第6話 平和からの転落
赤レンガのバロック様式で建てられた立ち並ぶ家の前で商売をしていたのは、まだスパイになる前のヨクドリア・シリオット家族だった。
「いらっしゃいませ。安いよ、安いよ。ほら、そこの奥さん。リンゴはどう? 風邪予防にもなるって母ちゃんが言ってたよ」
「もう、ヨクドリアは商売上手ね。わかったわ。そのかご1つ分くださいな」
「毎度! さすが、家族想いだね! 子どもたちが喜ぶよ」
ヨクドリア・シリオットは、若干17歳にして、店番の仕事を任されていた。店主である父親のヨナタン・シリオットは商品の買い出しに出歩いていた。海沿いの市場で安く仕入れるためだ。その間の店番は母親のマヌエーラ・シリオットと2人だった。果物や野菜、家畜の豚肉、鶏肉、卵など生活必須品を屋台で売っている。この辺では大きめのお店だった。まだ発展途上の国。ギュビナゴン帝国の人数は5000人ほどしかいない小さな国だった。たくさんの商品を売るのはシリオットマーケットくらいしかなかった。貧困の人にも行き届くよう、なるべく安く提供するため、スタッフは雇わず、家族で切り盛りしている。家族は、父、母、ヨクドリアの他に妹のアニェーゼも一緒になって働いていた。そんな平和な中にたくさんの兵士たちが白い馬に乗って、お城に向かおうとホコリを巻き上げてやってきた。みんな、何事かとじろじろと野次馬が集まる。
「母さん、今から一体何が始まるんだろうね」
「大体予想がつきそうだけど、きっと戦争だ。無駄な戦いをして、お国の一番を決めるんだろ。兄弟喧嘩の方がかわいいもんだけど。人を巻き込むなって思うよなぁ」
兵士を乗せた馬の目が怖かった。戦争になれている様子だ。ヨクドリアはホコリの舞い上がることで商品が傷むことを恐れて、混みあう通路に両手を広げて立ちはばかった。
「ヨクドリア、やめなさい! ……余計なことを」
「母さん、黙って見てて!!」
(もし集まった兵士たちが敵だったら殺されかねないのに何をやってるんだか)
ヨクドリアは目の前のことしか見えていない。
「たのもーーー!」
馬がひひーんと鳴くと兵士が手綱を引いた。他の馬たちも驚いている。
「な、何事か!」
「大変ご迷惑をおかけしますが、こちらで商売しております! もし可能ならば、暴れないようにお馬さんに指導していただけないか!」
「おう、それはそれは大変失敬した。こんな風にか!!」
ヨクドリアの声を聞いた1人の兵士が馬の手綱を引っ張りながら、上半身を浮かせて、馬の後ろ脚でお店の棚を蹴飛ばした。嫌がらせが始まったのだ。
「な、なんてことを」
「これは申し訳なかった。こんな風にすればいいのだな」
隣にいたもう1人の兵士も馬の後ろ脚で、ガンガン蹴飛ばしてくる。さっきよりもホコリが大きく舞い上がり、視界が見えなくなった。棚に並べていた果物はすべて転がり、馬の脚で踏まれて、使い物にならなくなった。馬は鳴く。ホコリはさっきよりも立ち上る。兵士たちの嘲笑う声は響き、ヨクドリアファミリーは絶望を味わうことになった。
「絶対ゆるさねぇ」
ヨクドリアはこぶしをぎゅっとにぎり、尖った爪で手のひらの皮膚から出血していた。母親のマヌエーラと妹のアニェーゼは黙って、棚から転げ落ちた果物りんごや洋ナシを静かに拾い上げた。その姿がヨクドリアにとって屈辱でしかなかった。買い出しから戻ってきた父親のヨナタンも怒りを見せないことにさらに怒るヨクドリアだ。
「父さん、なんで怒らないんだ」
「怒る場面がどこにある。商品はまた買い直せばいいだろ。ヨクドリアは無事だったか。ほら、服が砂埃で汚れているぞ」
ヨナタンは、パンパンとヨクドリアの服の汚れを取った。いい年して、親に服のお世話をするなんてと思ったが、黙っていた。
「嫌だと思うことも静かにやり過ごさないといけないときもあるんだよ、ヨクドリア。肝に銘じるんだ」
「…………」
納得ができないヨクドリアだった。わなわなと握りこぶしが震えている。若さゆえか、力の温存なのかわからない。血の気がのぼっているのかもしれない。理不尽にこんな屈辱を味わったのは初めてだった。ヨクドリアはある決意をする。
「俺は、絶対この国のためなんか動くものか。絶対裏切ってやる」
「止めはしないよ。そう思うのは個人の自由だが、人様に迷惑をかけるようなことだけはするな」
父親はそう言って、黙々と散らかった店の棚を整え始めた。ヨクドリアはまだ怒りが消えていない。




