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ここでの飲食を禁じます、絶対に。

 やっと会社に着いた。

 もう始業時刻ギリギリだ。

 まあ、遅刻ではないからセーフってことで。


 私はテーブルの上に、

 出勤の途中に寄り道して買ってきたアイスラテとパンを置き、

 机と椅子の間に体をねじ込んだ。

 ここはホントに(せま)すぎる。


「暑っついねー。仕事してる場合じゃないっつーの」

 私はそう言いながら、隣の席に座る高橋君を見た。

 彼はディスプレイを見たまま、暑いですね、と短く答える。


 私はゴクゴクと喉をならしてラテを飲んだ後、

 パンを袋から取り出してかじった。

 朝から開店しているパン屋さんの

 大人気のチョココロネだ。


 朝食は一応食べてくるけど、

 せっかく会社の近くに有名パン屋があるのだ。

 利用しないわけにはいかないではないか。

 ゆえにパン屋とコーヒー店のはしごが、

 このところの定番出勤ルートだ。


 フワフワのパンと濃厚チョコクリームを堪能し、

 甘く冷たいラテを最後までズズズと吸い込んだ。

 すっかり空になったカップの蓋を取り、

 氷を口に含み、ガリガリとかじる。

 うーん、夏が来た、って感じだ。


 とりあえずパソコンに電源を入れ、私は仕事を始めた。

 誰かの作った書類(もの)の内容を確認するような、

 意味のない仕事を。


 入社し、この企画部に配属された頃は、

 いろんなプロジェクトに入れてもらっていたが、

 十年以上経った今となっては、

 限りなく事務作業に近いものしか任されなくなっている。


 隣の高橋君は、入社して五年の、

 ”期待の新人”が順調に、”わが課のホープ”へと育った人間だ。

 見た目もその辺の……私は覚えきれないけど、

 韓国アイドルグループのメンバーの誰かに似ていると

 女の後輩が騒いでいた。


 私は彼に、総務の祥子から聞いた社内の噂を尋ねてみた。

()()んだって? あの資料室」

 アメを口に含んだまましゃべったので、変な発音になってしまう。


 案の定彼はいぶかしげな顔で、私を横目で見てつぶやいた。

「れる……? 資料室……? 

 ああ、あの、”資料室にお化けが出る”ってウワサですか」


 ”資料室”という単語だけでこちらの意図が通じたのは

 彼がエースだからというだけでなく

 私と彼がツーカーの間柄だからだ。


「そそそ、それ。”カラカラに干からびたミイラの女”」

 彼は視線をディスプレイに戻し、つまらなそうに答える。

「どこにでもこういう噂、ありますね。

 学校でも職場でも、いろんなところに山ほど。

 ……実際に見た人なんて、ほとんどいないのに」

 よし、食いついた。

 最近は生返事しかしてもらえなかったのに、

 やっと長文を返してくれた。


 月日を重ねるにつれ、どんどん仕事が忙しくなった彼は

 そのプレッシャーのせいか顔つきも険しく、

 対応もそっけなくなっていた。


 気軽な世間話で力を抜いてやるのも、

 先輩としての大事な役割だろう。


「それが、いるんだよね、実際に見た人」

 その言葉は久しぶりに、彼から感情を引き出すことに成功した。

「ええっ?! 本当ですか?」


 顔だけでなく体ごとこちらに向いてくれた彼に、

 私は喜びを隠しつつ話を続ける。

「うん。それも2人も。

 祥子んとこに来てた派遣さんと、いつもの掃除のおばさん」

「祥子……って、どの部署の?」

「総務だよ。あれ? 会ったこと無い?

