王妃陛下の事情
「ごめんなさいね、でもあなたが悪いのよ? 隣国に嫁ぐだなんて」
リンドール王妃が住まう離宮の応接間で、ソファに座るソアラはうんざりした様に目を伏せた。
込み上げてくるイライラを飲み込もうとする。そうでなければ王妃を蔑むような視線で見つめかねない。
「申し訳ありません、王妃殿下。ですが、先に婚約を破棄し男爵令嬢との愛を宣誓したのは殿下ですわ」
声音に棘が混じるのは仕方ないというものだ。
誤魔化すように紅茶のカップを持ち上げれば、扇を広げた王妃が上品な笑い声をあげた。
「あの子は本気ではありませんわ。あなたを試したのですよ」
「……左様で」
「……許してあげて? 王妃となるのはあなたしかおりません」
なるほど、そういうことか。
喉元まで怒りと呆れが込み上げてくる。
サイファーが色々な女性に手を出してうつつを抜かすのを見逃せというのだ。さすがに異文化の後宮のようなものはないが、社交界には妻の他に恋人をもつことを黙認している風潮があったりする。
だがそれは、血筋のいい跡継ぎを得て、家同士のつながりを強化する『義務』のために、ままらなぬ愛する人と一緒に居たいという『心』のバランスをとるためのものだ。
由緒ある公爵令嬢と成り上がりの男爵令嬢では正妻、公爵令嬢、妾、男爵令嬢というところだろうか。
だが別に、男爵令嬢だからといって王妃になれないわけではない。
数多の艱難辛苦がありそうだが……やってやれないことではない。
クリスティンと……そして彼女を愛している(らしい)サイファー次第だ。
「申し訳ありませんが、王妃殿下。わたくしは正式にご子息から婚約破棄を言い渡されました。父も納得してすでに破談となっているはずですが」
姿勢を正してそういえば、かすかに王妃の口元が強張った。それでも慈悲深い笑みを崩さない。
「そのようなものはどうにでもなりますわ」
王族がその威光を翳せば、なるほど、どうにでもなるかもしれない。だが。
「わたくしはすでにアーヴァイン子爵と婚約関係にあります。子爵のご実家のスターゲイト公爵ノワール家ももう婚礼の準備を進めております。なにより」
王妃の口出しを制するようにソアラが声を荒らげ、びしりと背筋を伸ばした。
「ご子息がなんといいますか」
「レディ・ソアラ……」
王妃の声に懇願が混じる。紅茶を一口飲み、それからソアラは美しく、且つ上品に微笑んで見せた。
「わたくしはランジェルドからリンドールの繁栄をお祈りさせていただきます」
途端、すくっと王妃が立ち上がり、つかつかと靴音高くテーブルを回り込むとソアラの足元に頽れ、がしっと彼女の手を握り締めた。
「そう言わないで、ソアラ……! あなただけが頼りなのよ!? サイファーはあの通り、一ミリたりとも成長していないッ! 教師連中はおだてるだけおだてて正当な評価を本人に伝えない……! 首が飛ぶのが怖いのよ!」
「その飛びそうな首を元に戻せるのが王妃殿下ではありませんか」
すまして告げれば、うぐ、と王妃陛下から漏れるとは思えない音が漏れる。
「大丈夫ですわ、王妃陛下。首を元に戻すと宣言すれば、きっと教師連中はサイファー王子を一から鍛え直してくださいますわ」
にこにこ笑って告げ、席を立とうとする。だが、縋るように王妃の細指に力が籠もった。
それこそ、ソアラの掌に食い込むように。
「それであの馬鹿息子が改心すると思う!?」
とうとう本音が出た。
くわっと見開かれた王妃の眼は赤く血走っている。
十三歳までサイファーは王宮にて家庭教師から学んでいた。その際、一人ならばマンツーマン指導でサイファーにあったペースでの学習が可能だっただろう。
だが王太子と自分の子供を仲良くさせたい貴族も存在し、彼らは『ご学友』として自分たちの長子を送り込んだ。
結果は推して知るべし。
加えてサイファー自身にも問題があった。
わからないことをわかるまで探求する精神に欠け、知識でも武術でも魔法でも、負けるとすぐ暴れるのだ。
それはもう、手が付けられないほどに。
これは甘やかされて育ったとかそういうレベルではなく、彼自身の性質なのだろう。大昔に彼のご先祖の中に戦闘狂のような人物がいたというし。
ただ彼を『叱る』存在がいなかった環境を作り出したのは……他でもない王室の面々の所為だろう。
(それでも賢王が生まれることもあるわけだし……)
必死にこちらを見上げる王妃に、ソアラはこほん、と咳払いをした。
それからにっこりと笑顔を見せる。
「今ならまだ、あの調子こいてる王子を導くことは可能ですわ。ただ身内でもなんでもない彼を教育する役目はわたくしにはありません」
すぱっと申し上げる。
「……あなただけが頼りなのです、レディ・ソアラ」
「彼にはちゃんと婚約者がおりますでしょう? レディ・クリスティンが」
「あの娘がこの国を憂える精神の持ち主だと思うの!?」
知らんがな。
「王妃陛下。現時点で国王となるのはサイファー王子です。王妃はクリスティン。二人はまだ若く、人生をやり直せます。彼らの周囲に優秀な人材を集めて傀儡政治を行うもよし、優秀な家庭教師を用意し鬼合宿を行うもよし、王妃陛下が頑張って二人目を身ごもってもよし……とにかく、まだできることはございます」
そっと王妃の手に自らの手を添えて、ゆっくりと外すとソアラは優雅に立ち上がった。
「それにわたくしを巻き込まないでください。わたくしはアーヴァイン子爵夫人になる身ですので」
非の打ちどころのない最敬礼をし、ソアラはくるりと踵を返すときびきびと部屋を出ていく。
床に座り込んだままの王妃がぽつりとつぶやくのが聞こえた。
「第二子……なるほど……」
おっと、そちらを選んだか。