宮古島再訪記
宮古島再訪記
2014年
9月27日(土)
朝、野暮用で舞浜のディズニーシーに寄り道し、羽田空港にゆき、昼過ぎの便で那覇空港に飛び、そこで乗り換えのため30分間待機した。これが初めての沖縄本島滞在となる。そこで弁当としてはただ一つ残っていた幕の内弁当を買い、乗り換えの飛行機で宮古島に向かった。この飛行機では搭乗員は男女とも派手な柄のアロハシャツ。22年前の旅では行きも帰りも直行便であったが、今回は羽田発の直行便は取れず、那覇経由となった。帰路は直行便がようやく取れたが羽田着が22時25分と遅い。前回はゴールデンウイークで仲間三人で行ったが、今回は一人だ。(前回の滞在記: http://p.booklog.jp/book/75720/read)
さて、22年前初めて来たとき、飛行機は伊良部島上空を通って宮古空港に接近したが、今回は、白波を立てて幻大陸八重干瀬かと思える広大な浅瀬を見せてくれ、また前にはまだ建設中だった宮古島と来間島を結ぶ長い橋を見せてくれながら着陸体制に入った。大きく傾いた機体の窓から見るこの橋は美しい。海が美しいから橋も美しいのか。いやこの橋は橋だけで見ても美しいだろう。それは宮古島を発してまっすぐに延び途中で一度隆起して来間島に入る。この隆起はマストの高い船を通すためのものだろうが美的効果を奏している。いずれにしてもこの隆起と橋の長さ、そして恐らく四六時中強い風を受けるだろうことから、わたしはこの橋を自転車で乗り切るのは容易ではなかろうという危惧を抱いた。もろに逆風だったら渡れないだろう。そんなわけで、私はすでに来間島に自転車で渡ることにおじけを抱いた。
22年の年月を経て、宮古空港は場所を少し移動して新空港になっていた。かつてはおもてなしの象徴という花笠をかたどった赤い飾りの建物だったが、いまは少々ポリネシアの雰囲気を持ったモダーンな建築物になっている。島に飛来するサシバをイメージしているという。
宮古空港からすぐにタクシーでイーオンに行った。持参する予定だった折り畳み式自転車が数日前からチェインが外れやすくなっており、前日の朝、テストランをしてみるとチェインは外れるのではなく、噛んでまったく流動しなくなった。調べているとチェインの一か所でリンクが破損していることを発見し、廃車することにした。それで今まで模索していた宮古島内での移動方法の選択肢を再び考察した。
ひとつは現地でレンタサイクルする。これは数日間連続で返還なしで借りられるということがインターネットで調べてわかっていたので、最有力選択肢であった。自転車を輪行(折り畳んで袋に入れ電車や飛行機に乗せて移動)する苦労を考えると少々高いレンタル料も報われる。次の選択肢は、サイクリングはよしにして、定期便のバスで移動すること。これはバスに乗っているあいだはパノラマ観光もできるので楽だし、気に入ったところで臨機応変に下車できる利点がある。路線も少なくなく、橋のある島にも運んでくれる。しかしバス停が観光スポットの近くにはない場合が普通で(地元の人の通勤通学のためのものだから当たり前)、しかも便数が多くなく、バス停までの距離感を誤ると乗り遅れて同じ地域に数時間足止めを食らう。そして一番の問題はバスを降りてからはすべての荷物を自分の肩で背負って目的地まで歩かなくてはならないことだ。自転車ならカゴに分配することができる。次の選択肢は、目的地を2,3にしぼりタクシーで移動する。これは人数が3人もいればバスよりも経済的な場合もあり、時間的にも自由で正確に目的地に行けるし、運転手から有益な情報を得ることもできるのですばらしいが、私の性に合っていない。そういうことで最後まで、自転車を家から持っていくか、現地でレンタサイクルにするかで思案を重ねていたが、今ある自転車を廃車にすることになって、にわかに事情が変わった。新しい自転車を一台買わなければならなくなったのだ。そして当然の帰結として宮古島で自転車を買うという新たな選択肢が最有力となり、決定した。
そういうわけで、私は宮古空港からイーオンにタクシーで直行した。インターネットで調べて、サイクルショップがいくつもあることを知っていたが、イーオンには車種が多く自分の求めているものを見つけやすいだろうと思った。私は今回の旅のためにあらかじめ鉄製の取り付け簡単な折り畳み式前カゴと輪行袋を購入しており、これらが利用できる車種であることが重要であった。しかしイーオンに行って驚いたことに折り畳み式自転車は店頭にあった4台だけで、それも3台にはカゴがついていた。どれも予定したものより大型である。持参した輪行袋に収まるか不安であった。そこでカゴの付いていない黄色のものを買う方針で店員に、自分の輪行袋に収まるものかどうかテストさせてくれるよう頼むと許可が出たので、折り畳んで袋に入れると何とか入った。しかも持参した前カゴもセットできたので購入決定。この自転車にはシマノの6段ギアがついていたので、登り道の少なくない島々でのサイクリングにずいぶん重宝した。日没後の走行はしない予定だったので別売りのライトは買わなかったがこれは誤りだった。ヘルメットは、持参したプラスチック製のヤンキースの紺色のヘルメットをかむった。前回は赤いシンシナティ・レッヅのヘルメットだった。設計がよく強い風が吹いても飛ばされない。サイクリング専用のヘルメットを持ってはいるが、プラスチック製ヘルメットは空気穴をガムテープなどでふさげば、桶にもなるので水浴びに使える、ということでこちらを選んだ。
こうして私の宮古島での第2回ツアーが始まった。前回同様、まずマイパマビーチを目指した。日没までにマイパマに着いて、テントサイトを見つけることが計画だった。イーオンの店員は結構距離がありますよ、と心配そうだったが、日没よりもずいぶん前に着いた。途中道を誤り、与那覇ビーチに出た。でかい馬の像が立っていた。そこで今回の旅行の最初のシャッターを切った。ここでテントを張ることも考えたが、風が強く、吹きさらしなのでよして、道を引き返した。
(与那覇ビーチにて: 宮古諸島ではやたらとでかい動物や鳥の像が目立つ。撮影 長光一寛)
マイパマには5時半頃到着。さすがこちらの浜は整備が行き届いていてきれいだし、対岸が来間島で眺めもいい。が前来た時と様子が変わっていた。22年も経過していたので、様子が同じであるはずもない。シャワー施設を見つけたので、泳いでみようかとも思ったが、それより先にテントサイトを見つけてテントを設営せねばならない。そこで記憶をたどりながら、前回テントを張った東屋を探したが、ビーチの裏の林の茂みの中をくねくねとして延びる遊歩道を行っているうちに車道に至り、しばらくして広い道に至るT字路に出た。右を見るとそれは来間大橋に通じている。思わずそちらにハンドルを曲げ、進む。橋に入るともう止まらない。風も味方してくれているようだった。
思えば22年前、マイパマビーチで夕日が沈むのを泡盛を飲みながら仲間二人と眺めたとき、わたしはひとりビーチをさまよい歩き、やがて建設中の来間大橋に至り、魅せられるように橋に入り、薄暗いが手すりのあった作業用仮設通路を行けるところまで進んでいった。なぜそんなことをしたのか思い出せない。そして22年後、私はまたこの橋を行けるところまで行こうとしている。少なくともこれは予定していなかったことだ。風の向くままというか。むしろ引き返そうとすると風は私を押しとどめようとしたことだろう。シマノの6段ギアのおかげで橋の隆起も難なく乗り越えた。こうして私は一泊目を来間島にお世話になることとなった。