 去年オフィスカジュアルになったのに、

 いまだに制服を貫いてる女の人、いるでしょ?」

 企画部と総務では接点がないのか、首をかしげる彼。


 まあ私だって彼女に会ったのはわりと最近だけど。

 彼女は廊下でいきなり、馴れ馴れしい感じで

 ”ちょっと聞いてよー”と話しかけてきたのだ。


「まあともかく、彼女から詳しく聞いたんだけど……」


 その派遣さんは、あの部屋で一日中作業していたそうだ。

 数十年ぶりにあの資料室を使うことになり、

 ここにどんな書類があるか、リストを作るよう命じたそうだ。


「最初に入った時、ホコリっぽいだけじゃなくて

 なんだか薄暗くて、妙に肌寒かったんだって。

 でも数日作業を続けるうち、

 誰かのうめき声が聞こえるようになったんだって。

 小声で、かすれた声で、何かを訴えてくるような」


 そして、ある日。

 忘れ物を取りに、彼女は休憩後、

 この資料室に寄ったそうだ。

 飲みかけの紙パックのジュースを片手に。


 一番奥にある作業デスクのカバンを取ろうとしたら

 うっかり紙パックのジュースを

 床に落としてしまったらしい。


 ストローからじわじわとこぼれる液体を拭きとろうと

 大慌てで机上のカバンからハンカチを取り出し、

 ……床に落ちた紙パックに目を向けると。


 ジュースの横には誰かがしゃがんでいたんだそうだ。

 長い髪が床に着くくらい、低い姿勢で這いつくばる女が。


「え、あの……」

 派遣さんが声をかけようとすると、

 女がゆっくり顔をあげた。


 眼孔はくぼみ、真っ暗の穴と化していた。

 全ての水分が抜け落ち、深いシワで覆われた顔面。


 女は身をくねらせながら、ぐちゃりと(しぼ)められた(くち)で言ったのだ。


 ノドガ乾イテ苦シイイイ……水ガ欲シイイイイ……


「派遣さんは悲鳴をあげて、逃げたんだって。

 でも、みんなを連れて戻ってきた時には

 もう何もいなかったんだってさ」


 腕を組んだまま聞いていた高橋君は

 ガッカリしたような顔で首を横に振る。

「……見間違いか、虚言癖のある人なんでしょう」


「えー、でもそのまま辞めちゃったんだよ。

 嘘つくメリットある?」

「辞めたかったからこそ、じゃないですか?

 大量の資料を整理する、なんて仕事

 すぐに嫌気が差したんでしょう」


 私は高橋君に食い下がる。

「でもその後、掃除のおばさんが

 同じモノを見たんだよ?」


 飲食物のゴミを片付けた後、

 そのおばさんは備品庫と間違えて侵入したらしい。


 飲み残しのカップを持ったままキョロキョロしていたら、

 いきなり本棚の陰から現れたんだそうだ。


 バサバサの髪からのぞく、シワだらけの顔。

 目の部分は落ちくぼみ、黒い影があるだけ。


 その女はカップに向けて、ガリガリになった腕を伸ばしながら

 口だと思われる部分を動かして、言ったそうだ。


 チョウダイ……水ガ欲シイノ……ノドガ乾イタ……


「ホントですかね。

 些細な見間違いを、()()()話したんじゃないですか」

 高橋君は肩をすくめて言う。

「行ってみる?」

 私の言葉に、高橋君の目が一瞬揺れた。


 が、しかし。

「いや、いいですよ」

 時間がもったいない、とつぶやいて、

 また黙々とパソコンの入力を始めた。


 なおも話を続けようとした私を片手で制し、

 彼は内線をかけ始めた。

 そしてどこかの部署の誰かと、会話を始めてしまう。


 ……ああ、こうやって遊び心や生気が失われていくのだろう。


 途切れた会話を残念に思っていたら

 ふいに反対側から課長の声が聞こえ、思わずビクッと身を震わせる。

「ねえ、先週頼んだ書類。

 まだ総務から返却されないんだけど、まだなの?」


 私の頭は”?”でいっぱいになったが、

 その後”!”に変わり……後は真っ白になってしまった。


 返却も何も、まだ出していないのだ。

 すっかり忘れていたから。


 うめくような返事しかできない私を

 冷たい目で見下した後、課長は去って行った。


 私はその姿が完全に消えたのを確認し、

 ファイルの棚に埋もれていたその書類を発掘する。


 ……あった。おもわず笑みがもれる。

 少なくとも無くしては、捨ててはいなかった。ラッキー。


 ふと横を見ると、一部始終を見ていたらしい高橋君と目が合う。

 私は苦笑いをしつつ、席を立ち、総務へと向かった。


 ************


 無愛想な総務の男にそれを渡すと、

 彼は提出が遅すぎる、などとブツブツ文句を言い出した。


 私は一瞬固まってしまうが、

 助け船を出してくれたのか、

 壁際で祥子が手招きしている。


 あ、ちょっと! と言う男を無視して

(祥子のほうがこの男よりずっと年上だから、きっと彼女が先輩だ)

