私は毎日、夫に熱い(暑い)愛を囁かれています!
(注)サスペンスでもホラーでもなく恋愛ものです! (笑)
「この世で一番強いのは愛の力よ!
愛があればなんでも乗り越えられるのよ!」
これが母の口癖だった。
そして父も母の言葉に毎回頷いていた。
そう。両親の頭は未だにお花畑なのです。
しかしながら現実に二人は幸せなのだから、彼らにとってはそれは嘘ではない。
ただしそれが他の人にも当てはまるのかと言えばそれは違うと私は思っていた。
それなのに・・・
✽
私が夫のブルーノに初めて会ったのは、隣国との国境近くにあるスキー場たった。
私の生まれた国は一年中常春の気候に恵まれ、しかも土地は平坦で土壌も豊かだった。
国内どの場所でも住みやすく、どこか一所に人口が集中する事がなかった。その結果、この国には大都市どころか都市というものが存在しなかった。
私の実家のある王都でさえ、せいぜい大き目な町?程度で、とても都とは呼べないくらいこじんまりしていた。
そしてどこもかしこも一年中草花が咲き乱れ、とても美しいけれど、特徴のない、ただのんべんだらりとした風景が続く国だった。
まあ、そのおかげで豊かなで暮らしやすい国の割に、侵略してくる敵が全くいなかったと思うのですが。
何処を攻め落とせば征服できるのか、さっぱりわからないだろうから。
しかしそんな特徴のない平坦な国にも、唯一北との国境近くに山岳地帯があった。
そう。そこは常春の国で唯一雪が降る場所で、この国では珍しいリゾート地、つまりスキー場になっていた。
運動が得意でなかった私は、当然スキーなどにも全く興味がなかった。だから、誰に誘われても私はスキー場へは行かなかった。
ところが学院の卒業が間近に迫った冬のある日、私は友人達と共にそのスキー場に遊びに行く事になった。いわゆる卒業旅行というやつです。
卒業したらほとんどの友人達が結婚する予定になっていた。今後みんなで何処かへ出かけるなんて事はないに違いない。そう思って私も参加する事にしたのだった。
もっとも、私以外の友人達は『ゲレンデマジック』というものを期待して参加したらしいのだが。
ゲレンデでは恋人が出来る確率がかなり高いらしい。それが『ゲレンデマジック』というもので、ゲレンデでは男性が三割増しで格好が良く見えるというのだ。
しかし、言い換えればそれはマジック、魔法なのだから日常に戻ったら消えてしまうのではないの?
私がそう言うと、友人達には呆れた顔をされた。
「そんな事わかっているわよ。
大体魔法から醒めないと寧ろまずいでしょ。みんな婚約者持ちなんだから。最初から不貞するつもりはないのよ。
でも結婚する前に一度でいいから、胸がドキドキする経験をしてみたじゃない。」
友人達はみんなそこのところは弁えているようだった。
伯爵家の娘でありながら未だに婚約者がいない私とは違って、友人達は皆大人だったのだ。
うちの場合、両親が恋愛結婚なので、子供達にも自由恋愛を推奨していて、結婚相手を見繕ってはくれなかった。
兄二人と姉は自力で相手を見つけて結婚し、両親同様「愛は最強」を声高く叫んでいる。
しかし周りが熱いと、それを見させられている側は却って冷めるものらしい。
幸せな家族の様子を見るのは、私だって嬉しいけれど、だからといって自分がそれに憧れるかと言うと、それはまた別ものなのですよ。
私は植物学の研究者になりたいなどと、未だに漠然と考えている世間知らずなのだ。
結婚も誰か私に見合う男性を見繕ってくれないかしら、とくらいにしか考えていなかった。
そしてどうやらこの私の心の声は周りにはだだ漏れだったらしく、それ故に友人達がこのスキーイベントを計画してくれたようだった。素敵な男性と巡り会えるようにと。
スキー場に向かう途中で友人達からそれを教えられ、私は涙ぐんだ。
私自身は男性とお知り合いになりたいとはそれほど思ってはいなかったが、彼女達の友情に感動してしまったのだ。
✽