21年前には完成したこの橋は、来間島をそれほど非離島化していない。農業的には大きな恩恵を受けているようだが、その他の点では島は過疎のままだ。長間浜ビーチのある島の裏側は水道設備が整えられていない。だからシャワー設備はなく、水泳客を呼ぶ意欲が感じられない。ここはサンセットビーチであって夕陽を楽しむところ、と謳っても、その他の時間帯に来る人のほうが多いだろう。しかし考えてみると、宮古島のホテルから自動車で来る人たちにとっては、そしてそれがおおかたであろうが、ここでシャワーを浴びるより、十数分のドライヴで戻れるホテルでシャワーを浴びたほうが合理的なのかもしれない。そうすると、宮古側ホテルの宿泊客にとっては、来間島や池間島のビーチは、前浜ビーチに飽きたときに行く、ちょうど温泉街の外湯のようなものであろう。だからタオルを肩にかけて行って、十分くらいずつ二つ三つのビーチに浸かって帰ってくるのだ。いちいちシャワーを浴びてはいられない。
島全体にわたり、サトウキビ畑には、回転式撒水装置があるので、農業用には水道設備が整えられているようだった。ここではエネルギの自給自足を島のチャレンジ課題として取り組んでいる。そのため太陽発電や風力発電が活躍しているようであるが、ホテルなどもなく、むしろ電力自給自足の達成のために、電力を大量に消費するような施設の建設を極力抑えているのではなかろうかとも思われる。この島の観光的様子については、多くの訪問者が滞在記や写真、あるいは動画をインターネットに載せているので、省略する。来間島の人たちは、良いものをいくつも持っているが、それらを外来者によって低俗化されるのを嫌って、わざと宣伝・鼓舞しないようにしているかのようでもある。宮古島で見たいくつかの地図から航路さえ消えたあの大神島のように孤高なる離島精神を守ろうとしている。しかし離島という文字が、「離れ島」という意味と「島を離れる」という二つの意味を持っているように、離島精神はその内に葛藤を抱えた不運の精神である。だから伊良部・下地島も架橋によって孤高なる地位から今離れようとしている。
そういうことで、来間島には観光地としての受け入れ設備はめぼしいものがない。島をありのまま愛でる訪問者にとってはうれしいことだが。前回来た時には船で渡り、長間浜ビーチで泳いで、ほかに訪ねるところもないと思い、すぐに宮古島に戻ったことを思い出し、そのビーチに行ってみた。観光客らしき人たちが泳いでいたり、沈みゆく夕陽を眺めたりしている。私は日没までにテントサイトを見つけねばならないので、すぐに引き返した。来間大橋を渡っているときに目を付けた展望台が見えてきた。これは絵本に出てくる竜宮城をモデルにしている。ほかに良いところも見つからなかったので、そこをテントサイトにしようと急いだ。そこには島の唯一の小学校、中学校があった。そして統合反対という貼り紙があった。これらの学校を廃校にして、島の生徒をみな宮古島の学校に通わせようとすることに反対しているのだろう。島の伝統の存続のために島民は物理的融合が、精神的融合にまで発展しないように努力している。
近くに小さなレストランがあって、何台もの車が駐車していた。私は、那覇で買った幕の内弁当を宮古島行きの飛行機内でかなり遅い昼食として食し、これのせいかまだ空腹でなかった。しかも汗をかなりかいたので、水分補給のために、それまでにコーラとカルピスソーダのロング缶を交互に自動販売機で買って飲んでいた。コーラは普段はあまり飲まないが、飲むとしてもいつもカロリーゼロのものにしていた。しかし今はカロリーも補給する必要があり通常のものを選んだ。それでかえってカロリー過多になったのか、それとも久しぶりのサイクリングでの疲労によって、胃の運動を余儀なくする固形食品を摂ることへの体の拒否反応のせいか、食欲がわいてこない。そこで、コーラとカルピスソーダのロング缶を一本ずつ買って、テントに入れ、寝ていて空腹になったらこれを飲むことにした。
ちなみに、これは宮古島諸島にいればどこでもそうなのであるが、自動販売機には、暖が得られるからだろうか、必ずと言っていいほど小さなヤモリがすんでいる。ここで最初にこれを見た時にはびっくりした。
日没になったが、寝るには早すぎる。今回の旅では荷物を軽量化するため、クッキングセットはもとより、ガスランプも持参しなかったので、日没とともに寝、日の出とともに起きることとしていた。夜のテント内では、光源としては、日亜化学の友人からもらった小さなLEDランプと、携帯電話のアシストランプのみが頼りだ。後者は強力な光を放つがその分、携帯の充電池を速く消費し不具合だ。前者は小さくて軽量なのでいつも首にぶら下げておいた。LEDなので電池が長持ちし、光は弱いが、小さな一人用のテントの中ではそれだけで十分な明るさをもたらしてくれた。しばらくテントの中で横になって休んでいると疲れのせいか眠りに落ちた。しかし夜更けになってもアベックや観光客が展望台にやってきて、その声で目が覚める。
テントから出て竜宮展望台に登って夜景を見た。海の向こうはマイパマビーチだ。東急のホテルが赤々として不夜城を構えている。まだ明るい時にここに立つと、遠くに橋が見え、池間大橋だなと思った(あとで地図を見て、これは建設中の伊良部大橋であったことがわかる。しかし私の意識の中においても伊良部大橋はまだ存在していなかった)。海にはヨットも出ていて、闇の中を明かりが移動している。
ここで私はICレコーダーを用いて歌唱の練習をする。今回の旅では楽器を携行した。サイクリングツアーに携行する楽器選択のための条件は、まず軽量であること、自転車の振動により故障が起きるようなメカニカルなものでないこと、荒旅で万一破損しても諦めきれるものであること、が同時に気に入っているものであることだ。さらに今回は10月12日に参加を予定している江戸川区民まつりにて演奏する曲々に使う楽器であるということも条件だ。そうして選んだのは細めの竹製ケーナだ。これを演奏することと、歌うことが、今回の島旅においてかなりの時間を占めた。またこのケーナを用いて「コンドヨメバヤ」というボリビアの曲について、美しい裏歌を作ることができた。島々からインスピレイションをもらったと感謝している。この島々を巡る旅の間、私はこの旋律に憑かれたかのように頻繁にこれをハミングしていた。
歌いだすと近くにつがいの鳥の巣があるらしく、時折鳴き声を上げながら羽をはばたかせ飛び舞わって威嚇する。人間の鳴き声は耳障りというわけか。
昼間は遠くに見えた宮古島も、夜のとばりの中で、光のモニュメントとして見るとき、あまり遠くないところにあるように見えてくる。実際、ヨットなどからは、アンプのボリュームを上げて演奏をしているのだろう、その響きがかすかに聞こえてくる。それでヨットのマストの2点にある赤と青の光がこちらにゆっくり近づいてくると、私の歌声も彼らに聞こえたのではなかろうかとさえ思えてくる。それは何度か照明をこちらに投げかけることがあったからでもある。私はノルマとしていた6曲を2時間くらいかかってやっと納得できるくらいに歌えるようになり、再びテントに潜った。
テントの中で沖縄のFM放送を聞いた。島言葉と標準語とを交互に話してくれる場合が多い。島言葉は音として聞くと韓国語のイントネイションに近いことに気づいた。沖縄の人々は島言葉を日常化しようと努力しているようだ。今回、伊良部島で会った少年たちにしても、私の理解できない単語を使う。22年前に来たときに会った女子高校生たちは、すっかり標準語を使って、違和感がなかったが、今の沖縄の人たちは、島言葉を生活に取り戻そうとしている。ただ前回来たときには前浜ビーチをマイパマビーチと呼んでいたのに、今はマイハマビーチと呼んでいるようだ。これは本再訪記の初稿を宮古島のある情報サイトに投稿した時、「マイパマ」がすべて「マイハマ」に修正されて掲載されていたので気づいた。ひょっとしてディズニーランドとの混同を期待しているのだろうか。だとしたら、そいつはずるいや。