 私は壁際に向かった。


 彼女は首元のリボンタイをもてあそびながら

 壁際のテーブルに置かれたお菓子を見ながら言った。

「ちょっとこれ見て。課長の出張土産」

「うわ、これ銘菓”大判もなか”じゃん!」

 あんこがぎっちり詰まったそれを見て、私は叫んでしまう。


 祥子はなぜか得意げに言う。

「持っていきなよ」

「やったー!」


 私はもう振り返ることもせず、自席に戻った。

 が、座ることなく、いそいそとお茶を入れに行く。

 高級和菓子にはお茶がセットと決まっている。


 そして緑茶ともなかを並べてうなずき、ゆっくりと食す。

 甘い、甘すぎる。でもそれが良いのだ。

 私はお茶で甘さを流し込み、スッキリする。


 ふと、隣から視線を感じる。

 高橋君がこちらを見ていた。

 しかし慌てたように視線を外した。

 あれ、食べたかったのかな?


 私は鞄をさぐり、手持ちのスナック菓子を取り出す。

 こんなのしかないなあ。


 そう思いつつ、ティッシュにそれを移す。

 そして四隅を軽くつまみ、立ち上がって、

 彼の目の前にポトン、と落とした……つもりだった。


 思いのほか、落下の衝撃と風圧で、

 それは彼の机いっぱいに広がってしまう!

「ああっ! 何するんですか!」


「あはは、ごめんごめん」

「ごめんじゃないですよ! この下には!」

 見れば、客先から受け取ったであろう書類が広がっていた。

 慌てた彼がスナックをどけると、すでに油染みがついている。

 ……ヤバイな、これは。


 周囲の人も立ち上がってこちらを見ている。

 彼を案じる声だけでなく、私を責める声を聞こえてきた。


 こうなると私は動けなくなる。

 まただ。私は人からの悪意を感じると、

 何も考えられなくなってしまうのだ。


 じっとりと汗が噴き出し、硬直したままの私。


 すると片付けていた彼は周囲に言った。

「……大丈夫です。みなさん、お騒がせしました」

 やはり彼は私をかばってくれた。

 でも、もうちょっと早く言ってくれたらいいのに。


「ホントに大丈夫?」

「はい、問題ありません」

 彼が問題だと言っていない以上、彼らに騒ぐ権利はない。

 私をにらんでいた人々も、すごすごと自席に帰っていく。


 私は内心、優越感でいっぱいだった。

 彼と私の関係性をあなどるなよ、と。


 ************


「ちょっと聞いてよ。

 このビルが建つ前は、アパートだったんだって。

 そこで、病気の女が孤独死したらしいよ。

 死因は餓死? 渇き死? ……したんだってさ」

 社食で、すでに食べ終えたらしい祥子が隣でいう。


 窓に向いた隅っこのカウンター席は、周囲に誰もいなくて

 内緒話をするにはピッタリの、お気に入りの場所だ。


「あの資料室の下あたりに部屋があったってこと?

 うちの部の下じゃなくて良かったかも」

 私はすでに食べ終えたパスタの皿を横のテーブルに除け

 反対の横からオムライスの皿を目の前に運んだ。

 ここの会社は、本当に社食だけは最高だ。


 オムライスを掘り進める私に、祥子は話を続ける。

「いろんな人に聞いたんだけどさ、

 あの資料室自体、長い事使ってなかったんだって。

 つい最近まで、”開かずの間”状態だったみたいよ」


 久しぶりに書庫の整理をするために派遣さんを雇ったら

 そんな顛末になったらしい。


「あーあ。また次の派遣さんが来るのかなあ」

 祥子のボヤキを、私は完全に他人事として聞いていた。


 まさか、その仕事を自分が請け負うことになるとは

 夢にも思わなかったから。


 ************


「移動、ですか?」

 その日の午後、私は部長に呼ばれてとんでもないことを言われた。

「ああ、()()だ。さっそく席も変わってもらおう」

 席()変わる、という言葉に、

 私は移動ではなく、部署の異動を命じられたことに気付いた。


「なんでですか? 希望も出してないし……

 てか、前から異動は絶対に嫌だっていいましたよね?

