると、薄く汗がついた。昨夜遅くに返されたばかりらしい。レシート様の貸出票を見ると、貸出者名は「仙道優一」。地元紙の記者で、きのう閉館間際に蔵書の写真を撮っていた背の高い男だ。私はカウンターに戻り、貸出処理を取り消して棚に差し戻す準備をする。講演会で展示する予定があるから、通常棚には戻せない。


 そのとき、職員通用口の金属が鳴った。先輩の水野さんが、息を切らして入ってきた。いつもは七時五十五分に現れるのに、今日は既に七時台の半ばだ。


「おはよう。早いですね」

「おはよう。きのう、雨でね。家の前が泥だらけで……」


 言い訳の途中で、水野さんの目が私のカウンターの『黒い万年筆』に吸い寄せられた。ほんの一拍、目の白が多くなる。すぐに、いつもの表情に戻る。


「それ、返ってきたんだ」

「はい。返却ポストから。一冊だけ」


 水野さんは黙って、掲示板のポスターを真っ直ぐにし始めた。来週の講演会の案内、整理券の配布は今日からだ。「直筆サイン入り初版本展示」の文字が中央に踊る。私は、ポスターの下隅にある配布時間「9:00-12:00, 13:00-17:00」の印字の右に、極小の黒点があるのに気づいた。トナーが飛んだだけだろう。けれど、その「点」は今日の午後、私にとって別の「点」と線で繋がる。


 九時を回って、人が一気に来た。整理券の列、児童書コーナーの親子、新聞閲覧の老人。私は貸出と返却に追われた。午前の山が過ぎ、昼休みの直前、通用口のチャイムが鳴る。所轄の刑事が立っていた。名刺は見覚えのある名前——山川。


「桐生さん、少しお時間を。仙道優一さんをご存じですね」

「ええ。今朝、仙道さんの貸出本を返却ポストで見ました」

「その仙道さんが、今朝、裏の駐輪場で亡くなっているのが見つかりました。首を……」


 私は息を飲んだ。駐輪場は窓の向こう、塀に沿って細長くのびる細い屋根付きの通路。朝一番に掃除のパートさんが見回る場所だ。首を吊れるほどの高さの梁はない。あの屋根の鉄パイプに、と彼は言いかけて言葉を濁した。


「自殺と見られます。ただ、遺書のようなメモがありましてね」


 山川は、透明のファイルからメモを取り出した。白い細長い紙に、太いボールペンの字。「サイン本は俺が持ち出した。責任は俺にある」。紙の端は丸く、薄く青いグリッドが透けている。私は見た瞬間に、それが貸出票の用紙だとわかった。うちの分館で使っている感熱紙。端が丸いのは、切り傷を避けるための仕様。


「貸出票の裏に書かれていますね」

「そう、あなた方のものだ。昨夜、閉館間際に仙道さんがこれを……という筋書きになっている」


 “筋書きになっている”。山川の言い方は慎重だった。私は、今朝ポストに落ちてきた『黒い万年筆』を思い出す。サイン本は返ってきたのだ。つまり、メモは「持ち出した」ことを認めつつ、返却の事実も示すための“貸出票”。しかし——。


「その紙、うちのではありません」


 自分の口から出た言葉に、山川が目を瞬いた。水野さんも掲示板から顔を上げる。


「どういうことです?」

「分館と本館で、貸出票の用紙が違います。本館は端が四角。分館は丸。……いえ、逆です。本館が丸、分館は四角です。ここは分館ですから、丸い端の貸出票はあり得ません」


 言い直したとき、水野さんの視線が一瞬だけ私を斜めに切った。私は自分の舌のもつれを恥じたが、記憶は確かだ。用紙の供給業者が昨年変わり、そのときに端の仕様が館ごとに分かれたのだ。