夢をほとんどみなかったようだ。
(来間大橋夕景 竜宮展望台から 長光一寛撮影)
9月28日(日)
早朝に起き、あたりを散歩した。近くの小さな神社に行くと、ヤドカリが何匹もうごいていた。海からこんな遠くまで上がってくるものなのか、と感心。遊歩道を下って、波止場まで降りた。釣り人がひとり。ケーナで数曲を吹いた。依然として空腹感がないので、またコーラとカルピスソーダでカロリーを補給した。日差しが強くなると展望台に戻って、こんどは一時間余り日陰でケーナの練習。そして自転車でまた長間浜に行った。いくつかの浜が岬で分断されているようだった。
テントをたたんで重たい荷物を背負って移動することが億劫になり、またここのテントサイトが気に入ったので、ここを数日間基地にして、宮古島を日帰り観光しようかと思った。
そこでテントに戻り必要なものだけをザックに詰め、島のまだいってないところをサイクリングし、そのまま橋を渡るつもりで出た。しかし来間島は私を島から出さない。まずとにかく食事をしようと食堂を探して進むが、サイクリストが入りやすそうなものはなく、そのうちにテントサイト近くの道に戻ってきてしまった。次にヤシガニ保護区というのがあったのでそちらの坂を上り進んだ。とくに保護区という様子はなかったが、掲示板により、保護されるのは子供と老いたヤシガニだけであることを知った。ずんずん農道を進むとまたしてもテントのある展望台に至る道に戻った。これはどうやら島の霊が私に荷物をたたんで島から去りなさい、というふうに私に示唆しているのだろうという気がしてきた。そこでしぶしぶテントをたたんで、重いザックを背負って展望台を後にした。
島から出る前に偶然見つけた小さな浜にて泳いだ。左右が断崖に囲まれ海側には大きな岩がこの浜を閉じているので自然のプールだ。岩の左右にやっと人ひとりが通れるくらいの隙間があり、ここを外からの荒波がどぶんどぶんと押し寄せてくる。だからそのそばにいるとスリルも味わえる。海中に大小の岩もあり少しでも潜れれば熱帯魚を見逃すことはない。私は近眼だけど、度付きのゴーグルを用いたので、深いところの魚もよく見えた。しかも日が照っていたので、色彩も認識できた。一度上がって休憩して、また潜ると黒くて大きな遊泳するものが突然視界に入りどきりとした。しかしこれは外海からくだんの隙間を通って入ってきたシュノーケルをつけたダイバーだった。20分くらい泳いで後ろ髪を引かれる思いでそこを去る。このひと時は、島を去ることを快く受け入れた私への来間島の最後のもてなしだったろう。近くには水道設備もあったので、プラスチック製ヘルメットを桶にして、身体を洗った。そして正午頃には再び来間大橋の上を走っていた。
(自然のプール 撮影 長光一寛)
宮古島に戻ると、もうマイパマビーチはパスして、橋の延長道路をそのまま突き進んだ。特にどこに行こうという気持ちもない。風の吹くまま島々がわたしを導いてくれるままに任せようという受動的ツアーモードだ。逆風を突いて進むくらいなら目的地を変えて風を追って進もうというわけだ。因縁のインギャーで一泊することも意中にあったが、昨夜テントの中で携行していたSurface(タッチパネル式モーバイルコンピュータ)により見たGoogle地図にインギャーは載っておらず、探すこともおっくうでこれもパスすることにした。正直なところインギャーでの夜に多少の不安もあった。そしてこの日のうちに伊良部島に渡りたいとも思った。大神島にいくことも考えたが、やはりひとりで行くことについて不安があった。前回は二人だったので、しかも相方に旅程を任せていたので、渡った。大神島ではかつて島を一周する道路を作ろうとしたが、不可思議な事故や支障が生じ、神意に反しているらしいとの危惧から中止されたままだという。このようにこの島は神霊の濃い地で、ひとりで一夜を過ごすのにやはり不安を禁じ得ない。
ハンドルは結局、伊良部島行きの船の出る平良港に向かう。この道は昨日、自転車を買ったイーオンからマイパマビーチにゆく道と同じだということがだんだんわかってきた。そしてイーオンのある一角でAUショップがあったので、ここで小休止を兼ねて携帯電話の充電をしてもらう。実は予備の充電池を2個持っていたので、窮していたわけではないが、ここでの充電はあとで役に立つ。その後AUショップに巡り合わなかったので、きっちり3個の充電池を使い果たしたところで自宅に着いた。AUショップで充電していなければ東京で窮するところだった。
充電してもらっている間にソファーに腰かけてテレビを見る。沖縄本島のどこかで全県のエイサー大会が行われている様子が放送されている。鮮やかな色の衣装を着た老若男女が祭の踊りを披露している。私の住んでいるところで、地元のエイサーグループの行列を何度か見て、その太鼓のバチさばきに興味を抱き、それに倣って、私もバチを高く輪を描くように上げて叩くようにしている。オリオンビールが大会の一スポンサ企業のようだ。そういえば、宮古島に来てまだ好きなビールを飲んでいない。
AUショップを後にして、マングローブのある沼地で休憩。遊歩道を歩いていると、さすがに空腹感を覚え始めた。前回来た時に宮古島ではコンビニエンス・ストアで買った握り寿司がとてもおいしかったことを思い出し、次にそういった店に入ったが、握り寿司はなかった。そこでおいしそうな豚肉入りの弁当と牛乳とリンゴを買った。近くの公園でFM放送を聞きながら久しぶりの食事。
途中あちこちと寄り道をし、平良港に着く。フェリーが出たばかりで、次のは午後4時で小一時間の待ち時間があった。そこで切符を売ってくれた中年女性に砂山ビーチまで自転車でどのくらいかかるかと聞くと、10分もあれば着くんじゃないの、というのでそれを信じて砂山ビーチに向かう。これは前回来島した時うっかり見落としていた名所である。そこにある貫通空洞のある岩が、おそらく宮古島の観光写真で最もよく使われるものであろう。
さて10分くらいたっても砂山ビーチは現れない。結局30分くらいかかって、へとへとで到着。立腹した。自動車でなら10分もあれば着く距離だった。私は切符を買うとき自転車券も彼女から買ったので、私の「自転車でどのくらいかかるか」を「自動車で・・・」ととり間違えることもないはず。ずいぶんいい加減なおばはんではあった。しかし時刻表をもらっていたのであわてなかった。いずれにしてもこの有名なビーチでゆっくりすることにした。つまりもし10分で着いていたとしてもここで長居し、予定より後の便に乗ることに変更していただろう。そんなことで、再び港に戻るころには、おばはんに対する恨みは解消していた。
砂山ビーチで一通りの写真を撮ると、日差しが強いので、くだんの岩の空洞の影で、ヘルメットを枕にしてタオルを顔にかけて横になった。波の音、人の声、そして風のそよぎ・・・ヘルメットから頭が滑り落ちて目が覚める。
砂山ビーチにはこの空洞を有した岩のほかに、かなり深くえぐられた窪みを有した壁があるが、この中には売店が陣を構え、自然風景の妙をすっかり台無しにしている。観光地の低俗化の一例である。くだんの貫通空洞には、写真撮影スポットであるのでここに長く立ち止まらないようにという注意書きがある。そして売店はこの写真撮影を営業の一つとしているようだった。しかし、おい、お前たちこそ、そっちの窪みをちゃっかり占拠して写真撮影スポットを台無しにしているではないか。自然を自然に返せっつうの。
