日常の終わり
───ねぇ、私明日死んじゃうんだってさ
射干玉のような綺麗な色をした、セミロングよりも少し長いくらいの髪を風になびかせながら、脈絡もなく、そんな冗談のような言葉が、幼馴染である海月の口から零れる
俺と海月は自分の机に緩く腰かけて、放課後のひと時を雑談に興じていた、まるで新品かのように綺麗な黒板、きちんと整列されている机達、これでもかというくらい、白い粉によって汚れている年季の入った緑色のクリーナー、窓の外を見ながら微笑み、対面に腰掛ける海月…毎日毎日目にして、そして見慣れた光景
いつも通りだった、いつものように二人で他愛のない雑談をし、時には俺が馬鹿なことをやったりして、それを海月が優しく窘めて、仕方ないなもうって微笑む、さっきまではそんなありふれた日常が、ずっと続いて行くんだと、学生特有のなんの根拠もない、しかし不確かな自信と確信を持って、俺の、俺達のこれからを明るく照らしていた…はずだった
「死ぬ」普通の生活を送っていればあまり聞くことのない言葉、ニュースなどの芸能人の訃報に驚くことはあれど、身近な人がそうなってしまうとは考えない……否、考えたくは無いのだろう
ましてや、俺達はまだまだ若い、花の10代である、そんな歳若い彼女の口から零れ落ちた「死ぬ」という言葉……それを言い放った本人が、あまりに、あまりにも自然体であったことから、遅まきながら、俺はそれを彼女の冗談だと確信した
「なんの冗談だ?お前みたいな図太いやつが死ぬわけないだろ」
「……」
俺達の周りを静寂が包む、グラウンドから聞こえてくる野球部のやかましい声と、その先の道路から聞こえてくるバイクの走行音が、心做しかいつもより大きく聞こえてくる
「……お、おい?」
「……もし、冗談だったなら、どれだけ、よかったんだろうね……」
俺は慌てて海月の顔を見る
そこには、長く彼女と同じ時間を共に過ごした俺でさえ見たことの無い、痛みに耐えるかのような、それでいて、どこか諦めている表情をしている彼女がいた
その様子が、彼女の言ったことが冗談でもなんでもない、真実であることを表していた
俺は馬鹿だ、大馬鹿だ、何がいつも通りだ、海月のこんな表情、見たことが、ない
そして、同時に理解した……理解してしまった、今日彼女は死んでしまうのだと、明日にはもう、彼女と、笑い合えないことを
「死ぬって……そんな……急に……」
俺の口からそんな未練たらしい言葉が零れる
頭では理解しているのに、心が理解を拒んでいる、数秒後には冗談だよと海月が笑いとばしてくれることを、心のどこかで期待している
……そんな都合のいいことなんて、あるわけないのに
「実はね、急に、じゃないんだ」
「……どういう、ことだ?」
「少なくとも、3ヶ月前から、明日死ぬことは分かってた」
どうして、考えるよりも先に口から出てしまった、どうして死んでしまうのかと、どうして教えてくれなかったのかと、どっちの意味で零れ落ちたのかは、今の俺には分からなかった
「どうして……か……そうだね」
海月は少しだけ考えるような素振りをした後、何かを慈しむような、そんな表情を浮かべ
「私はね…君との日常ってやつを、大事にしたかったんだよ」
「日常」この言葉を聞いた瞬間、自分の中でストンと落ちるものがあった
自分がいて、海月がいる、そんなありふれた、しかしかけがえのない日常を、壊したくはなかったのだろう、その気持ちは、俺にも痛いほどわかった
「本当はね、今日も言うつもり無かったんだ、いつも通り話して、いつも通り遊んで、いつも通りにばいばいってして、明日には…消えるつもりだった」
「っ!?」
もし…海月が、何も言わずに消えてしまったら俺はどうなっていたであろう、想像もつかないし、考えたくもない
「だけど……ダメだった、明日には、もう私はこの世界にいなくて、君は他の子と楽しそうに笑ってるのかもしれないだなんて考えたら、辛くて、悲しくて……」
そして、言葉にするのを躊躇するかのように、一瞬だけ海月の視線が空を泳ぐが、意を決した様な表情で
「君の、心の中に残りたくて……」
だから、と海月は一呼吸置き、俺の目を愛しげに、それでいて寂しげに見つめながら
「最後にひとつ、私たちだけの特別を…作りませんか?」
右の手のひらを差し出して、海月は俺の返事を待っている、断られたらどうしようと言った不安感が彼女の方から伝わってくる
それに対する返事は、最初から決まっていた、俺の心の中はさっきからまるで子供の玩具箱のようにごちゃごちゃで、とても整理なんて着いてなどいないし、正常な判断など出来そうもないけど
それでも、彼女の最後のお願いを、いつもの俺であったとしても拒むわけがないから、彼女の最期の刻を、出来る限り彩ってあげたいから
これが最後だと考えると、なんだか涙が出てきてしまいそうになるけれど
俺は、目に思いっきり力を入れて涙を無理やり抑えたあと、自分に出来る限りの精一杯の笑顔を浮かべて
「……もちろんだ!」