そして、結果的にみんなの思惑通りに、私はそのスキー場で『ゲレンデマジック』にかかってしまった。
友人達は皆スキーが得意だったので、私はみんなに気を遣わせるのが申し訳なくて、傾斜の緩やかなゲレンデで一人で遊んでいた。
あんなに興味がなかったのに、雪の中でソリで滑ったり、雪だるまを作ったり、雪遊びは思いがけずに楽しいものだった。
ところがふと気が付くと周りには人影がなく、さっきまで近くで聴こえていた子供達の声もしなくなっていた。
しかもあんなに青空が広がっていたのに、いつの間にか灰色に変わり、雪がチラチラと舞い始めていた。
どうしよう。
雪玉を大きくしようと転がしてきたので、その跡は今のところは残っている。しかし、多分元の場所に戻るまでに雪で消えてしまうだろう。
暫く逡巡した後で、私はゲレンデに着いた時に係の人から受けた注意を思い出した。
道に迷った際の鉄則はむやみに動かないという事。
こうなったら仕方がない。私はビバークする事にした。ちょうど目の前に人が入り込めそうな洞窟があったので。
雪山の鉄則は決して寝てはいけない。寝ると体温が下がるので凍死してまうからだという。
寝ないために歌でも歌っていよう。
私が五曲目の歌を歌っている時、ふと何かの気配を感じて顔を上げると、洞窟を覗き込む男性の緑色の瞳と目が合った。
ゲレンデで迷子になった私を助けてくれたのは、隣国の若い公爵のブルーノ=ボルドール様。
輝くような金色の髪に、私の好きな緑色の瞳をした、とても美しい青年だった。
背が高く、まるで騎士様のような立派な体躯をしていたが、昨年から我が国に外交官として赴任していらしい。
あの日は任期終了が間近になったので最後の思い出にと、冬の休暇であのスキー場に遊びにいらしていたそうだ。
ブルーノ様はスキーで滑っていた時、雪山で歌声が聞こえるのを不審に思って洞窟を覗き込んだらしい。
ゲレンデマジックというか、吊り橋効果というか、それまで異性に全く関心のなかった私が、一瞬で恋に落ちてしまった。
もう友人達はやんややんやの大騒ぎで、散々囃し立てられた。
とはいえ、ブルーノ様は隣国の公爵様であり、私とでは不釣り合い。どうにかなりたいとかは一切考えてはいなかった。そう。帰宅して家からお礼をして、それで終わると思っていた。
それでも、両親や兄弟達のように自分も恋が出来て良かったと思っていた。
だから王宮の舞踏会で彼と再会した時にはとても驚いた。
ブルーノ様はゲレンデで見た時よりも更にその数倍は素敵だった。
これはもう、ゲレンデマジックなどではないと思った。
私は先日スキー場で助けて頂いた感謝を改めて述べて、何かお礼がしたいと言った。するとブルーノ様は、
「それでは一緒に踊って下さい」
と私に手を差し出されたのだった。
私は運動神経があまり良くない。音感はあるのだが、リズム感がないのでダンスも苦手だ。
しかし貴族にとってダンスは必須なので、とにかく幼い頃から厳しくダンスのレッスンを受けてきた。そのおかげで、私もどうにか人並みに踊れる。
こうやって初めて好きになった男性と一度でも一緒に踊れた事で、私はそれで今までの苦労が吹っ飛んだような気がした。
その上、ブルーノ様はとにかく上手だったので、私はまるで羽根がはえたかのように舞っていた気がする。だからきっと私も、両親や兄達のように頭がお花畑になっていたのだろう。
ポワワ〜ンとしているうちにブルーノ様に付き合って欲しいと言われ、私は何も考えずに頷いていたのだった。
そしてあっという間に私はブルーノ様と婚約したかと思うと、気が付いたら結婚式を挙げる事になっていた。
「ブルーノ様。今更なのですが、何故これ程までに結婚を急がれましたの?
婚約はまだわかります。でも結婚は雪が溶けて春になるのを待ってからでもよろしかったのではないですか?」
外はまだ銀世界で、自動車で帰国するのは大変だ。
「しかし、私の任期は今月までで、来月頭までには国へ戻らないといけません。
そうしたら貴女とは暫く会えなくなってしまうでしょう?
