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カーディスの焦りと塞ぎ込む一人の女神


 ウルティマ帝国大司教専用執務室は滅多に人の出入りがない。人の出入りが少ないわりには無駄に広い部屋で、一人の男が机の上に両手を組んで座っていた。薄暗い部屋には彼しかいないようであったが、その男はいきなり片方の手で握りこぶしを作ると、それを力いっぱい机に振り下げた。広い部屋に彼の苛立ちを表した鈍い音が響き渡る。


「信じられん! アルテミスが降りたとは!」


 彼の苛立ちの原因は、先ほど報告された聖国にいる女神の名前を聞いてからだった。


「管理者を降ろすとはハーデスが許可するとは思えない。クラウスの一件があったはずだ、どういうことだ?」


 一人しかいないと思われる部屋の中でカーディスの言葉が反響している。しかしよく聞くと、その音がカーディスの後ろの方で吸収される場所があった。その場所は彼の左斜め後ろにあり、よく見ればそこに黒い靄が渦巻いている。そう、彼は一人ではなかったのだ。


―――ベルンが敵う相手ではないでしょうね


 そう言うと黒い渦は少しずつ人の形になっていく。そして黒い影がゆっくりとその姿を現した。


「聞いていたか? エルゼン」


―――はい、カーディス様


「どう動くべきか対策を立てねば」


 エルゼンはカーディスの後ろに控えたまま発言した。


―――ネメシスのように同じ道を辿らせるのが宜しいかと


「はは、あの小娘とは格が違いすぎる。アルテミスは私が生まれる前から存在している。女神一人相手にするのとはわけが違う」


―――それでしたらネメシスをぶつけるのはいかがでしょう? 同士討ちをさせるのです


「……たしかに、あれにはアルテミスも動揺するはずだが……確実ではないだろう」


―――それでしたらベルンに授けた超魔法でも駄目でしょうか?


「むしろその方が期待できる。今のアルテミスは人の皮を被っている、滅びるかもしれん」


―――しかしベルンは自爆魔法を使うでしょうか?


「敵わないとわかれば使うはずだ。…………エルゼン、そこに奴を倒す手がかりがあるような気がする」


 カーディスは眉間にしわを寄せながら黙考している。


―――カーディス様、クラウスと同じように魂を破壊できれば勝算は十分にあります


「あの時はまぐれであったが、それを確実に行使できる魔法を構築せねばなるまい」


―――はい、女神の魂を凍結させる魔法が必要でしょう


「時間が必要だな、奴がここにくるまでにはさらにロベリアを進化させなければ」


 カーディスは再び机の上で両手を組んだ。


「エルゼン、パノティアを時間稼ぎに使え。あの国に目を向けさせるのだ。ギルティスには暴れてもらおう」


―――はい、それと聖国北東にいる軍はいかがいたしましょう?


「合図があるまで待機だ、わが魔法の実験として使う。時間稼ぎになるだろう」


―――はい


 薄暗い部屋で彼らの赤い目だけが爛々と燃えている。彼らの背後に見える帝国の景色は相変わらず森ばかりだ。夜になれば薄気味悪い景色を映し出す森の中にこの帝城は建っている。いつからそうなのか、帝城ガルマの空気はどんよりと重い。今日も城にかかる赤い月の光が森を照らすと、さらに不気味さを増した。



 一人の女神が塞ぎ込んでいた。女神界の美しい景色の中でそこにだけ悲しみが漂っている。女神サンドラはここ数百年笑っていなかった。彼女の笑顔を最後に見たのは遠い昔であったように思える。まだ経験が浅い女神ではあったが、彼女の心は厚い雲に覆われているかのように暗くて寒いところへと沈んでいた。


