砂漠の夜②
「……レディ・クリスティンね」
頭痛がする。
額に手を当てて目を伏せるソアラに、ジェイドが乾いた声で続けた。
「恐らく、愛のためとはいえ、王太子を奪ったレディ・クリスティンのままだと評判が悪いと思ったんだろう。それならば君が死んだことにして、その犯人を上げる、もしくは君の生還を手助けしたヒロインという肩書があった方がいいと考えたんだろう」
「……なんてことを……」
全身から力が抜ける。
王太子妃への道が開け、有頂天になっているご令嬢の考えそうなことだ。
「でも、そんな噂、お父様が否定すれば終わりになるじゃない」
苦々しく告げてソアラは皿から一つ、蜂蜜パンを取り上げた。いい香りがするし、ちょうど小腹も空いてきたしやっぱり誘惑には勝てなかった。
二つに千切れば、綿を割いたように絡み合った生地が解け、黄金色の断面が現れる。緩む口元を抑えられずにいるソアラを横目に、ジェイドはさらりと告げた。
「噂を否定していいのかな?」
そりゃあ……まあ。
「確かに? 私が生きてることを自分で証明してもいいけど……」
再び学園に戻り、「わたくしは生きておりますわよ!」と高飛車な態度を取るのもありだろう。だが正直めんどくさい。何故あの頭花畑カップルの行き当たりばったり茶番のためにそこまでしなくてはいけないのか。
「しばらく連中とは距離を取りたいわ」
ふわっとした生地に至福を噛み締めるソアラに、「わかった」とジェイドは妙に勢いよくソファから立ち上がった。
「では、お義父上からは我々が結婚したことを学園内に宣言していただこう」
「はぁ!?」
思わずパンを手に振り返れば、いそいそとジェイドが部屋を出ていくところだった。
「ちょっと!? それは論理が飛躍してません!?」
「何故? 君は俺と結婚しないとこの屋敷を出られないんだし、リンドールの王都では不名誉な噂を流してソアラを利用しようとしている人間がいる。ならば真実を語って連中の口をふさぐのが手っ取り早いだろう」
にこにこ笑って垂れ幕の向こうに消える彼の、その理屈にソアラは眩暈がした。
(もしかして……最初からこのつもりだったんじゃ……!)
慌てて立ち上がり廊下を覗く。
「ジェイド! そんなことするくらいなら私が学園に戻って宣言を──」
「同じことだろう? 君が屋敷を出るには俺と結婚しないといけないんだからね」
渡り廊下の先でスキップしそうな勢いで歩くジェイドの、黒いポニーテールが嬉し気に弾んでいる。
ぎりぃっと奥歯を噛み締め、ソアラはその場に座り込んだ。
(あの野郎……ッ)
間違いない。
ソアラが死んだと嘘情報を流したのは、誰あろうこの男だ。
学園内には後輩がいると言っていた。ランジェルドからは隣国ということで大勢が留学していたし、その中の一人だろう。
彼らは学園内で「ソアラが死んだ」と大袈裟に吹聴してまわればいい。それを聞きつけたクリスティンは、ソアラから婚約者を奪った人間として何か、哀悼の意を表明しなければいけなくなる。
間違ってもソアラが死んでラッキー! と踊り狂ってはいけない。
(そうして……自分こそがソアラの仇を討ちますわ、などと演説をぶちかますのは子供にでもわかるくらい、明々白々の事実……)
ソアラの死を聞いた瞬間、彼女ならきっと声高に、震えながら、涙を浮かべてそう言っただろう。
──必ずや、レディ・ソアラの仇を討ちますわ!
などと。
(……そうなると私は黙ってなんかいられない)
ジェイドとの婚姻を了承して、彼の転移魔法で学園まで戻って「生きている」宣言をするか、父公爵に頼んで事実を発表してもらうか。
この「事実」が厄介なのだ。
発表原稿その一 娘、ソアラ・クラインは隣国の公爵令息で子爵のジェイド・ノワールに拉致されました。
発表原稿その二 娘、ソアラ・クラインは隣国の公爵令息で子爵のジェイド・ノワールと結婚しました。
(前者を選ぶほど、父は耄碌してないわ……)
隣国の子爵に娘を拉致された、なんて下手したら外交問題になる。
(それにお父様は、王太子から婚約破棄を申し渡された私に良い縁談は来ないだろうと落ち込んでいたし……)
正直、サイファーが「とんだ勘違い野郎」になるなんて思っていなかったようで、あれのお守りで一生を終えるのかと、娘の幸せを願う気持ちと板挟みになっていたようである。
(王太子を傀儡にして、上手く操って自分の利益が出るようにしようと思うほど、私に権力欲はないしね)
一家の主程度なら掌で転がすのも悪くはないが、国の長ともなると……やることも敵も多すぎて嫌になる。
それにあの王子だ。「俺つえぇぇぇぇ」で天狗になってる輩だ。
絶対人の話なんか聞かないだろう。特に女の話。
(そうなると、お父様はむしろ学園で今でも人気を誇り、隣国の権力者の息子であり、学園始まって以来の最高の魔術師で、立派な人物との結婚を推すに決まってる)
しかもジェイドはソアラを熱烈に愛してるというのだ。
(はめられた……ッ)
こうなると、ソアラにはもうジェイドとの婚姻を蹴る、という選択肢は消えたも同然だ。
はあっと深い溜息を吐けば、全身から力が抜けた。
(別に嫌いだとか嫌だというわけじゃない……)
見目麗しい男性から求婚されるなんて、それこそ社交界の誰もが夢見ることだろう。
だが……。
幼い頃から婚約者を決められ、それ以外の男性に目移りすることを禁止されてきたソアラは……色恋に憧れがある。
一目見て自分の運命の相手だと電撃が走る……とか。好きすぎて辛い、とか。遠くから眺めるだけでは満足できず、勇気を振り絞って話しかける、とか。
なんかこー……ときめきが欲しい。
(……ときめき……)
手っ取り早くジェイド・ノワールにときめく部分を探してみる。
そうして三十分ほどその場にしゃがみ続け──……。
結果、得られたのはくしゃみ一つのみであった。