私の住む王都と貴女の住む王都は遠く離れていて、片道一週間もかかってしまうのですから」
「それはそうですが、私は貴方のご両親やご兄弟、そして親類の方々とはまだお会いしていないのですよ?
もし反対されたら、私は異国の地でどうすればよいのですか?」
「貴女の事は手紙で伝えてあります。両親も姉も弟もそれはもう喜んでいました。間違っても反対などしていませんよ。
我が国では自由恋愛が主流だし、結婚の基準は双方の合意であって、それ以外の者が干渉するなんて事はありえません。だからそんな心配はいりませんよ。
私は貴女のような素敵な女性と結婚出来て、世界一の幸せ者です。貴方を誰にもとられないように、大切に大切にします」
婚約者は美しい緑色の瞳を輝かせ、熱くこう語ると、熱く熱く私を抱きしめたのだった。
私は夫からのこの熱い情熱さえもらえれば、たとえ見知らぬ国でもどうにかやっていけると思った。
両親だって結婚を反対されて駆け落ち婚をして、底辺の生活をしながらも、その熱い情熱でそれを乗り越え、結局は数年後に諦めた両親に許されて呼び戻され、この伯爵家を継いだのだから。
しかし、情熱だけでは乗り越えられないものもあった。
いえ、むしろその熱い熱い熱によって、私は今息絶えようとしていた。
何? 何なの? どうしてこんな事になったの? 私はただ庭に出てみたかっただけなのに……
お父様、お母様、先立つ不幸をお許し下さい。
別れ際に、
「この世で一番強いのは愛の力よ!
愛があればなんでも乗り越えられるのよ!」
といつもの台詞で見送られたが、愛の力だけではこの国では生きてはいけなかった……
「アリスティ!!・・・」
遠くから愛するブルーノ様の声が聞こえる。
どうか、私の事など早く忘れて新しい奥様を見つけて下さい。私のように言い付けを破る事のない従順な方をお選び下さいませ……
嫉妬のあまりコロッと騙されるなんて本当に情けないわ……
激しい頭痛と気持ち悪さ、そして身体中の水分が出てしまうかのような大量の汗をかき、衣服から出た身体の部位に焼けるような痛みを覚えた。私はここで死ぬのだな、そう私は思った。
✽✽✽
ところが今度はあまりの冷たさに、このままでは凍死する!
そう思った瞬間、私は目は覚ました。
私はドレス姿のまま浴室の氷風呂に突っ込まれていた。
「アリスティ、アリスティ……
死なないで、僕を置いて行かないで。君無しでは僕は生きて行けない。アリスティ、愛してる!」
このような事態になっても通常モードの夫の台詞に、氷水の中で私は思わず笑ってしまった。
❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋
私が嫁いだ国の王都は、母国とは違ってとても大きな都市だった。
高くて厳かで立派な建物がそびえ立つ町並みは、雪を被っていてとても綺麗だった。
結婚式を終えて初めて自動車でこの王都に入った時、私はその美しさに見惚れた。そして春になったら夫と一緒にこの町並みを歩きたいと思った。
そしてようやく遅い春が来て雪が溶けた後数回、私は夫と王都へ出かけ、ショッピングをしたり、食事をしたり、お茶をしたりした。
主人の職場の方々や、主人の友人のご夫婦とも街中で出会ってご挨拶をした。私達は皆さんに祝福してもらい、とても幸せだった。
しかし、二月ほど経つと、私は街どころか屋敷の庭にも出られなくなった。
窓にも扉にも魔法がかけられていて、開かないようになっていたのだ。
「アリスティ、アリスティ……
どうか僕を置いて行かないで。
君無しでは僕は生きて行けない。
だからどうか外へは出かけないで。
アリスティ、愛してる!」
最初のうちは夫のこの言葉に照れていたが、全く外へ出してくれなくなった夫に恐ろしさを覚えるようになった。