 だいたい部署異動の時期ではないし」

 私は必死に抗議する。


 うちは4月と10月に人事が発表されるのだが、

 こんな中途半端な移動をするのは

 ()()()()()()()()()人間だけだろう。


「庶務の強い要望でね。

 早急に処理しなくてはならなくなったんだ。

 かなり時間はかかるから、部署も異動してもらうことになる」


 確かにあそこの書類の大部分は、うちの部のものだから、

 ”うちの部所属で、内容の分類がわかる人間が作業すべき”、

 という理屈はわかるが。


 不満顔の私に、部長は続ける。

「君以外は皆、とても忙しいからね。

 何の仕事も持っていないだろう? 君は」


 私は何も言えなくなる。

 本当は誰よりも自覚していたことだ。

 私にはこの部に、もはや居場所などないということを。


 去り際に、部長が冷たい声で言う。

「ああ、あの部屋は飲食厳禁だ。

 万が一、書類に何かあったら大変だからね」


 ************


 資料室に入る前、定年間際くらいの年齢のオッサンが

 ドア横に立っていることに気付いた。


 彼は私をみて、静かな声で言う。

「この部屋は飲食禁止だよ。絶対にね」


 私は彼に生返事を返し、中に入った。

 そんな私をオッサンは、どこか不安げにみつめていた。


「ここが新しい職場かあ」

 図書館のような資料室は、横長に広かった。

 防災のために上部が固定された本棚がずらりと並び、

 最奥にひとつ、古い机が置かれていた。


 私はここで、手渡された資料に書かれた基準を元に

 この棚の書類をファイリングしなおしたり、

 重要なものはスキャンしていくのだ。


 窓は北側に、上下に開くタイプのものがひとつだけあった。

 ちゃんとエアコンがついていることに安心する。

 ……でも。


「暑くない? ここ」

 怒りのせいか、エアコンの効きが悪いのか。

 私はしだいに、汗をかき始めた。


 私はジュースでも買いに行こうかと思い、

 ここでは禁止だったことを思い出し、舌打ちする。


 黙々と作業をすすめるが、

 一つの言葉がずっと浮かんで離れない。


 ”のどが渇いて苦しい”


 誰かの声が聞こえたような気がする。

 それとも、私自身のつぶやきだろうか。


 ************


「あーーー! もうヤメヤメ!

 なんで私がこんなことやらなくちゃいけないのよ!」

 ホコリまみれの資料をぶちまけながら、

 私はとうとう爆発してしまった。


 もう我慢できない。

 とりあえず、何か口にしないと。


 私は呆然としながら歩き出す。

 足は自然と、元の部署に向かっていた。

 元の席で、高橋君の隣で、

 飲み物とお菓子でも食べ、休憩するのだ。


 部屋の入り口に立つと、みんなの話し声が聞こえた。

 高橋君の周りにはたくさんの人が集まっている。

 何かあったのかな?


「とうとうきいてもらえたな。良かったなあ。

 重要書類を汚されるなんて、とんでもない災難だったが」

「席を変えてくれって、

 何度直訴してもダメでしたからねえ」

 え? 席を? 何度も直訴?

 ……もしかして、高橋君が?


 化粧の濃い女の後輩が、いつもの耳障りな声で笑いながら言う。

「いつ見ても飲み食いしてるし

 咀嚼音の不快さといったら発狂レベルでしたよ」

 うんうん、とうなずく全員。


「何回も、休憩時以外の飲食は控えることって回覧回ったのにねえ」

「熱中症予防に、飲み物を取ることは推奨されているから

 会社としては注意しづらいものがあったようですが」

「あれは限度を超えていましたね」

 高橋君が困惑したような声で同意する。

 私はショックで硬直してしまう。


 すると課長がため息まじりにとんでもないことを言ったのだ。

「総務の人に聞いたんだけど、彼女、

 書類の提出を忘れた挙句、苦情を無視して、

 あの部の土産物を勝手に持っていったんだって。

 ”銘菓だ! やったー!”って叫んで」


 全員がドン引きした様子で、口々に私の悪口を言い出す。

 ちょっと異常よね、だの、意地汚い、だの。


 ちょっと待ってよ、嘘つかないで。

 あれは祥子が持っていって良いっていったから!