「確認します」


 私は貸出票の束を引き出し、実際に見せた。角が四角に切り落とされている。それから、今朝の返却本『黒い万年筆』の貸出票を取り上げる。こちらも角は四角だ。山川は頷く。


「つまり、遺書に使われた貸出票は、本館のもの。昨夜、彼はどこにいた?」

「うちの閉館は二十時。本館は二十一時です」


 山川はメモをしまい、メモだけで判断するつもりはないと言った。だが、私は別の違和感に指を伸ばした。メモの字だ。太いボールペンの線が、感熱紙の裏に「沈んでいない」。感熱紙の裏は、表面がつるりとしているが、ボールペンで書くと微妙にインクがはじかれ、光にかざすと薄いブツブツが見える。しかし、目の前のメモには、それがない。つまり——これは感熱紙ではない。貸出票と寸法が近い白紙に、青いグリッド模様を印刷して「貸出票らしく」見せかけた可能性。


 昼休みが終わると同時に、私の胸の中で何かが形になった。『黒い万年筆』のサインを見ると、字が少し揺れている。前に展示したときと比べると、「黒」の右払いが短い。本のラベルの「直筆」の文字がやけに派手で、帯の裏の糊で紙がわずかに波打っている。そこへ、受付の電話が鳴った。本館からだ。


「そちら、返却ポストにサイン本ありませんでした?」

「あります。今朝一冊」

「こちらの展示棚のサイン本が、一冊、まるごとなくなって……」


 私は、受話器の向こうの声の震えで事態の重さを感じた。本館でも、同じ作家の初版本が消えている。つまり——遺書に「サイン本を持ち出した」と書かれ、うちで「返却された」のは、別の本。メモは本館の用紙「らしく」見せた偽物。返された本のサインは、もしかすると——。


「桐生さん?」


 山川の声で我に返った。私は『黒い万年筆』のサイン面を、机のLEDライトに斜めに当てて見た。インクの上に微細な凹凸。プリンターの網点。肉眼ではわからないレベルだが、光に当てると規則的な粒子が走る。サインは印刷で複製されている。本物ではない。


「これ、印刷です」


 口にした瞬間、閲覧室の空気が変わった。水野さんが、掲示板のピンを一本、曲げた。鋼の小さな悲鳴がした。


      ◇


 午後、私は本館に行った。事務室に通されると、館長と本館の司書、それに山川がいた。館長は額に汗を浮かべている。私は、分館の返却本のサインが印刷だと思われること、本館の消えたサイン本が真筆だった可能性、遺書の紙が偽造の疑いがあることを伝えた。山川は、黙ってメモを取っている。館長は声を荒げた。


「うちの展示のサインは、本物です! 作家本人に——」

「その“本人”のサインは、いつ、誰が受け取り、誰が帯に『直筆』と書いたんです?」


 私の口の調子がきつくなった。場数が足りない。だが、言葉は止まらない。


「少なくとも、うちに返された本は偽物です。そして、偽物を本物に入れ替えられるのは——展示・返却・貸出に自由に触れられる人」


 館長が、言葉に窮した。山川が咳払いする。


「桐生さん、言いにくければ僕から言います。職員。しかも、用紙や帯、掲示を自在に扱える人間」


 事務室の空気が、さらに固くなった。本館の司書が真っ青な顔で言った。


「昨日、本館の閉館後に、分館の水野さんがいらして……掲示物の予備を持っていかれて」


 水野。私は胸の奥で、その名前が石になるのを感じた。彼女は講演会の担当だ。作家とも連絡を取り合い、告知の文面も、展示の段取りも、帯の文言も彼女が決めた。「直筆サイン入り」のラベルを作ったのも水野さん。彼女は昔、この作家のファンクラブで活動していたと聞いた。もしかして——。


「仙道さんは、何を取材していた?」


 私は山川に尋ねた。山川は、かすかに眉を上げた。


「作家の高校時代の同級生としての証言と……ゴーストライター疑惑だ。本人は否定しているが、仙道さんは『サインの筆跡が近年変わりすぎている』と。記事を出せば講演会が荒れる。そこで、仙道さんはうち——図書館の展示のサインを比較対象にするつもりだった」