もしかしたら私を監禁しようとしているのじゃないかしら…… 嫉妬で私を他人と会わせないようにしているのではないかと。
私がそう疑い始めると、それに気付いた夫は、慌てて屋敷から出してくれた。そして再びショッピングやレストランにも連れて行ってくれるようになった。
そして夫がいなくても、舞踏会で知り合った奥様方と喫茶店でお茶をする事も許されるようになった。
とはいえ、短い春が終わってからというもの、私は一歩も屋敷の表玄関から外へ出た事がなかった。夫は毎日玄関から王城へ登城しているというのに。
ではどうやって私が街へ出かけているのかというと、地下道を通っているのだ。
王都では地下道というか地下街が、各屋敷の地下室と繋がっていたのだ。
この地下道は元々は坑道だったらしい。
この国は地下資源が豊富で、その地下資源を利用した鉱業や工業で繁栄してきた国だったのだ。
そしてこの国は一年の三分の一ほど雪に覆われていて、外を移動するのはかなり大変なことだという。そこで、使われなくなっていた坑道を地下街に整備したようだ。
ただし、客は地下街から地上の店舗へとは上がれない構造になっていた。
「今は夏なのだから、地下ではなく地上をお日様を浴びながら街を歩きたいわ」
お茶を飲みながら私がため息交じりにこう愚痴ると、奥様方がとんでもない!という顔をした。
「この国のお日様の威力は凄いのよ。常春の国から嫁がれた貴女にはわからないでしょうけど」
「日焼けしたらどうなさるおつもり?」
「それに紫外線もすごいのよ。少し外を歩いただけでもシミだらけになるわ」
「そうそう。その上、紫外線はシミだけじゃなくて、将来シワにもなるのよ。恐ろしいわぁ〜」
なるほどと私も思った。皆さんは外へ出かけないので、お肌があんなにも白くて、シミの一つもないなのですね。
私は自分の手に目をやってため息をついた。
私は学生の頃は植物学を選考していて、フィールドワークを常に行なっていた。
珍しい植物が見つかれば、すぐに現地に訪れては直接観察をしていたのだ。
そのため、一般的なご令嬢と比べると外を出歩いていた時間が長く、いくら対策をしていたとはいえ、お日様を浴びていた時間はかなり多かった。
まだ十八ですからシミやシワはさすがにまだないが、こちらの奥様方のような色白美肌にはほど遠い私だった。
しかも手は対策し辛かったので、かなり荒れている上に白魚の手とはまさに正反対だった。
今頃になってそんな事に気付くとはなんて鈍いのだろう。
他の奥様達と比べて私は日に焼けていて肌が荒れている。だからこれ以上酷くならないように、ブルーノ様は私を外へ出さないようにしているんだわ。
きっと夫は友人や知り合いの男性に私の事で馬鹿にされたり、同情されているのに違いない。
私はようやくその事に気が付いて落ち込んだ。今の私ではあの美しい夫に釣り合わないわと……
たしかあと三ヶ月後に王宮のパーティーがある筈だ。そこで私はブルーノ様の妻として王族の方々に初めてご挨拶する。
それまでに自分をもっと磨かなければと、私は遅まきながら肌の手入れに力を入れ始めた。
夫は私の様子が少し変わった事にすぐに気付いて、どうしたのかと尋ねてきたが、まさか、自分が貴方に相応しくないから落ち込んでいるとはとても言えなかった。
夫はそんな私を心配して以前にも増して花を買ってきては、私に愛の言葉を囁いてくれるようになった。
ところが、私は夫が贈ってくれる花を見る度に余計に落ち込んだ。
何故なら夫が贈ってくれる花は造花やプリザードフラワーやドライフラワーばかりだったからだ。
それらはどれもみな美しく、とても高価な品で、決してそれらが気に入らなかったわけではない。