 さすがに抗議しようと足を踏み出しかけた、その時。

「……本当になんか、おかしいんですよ。

 課長、総務にまだ制服の人なんていました?」

「はあ? いるわけないじゃん。

 あそこはみんなオシャレだもん」


「ですよね……”祥子”って名前の人もいないですよねえ」

「いないいない。絵里奈ちゃんや陽菜ちゃんだよ」

 高橋君と課長の会話に、私は完全に固まってしまう。


 何を 言っているの?


 部長が首の汗を拭きながら、苦々しい顔で言う。

「あー、俺がまだ新人の頃にいたなあ。祥子って人。

 もうとにかくオシャベリで、相手構わず話しかけてた。

 ”ちょっと聞いてよー”ってさ、捕まると長いんだ」

「あ、じゃあその人が別の部署に……」


 高橋君の言葉を遮るように、部長が言った。

「とっくにいないよ。死んじまったんだ。

 しかも、会社でね。

 オシャベリが多いと注意され、解雇を言い渡されてさ。

 当てつけみたいに、女子トイレで首を吊ったんだよ」


 女の後輩がゾッとした顔で言う。

「え、サイアク。どこのトイレですか?」

「ははは、大丈夫だ。そのトイレは潰したんだよ。

 だから4階にはトイレがないんだ」


 女の後輩はなおも涙声で、しかも高橋君にすがるように言う。

「えー、でも怖あい」

「こんなんで怖がってたらうちの会社では働けないよ」

 部長が変ににこやかな調子で言う。

「このフロアだってさ、心臓発作で死んじゃった人がいるからねえ」


 えええーとざわつく社員に、部長は苦笑いで言う。

「確か経理の課長で……とても社内ルールに厳しい人だったなあ。

 みんなにいつも(くち)うるさく言ってたよ」

「もうヤダあ、社内を歩くのコワイ~」


 甘えた声で叫ぶ女の後輩を、みんながまあまあ、となだめている。

 先輩の一人が高橋君に言った。


「ともかくまあ、良かったじゃないか」

 彼は大きくうなずく。


 その姿が、何よりもショックだった。

 高橋君はずっと、私が迷惑だったのか。

 みんな、私がここから出て行くことを望んでいたのか。


 行き場のない私が、フラフラと資料室へと向かった。


 部屋に入る前、またオッサンが立っていることに気付いた。

 彼は私をみて、静かな声で言う。

「この部屋では、絶対に飲食してはいけないんだ」


 他の部署にまで、私の話が伝わっているのか!

 そう思った私はカッとなって答える。

「分かってますよ! 重要書類もあるのに

 飲み食いするわけないでしょう!」


 重要書類にお菓子をぶちまけたことが頭によぎったが

 私は勢いよく扉を開け、資料室に入る。


 もう私に居場所なんてないのだ。

 この資料室だって、ずっといられるわけじゃない。

 それ以上に、こんな場所には居たくない!


 さっきぶちまけた書類をかき集める。

 たくさん動いたから、息が苦しい。


 視界が涙で歪んできた。

 私、何をやってるんだろう。


 私のほおに涙があふれた。

 ポロポロとこぼれる涙。


 すると。


 ガサガサの何かが、私のほおにふれた。

 ギョッとして真横を見ると。


 ボサボサの長髪に、シワだらけの顔が見えた。

 その真っ暗な眼孔で、私の顔を覗き込み。

 彼女は私に言った。


 モット、水ヲ。


 声にならない悲鳴をあげ、私は出口を目指して進もうとするが。


 ドアの前には、さっきのオッサンがいた。

 その姿をよく見れば顔が妙にどす黒く、目が白く濁っている。


 ”ダカラ水分ハ禁止ダト言ッタロウ”

 そう言うオッサンの口が、まったく動いていないことに気が付く。


 ”チョット 聞イテヨー、三人メノ被害者ガ出ルミタイヨー”