 図書館のサインが偽物なら、比較は意味を失う。もしくは、真筆の本館のサインが消え、偽物と入れ替わるなら——記事は裏付けを失う。


「仙道さんは、昨夜、本館の展示室で何かに気づいたのかもしれません。『直筆』のラベルが新しい糊で貼り直されていた、とか。あるいは、サインのインクの乗りが違う、とか。誰かと口論になり、……」


「それで首を吊る? 駐輪場で?」と館長。


「駐輪場のパイプは低い。足が地面につく高さです。普通は難しい。けれど、あそこに今日、脚立があった」


 本館の司書が震える声で言った。館長が彼女を叱責しようとしたので、私は手で制した。


「脚立があること自体は、講演準備で不自然ではありません。でも、脚立のキャスターに、泥が付いているはずです。水野さんの家の前が泥だらけで、今朝早く来たとおっしゃっていた。泥の種類と色は一致しますか?」


 言いながら、私は自分で自分に驚いた。推理が暴走している。でも、点と点はすでに線で繋がっている気がした。返却ポストで今朝、私が聞いた「コトン」という音もいつもと違って一回だった。通常、分厚いハードカバーが落ちると「コト、コ」と二拍になる。蓋が一度弾んで、二度目に落ち着くからだ。今日は一回。底板のネジの錆の匂い。誰かが昨夜、底板を外し、蓋のゴムを外して、音が一拍になるようにしていた。朝いちばんに私が「返却された」と認識するように。偽物のサイン本を返却した「演出」。


「山川さん。ネットワークのログを見てください。貸出延長は館内LANからしかできません。昨夜二十一時以降に、サイン本の貸出を延長したアクセスはないですか?」


 山川は頷いた。「調べておきます」と言って、電話をかける。待つ間、私たちは沈黙した。私の胸の中で、午前のポスターの極小黒点がまた浮かぶ。印刷トナーの点。サインの印刷の網点。貸出票のグリッドの偽装点。点、点、点。


 電話が切れて、山川が言う。


「二十一時三分。本館事務室のPCから、仙道優一名義の貸出中の『黒い万年筆』が、一度延長されている。閉館後だ。仙道さんはすでに帰宅していたと家族が証言している。アクセスは職員しかできない」


 水野さん。私は彼女の肩にかかっていた、布の図書館バッグを思い出した。昨夜、本館にいた彼女は、きっと延長を操作した。理由はひとつ——『黒い万年筆』が貸出中だと、展示の「返却」偽物工作に矛盾が生じる。延長しておけば、翌朝まで誰も棚を探さない。


「さらに、返却ポストの底板に、細い繊維が挟まっていた。ポスターの裏に使う両面テープの糸。昨夜、誰かが底板を外し、蓋のゴムを一時的に外している。これは、清掃員の証言と一致する」


 山川はメモをめくり、言った。


「桐生さん。あなたの言う“点”は、線になりつつある」


      ◇


 夕方、分館に戻ると、閲覧室に夕日のオレンジが斜めに落ちていた。水野さんが、カウンターに背中を向けて、チラシの束を整えていた。私は息を整え、言葉を選ぶ。


「水野さん。仙道さんは、あなたの高校の先輩でもありましたよね」


「ええ。優しい人でした」


「優しい、ですか。じゃあ、彼が図書館を困らせる記事を書こうとしたのは、優しさの延長?」


 水野さんの手が止まり、チラシの角が少しだけ揃っていないのが見えた。彼女は、ゆっくりと振り返った。


「仙道くんは、正しいと思ったことをする人でした。だからといって、全部、ここで言うべきことですか?」


「全部は言いません。でも、返却ポストの底板は、昨日の夜、外されていました。今朝の音は、一拍しか鳴りませんでしたから」


 水野さんの喉が、かすかに上下した。私は続けた。


「『黒い万年筆』のサインは印刷です。本館の展示が本物で、分館のそれが偽物。遺書も偽物。本館の用紙に似せて作られています。用紙の端の丸み、グリッドの色、すべてが少しずつ違う。分館の人間なら、本館の用紙の感触を知らないわけがない」