しかし私は切り花の花束が好きなのです。それを知っている筈なのに、何故切り花を買ってきてくれないのかがわからなくてイライラしました。高価な薔薇や蘭じゃなくても、野に咲く花でもいいのに……
婚約中はいつも花束を贈ってくれた。そして時には、庭先の花を摘んで持って来てくれた事もあった。私はそれがとても嬉しかったのに。
そんなある日、私はモヤモヤした気持ちをどうにか晴らしたいと、地下街の花屋へ向かった。
花屋はかなり遠くにあったので、それまで行った事がなかった。そう、地下街は地上とは違って自動車や馬車などの乗り物を使えないのだ。
しかしその花屋へ向かう途中で、私は一人の女性に呼び止められた。
それはとある侯爵令嬢で、あまり評判の良くない方のようで、夫や友人達から用心するように注意を受けていた。
「まあ、ボルドール公爵夫人ではありませんか。お久しぶりですわね」
「ごきげんよう、ナタリー・ドット侯爵令嬢」
「一緒に御茶でもいかがですか?」
「お誘い頂いてありがとうございます。でも残念ですが、買い物に行く途中ですので、また次の機会の時に……」
「何をお買いになりたいのですか?」
「部屋に飾るお花を買うつもりですの」
「お花とは鉢植えですか?」
「いいえ、切り花ですわ」
「まあ、切り花ですか?」
ナタリー嬢は一瞬驚いた顔をした後で、意地の悪い顔をしてこう言った。
「もしかしたらボルドール公爵夫人は、公爵様から花束を頂いた事がないのではないですか?」
私はカチンとして
「貰った事くらいありますよ。当然ですわ」
と言うと、側にいた侍女がこう言った。
「旦那様は、奥様に対して変わらない愛を表すためにプリザーブドフラワーやドライフラワーを贈られているのです」
「ほうら、やっぱり頂いた事がないのですわね。
それではお庭のお花も切って頂いた事がないのでは?
それはそうですわよね。カミラ様が大切にお世話していた花壇の花をボルドール公爵様が切られるわけがありませんものね、オホホ……」
ナタリー嬢の馬鹿にしたような笑い声が頭の中で響き渡った。
その後、私はどうやって屋敷まで帰ってきたのかわからなかった。
夫が私を愛しているなんて大嘘だった。夫は元の奥様か婚約者か恋人かはわからないけれど、カミラ様という方をずっと愛しているのだわ。
その方と生き別れか死に別れかはわからないけれど、その方と一緒に居られなくなったので、その身代わりに私と結婚したのよ。
もしそうでなかったらあんなに結婚を急ぐわけがなかったし、わざとらしくあんなに愛してるって毎日連呼したりしないわ。
「アリスティ、アリスティ……
どうか僕を置いて行かないで。
君無しでは僕は生きて行けない。
だからどうか外へは出ないで。
アリスティ、愛してる!」
なるほど、あの言葉の意味がようやくわかったと思った。私までカミラ様のように逃げ出さないように庭にも出さなかったんだわ。
しかもカミラ様が庭に造った花壇の花を私なんかには見せたくなかっただろうし、切って活けるなんてそれこそとんでもない事だったんだわ。
本当に愛の力は強いわね。
私は玄関の前でペタンと座り込みました。侍女や執事達が何やら必至に話しかけてきましたが、彼らの言葉は全く私の耳には入ってきませんでした。
そして玄関が開いて城から帰って来た夫が屋敷に足を踏み入れた瞬間、私は夫の脇をすり抜けて外へ飛び出した。
私は夢中で広い庭の中を走り回った。この屋敷を出て行く前に、どうしてもカミラ様の花壇というものを見ておきたかった。春先にはまだ何も生えていなかったので。
数分間走り回って、私はようやく豪奢な噴水の側にある立派な花壇を見つけた。
しかし、その花壇を見た瞬間、頭がクラッとした。そして私はようやくその場の環境の異常さに気が付いた。
暑い、暑い、暑い・・・
いや、暑いなんてものじゃない!