 上を見ると、壁に祥子の、青白い顔が浮かんでいる。

 首からダラリと下がっているのは……タイじゃなくて、縄だった。


 私の涙は止まった。

 でも、汗は止まらない。

 ダラダラ……ダラダラ……と。

 暑さで体が燃えるようだった。


 オッサンや祥子、そして彼女からの強い悪意を感じ、

 私は動けなくなる。


 女は私の顔を、ざらざらの舌で舐めまくる。

 私の体の水分が、女に吸い込まれていくのが分かる。


 代わりに干からびていくことも。

 それでも私は動けない。


 朦朧とする意識の中、自分の(しな)びた腕が見えた。

 代わりに目の前に、しわくちゃの顔で嗤う女が、

 真っ黒な口を大きく開くのが見えた。


 吸いつくされる。体中の水分を、全て。

 ここには、居たくない……

 あの部に、戻りたい……


 ************


「熱中症かなあ? 資料室で死んでたなんて」

「脱水症状だったって。怖いわね」

「でも、冷房はガンガンにかかってたんでしょ?」

「それにあんなに水分も取っていたからね。

 警察も疑問視していたそうだよ」

「でもまあ、健康診断でいろいろ引っかかっていたみたいだから。

 あれだけ太ってりゃなあ」


 僕はみんなの話を、複雑な心中で聞いていた。

 誰ひとり、彼女の死を悼む者はいなかった。


 僕が入社したころの彼女は、

 明るくて気さくで、本当に接しやすい人だった。


 でも時間が経つうちに、彼女のそれはまやかしだと気付いた。

 仕事にはそれほど本気になれず、努力をするつもりもない。

 かといって評価されないのは悔しい。

 居場所の無さを、その不安を、持て余しているように見えた。


 彼女はずっと飲み食いしていた。

 まるで不安感や焦燥感を満たすように。

 そうしていないと、枯渇してしまうかのように。


 何かのきっかけで変わることがあれば、そう願っていたけど。

 こんな残念な結果になってしまうなんて。


「当然、資料室は封鎖されたんだよな?」

「ええ、あそこのものはみんな、該当部署に分散されるみたいよ」

 僕はぼんやりと、運ばれてきた資料をみつめる。

 それはまだ置き場所が定まらず、

 乱雑に、フロアの片隅に積まれていた。


「でもさあ、また死人とはなあ」

「お、いっそこの会社をお化け屋敷にするのはどうか?

 ”リアル体験 戦慄の残業時間”」

 ドッと笑う人々。


 笑うことかよ。

 ここの人間はちょっと、どうかしてるな。


 僕はファイルを片そうと、そで机の引き出しを開けた。

 左側の、元・彼女が座っていた席が視界に入る。


 ここに居たかったろうな。

 異動の話は断固、断っていたそうだし。


 部署が変わってからも、何度もここに来ていた彼女。

 忘れ物を取りに来た、とかなんとか理由をつけて。


 ふと、一つの考えがわく。

 水分を欲して死んだ者が、水分を奪う幽霊になったとしたら。


 もし彼女が、居場所を欲していたなら。

 それを失い、ひどく嘆きながら、亡くなったとしたら。


「うわあ! なんだこりゃ!」

 さっきまで笑っていた先輩の叫び声が聞こえた。

 見に行ってみると、彼の机の上には

 油にまみれたようなゴミが散乱していたのだ。


 まるで上から落として、ぶちまけたかのように。


 大騒ぎする彼らを見ながら、僕はぼんやりと考える。


 会社には、いや人の集まる”社会”には

 次から次へと”悪意”や”無念”が生まれ、残されていく。


 ”因果”は、時間と共に増え続ける。

 そして”禁忌”も、犯してはならないルールもどんどん増えていく。

 僕らの生活は怪異に飲み込まれていくのだ。


 そうしていつか、知らず知らずのうちに、

 何かしらの”禁忌”を破ってしまうのかもしれない。





 たとえば。

 こんな時間にパソコンで。


 ”実際に起こった怪異の話を読んではいけない”


 とか、ね。




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― 新着の感想 ―
一気に読んだ キャラクターの感じとか嫌な感じが伝わってきてよかった
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