(砂山ビーチ 手前が売店 撮影 長光一寛)
平良湾にもどる。国道(県道?)を離れて港湾の道を進んでいると大きな埠頭があり、それは台湾行きの船が出るところであった。そういえば、砂山ビーチの駐車場でバスが2台ほど駐車して、それらから降りてきた人々は中国語を話していた。これは近くの台湾から船で来た人たちだったのだろう。
平良港で、例のおばはんに、数分後に出ようとしていた高速船に乗れるかと切符を見せながら聞くと、船会社が違うのでだめだということであった。それで5時半くらいのフェリーに乗る。前回は客室テレビで広島カープ対横浜大洋ホエールズ戦を見たが、今回は大相撲の千秋楽だ。結びの一番で白鵬が勝てば優勝、負ければ新入幕の逸ノ城との優勝決定戦。二人の関取の支度部屋でのリアルタイムの様子が取組の合間に映され目が離せない。時々ちらちらと建設中の伊良部大橋に目をやるが、心はテレビのほうに向いている。結びの一番は船から降りて急いで駆け付けた港の待合室で見た。結局白鵬が勝って、残念ならが決勝戦はなし。逸ノ城、秀逸の好機を逸したり。
港を出ると、まず記憶をたどりながら急坂を上がって、マーケットを見つけた。シークァーサが20個くらい入っていて150円。シークァーサの入った飲み物は東京では高いので、安いと思って一袋買った。これは東京ではすだち(酢橘)うどんを注文するとついてくるすだちに似ている。それは徳島県産だ。私はすだちをうどんに絞ったのち、ビタミンC補給のためしぼりかすも食べる。種も噛み砕いて食べてしまう。だから、このシークァーサも丸ごと口に入れ噛み砕いて食べることができると思った。そして後で食べてみると、すだちで訓練していたせいか、口に合わないことはない。これで宮古滞在中のビタミンC補給は十分だ。味も大きさもすだちとの違いをあまり感じなかった。(まだないなら、シークァーサうどんの登場を期待する。)あとカツオ漬けにして匂わないようにしたにんにくとシーチキンとライス、そしてオリオンの発泡酒「麦職人」ロング缶を買った。東京で仕事が終わると飲むのは発泡麦酒であるが、こちらではこの麦職人を貫いた。あればロング缶にした。
前回と同じく渡口が浜でテントを張ろうと思って走ったが、自分の記憶はあてにならなかった。海の見える坂を上ってゆくとたくさんの墓が道の両側に並んでいる。どれもコンクリートの囲いに覆われている。八丈島もそうであったが強風を受けることの多い太平洋の島々ではコンクリート製のものでないと持続しえない。坂を下っていると大きな岩が現れ、これはストップしてゆっくり見学する価値があるものだが、日が暮れ始めていたので、横目で見ながら通過。大和ブーという。ブーは岩という意味だ。
建設中の伊良部大橋の工事現場が下に見えてきた。道路脇に手ごろなテントスペースがあった。夜はほとんど車が通らないだろうと思い、ここで取りあえず野営しようと自転車を止めた。しかし携帯で天気予報を見ると、宮古島は今夜から明日にかけて雨のようであった。そこで再び自転車を走らせる。日が暮れても目的地に着かず、首にぶらさげた小さなLEDランプを灯してのナイトランとなった。それを手に持って前を照らすがあまり先までは見えない。自分はこういう時、自失してしまい、パソコンで地図を調べようということが思いつかなくなっていた。人の住んでいるところに行けば公園があり、そこでテントが張れると考えた。そこで道しるべも、佐和田の浜という方向は行かず市役所とか市庁舎の方向に行った。しかし人が住んでいるところには私有地が連続していてよそ者の入れる隙はない。一つの峠を越えて街並みに来ると道が雨に濡れ、水たまりもある。島の北側では確かにかなりのにわか雨が降ったようだった。ますますテントを屋根のあるところに設置せねばならないとあせる。しかし公園などはない。
そして、なんと前回と同じくまたしても思いがけなくサシバの里に迷い至った。いつの間にか下地島に渡っていたのだ。今回は、迷路でなく夜のとばりによる暗路に迷わされての到着だ。サシバの里は私有地であるので、先に行かねばならない。下地空港にまで行った。しかし好適な場所がなかったので引き返し、ついにある空地に至った。もう疲れ果てていた。ここはもしかしたら私有地かもしれないが、人気がないので早朝出発すれば問題ないだろう。雨が降らないことを祈りながら、そこでテントを張って、やっと夜営。下が石ころでごつごつしているが、エアマットをぱんぱんに膨らませて、なんとかしのいだ。せっかく買ったオリオンビールもぬるくなっていたが、これで一日の疲れを流す。食欲はないので、臭みのない鰹節ニンニクとシークヮーサを食べる。ここに来るまでに、自動販売機で買ったコーラとカルピスソーダのロング缶でカロリーと水分を補給していた。
9月29日(月)
早朝目が覚める。まだ外は薄暗い。携帯とパソコンで現在位置を調べると佐和田の浜の近くにある平成の森公園からすぐのところとわかる。佐和田の浜と平成の森公園とがほぼ同じ位置にあることの記憶さえ残っていれば、道しるべにも何度かあった佐和田の浜の方向に進んでいただろうから、問題なく屋根のある東屋で夜を過ごせたはずだ。しかし、これも島々の霊が私に与えた試練と思った。前回の食あたり試練よりはましだ。幸い雨は降らなかった。
昨日買ったライスとおかずで朝食を済ませ、近くに水道があったので食器も身体も洗浄し、テントを撤収すると、走り去った。
その日はまず、伊良部島に来た最大の目的である、あの迷路を再走してみようと考えた。それも渡口の浜のほうから佐和田の浜のほうに行くのである。そこで私は昨夜迷走した道を逆走してやすやすと渡口の浜に至った。そして前回の紀行文で私が絶賛した伊良部島と下地島の間の水路(川でないから名前がない)沿いの伊良部島側の道をゆっくり進んだ。
しかし、この道は土木整備が進んで当時の面影を失ってしまっていた。ずっと水際を走れたはずであるが、今は建築物と私有地で邪魔されて景色は分断され乏しい。残念ながら自然の迷路としての妙味は失われており、私の推薦を取り下げねばならない。ここをボートやカヌーで行き来するのは面白いだろう。ただし川でないから流れがない。両端が海だから、どちらも同じ水位であり、潮の干満に際しても流れが起こりにくい、つまり換気の悪い部屋のようなもので、しかも生活用水が排水されていようから、泳ぐには躊躇する。幅が広くなったところでマングローブ植林がされていたのが救いだが、ここでも残念ながら自然の私有化・低俗化が進んでいた。
(佐和田の浜 撮影 長光一寛)
佐和田の浜に至り、ここでしばらく泳いだ。浜には誰もいなかった。ずいぶん沖に出ても遠浅のせいで背が届く。大きな岩がまるで日本三景松島のミニアチュアかと思うように広くたくさん散在している。昔の大津波で運ばれてきたものだ。この現象は遠浅であることによって成立するものだ。おそらく津波の時は地響きを立ててこれらの岩が転がってきたことだろう。そして場所によっては陸地を転がり上がった。下地島にあり、かつて下地空港建設時に島民の反対運動により舗装材料用に爆破されることをまぬかれた巨岩帯岩はその大きさと位置の高さからも津波のすさまじさを忘れさせない自然の記念碑だ。これは海から運ばれてきたというよりも、崖の一部が津波により剥がされ押し上げられたと思われる。それはgoogle map の航空写真を拡大して見ているとよくわかる。この帯岩がちょうど海岸を真上から撮影した写真ジグゾーパズルの一部分からぽろりと外れてしまった一片のように見えるからだ。帯石を元の位置に戻してパズルを完成してみるのも面白い。
(巨岩が浜から一回転して丘に上がったことがわかる。どこからはがれたか?)