 彼女は笑った。自嘲の笑いだ。


「桐生さん、あなた、怖いですね」


「怖いのは、演出です。朝、私が返却を確認するタイミングで、音が一回。講演会の案内の『直筆』の大きな文字。ポスターの黒点。延長ログ。全部が“見せるため”に用意されている」


 水野さんは椅子に座った。背筋は伸びている。


「……彼は記事を出すと言っていました。作家のサインも、ゴーストも。私は、図書館の名誉を守りたかった。ここは、街の記憶の場所です。スキャンダルで、人が遠のくのを見たくなかった」


「だから、入れ替えた?」


「展示のサインは、私が昔、ファンイベントで手に入れた複製だ。本物みたいにきれい。だって、本人が書いた“あと”に、印刷所で作るから。筆跡も癖も、完璧に出る。私は、それを“借りて”置き換えた。本物は書庫に隠した。……仙道くんが、見つけてしまった。『水野さん、これは——』。あの声が、耳に残って離れない」


 彼女の目に水が浮かんだが、すぐに引っ込んだ。


「もみ合って、彼が転んで頭を打った。意識はあった。『記事は出す』と言った。だから……」


「だから、“自殺”に見せかけた?」


「彼は、自分で帯に『直筆』と大きく書いたラベルの前で『偽物だ』と叫んだの。誰もいない閉館後の展示室で。あの言葉が、私には耐えられなかった。図書館は嘘をつかない——そう信じる子どもたちの顔が浮かんだ。だから、遺書を作った。彼が“盗んで返した”ように見せるために」


「貸出票の偽造も、延長ログも、返却音の一拍も」


「全部、図書館の道具でできます。だから、私は——」


 そこで、通用口のチャイムが鳴った。山川が立っていた。彼は私に軽く会釈してから、静かに言う。


「水野さん。お話の続きは署で伺いましょう」


 彼女は頷いた。私のほうを一度も見なかった。背中だけが真っ直ぐだった。山川が手錠を出すことはなかった。水野さんは自分のカードキーと、透明な名札を外して、カウンターに置いた。名札のプラスチックに、朝の光がわずかに残っていた。


      ◇


 夜。私は貸出カウンターの端に座り、何度も貸出票の束を指で撫でた。端の四角が規則的に指先を叩く。本は、返ってくる。嘘も、返ってくる。返却期限の誤差は、延長ボタン一つで埋まるけれど、誤魔化した一日が、どこかに跡を残す。


 私は備品ノートに書き込んだ。「返却ポスト底板、要点検。音、一拍の件」。それからペンを止め、もう一行書いた。「点は、線になる」。書いた字の濁点を、私はひとつだけ意識して大きく打った。偽造の遺書の小さな濁点を思い出して。


 講演会は延期になった。ポスターは剥がされ、掲示板のコルクが露わになった。そこに、私は小さく一枚だけ紙を貼った。「本は、あなたを裏切らない。人が時々、裏切るだけだ」。


 翌朝も、私は鍵を開けた。鉄の匂いはしなかった。返却ポストは、いつも通り二拍で鳴った。コト、コ。私は底板のネジを指でなぞり、そっと微笑んだ。音が二つあるのは、世界が二度、自分の重さを確かめるからだ。落ちて、弾んで、落ち着く。人も、きっとそうだと信じたくて、私は開館の灯りをひとつひとつ点けていった。

