神田、おれだよ
深夜にかかってくる電話なんて大抵ろくなものじゃないし、出たところでいいことなんてたぶん一つもない。
でもいきなり叩き起された頭はそんなこと判断できないから、ほとんど反射でわんわんと鳴く電話をつかんだ。
もしもし、とかろうじて応じた声は寝ぼけてふらついている。
「………、か?」
返ってきたのは、雑音混じりの不明瞭な声だ。
俺の頭が起きていないのか、それとも電波が悪いのか、うまく聞き取れない。
もしもし? とさっきより強めの語気で繰り返す。
雑音は耳に近くなった。
「神田、か?」
電話の向こうは俺の名前を呼んだ。
俺にかけてきたんだから当たり前だろうと思う。
深く考えることなく「そうだけど」と答えた。
「ああそうか、お前にはつながるんだな良かった、神田、良かったよ、」
こんな夜中とは思えない、妙に上擦った声色が電話を通じて脳を揺らす。未だ眠気の中にうずくまっている俺を、起きろ起きろと急かすように。
「おれだよ、神田、おれだよ」
神田、おれだよ。わかんないか? おれだよ。
電話の向こうは繰り返した。
ザラザラと混線したような耳障りな音が遠のいて、さっきよりはっきりと相手の声が耳に届く。
そういえば、知っている。この緊張感のない声には、馴染みがある。
「……一条?」
思いつくまま呼びかけると「そうだよおれだよ」と電話から嬉しそうな声がした。
「なんだよこんな時間に」
あからさまに不機嫌な声が出た。眠気が薄れて頭が冴えてくるにつれ、憎たらしい思いがこみ上げてきたせいだ。何時だと思ってんだと、時計を見れば三時。
三時! 思わず目を見張る。
本当に、お前何時だと思ってんだ。いよいよ腹立たしくなる。
「悪い、なんか、誰かと話したくてさあ」
迷惑そうな俺の態度にも動じず、電話口の一条はいやに明るい。
俺は無意識に口を動かしていた。
なんだよお前。
「死んだんじゃなかったのかよ」
ごく自然につるりと滑り出た。
自分でも順序がおかしいと思ったが、口に出してから何を言っているのか気がついた。放った言葉がブーメランのように行って戻って、俺の呼吸を止める。
一条は先週、雨の日にバイクに轢かれて死んだ。
道路に頭を打って即死だった。通夜もとうにすんで、あいつが座っていた席には今日も花が飾られていた。
さっと腹が冷える感覚と、かっと頭に血が上る感覚、同時に起こった。
「誰だてめえ。いたずらにしてもタチが悪いぞ」
「違うっておれだよ声でわからないかいたずらじゃないおれなんだ」
息継ぎなく早口になる。慌てた時の一条の癖だった。そんなわけないだろと訝しがる自分と、まさかと一瞬立ち止まる自分、両方の俺がいた。
「だって、お前……死んだじゃん……」
「うん、死んだけどね」
信じてもらいたくて必死なのだろう。疑う俺に、一条はいろんな思い出話をした。
その中には、俺と一条しか知らないはずの、部室の冷凍庫に入れっぱなしにしてコーラを爆発させた逸話もあった。当時の先輩は軍曹と呼ばれるくらいおっかなくて、俺たちが犯人だとバレたら何をされるかわかったもんじゃなく、俺も一条も貝よりも口を固く閉ざしていた。
「まじで一条かよ」
「おれだよ、死んじゃったよ、神田、おれ」
「知ってるよ。俺、初めて葬式出たもん」
「おれも葬式出たの初めて」
「お前の場合出たっつうか主役じゃねーかよ」
「へへ」
笑い方が、俺が知ってる一条と同じだった。
へへってお前は何を笑ってんだよ。死んでんだぞ。
死人と通話しているというのに、不思議と怖い気はしなかった。奇妙な気持ちにはなったものの、それより、そうか、死んでも一条は一条のままなんだな、と腑に落ちる思いの方が強かった。
「一条さ、今どこにいんの。死後の世界は暗いとか寒いとか、よく聞くけど」
「よくわかんない、寒くはないけど、暗い、かな、あと体かゆい」
「死んで尚かゆいのかよ。難儀だな」
また一条は、へへと笑った。時折、ノイズが声にかぶさる。
あっさりと死んでしまったものの、時間を持て余した一条は誰彼構わず電話をかけていたらしい。
その中で、唯一つながったのが俺というわけだ。俺は霊感なんてないし、今までそれらしいものなんて一度だって見たことがない。
そういうのは関係ないと思う、と一条は言った。明確な理由なんてない、石を投げたらたまたま当たったみたいなもんだと。つまりくじ引きだ。一条の意思も、俺の意思も関係なく、数ある知り合いの中から一条は俺を引き当てたんだろう。