さて、話は佐和田の浜にもどり、熱帯魚を見るためには岩場が条件だが、これらの波間の大岩に近づくと波で岩に打ち付けられてけがをするかもしれないという危惧があって近づかなかった。またあまり沖に行っていると、サメでも来ないだろうかという不安から引き返し、結局熱帯魚はめぼしいものを見ることもできず。長くは泳がなかった。
伊良部島でもう一泊しようと、平成の森公園の野球場のそばのいくつかあったコンクリート造りの東屋のうちトイレに最も近いものの中でテントを張った。前回は野球場の三塁側ダッグアウトに三人が設営したが、その頃はたしかあたりに東屋がなかった。私のテントはあの時のものと同じだ。日差しが強いので自転車は木陰に移した。今この暑い中、この公園に来る人はいない。隣の畑で作業をしている人だけが人気だ。
(テントサイト 撮影 長光一寛)
荷物をテントの中に入れて、ゴミ捨てもかねて、懐かしい野球場を散策した。22年前に来たときには立派だったがずいぶん老朽化し、清掃もされていないようで一塁側のダッグアウトには空き缶やごみが散らかっていた。端にごみ箱のようなものがあったので、私のごみをこれに入れた。しかしその中のごみもずっと回収されていないらしかった。ゴミのないところにごみを捨てるのははばかられるが、すでにごみの散らばったところにごみを足すのはあまり罪悪感がない。懐かしい三塁側のダッグアウトは昔のままのようだった。たくさん写真を撮った。
そして当然のこととして、あの女子高生たちのことを思い出していた。あの時はゴールデンウイークの最中だった。球場のそばで私がパンクの修理をしようとチューブを、水で満たしたヘルメットの中に突っ込んでパンク穴を探していると、公園で遊んでいた彼女らの一人がやってきて話しかけてきた。みんな集まった。4人だったろう。あれから22年。もうみんな母親になっているだろう。卒業したらそれぞれ大阪や名古屋に行くと言っていたので、この島に残っている子はいないだろう。初めて飛ぶサシバのようにこの島から羽ばたいて行った少女たち。
前回の旅行記を彼女らとの出会いのところで結んだのは、その時があの旅のクライマックスであったように思い返されたからだった。
東屋のすぐ近くに大きな滑り台があり、これはローラ式で、童心に返って滑ってみたが臀部がつらい。滑った後もいくつかのローラはしばらく回り続けていた。そしてこの滑り台を滑り降りたところにある木が良い日陰を作っていたので、この日陰の中に籠って歌とケーナの練習を始めた。
そして何かの拍子に、「あれ、これもしかしてカジュマルの木ではなかろうか」と思った。それは「そうだ」というような雰囲気を持っていた。カジュマルの木の存在を知ったのは前回の宮古島訪問からだいぶ経ってのことだ。だから前回偶然見ていたとしても、カジュマルの木だと思って見てはいない。その後、写真で見たことはあるがその特徴を記憶していなかった。数か月前に読んだ石垣島出身の大島孝雄氏の名著「カジュマルの家」により、気根というものがこの木の特徴だと知った。これは枝から下方に垂れるもので地に着けば根を張るという。そして今、目の前にある木は気根かどうかは知らないが細い萎れているようなものが枝から少なからず垂れている。気根としてこんなものを想像していなかったが、地に着けば丈夫な根らしくなるのかもしれないと思った。だから私の中でこの木はカジュマルであるという思いが高まった。
そうすると22年前のインギャーでの出来事が思い出される。私は二人の友とインギャーの公園でテントを張って熟睡していた。そして未明に青天の霹靂のごとく威嚇的な「オギャー オギャー」という男性の叫び声を聞いて目を覚ます。逃げようとしたが、体は震えかつ金縛りにあっていて動くことができない。こんなことは寝ているときも起きているときも経験がなかった。そしてこの時のことを長く心にとどめた。その後だいぶたって読んだ書物によりキジムナーという霊のことを知り、寝ている人を襲って金縛りにすることもあるというので、自分を襲ったのがこの霊だと信じるようになった。そしてキジムナーに興味を持った。キジムナー伝説は沖縄の島々で語り継がれており、カジュマルの木に棲むのだと言われている。そのせいで上記「カジュマルの家」も読んだ。
この本を入手したのは偶然だった。私の住む練馬区の図書館々では放棄することになった本を「リサイクル本」というスタンプを押して、無料で好きな人に持ち帰ってもらっており、私の最寄りの南田中図書館では入り口近くにリサイクル本コーナを設けていた。本を借りると期限までに返さないといけないので自由な読書ができないが、もらえるのであれば好きな時に読めるのでこちらがいい。ある夕刻私は散歩がてら久しぶりにその図書館に寄り、その本がそのコーナに置いてあるのを見つけた。たいてい夕刻はめぼしい本は残っていないのであるが、その本はあった。しかもほぼ新品の状態だ。そして「リサイクル本」というスタンプがない。これは、私もしたことがあるが、読み終えたが捨てるには惜しい良書であった場合に、他の人にも読んでもらいたいので、内緒で図書館のリサイクル本コーナにおいてくる。おそらくこういうことで「カジュマルの家」もその棚に置かれたのであったろう。そして、私にとって幸運なことに、カジュマルやキジムナーのことについて関心のない人には、そしてそれがおおかただろうが、この本のタイトルは、読んでみようかという思いを起こさせるような魅力的なものではないだろう。だからか、人手に渡ることなく、その本は私の手に入り、私は数日中に読み終えた。そして、これを読んだことが、私をして、それまでは「久しぶりにまた宮古島に行ってみたいな」という軽い思いだった宮古島再訪を実行に移させた。どうやら宮古島が私を呼んでいる、もし行かなかったら私は自分に「臆病者」のスタンプを押すことになるだろう、と思ったのだ。こうして宮古島再訪、いやキジムナー再訪の旅が決行されたのだった。しかし私の臆病さはすでに私をインギャーから遠ざけていた。あえて、飛んで火に入る夏の虫となることもあるまい、という合理的考察もあったにせよ・・・。ところで、「カジュマルの家」の著者大島孝雄氏は、自分はキジムナーだった、と告白している。
さて、私はキジムナーについてはいろいろ調べたが、彼らが棲むというカジュマルの木については調べていなかった。そもそも私は植物に興味が薄い。だからキジムナーと同じようにカジュマルも私にとって半架空的存在といえた。
そんなわけで今自分の目の前にある木がカジュマルであるか否かについて、答を出すだけの知識を有していなかった。しかしその可能性が低くないという予感がしたので、このカジュマルかもしれない木の中にいるかもしれないキジムナーに就寝中威嚇されないだろうかという危惧を抱いた。
前回私だけがなぜ襲われたのかについて、私には心当たりがあった。多くの書物により、キジムナーは、ドラキュラがニンニクや十字架を恐れるように、海のタコと人のおならを恐れることを知り、そういえばあの夜、就寝の前に入り江の波打ち際で海水に向けて放屁放便したので、その近くにカジュマルの木があり、そこのキジムナーをすっかり弱らせてしまい、そのたたりを受けたのだ、と私はずっと思っている。そうすると今回、避けないといけないのはここでの放屁放便だ。しかしここには水洗トイレがあるので大丈夫。
しかし思い出した。あのゴミはまずいかもしれない。あのダッグアウトに捨てたごみはちゃんとしたところに移そう。もしかしてカジュマルかもしれないこの木の霊の縄張りの中を汚すと、また睡眠中に一喝されかねない。少しでもやましいことはすまい。そう思いダッグアウトに行ってくだんのごみ袋を回収して、自転車のかごに保留した。
その夜、思いついて、テントの中で、Surfaceにより、カジュマルを調べた。写真を見るとやはり似ている。しかし今はこの写真と外の木とを直接比較検討することはできない。さてその夜、私は幸い夢でどなり声を聴かなかった。翌朝、くだんの木の陰で再びSurfaceによりカジュマルの写真を見た。そして眼の前の木と比べて、これは間違いなくカジュマルの木だと断定した。その根拠はインターネット上の写真と同じように、木の主幹にたくさんの細い幹が重なっていたことだ。そして気根が垂れている。見るほどに不気味な木だ。
(しっかりした日陰を作ってくれるが、見通せないので中のようすはわからない 撮影 長光一寛)
この気根は風にゆれ、触れる樹木に接着し、やがて幾本のもの気根がこれを伝って絡みつき、樹皮下に毛根を注射し養分を奪い、ついにはタコのように絞め殺す。我々が見るカジュマルはたいてい植林されたもので近くに他の木がないので、自らを育てた主幹に絡みつき気根を注入する。こうしてカジュマルは自らの主幹を絞め殺し、やがて主幹なき多幹の大木として成長していく。太くなった老幹が次から次へ同じように絞め殺されていく。まるで火に入り、新しく蘇生する不死鳥のように新陳代謝を繰り返し広大になっていく。しかし樹木が密集している未開の暗い森の中では、カジュマルの気根は接近してきたまわりの木を餌食にする。そして新しいカジュマルの木を作る。それは接ぎ木が台木をおさえて穂木になるのと同じ原理で、結局台木はカジュマルに絞め殺されてしまう。
歩くことはできないが、風によって気根を遠くまで振り、絡みついて食い殺すカジュマルは、タコのような凶悪な木だ。一説にカジュマルの語源は「からまる」がなまったものという。また「絞め殺しの木」との異名もある。しかしカジュマルどもよ、聞け、私のキジムナー説はこれだ!島民が人頭税に苦しんでいた昔、口べらしとして暗い森に捨てられた赤子たちの幼体をお前たちは好んで襲った。気根を垂らし、絡みつき、毛根を注入し、そっくり養分を吸い取り、赤子が生気を失ったとき、ついにその魂まで抜き取ろうとした。しかしそれはかなわないことだった。魂はこの世のものでないからだ。亡き赤子の霊魂は逆にお前たちに取り付いて、お前たちの生気を吸い続けて育っていく。そして思い出しては捨てられた時と同じようにオギャーオギャーとも泣くのだろう。そうだ、この魂こそキジムナーだ。哀れな幼霊たちよ。弔。
さてここまで読まれた読者はキジムナーがなぜタコを怖がるかという理由ももうおわかりだろう。カジュマルにタコのように絡みつかれ、締め付けられた時のトラウマが彼らをして海のタコに対してもおじけを感じさせるのだ。タコの触手を見るとカジュマルの気根を思い出し、それで注射された時の恐怖がよみがえるのだ。え、ではなぜキジムナーは人のおならも怖がるようになったのかって?愚問です。もしあなたのおならを怖くないというものがいたらつれてきてみなさい!