まるでサウナの中のようだ…
熱した布団にぐるぐる巻きにされているみたいで息苦しい、喉が焼けるようだ…
両手で頭を抱えると、黒髪のせいか、熱せられ熱すぎて、私は慌てて手を離した。
額から汗がダラダラと流れてきて、いくら手で拭っても垂れてきて、それが目に入って凄く痛い……
「アリスティ・・・」
私の名を呼ぶ夫の声がしたので振り返ったが、汗で目が霞んで何も見えなかった。
何故夫が自分を外へ出さなかったのかがわかった。それを教えてくれなかった理由はわからないけど……
何で花束をくれなかったのかもわかった。それを教えてくれなかった理由はわからないけれど……
どうか、私の事など忘れて新しい奥様を見つけて下さい。私のように言い付けを破る事のない従順な方をお選び下さいませ……
嫉妬のあまりにコロッと騙される女ではなく……
激しい頭痛と気持ち悪さに加えて目眩を起こした私は、その場に倒れてしまった。
焼けたように熱い石畳に接し、両腕に焼けるような痛みを覚えた。
ああ、私はここで死ぬのだなと思った。
そして真っ白な視界に入ったのは、金色に輝く髪に緑色の瞳をした、美しい夫の悲しい顔だった・・・
❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋ ❋
氷風呂の中で私が目を覚ました時、夫が私の手を握って泣いていた。そして夫のスーツはびしょ濡れだった。
私は熱中症だった。
ずっと快適な屋敷や地下街にいたのに、いきなり四十度を越す外へ出たので、体の機能がその強烈な暑さに対応出来なかったのだという。
私が感じたように、一歩間違っていたら私は本当に死んでいたらしい。
それを医師から聞いた夫は更に大泣きした。
「アリスティ、アリスティ、ごめんね。みんな僕が悪いんだ。
君に嫌われたくなくて、君に捨てられたくなくて、君に出て行かれたくなくて、本当の事が言えなかったんだ。
君が助かって本当に良かった・・・
君が死んだら僕は生きて行けない・・・」
この国は大陸の中央部にあり、大きなすり鉢状の底のような場所にある。それ故に元々冬は寒気が、夏は熱気が籠もる地形だった。
それが百年ほど前から、地下資源の採掘と共に鉱業や工業が盛んになって、沢山の高い煙筒から黒い煙が上がるようになると、更に気温が上がっていった。
そして三十年くらい前からは地上では猛烈な暑さのために、草花が育たなくなった。
国で一番美しいと有名だったボルドール公爵家の花壇、通称『カミラの花壇』にも、花は一切咲かなくなってしまった。
因みに『カミラ』とは先々代のボルドール公爵夫人の名前で、花をこよなく愛し、見事な花を咲かせる事で有名だった女性だ。
「私はご先祖の元公爵夫人に焼きもちを焼いていたのね。恥ずかしい」
その話を聞いたアリスティは真っ赤になって、暫く枕に顔を埋めていた。
この暑さを凌ぐ為に、様々なものが開発されていったが、その中でも一番画期的だったのは、外気温を建物の中に入れない断熱材だった。
この建築資材によって、人々は建物の中にさえいれば快適に暮らせるようになったのだ。
しかし、外へ出るのは段々と厳しくなってきた。
そこで元々は雪の多い冬場に利用していた地下街を、次第に夏の間も利用するようになったのだ。
「ああ、この暑さで植物は育たないから花束をもらえなかったのね。それにあのプリザーブドフラワーは当然輸入品だろうから、相当お高かった事でしょう。
それなのにそれを頂いて文句を言っていた私は、なんて強欲な人間なのでしょう。きっと夫や周りの人達に贅沢で我儘な女だと思われていた事でしょうね」
アリスティはかなり落ち込んだ。
そして彼女が一番知りたかった、何故夫のブルーノがこの事を隠していたのかというと・・・
アリスティには信じられないけれど、この国生まれの女性ならば、この暑さにもまだどうにか我慢出来るらしい。しかも市井の人々などは、まだ普通に地上で働いているのだという。
しかし、他国から嫁いで来たお嫁さんの多くは、この暑さを知るともう耐えられないと離縁を言い出す人が多いらしい。
予め話を聞いて覚悟して嫁いできても、想像を絶する暑さに耐え切れずに逃げ出すのだそうだ。
