王太子の突然の求婚(前編)
王家の墓所は、今日も静寂に包まれていた。
子爵令嬢のエリゼ・グリムハイトは、手慣れた手つきで墓石を磨き、花を供える。代々王家の墓守を受け継ぐグリムハイト子爵家で、今代の墓守に任命された彼女は、今日も英霊たちのために墓所を美しく整える。
陽が高く昇り、そろそろ昼の鐘が鳴る頃だろうか。墓所に吹く風が涼しく、鳥のさえずりだけが響くこの場所は、彼女にとって心落ち着く空間だった。
だが――
「俺と結婚しろ」
その平穏は、王太子レオンハルト・フォン・アスカリアの突然の言葉によって、唐突に破られた。
「……は?」
エリゼは手を止め、目の前に立つ男を見上げた。
身の丈が高く、美しい顔。王族らしい気品を備えた青年。金の髪と鋭い青の瞳は、まさしく王太子の証。
しかし、その口から飛び出した言葉は、あまりにも不可解だった。
「もう一度言う。俺と結婚しろ」
彼は真剣な顔で繰り返した。
エリゼは目を瞬かせる。
「……どこからそのような話が?」
「…………」
墓所に響く風の音が、やけに大きく感じられる。
なるほど。
また、英霊たちの余計な世話か。
「殿下」
「何だ?」
「……この墓所には、王国の歴史に名を刻む英霊様たちが眠っています」
「そうだな」
「彼らは時として、王族に夢を通じて国の未来に関わる助言を与えると言われています。」
「……っ!」
レオンハルトの肩が僅かに強張る。
やはり、か。
「そ、それは……」
「彼らは偉大なる王であり、英雄たちですが、時折とんでもなく身勝手なことを言うのをご存じでしょうか?」
「……まあ、薄々気づいてはいる」
レオンハルトは僅かに目をそらした。
どうやら彼自身も、英霊たちに振り回されているらしい。
エリゼは静かにため息をつく。
「それで、彼らに『エリゼ・グリムハイトを娶れ』とでも言われたのですね?」
「……その通りだ」
王太子の表情には若干の疲労が見える。
おそらく彼は、英霊たちの圧力に屈したのだろう。
エリゼは淡々とした声で言った。
「お断りします」
レオンハルトの瞳が揺れる。
「……なぜだ?」
「必要がありません」
「必要がない……?」
「私は墓守です。生涯、この役目を果たすことが使命です」
「それは分かっている」
「ならば、結婚など無用でしょう」
「だが、英霊たちが娶れと言っている」
「……英霊様たちは時々、王家に無茶な要求をするものです」
「……まあ、それは否定しない」
彼女の冷静な返答に、レオンハルトは微妙な顔をした。
「しかし、墓守を絶やさないためにも、後継者が必要だろう?」
「墓守の後継は、血縁に限らず、志ある者を養子にして受け継がせることができます」
「……それは本当か?」
「ええ。つまり、結婚しなくても問題はありません」
「…………」
レオンハルトの表情が僅かに歪む。
「だが、英霊たちは『お前を娶れ』と……」
「英霊様たちは、できれば養子ではなく、墓守の血筋が続くことを望んでいるのでしょう」
「だからこそ、お前が結婚すれば――」
「殿下」
エリゼはふっとため息をつき、冷静なまなざしを向けた。
「……もしかして、殿下は英霊様たちに言われたことをそのまま鵜呑みにして、ご自身の考えは何もないままに私に求婚されているのですか?」
「……っ!」
レオンハルトの肩が僅かに強張る。
図星のようだった。
「そ、それは……」
「ご安心ください。墓守の後継は問題ありませんので、殿下がわざわざ結婚する必要はありません」
「いや、だが……」
レオンハルトは何か言いかけたが、エリゼの冷静すぎる態度に、明らかに動揺していた。
(……おかしい)
王太子の求婚を受けた令嬢が、ここまで淡々と断るものだろうか?
普通なら、戸惑いながらも光栄に思い、動揺するはずだ。
だが、エリゼは何の感情もなく、ただ「必要ない」と切り捨てた。
「……本当に、何も感じないのか?」
「何のことでしょう?」
「俺が王太子だということを考えても」
「それが何か?」
即答だった。
(……こんなに興味を持たれないものか?)
レオンハルトは若干の困惑を覚える。
(王太子である俺が求婚しているんだぞ?)
少しくらい嬉しそうにしてもよさそうなのに。
なのに彼女は「不要」の一点張り。
レオンハルトは、エリゼに対する新たな疑問を抱き始めていた。
――なぜだ?
この女は、一体何なんだ?
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本日もう1話投稿します。
次話『王太子の突然の求婚(後編)』