さて前記した大島孝雄著「カジュマルの家」によると、キジムナーは人間として再び生まれ変わりたいという願望を持つ傾向がある。そのためにカジュマルの気根を利用するという。カジュマルを観葉植物として部屋で育てている人なら知っているだろう、カジュマルの小さな木がまるで二本足あるいは三本足の人形のように反り返って立っているのを。その足は太くなった気根だ。細いものをすべて剪定して太らす。放っておくと細いのが出てきてむさくるしくなる。キジムナーだった大島氏はあるとき自分の棲んでいたカジュマルの木に自分の精を託した。すると一本の細い気根がするすると延び、縁側で昼寝している少女の股間をはい、まるでカテーテルかのようにその体内に侵入し受精せしめる。こうしてキジムナーたる大島氏はこの少女から新しい人間として生まれいでたという。観葉植物として売られているカジュマルにキジムナーはとうていいないだろうが、万が一ということもあるので、気を付けたほうがいい。
さて、日差しがきついので、サイクリングは午前中はしないで、歌とケーナの練習を昼過ぎまで続けた。日が高くなってくると東屋の中が唯一の日陰になる。まるで雨が降っていて外に出ない者のように東屋の中に籠った。
人に聞いて、小さな店を見つけた。三四段のコンクリート階段を上ると70くらいのおばさんが店番をしていた。入り口にセンサーがあって、入ろうとすると「いらっしゃいませ」という比較的大きなヴォリュームで録音された女声が流れる。おばさんが奥にいるときはこれを聞いて、いらっしゃいと顔を出す。この店には、発泡酒が飲みたくて通った。冷えたのを飲むために買いだめはしないので、缶が空くたびに自転車で2分くらい走行して麦職人ロング缶を買いに行く。つまみに、さんま、まぐろ、さばの缶詰を順に一個ずつ買った。あまり食欲がないのでこんなもんで遅い昼食にもした。
さて、たくさんの絡みついた枝々で構成されたくだんのカジュマルの幹にくぼみができていて、そこにポカリスエットの空き缶が置かれていた。普段は他人の残したゴミなどを拾うことはしないが、今は手を伸ばしてこれを取り除き、ケーナをそこに置いた。ここのカジュマルに住んでいるかもしれないキジムナーに少しでも好感を持ってもらい、私のケーナに霊感のおすそ分けをしてもらえれば幸いと思った。(余談ながら、わたしはこの旅の後、フォルクローレバンド「ルイセニョール」の一員として江戸川区民まつりのステージでこのケーナを用いた。いつもは黒檀製ケーナで演奏するが、このケーナにキジムナー様の霊感あらたかなることを信じたのだ。お陰様で演奏は自分としては上出来だった。(余談の余談だが、当日二人の若き女性が演奏を聞きに来てくれることになっていた。午前と午後に一回ずつ演奏するが、午後1時ころ、最寄りの小岩駅に着いたと電話があり、私は駅からのバス情報を与えた。しかしバスで来るならまず開演時刻の1時半に間に合わないだろう。そして私が活躍するのは5曲中のはじめの2曲、「コンドルは飛ぶ」と「コーヒールンバ」だ。へたをすると両方の曲が終わるころに到着ということもある。そこで私は少しでも時間稼ぎをするためにケーナソロで奏されるコンドルの前奏部をいつもより相当ゆっくり引き延ばして演奏した。そしてそれにより、かえってこの前奏部を今までになく高貴に奏でることができた。二人はこの曲には間に合わなかったが、おかげでいい演奏ができた。コーヒールンバは二人の姿を垣間見ながら楽しく演奏。そして生まれて初めて演奏後に花束をもらった。今そのバラを前に立てて執筆中))(奇特の人がビデオで我々の演奏を撮影してくれYouTubeにアップしてくれていたのでここにそのアドレスを引用します)
https://www.youtube.com/watch?v=uK7cW6nsyPA
(午前の部での「コンドルは飛ぶ」)
(撮影 木谷友香;黒帽子が私)
さてくだんの店に行く回を重ねるごとにおばさんとの会話も長くなっていった。一度は近所のおばさんもいて話に加わった。私は、伊良部大橋ができたら、また下地空港が利用再開になるのではないでしょうか、前に来た時には下地と那覇とを一往復する便しかなかったが、ここはジャンボ機も離着陸できるので、こんどは羽田からの直行便としてジャンボ機を使えば一往復でも一度に大勢の乗客が下地、伊良部両島に来るようになり、島も潤うだろう、と言った。すると、実は前の一往復が廃止されたのは私ら島民が利用しなかったからだと言う。この便は半プロペラ機であるYS11が使われとてもうるさかったので、島民は反発して、この便をボイコットした。すなわち那覇などに行くときは、わざわざ宮古島にわたり宮古空港を経て行ったというのだ。こうしてついに下地空港の唯一の旅客便を廃便に追い込んだという。私は今回の旅の計画において、那覇から下地へ来ることも考えたが、時刻表にその便が見当たらずインターネットで調べたら廃便になっていたのに気付いた。その裏に、島民の反骨物語があったわけだ。
操縦訓練飛行が減少し下地空港は今存続の危機に瀕しているというが、国際空港化してはどうか?伊良部大橋との相乗効果で観光力は抜群に増進すること間違いないので、宮古諸島が国際的リゾート地として繁栄すると思う。
さて、練習が一段落すると、テントに多くの荷を残して、軽装で飛行場を取り巻く道路をサイクリングした。昔走った道を再び走ってみたいというノスタルジックな気持ちが私を導く。そして今回は前回パスした通り池にも行ってみた。二つの池が地中で海に通じている。台風のときは海からの高波が陸路をここまで到達し補水する。
(下地空港の滑走路への誘導橋 撮影:長光一寛)
(通り池: 撮影 長光一寛)
(二つの通り池が見渡せる東屋で休憩していると、池越しに建設中の伊良部大橋が見えた、と思いきや、よく見ると違っていた: 撮影 長光一寛)
通り池へ通じる遊歩道の入り口には、駐車場、トイレ等の施設があり、お土産を売る露店があり、店主はどうみても大工さんのいでたちで、マンゴージュース等の冷えた飲み物も売っていた。そこには大神島でシーサーとして使われているのを見たことがある、6本の角をとがらした水神貝もあった。魔除け用と説明がある。しかし私の目をまず引いたのがシャコ貝。これは「カジュマルの家」にも出てくる大きな貝で、作者である大島氏は生まれてすぐ口減らしのためにこの中に捨てられ、少女たちに拾われる。そしてキジムナーに昇華する。さてこの露店にあるものは人の赤子が入れるくらい大きくはない。聞くと、それほど大きいのは沖縄ではなかなか採れずたいてい輸入品だという。彼はそこにあるものはみな自分で潜ったりして取ったものだと言った。
そのほら貝は違うだろう、と言うと、それも潜って取ったのだという。そして取り挙げて吹き鳴らしてみせてくれた。四国の石鎚山の山頂神社参道で見たものはマウスピースがついていたが、ここにあるものは下端をカットしただけのものだ。これを彼は上手に吹いた。すごい音だ。価格4500円。その価値のある代物だ。マウスピースがないからほら貝としての置物としても立派だ。ただ重いから買うわけにはいかない。
次に、再び渡口が浜に至る。昔あった展望台はなかった。そのかわり前はなかった売店があり、その入り口に「ヤシガニを飼っています」という張り紙を見て、それを見たくて入った。前回宮古島に来た時、インギャーでの夜にヤシガニに遭遇した。しかし見たこともないほどでかく異様な甲殻類に驚いたが、まさかこれが宮古の味の王様という別名を持つお宝であろうとは思わなかったので、丁重に去ってもらった。ヤシガニにはそれ以来会っていないから、ぜひここで見てみたいと思った。ガラスの水槽の中に飼われていた。えさは何かと店主に聞くといろんなものを食べるそうで生肉もそれに含まれている。ということは人間を襲うこともあり?