3 / 12


閉店後の星


 アーケードの天井に吊られた蛍光灯は、深夜になると一部だけが星のように残る。消えた灯りの間に点々と白が浮き、商店街は宇宙の模型みたいに静かだった。

 私はその宇宙を毎晩一巡する。名札には〈夜間見回り員・三枝〉。商店会と警備会社の半分ずつが出す薄給に、缶コーヒー二本分の責任感を上乗せしたのが、私の仕事の全てだ。


 その夜、星の下で最初に異変に気づいたのは、コインパーキングの精算機だった。緑の「使用中」ランプが滅灯し、赤色の「故障」が点きっぱなし。操作パネルには、ガムテープで雑に貼られた紙切れ――〈管理会社へ連絡済〉。筆圧が強く、最後の「み」だけがやけに太い。私は紙をめくって裏を見る。真っ白だ。管理会社から貼られたものでなく、誰かがここにあるもので間に合わせた。


 柵の向こう、車室には白い軽ワゴン、茶のコンパクトカー、シルバーのセダン。地面の輪止めはどれも上がっている。

 私は詰所に戻り、管理会社の夜間窓口に電話した。若い声が、眠たい相槌を打つ。


「すみません、〇〇商店街のパーキング、精算機が故障ランプ点灯。貼り紙は……自作ぽいです」

「え、貼り紙? うちが出したのは昼。すぐ撤去してますけど」

「じゃあこれは、誰かの“演出”ですね」


 私は故障の旨を引き継ぎながら、自分の手帳に時刻を書いた。午前一時十四分。

 その直後、詰所の扉が荒く開き、弾む息とともに男が飛び込んできた。青いポロシャツに濡れた髪、肩に掛けた斜めのショルダーバッグ。鮮魚店の息子、涼だ。昼は元気が売りだが、今は目に少し熱がある。


「三枝さん、やばい。パーキング、やられたかも。さっき、精算機の前に集金袋が二つ出てて、誰かが……いや、俺じゃない。慌てて警察呼んだ」

「落ち着け。いつから君はそこにいた」

「一時五分。友達を送って戻ってきて、精算しようとしたら故障。貼り紙に『現金は袋に入れて』って書いてあったから、危ないと思って、袋を抱えて店に持って……」

「持ってきたのか」

「いや、その時はまだ置いたまま。誰もいなかったし。でも、十秒後に黒いキャップの男が来て、袋を一つ持って走って……俺、追いかけたけど見失った」


 私は眉を上げた。貼り紙にそんな文言はない。さっき見た紙は「連絡済」だけだ。

 涼は気づかず、早口で続けた。


「走ってったのは喫茶パロットの裏。マスターの外階段の方へ。あの人、遅くまで焙煎してるから、見てないかなって……」


 喫茶「パロット」のマスター、古市。腕組みと口元の苦笑が似合う人だ。夜中に豆を煎るのが趣味で、時々煙の通報を受ける。

 私は心の中で三人の顔を並べた。涼。古市。そして、夜はよく見る配達の軽バンの男。アーケードの端で停めて、深夜便を降ろしていく。私は彼の名前をまだ知らない。


 十分後。パトカーが来て、鑑識のライトが精算機の前に斜めの白を落とした。集金袋は一つ残っていた。封印シールは剥がされていない。もう一つは持ち去られた。

 警官は貼り紙を剥がし、粉をまぶしながら言った。


「どこの紙?」

「パーキングのレシート用ロールの切れ端だな」と古市が口を挟む。「うちの店にも予備ある。同じ幅だ」

「レシートにガムテープ……店側の資材が使われてる」私は呟いた。「三階の共有物置からも持ち出せる」


 そのとき、白い軽バンがアーケードの端を走り抜けた。私は手を上げたが、彼は気づかない。車体の側面にはコンビニチェーンのロゴ。深夜便だ。


 警官は周辺の店に確認するという。私は巡回を続けながら、自分の胸の中で点を打つ。貼り紙の文字。濡れた髪。故障ランプの点灯時刻。現金袋の封印。

 そして、精算機のパネル。私は昼間にもここを何百回も見ている。そこには「領収書」のボタンがあり、押すと熱転写の紙に日時と「¥」の印字が出る。深夜料金の単価に切り替わる午前一時を境に、レシートの表記が少し変わる。英数モードに入るタイミングで、「¥」のフォントが妙に細くなるのだ。私はそれにいつも小さな違和感を持っていた。

 涼の言葉が耳に残る。「貼り紙に『現金は袋に入れて』」。……それ、本当に見たのか?