 今日も一人で小さな神殿の庭に置いてある椅子に腰かけ、遠くの景色をぼんやりと見ている。そんな彼女に同じくここで一緒に学んでいる女神が声をかけた。


「サンドラ、またここにいたの? シュネリス様がお呼びよ」


「シュネリス様が? わかりました」


 ここで学びを受けているサンドラの主は時を司る女神シュネリスである。


「サンドラ、シュネリス様も心配していらっしゃるのよ」


「……わかっているわ」


 そう返事をすると、すぐにサンドラはシュネリスがいる「時の神殿」に向かった。


 サンドラの主である女神シュネリスは特殊な女神である。彼女は時を司り未来を先読みする魔法を使う。その魔法はあまりにも特殊であったため、彼女のもとで学んでいる女神たちは誰一人として時間魔法を使える者がいなかった。そのことをアルテミスは理解した上で、あえて補佐する弟子たちを配置させている。その理由はシュネリス自身がその稀な魔法のせいで常に孤独がちであることから、それを良しとしなかったアルテミスは、経験浅い女神たちと関わることで共に成長していってくれることを望んでいたからだった。そのことからシュネリスは後輩を教育するという使命が与えられ、無関心でいた他の女神たちのことを少しは考えるようになった。今日、サンドラを呼び出したのもそのためである。

 

「サンドラ、来たの? 入って」


 扉の前で入室の了解を待っていたサンドラは、その言葉にシュネリスの私室に入った。

 シュネリスが変わった女神であるのは彼女の私室を見てもわかる。そこは彼女の私物がすべて部屋の中で宙に浮いていたのだ。いまもあらゆる物がごちゃ混ぜになりながら宙に浮いている。その物たちは普段は静止して浮いているのだが、サンドラが扉を開けたことにより空気の流れが起きて動いてしまうのだった。

 そのためサンドラは部屋に入って早々、コツンと扉付近に浮いていたカップが頭に当たってしまった。そのことに慣れている他の女神だったらすかさず避けるところであったが、心が塞ぎ込んでいるサンドラにそれを躱すような身軽さはなかったのである。頭に物が当たったサンドラもそれを見ていたシュネリスもそのことに無反応で異様な空間を作り出していた。


 宙に浮いたベッドに横たわっているシュネリスは、スーッと滑らせて移動させた椅子に「座って」と言ってサンドラを近くに誘導する。不思議なことにシュネリスが動かす物には空気の流れが発生せず、椅子以外すべて静止したままだった。


 サンドラは物を避けながらゆっくり静かに移動して椅子があるところまで進んだ、幸い空気の流れは起きなかった。


「シュネリス様、すみません。それでは失礼します」


 しかし、サンドラが浮いていない椅子に座ると、油断したのかその動作で空気の流れが発生してしまい、今度は本が頭に当たった。


「あ、すみません」


 サンドラはさすがに反応してシュネリスに謝罪した。


「いいのよ、そのぐらいでは本は傷つかないわ」


「はい」


 シュネリスは面倒そうに、もそもそとベッドから起き上がってサンドラを見た。女神シュネリスは真っ白な髪に真っ黒な目をしていた。その黒い目がサンドラをジッと見ている。


「あの、シュネリス様?」


「サンドラ、あなたが悲しんでいるのは他の者から聞いて知っていたわ。ただ私が見るにあなたの苦しみはこの先そう長くはないわ。あなたも知っているでしょう? アルテミス様が降りていることを」


「はい」


「アルテミス様があの子を放ってはおかないわ、大丈夫よ」


「しかし、彼女はもう……ここには……」


「ごめんなさい、私の先読みの魔法はアルテミス様には効かないのよ。アルテミス様が関わるご判断の先にある事象には私もはっきりとは読めないのよね。だけれどもアルテミス様がそれに対応されることだけはぼんやりとわかるの」


「……はい」


「そう落ち込むことはないわ、たしかにアルテミス様は罪に対して厳しいお方ですけれども、わたしは良い方向に行くと思いますよ。付き合いが長いので魔法を使わずともそれはわかります」


「……はい」


「だからあなたもそうメソメソしないで見守りなさいよ、わかりました?」


「はい…………ありがとうございます、シュネリス様。……少し元気がでました」


 シュネリスはサンドラの元気が出たという言葉に、このことは解決したのだと至極満足した。


「ならよかったわ、話はこれで終わりよ」


 そう言うと、弟子の教育は終わったとばかりに再び宙に浮いたベッドにゴロンと横になった。

 サンドラはお辞儀をして退出していく。彼女のその動作にまたもや空気の流れが出来てしまい、扉付近でシュネリスが脱ぎ散らかした服がバサリとサンドラの顔を覆ってしまった。


「す、すみません! 大事なお召し物を」


「いいのよ、そのぐらいで服は汚れたりはしないわ」


「はい」


 そう返事をすると、サンドラは今度こそ静かに部屋を出たのだった。


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