渡口が浜は大改造中だ。遊泳者にとってはすでに前来た時より数段よくなっている。かつては遊泳禁止だったのが、防波堤が延長され、安全できれいなビーチが確保されており、さらに下地島との間にある水路の入り江も海底を掘り下げる作業が進行中だ。いずれ完成する伊良部大橋を渡って車で押し寄せるであろうヤマトンチュらを引き留めるに十分なユニークな海浜スポットを構築中だ。
さてそこで宮古そばを食べる。具は豚の腱付きの肉と竜田揚げ。ミスマッチ、後者が余分だ。前者は太い3本の白濁色のすじが肉片から飛び出している。これぞすじ肉だ。食べるとコリコリしていてすぐかみ切れる。だしもおいしい。感激して、帰路の平良港でも宮古そばを注文したが、そこのものは上品な肉しかなかった。宮古そばの麺は太すぎて違和感がある。そばならもっと細くしてもらいたい。あるいは、いっそ麺をうどんに変えて、宮古うどんにするか、またはそばをきしめんのようにフラットにしたらどうだろうか?そのようなそばは食べたことがないので、どうでしょう?
平成の森公園に戻って、再び発泡酒を飲みながら、ケーナの練習。公園の外の道を若い男性がスケートボードに乗ってこちらを見ながら通り過ぎて行った。
午後おそく、再びサイクリング。白鳥岬へ。自転車を展望台のそばにおいて、遊歩道を歩く。途中小さな入り江がいくつもある。ずいぶん長い遊歩道だ。こういう時私は行けるとこまでいかないと気が済まない。かつてこうして林道を行き山を登り切ったことが二三度ある。紐から放たれた小さなブルドッグがやってくる。犬は怖くないが、足元に来たので、さすがに立ち止まって、飼い主の男性に、噛む?と聞いたが、噛まないというので、頭を撫でてやり通り過ぎた。この人は夕陽を見るためにここに車で来たみたいだ。(そういえば、私はこのころ水平線に沈みゆく夕陽を見るという興について頭になかった。来間島の農道に安楽椅子を持ち出して夕陽を顔面に受けていた男性、長間浜でシートの上に肩を寄せ合って座って夕陽のほうを見ていたカップル、そしてこの時と、三度チャンスがあったが私は、ことごとく海の水平線に沈みゆく太陽を見ることが稀有なことであることに気づくことなく、やっと今これを書きながら、惜しいことをしたものだと気づいている。)
さて、そこで遊歩道が終わったので、車道に出て、遠くに見える大鳥の像を目指して歩く。途中の案内地図で、そこが、地元の方言で「フナウサギバタナ」というところらしく、メルヘンなフナウサギに引かれた。しかし途中で引き返す。日没までにライトのついてない自転車のところに帰れるか不安になってきたからだ。
さて平成の森公園に着くころには夜になっていた。夕食は途中で買ったお好み焼き。タコ焼きを買おうと店に入ると、お好み焼きもやっていたので、衝動買いした。店で食べさせてもらえるかと聞くと、駄目だったので、東屋にたどり着いて食べる。もう温かくなかったのでうまくない。温かかってもうまくなかったろう。トイレの水道水でヘルメットを桶代わりに使って髪と体を洗い、テントに入る。前述したようにSurfaceでカジュマルの写真をいくつか調べ、ますますそばの木がそうであると思う。就寝。安眠。
9月30日(火)
この公園にはコンクリート製の立派なステージがある(前掲の写真参照)。朝方、ステージが木々の長影の中にあったので、上がって空想の聴衆を前に歌の練習をした。日が昇るにつれ木々の影が短くなりステージから退いたので、今度はカジュマルの影に入ってケーナを吹く。東屋は朝方と夕方は屋根の陰が比較的細くしかも東屋の外に影を落とすので、日よけとしては不便だ。そこで葉のよく茂ったカジュマルの木影が重宝される。
日差しが強くなると、もう出かけるのが億劫になってくる。朝は6時半からやっていると言っていたので、7時過ぎにくだんの店に行き、清涼飲料と発泡酒を買う。その日も3、4回訪れた。最後にこの店を訪れた時、前回は20年くらい前に来たので、また20年したら来ると思うのでそれまで元気で、と言うと、私はあと20年はもたない、ということで5年にまけてあげた。しかし5年後は私も70に近い。
この日も、強烈な日射が降り注ぎ、東屋の中にいても周りからの照り返しが皮膚を少しずつ焦がしているのを感じる。まるで雨が降っているかのように、近くのトイレに行くときもわざわざヘルメットと長袖のシャツを身に着ける。こんなわけでここを撤収して、昨日到達しなかった大鳥の像を目指して出発。途中、昨日遊歩していて見つけた、降りて行きやすい小さな入り江で泳ぐ。熱帯魚を観賞。
(ここで泳いだ。 撮影 長光一寛。)
くだんの大鳥の像はサシバで、そこの岬をフナウサギバタナといい、意味は見送り岬。舟に乗ったかちかち山のうさぎには会えない。島民は、この岬から、島を船で去る人たちを見送ったという。戦争に行く若者たちは、目を凝らしてこの岬に立つ家族や恋人を探したことだろう。
海を見下ろすと荒波が崖を打ち付けている。一隻の船が岸に座礁しているかのように動かない。しばらく様子を見ていたが、いつまでたっても岸から離れようとしない。特に助けを求めているようでもなかったので、ほおって、去る。
まりものような球状の花に私は何度か携帯カメラを向けた。植物に興味のない私もこれには愛着を覚えた。南国のまりもを最初に目にしたのはマイパマビーチに行く途中で、それ以後、宮古でこれを見ない日はない。
(撮影 長光一寛。)
やがて人家が見えてきて、道が右にカーブして下り坂になる。見覚えのある港に下る坂道を降りていると、自動車の列に遭遇。これは宮古島からのフェリーから降りたばかりの車列であると察し、スピードを速めた。間に合えばもうけもの。フェリーはすでにロープを外していた。しかしまだ接岸していたので、間一髪乗ることができた。
切符拝見。あっこれは船会社が違います、ということで、平良港に着いたら、本来の船会社に切符を払い戻してもらい、このフェリーの会社に料金を支払うということで了解された。しかしそれは建前、無賃乗船しようとしたわけではない、面倒なことは抜きにする。
ところで平良と伊良部島間の船賃は往復券を買うと安いが、平良で買う往復券より、伊良部島で買うのが安い。これは離島伊良部島民を優遇する処置だろう。これを利用するためには飛行機で下地空港に来なければならないが今はその便はない。
平良港に着くと人工の浜パイナマガビーチの端っこの東屋でテントを張る。たくさんの人がいて、泳いでいたり砂浜で遊んでいる。近くの東屋に、明らかに陽が落ちるとここで宴会をしようと企てているグループがいて、うるさくなりそうだ。しかし沖縄の民謡を聴けるなら、がまんがまん。
危険なハブクラゲが出るということで、ブイに結ばれた網が張られており、その内側で泳いでいる。岩場でないのでここではたいして熱帯魚は見れそうにない。日が傾いて人が減ってきたのでしばらくケーナを吹いた。岩陰の向こうにビーチの端が隠れていたが、そちらに近づくと一群の人たちが浅瀬に立っており、沖に向かって、あるいは夕日に向かって儀式のようなものをしており、宗教グループの祈祷会のようだった。知らずに南米の曲を奏で邪魔したなと思った。
日暮れに宴会グループのバーベキューの準備が始まった。そこには小型風力発電機と太陽電池パネルにより二重蓄電されたエネルギーで灯る電気自給自足型街燈がいくつか立っており、その一つの灯りの周りにあたかも羽虫のように彼らは集まった。