     ◇


 翌朝。商店街の役員が集まる前に、私は一人でパーキングの現場に立った。露が乾きかけ、路面に薄い白粉が浮いている。

 輪止めの隙間に、黒い粒子が溜まっているのを見つけた。炭の粉? 撫でると指が灰色になる。心当たりがある。古市のコーヒー豆。深煎り。焙煎後の微粉は軽く、風で飛んで、商店街の床に黒い星をつくる。パロットの前にはいつも少し溜まっている。だが、精算機の基礎の隙間に固まっているのは珍しい。誰かの靴底にまとわりついて、ここに落ちた?

 私はしゃがんだまま薄い青のガムテープの痕を見つめた。微かな糊の光沢が、紙の周りに長方形の跡を残している。貼り紙はさっき剥がされたが、痕跡は嘘をつかない。テープは三辺貼られていた。上と左右。下は貼られていない。

 下だけ貼らない貼り方は、夜間の風に強い。だが、この場所で風はほぼない。上だけで充分だ。丁寧な人の癖か、あるいは、下を開けて「差し替え」を容易にするためか。


 私はパロットの裏階段を登った。背後の厨房から低いゴロゴロというファンの音が聞こえる。古市が端の窓を開け、顔を出した。


「昨日は災難だったな」

「災難を呼ぶ豆の匂いは、昨夜も濃かったです」

「そいつは悪かった。警察に『煙じゃない』って説明するのに慣れたよ」


 私は窓際の棚を見る。メモ用紙、レシートロール、青いガムテープ。ロールの端は切り取られ、ギザギザが残っている。店の備品だ。古市が貼り紙を作った?

 彼は先に言った。


「夜中の貼り紙なら、私が貼ったよ。管理会社から電話で『貼っておいてくれ』と頼まれてな。昼の貼り紙は雨にやられてボロボロだったから、夜に新しく、レシート紙で」


 私は眉を上げる。


「それ、何時です?」

「一時ちょい前。焙煎の合間に。『連絡済』と書いて、精算機の上に三辺ガムテープ。下は見やすいように開けておいた。風、ないだろここ」

「文面は『連絡済』だけ?」

「それだけだ。だいたい、現金は機械以外に入れちゃいけない。うちの客にも言う」


 古市の声は静かだった。嘘の厚みは薄い。私は頷き、テーブルの上の紙袋を指さした。


「今日の粉、少しもらっていいです?」

「好きにしな。星を撒くのは俺の悪癖だ」


 私は微粉をビニール袋に入れ、階段を下りた。

 駐車場の精算機の前に戻ると、警察が残していったチョークの線を避け、パネルの周りを指でなぞった。わずかに甘い匂いがした。柚子のハンドクリーム。誰の手だろう。涼の家は魚屋だ。手は魚と氷の匂い。古市はコーヒーと煙。残るは、あの白い軽バン。コンビニ配達の男。

