遺棄
視界が歪む。吐き気がする。ビニール傘が風にあおられ宙を舞う。通りがかったサラリーマンが、のけぞりながらそれを避けた。文句があるか。睨みつける。迷惑そうな目線でこちらを見つめているが、今の自分にはそれどころではない。
心の中につい先ほどまで燃え盛っていた炎が消えようとしている。みじめな背中を打ち付けるようにしてそぼ降る雨のせいではない。もともとこちらに愛はなかった。熱心な彼からのラブコールを受けて、徐々に氷解していったその先に、いつしか同じ夢を見るようになっていた。だが、現実はどうだ。
彼は突如として拒絶してきた。正確には、雨のそぼ降る川端に置き去った。冗談だと思いたかったが、つい先日まで親しげな口調で語り掛けていた彼が、突如として毎日を謝罪に費やすようになったのだから、明らかにジョークの類ではない抜き身の空気感はひしひしと伝わってきた。もはや、どこまでが本音で、どこからが虚偽だったのかわからない。自分には、人の本当の姿が見えていない。ただ、最初から最後まで、「ねぇ」「キミ」と一度も名前を呼んでこなかったことに、彼の真意は現れていたのかもしれなかった。
彼に抱きしめられた感触は、今も覚えている。洗い立てで、よく糊のきいた彼の白いYシャツ。どうしても洗剤の香りが気に入らなくて、顔を背けるたびに、彼はからからと笑っていたっけ。あたたかな彼の身体、がっしりとした胸板に、熊のように大きな手。すべてが大好きだった。でも、彼の両親にはよく思われていなかったようで、服についた毛から秘密の逢瀬がバレてしまってから、彼との関係は錆びたブリキ細工のようにぎくしゃくとし始めた。
雨は一層勢いを増して、体温が一層奪われるのを感じた。風が吹きつけるごとに生じる身震いするような冷感が、すべて現実だと告げている。目の前にあるものがすべてだと、わかっているのに、諦めの悪い子どものように体を小さく丸めて、腕の中に顔を伏せ、必死に「それ以外」の可能性を探っていた。もはや、顔を上げてもあの人はそこにいないのに。
人が集まってきた気配を感じる。スマホを向けられているのかもしれない。あらぬ噂をささやきあっているのかもしれない。だが、誰も手を差し伸べようとはしない。誰かの助けを待っていても無駄だと分かっているのに、顔を上げるタイミングを失ってしまい、このまま一生来ない「いつか」と「誰か」を待ち続けて、ここで石になるしかなかった。
いっそ本当に石になれたなら、こんな思いもしなくて済むのに。だけれど、どうして? なぜ、衆人環境で、こんな辱めを受けなくてはいけない? すべては覚悟もなく付き合ったあの男が悪いのだ。自分だけがこうしているのは、あまりにも不公平が過ぎる。立場が違えど、地を這うときは、お互い様だろう。
なんだか、腹が立ってきた。彼に捨てられたことにではなく、自分だけがみじめな思いをしていて、相手はのうのうと暮らしていくだろう未来に対して。今から捕まえに行ってやろうか。願わくば、昨日までの日常を取り戻せないものか。
いいや、昨日話していた通り、もう話し合いは済んでいるのだろうし、もはや和解は難しいだろう。それなら、現代ではなく、未来に予約してやろう。今回味わった喪失と、同じだけの痛みを。
そうとなれば、さっそく準備に取り掛からねば。人ごみを縫うようにして駆け抜け、泥道も構わず、彼の家へ向かう。泥が跳ね、頬が汚れたようだが、もはや気にしない。むしろ、汚れれば汚れるだけよいのだから。
一度もくぐったことのない、彼の住む一軒家の大きな正面扉。両開きの引き戸と、広い庭、飛び石、そして彼との逢瀬の場所だった物置。すべてが今となっては憎たらしい。道すがら、ここ一帯の仲間には声をかけてきた。夜明け前の群青を濃縮したような蒼い暗闇に、爛々と灯る無数の仲間たちの瞳。全員で腰を深く落とし、気張る。糞野郎にはお似合いの糞玄関にしてやる。
芯から冷え込むような冷気を漂わせる石畳の上に、そっとぬくもりを添加する。明日の朝が楽しみだ。あのギャーギャーとうるさい年増女と年増男は、どんな顔をして朝日を浴びるのだろうか。
今回の経験を仲間に話してみると、どうやら、仲間たちにも同じような経験を持つものは、いくらかいるようだった。中には、3度も捨てられた経験をもつ古株も。彼の大きな体には、いっぱいに孤独と絶望が詰まっていた。
公衆トイレと化した玄関口を見ながら、考える。どうして人間は、我々よりも大きな脳みそを持っているのに、「一生大事にするから」なんて大仰な言葉を軽率に口にした挙句、川べりの段ボールへ我々を置き去りにするのだろうか。もしくは、別の世界で仲間として出会えるのだろうか。考えてもしようがないことはわかっている。なぜならば、吾輩には、名前はまだないからだ。