私は車道沿いに歩いて、料理屋「どうとんぼり」に入り、ビールと夕食。大きな円卓を独り占め。季節限定メニューから注文した島らっきょの浅漬けが絶品。1時間くらいいて、店を出ると雨が降っている。悪いタイミングで出たものだ。しばらく歩いて宮古島シャープの建物のひさしの下のステップに座って雨宿り。数分で雨が上がったので、テントに向かう。すると少し離れた東屋でテントが一つ張られていた。自転車がないので徒歩旅行の人のようだ。くだんの宴会グループは雨のせいか、いなくなっていた。
テントの中に蚊が一匹入ったので蚊取り線香をつける。しかしこの蚊は東京から持ってきた蚊取り線香ではきかないらしくいっこうに落ちない。それで刺されてしまった。夜半に目が覚め、上半身裸で近くを歩いているとパトカーが横で止まり、二人の若い警察官が降りてきて職務質問された。暑いので涼むために上は裸で歩いていると言うと、きょうはこれでも寒いほうですよ、などと言っていた。
テントに戻って寝ようとしていると、物音が聞こえる。テントをたたんでいる音とすぐにわかる。どんな人か知らないが、隣人は夜明け前に、去っていった。
10月1日(水)最終日
朝早く学校に行く前に泳ぐ少年少女の声で目が覚める。私も泳ぐことにした。タイヤが沈められており、そこで熱帯魚の鑑賞ができたが、日光が強くないので、色彩は薄い。しかし色彩が濃かったとしても魚のすみかがタイヤなら興醒めというものだ。
中学生のころ得意で学内の水泳大会でも選手として活躍した背泳ぎを久しぶりにしてみた。しかし肩がうまく逆回転しない。これは自然な泳ぎ方ではないことがわかった。そこでただ顔だけを水面上にしてのんびり空を眺めながら浮遊した。これは自然だ。プールではこのままでじっとしていれるが、海では波に対抗してバランスを取るべく少し手足を動かす。立川談志が沖縄に来て、ホテルの前の海で、浮き袋に身を任せ空をずっとぼんやり眺めるのが好きだったというが、私もそういう漂いの機会を多く持ちたいと思った。
朝食は近くのコンビニで買って電子レンジで温めたカレーライスと麦職人。港のレストランで宮古そばを食べたかったが、11時開店というので。
自転車で建設中の伊良部大橋の付け根あたりまで行く。あとでわかったのだが、すでに連結式は終わっていて、来年の2月に開通するとのことだ。当初の予定から2年くらい遅れているという。22年前の伊良部島で「架橋早期実現」と書かれた大きな垂れ幕を見て、私は旅行記で、「全ての道はローマに通ずる、この大予言は着々と成就しつつある」と書いたが、遅々として進まず、というのが実情である。
(建設中の伊良部大橋。完成するともしかしたら日本一長い橋? 撮影 長光一寛)
パイナマガビーチに戻り、港のレストランで昼食に宮古そばを食べる。
遊歩道の先に東屋があり、そこからビーチが見渡せ、また近くに自然の架橋岩があったので、そこでケーナと歌の練習をする。
(溶岩の橋を渡ったが、一抹の不安あり。 撮影: 長光一寛)
風をよけるために海に背を向けてケーナを吹いていると、海から騒音が聞こえてきた。振り向くと人が水上を飛んでいる。これは有吉弘行がハワイでうまく飛んでいたウォータジェットだ。もうここへも来たのか。ケーナを置いて、早速、携帯でムービー録画をした。上手に空中に浮いている。後ろから小さなボートが引っ張られてついていく。このボートに動力源があり、海水を吸い込み、圧搾して高圧水流としてユーザーの背にある噴出装置に送るのだ。しかし人の体重とこの装置の重みがあるので、それほど高く飛んでいない。ハワイのは固定基地から長いホースを経て水流を送るのでより高い動力を使えるせいか、ユーザーはかなり上空まで飛んでいた。見るとユーザーは落水した。滞空時間を延ばすためには風を逆風にして受けることがコツだろうと思う。飛行機が離陸するとき逆風方向に進路をとることにより浮き上がりやすくなる原理と同じだ。私はまたケーナ演奏を再開した。この場合は風を順風に、つまり背に受ける。そうするとブレスを十分管穴入れることができ風に横取りされない。古の虚無僧たちは、深編笠をかぶり尺八の演奏をしていたが、これは風よけのためだったろうと私は思っている。などと思いながら吹いていると、背後でまた騒音が始まった。ケーナを吹きながら振り向くとまた空中飛行が始まっていた。そしてケーナ演奏をする私を見つけたのかこちらに向かって来る。私は今度はケーナを置かないで吹き続けた。だから手を振ることもしない。振ると音楽が停止する。飛行者も手を振らない。振ると体が回転して落水する。尺八を吹きながら歩く虚無僧たちが、何があっても曲を決して途中でやめなかったように、私も飛行者も雑念にとらわれず自らの苦行に専念した。
飛行場に向けて出発する時間が気になりだした。しかしまだ予定していたレヴェルでの演奏ができていない。私は途中理髪店によることも予定していた。前回は空港の理髪店に入った。新空港になった今もあるかどうかわからない。そうすると平良で理髪店を見つけたほうが確実だ。何しろ明日の朝は会社だ。あらかじめ携帯で検索し理髪店のあるところの目星をつけておいた。
ついに自分で課したノルマの練習を終えると、テントを撤収して、パイナマガビーチを去る。途中、人に理髪店を聞いたが、それでも見つからず、相当行ってから、高校生たちがラニングの練習をしていたので、聞くと、ひとりが指し示してくれ、やっと理髪店に入る。一人先客がいたが、私が丸刈りにするということを知ると、奥さんが出てきて、刈り上げてくれる。この人がよくしゃべる。私が、石垣島でなく、宮古島を選んだのは一つにはハブがいないと言われているからだが、その周りの島、例えば伊良部島にもいないのかと聞くと、いないということだった。石垣島よりも宮古島の人のほうがみんな親しみを感じると言っているよ、ということだった。自分は宮古島の生まれだが、主人は福岡の出身で、こちらが気に入って、ずっとここにいるとのこと。そういえば、前回来たとき空港の理髪店に行ったが、そこの主人は名古屋の人で、やはり奥さんの里の宮古島が好きになり、こっちに移り住んでいた、と言うと、そういう人が宮古島には多いのだそうだ。
さっぱりして、再び自転車で空港に向かう。空港で自転車を折り畳んで、何とか輪行袋に入れてから難儀が始まる。重い。
そこで羽田に着くと、袋から出した自転車を、押していけるように走行状態にし、上から輪行袋を申し訳程度に掛けて押して移動。電車に乗る人が多く、肩身の狭い思いをする。最後の西武池袋線の池袋駅で急行車両に乗って出発を待っていると、駅員に袋の中に入れるように注意され、一旦降りて、折り畳んで輪行袋に詰め込んで、再び車両に飛び込む。一汗かいた。急行だったので、最寄駅より一つ先の石神井公園駅で下車。そこで自転車を出して、一駅分引き返す、最後のサイクリング。空気が冷たく体が引き締まる。
そして無事に帰宅。次回はレンタサイクルにしよう、もっと涼しくなる10月中旬あるいは前回のようにゴールデンウイークにしよう、そして今度はどうしたってインギャーを避けることはできまい、などと思いながらドアを開けた。
つづく
ひでちゃんへのメール:
すばらしい動画を見せていただきありがとうございます。22年前に行ったインギャーの鳥瞰映像、懐かしく鑑賞しました。あのころは牛の像は屋根の上にありました。わたしはここでキジムナーと思われる霊に襲われました。 1:44あたりで現れる東屋のうち手前の正方形の屋根のその先の細長い屋根の下です。最近再訪したとき地図に載っていなかったので、行きそびれていたところ、こちらの動画を見せていただきあのあたりが昔のままの姿なので、次回は行くぞと決めました。
https://www.youtube.com/watch?v=VDtHQnuicVU
写真 https://puboo.jp/book/read/91123/436922