 私は昼にそのコンビニに入り、店長に尋ねた。


「夜中の配送の方、どなたです?」

「中條くん。三十代。真面目だけど、金の話になると渋いな」

「昨夜、一時過ぎにこの通りを通った?」

「毎日通る。納品は一時半だ」


 私はレジ横のハンドクリームを見る。柚子。値札が「特」と赤い。食材の匂いを消すため、夜勤の子がよく使う、と店長が言った。


     ◇


 翌晩。私は星をまたいで歩いた。精算機の「故障」はもう直っている。貼り紙の痕はまだ薄く残っていた。

 私はその上に、同じような紙を同じように貼った。上と左右だけテープ。文面は短い。「故障中。連絡済」。古市の字を真似て、少しだけ最後の字を太くした。

 午前零時五十七分、白い軽バンが通りかかり、減速した。運転席の男が貼り紙を見て、少し首を傾げ、走り去る。

 午前一時二分、涼が自転車でやってくる。貼り紙を見て、肩をすくめ、スマホで何かを撮る。

 午前一時七分、古市が裏階段から降りてくる。手に青いガムテープ。貼り紙を見て、テープの端を撫で、「私の字じゃない」と小声で言った。

 私は路地の影から見ていた。

 午前一時十一分。白い軽バンが戻ってきた。今度は停まり、男が降りる。キャップのつば、柚子の匂い。彼は貼り紙の下辺に指をかけ、ひょいと持ち上げる。差し替えに慣れた手つき。胸ポケットから別の紙片を出し、上書きするように差し込んだ。文面は――〈故障のため現金は袋に入れて〉。

 私は飛び出した。


「待て」

 男は驚いて紙を落とし、駆け出した。私は追い、輪止めで足をぶつけ、転びかけた。涼が横から飛び出し、男の腕を掴んだ。柚子の匂いが濃くなる。

 男――中條は抵抗し、貼り紙を蹴った。紙が舞い、落ちた場所に黒い粉が星のように散った。


     ◇


 事情聴取は詰所で行われた。涼は汗を拭き、古市はコーヒーを入れ、警官は淡々と紙を折った。

 中條は、最初は「知らない貼り紙だ」と言っていたが、ポケットから出てきた三枚の紙には、私の見た文面が印刷されていた。フォントはコンビニのラベル印字と同じ。切り口はレシートロールのギザギザ。差し替え用に準備していたのだ。

 私は、静かに話を組み立てた。


「あなたは、パーキングの精算機前に貼り紙がある夜を狙っていた。『故障』という言葉に、人は財布の紐を緩める。集金袋が出ているなら尚更。――昨夜、一つの袋は持ち去られた」

「俺じゃない」

「あなたじゃない。あなたが動いたのは、“二晩前”だ」


 中條の目が一瞬泳いだ。

 私は、ポケットから二種類のレシートを出した。コインパーキングの領収書。ひとつは昨日のもので、もうひとつは二日前の深夜一時半のもの。

 二日前のレシートの「¥」は太い。昨日の「¥」は細い。私は指で示した。


「この精算機は、深夜一時にレートが切り替わり、同時に印字のコードが切り替わる。あなたは『一時十五分に通った』と言ったが、あなたが貼り紙を差し替えて現金袋を誘導したのは一時前だ。だから、人の証言と、あなたの『見た』フォントが噛み合わない」

「フォント?」

「また、あなたは『貼り紙に“袋に入れて”とあった』と涼に言った。あの文言は、あなたが作ったものにしかない。古市さんの貼り紙にはない。――差し替えたのはあなたの指だ」


 古市が、微粉の入った袋を机に置いた。中條の靴底から採取されたそれと、香りも粒子の大きさも一致する。

 中條は黙り込んだ。涼が身を乗り出す。


「なんで、そんなことするんだよ」

「……集金袋は、店側が一旦出していた。管理会社に渡すため。置きっぱなしは危ない。だから、俺が“預かる”ふりを……」


 言い訳はガスのように薄い。警官は筆を止め、中條を見た。


「あなたの手は柚子の匂いがする。これは証拠にもならないかもしれないが、あなたが“落とし物の現金袋”を触る前に『匂いを消す』ことを習慣にしていることは示す。貼り紙を差し替える手つきの慣れも、今日見せたとおりだ」