いくらなんでも暑過ぎる、こんな国で一生暮らすなんて嫌だと。
そして離婚に応じてもらえなかった場合、花嫁が逃げ出して、不注意に外にある物に触れて大火傷を負ったり、熱中症にかかって倒れたり、そのまま亡くなったりするという悲劇が多々起こるようになった。
そのせいで近頃では、他国の者との結婚を避ける人も出てきたらしい。
ボルドール公爵ブルーノもそんな悲劇は起こしたくなかったので、国内から花嫁を迎えようと思っていた。
しかし、赴任先の国のリゾート地で、彼は一人の女性に一目惚れしてしまった。
そして王城のパーティーで偶然に彼女と再会したブルーノは、意を決して彼女へ交際を申し込んだ。
雪の降るゲレンデで遭難しても、歌を歌っていられるような前向きで逞しい女性なら、母国へ連れ帰っても大丈夫ではないかと。
しかも彼女は仕事で付き合いのあった伯爵家の令嬢で、彼女の両親の許しも得る事が出来た。こうして二人の仲は急速に進んだ。
ブルーノの思いは強くなる一方だったが、自国の問題を考えるとなかなか結婚の話を切り出せずにいた。
すると、伯爵夫妻の方から婚約話を持ちかけられた。そこで彼は正直に自国の事情を説明した。彼女を愛しているからこそ尚更騙して連れ帰る訳にはいかなかったからだ。
ところがだ。
伯爵は国の外交部門にいたので、当然隣国の情報は把握していたのだ。そしてそれを知りつつ夫妻はこう言ったのだ。
「愛は試練が大きければ大きいほど燃え上がるものです。そして燃え上がった熱い心は何よりも強いのです。
今まで恋愛に全く関心のなかったあの子が恋をしたのだから、君への思いが、たかが暑い寒いだのの気候問題くらいで、貴方への愛情を無くす訳がありません。気にせず連れて帰って下さい。
ただし、最初に話してしまうとびびってしまうから、夫婦生活が安定してから真実を教えた方がいいですね!」
「・・・・・・」
ああ、諸悪の根源は私の両親でしたか……
ええ、ええ、私は夫をブルーノ様を愛している。たかだか四十度超えの猛暑くらい負けたりしない。土竜のような生活にも、大好きな植物研究が出来なくても我慢する。
しかし、正直に言ってもらえたら、自分は夫に相応しくないと落ち込んだり、醜い嫉妬をしなくて済んだのにと、ちょっと悔しい。
それにこの事を知っていたら、もっと早くに色々と対策を考えられたかもしれないし。
例えば冬場の雪を貯めておいて夏場の温度を下げるのに利用するとか、地下の中でも育つ植物を研究するとか……
そう私が話すと、夫は一瞬驚いた顔をしてから、嬉しそうに破顔した。
「それは、これからも僕と一緒にいてくれると言う事かい?」
「当たり前でしょ。
この世で一番強いのは愛の力よ!
愛があれば二人でなんでも乗り越えられるわ!」
私は上半身を起こすと、ベッドに腰を下ろしていた夫に思い切り抱き付いたのだった。
アリスティの体調が元に戻ってようやくボルドール公爵家が落ち着くと、ブルーノは何故妻が命の危機に陥る事になったのかを検証した。
もちろん大事な事を隠していた自分が悪いのだが、どうしてあの日に妻があんな行動をとったのかが不思議だった。
彼女はその訳を決して話さなかった。誰を庇っているんだ? ブルーノは少しモヤモヤしたが、侍女のおかげでそれは大いなる誤解だという事がわかった。
元凶がナタリー・ドット侯爵令嬢の付いた嘘だと知ったブルーノが彼女を調べてみると、彼女はここ数年に逃げ出した異国の花嫁達全員と関係があった事がわかった。
他国との婚姻は、血が濃くなりつつある貴族同士の結婚を減らすための国策だった。
しかし、自国の高位貴族との結婚を望んでいたナタリーはそれが気に入らなかった。そこで嘘をついたり、執拗な嫌がらせをして花嫁達をこの国から追い出していたのだ。
彼女のせいで逃げる途中で亡くなったり、体調を悪くした異国の花嫁が何人もいたため、多くの貴族達の恨みを買って、彼女は砂漠に建つ修道院へ送られた。
そこは昼間は五十度以上、夜はマイナスまで下がる所だ。しかも王都や町と違ってその建物には断熱材が使われておらず、地下もなかった。
彼女はそこで、異国の花嫁達が受けた苦しみと同じものを初めて体験したのだった……