 中條は肩を落とした。


「……二日前、集金袋は二つあった。一つは持ち去られ、もう一つは俺が“預かった”。昨夜は、故障の貼り紙が出てたから、同じことができると思って……」


 そこで涼が咳払いした。

 私は、涼に向き直った。


「君も少し、嘘をついたな」

「は?」

「『十秒後に黒いキャップの男が』と。――十秒じゃない。二十秒だ。故障ランプが点灯した時刻は一時十四分。君が詰所に飛び込んできたのが一時十五分二十秒。その間に追いかけて戻るには、十秒では無理だ。――そして、何より」


 私は、例のガムテープ痕を指でなぞる仕草をした。


「君は『貼り紙に“袋に入れて”とあった』と言った。見てもいない文面を。“誰かがそうする”と知っていたからだ。――二日前、現場にいたな?」


 涼は目を見開き、唇を噛んだ。それから、ゆっくりと頷いた。


「……ごめん。俺、集金袋を一回、持ち上げた。重さを確かめた。どのくらい入ってるかって、好奇心で。すぐ置いたけど。その時、“袋に入れて”の紙を見た。だから昨夜も、同じだと思って……」


 古市が小さくため息をついた。


「好奇心が、物語を作る。だが、物語は現実に勝てない」


 涼は俯き、拳を握った。

 私は彼の肘に軽く触れた。子どもの頃、祭りで露店の光を追いかけて転んだ時の涼を思い出す。傷は膝よりも,目の奥にできる。


     ◇


 事件は、意外なほど早く片付いた。二日前に消えた集金袋は、アーケード端の空き店舗裏から見つかった。鍵を持っているのは保全会社と一部の店主だけ。中條が納品時に開けられることも確認された。

 昨夜の袋は、涼の証言どおり一人の男が持ち去ったが、彼は別件の常習犯で、監視カメラの別角度に映っていた。中條とは無関係。二つの事件が、同じ「貼り紙」という道具で重なったのだ。


 私は家に帰ってから、缶コーヒーを一本開け、机にレシートを並べた。駐車場のそれ、コンビニのそれ、喫茶のそれ。フォントの「¥」だけを拡大し、違いを並べる。太いもの、細いもの、上の棒が短いもの。

 東野圭吾の小説に出てくるような、華麗な一発逆転は私にはできない。けれど、細部は嘘をつかない、ということだけは、身体で知っている。

 貼り紙のガムテープの貼り方。柚子の匂い。粉の星。フォントの癖。――そのすべてが、夜の宇宙で微かに光っていた。


     ◇


 数日後。商店街の星は、いつも通りに戻っていた。喫茶パロットの前を通ると、古市が外に出て、豆を冷ましていた。


「三枝さん、見回りの星に名前をつけたらどうだ」

「名前?」

「君が毎晩見つける“小さな違和感”。それが見つかった場所に、星座みたいに名前を」


「じゃあ、あそこは『¥座』で」

 私は笑って精算機を指さし、古市も笑った。


 涼は魚屋の前で氷をかいていた。目の奥の傷は、見えない。だが、氷の手触りは正直だ。彼は手を止め、こちらを見る。


「この前は……」

「誰にでも、十秒の嘘はある。次は、十秒の勇気で埋めればいい」

 涼は、少しだけ笑って頷いた。


 夜。私はまた宇宙を一巡する。蛍光灯の星は、今日もいくつか消え、いくつか灯る。

 精算機のパネルには、新しい薄い保護フィルムが貼られた。角が浮き、そこに粉が少し溜まっている。私は指先で払った。

 無数の細部が、私の前に道を描いていく。音も匂いも字体も、手触りも。

 そして、私は思う。

 嘘は乾く。乾くと、テープの痕が現れる。粉も残る。匂いも薄い膜になる。

 閉店後の星は、その痕を照らすためにあるのかもしれない。

 私は一歩進み、また一つ、灯りの下をくぐった。

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