俺なんかよりも、親や兄弟に繋がれば良かったのな。
通夜の席で憔悴しきった一条の家族を思い出してそう言うと、うまくいかないよなあ、と一条は力なく応えた。
「でもおれすごいよ、なんか死んでから、わかんなかったことがわかる」
「なにそれ。哲学?」
「違う違う、そういうんじゃなくて、知りたいと思うことがなんとなくわかる」
鼻息まで聞こえそうな、一条の興奮で鼓膜が震える。奴の声が大きくなるとノイズも威力を増すようで、思わず携帯を遠ざけた。
「早坂っているじゃん、クラスに」
「お、おう」
俺は思わず携帯を耳にくっつけるように戻した。
早坂は俺が知っている中で一番かわいい女子だ。
「早坂のさ、好きなやつが誰かとかもわかるんだよ」
「まじかよすげえ」
仄かな期待に胸が高鳴るのがわかった。
こんな状況で、わざわざ話題に出すってことは、早坂の好きな奴って、もしかして――
「桐島だった」
桐島は俺が知っている中で一番イケメンの男子だ。
「あ、そう……」
「いやあ、やっぱりか、ていう感じだよな」
「なんでそれ俺に知らせようと思ったわけ……」
「ごめん、このがっかり感、分かち合いたくて」
それから十分くらいどうでもいい話をして、通話は終わった。
雑音がどんどんひどくなって、会話を成り立たせるのが難しくなってきたからだ。
電話を切る時、俺は遠くなる一条の声に「またかけて来いよ」と言った。葬式の時は実感がなくて、悲しみ方もわからなかったけど、もうこいつと二度と話すことはないのかと思ったら、急にやるせない気持ちに襲われた。
別に俺と一条は、親友とかそういうんじゃない。でも部活が同じだったし、友達の中では結構気が合うやつだった。このまま当たり前に、だらだらと友達で居続けるもんだと思ってた。
一条は、雑音にまみれながら、何度も言った。いいのか、ほんとに、かけてもいいのか。
俺はそれにいいよと応じた。かけてこいよ。話し相手になってやるから。
一条は嬉しそうだった。遠慮しているのか、「でも……」とか何とかごにょごにょ言いかけてたけど、もうその時にはノイズの方が勝っていて、聞こえなかった。
翌朝、確認した携帯の着信履歴にはなんの形跡も残っていなかった。
夢かとも疑ってみたが、そうではないことが二日後の晩、電話が再び鳴ったことで証明された。
俺はやっぱり寝ていたが、同じように寝ぼけながら出ると電話の向こうから照れくさそうな声がした。
「神田、おれだよ」
以来、ちょくちょく一条から電話が来るようになった。決まって時刻は夜の三時で、次の日が休みならまだしも、授業がある平日は割としんどかった。もっと早い時間にしろよと抗議してはみたものの、この時間以外はうまく繋がらないらしい。
一条との会話は、一条が死んでること以外、とりたてて変わったことはなかった。
俺が学校であったことを話すと、一条は頷いて笑って、笑い声が大きくなってノイズに妨害された。まだ俺が読んでない漫画のネタバレを一条がサラッと話して、俺がキレて一条が謝り倒したこともある。生きている頃から、こいつは時々そういうところがあった。悪気はないけど慎重さもない。こういうやつだったよなあ、と呆れる頭の中で、自然と過去形になっていることに気づいて、しんみりしたりもする。
ちなみに好奇心から、早坂が片思いしている桐嶋に好きなやつはいるのか一条に聞いてみると、桐嶋の好きな相手は違う女子だったので、俺は桐嶋の恋を応援することにした。桐嶋がんばれ。
この頃から、俺は電話に繋いだイヤホンを耳にさして眠るようになった。
深夜三時に電話が鳴っても、家族に聞こえないように。
「はあ、おれもう死にたいよ神田」
「これ以上死ぬの難しいだろ。何、なんかあった?」
「うーんとね、ええと、神田、日記とかつけてる?」
「日記? つけてないけど」
「そっか、もし家族に見られたくないものがあったら、処分しといた方がいいよ万が一のために」
「お前の、万が一のために、重いな……。もしかして、日記つけてたのか? 家族に見られた?」
「日記じゃないけど、ノートがさ、」
「ノート」
「おれが、闇の力に目覚めた時の必殺技を書いたノート」
翌日、邪神として異界で召喚された際に名乗るめちゃくちゃ長いカタカナの名前が書かれた、中学の頃のノートを俺は庭で燃やした。
「神田、そっち雨? さっき音が聞こえた」
「ここんとこずっとでさ。嫌になるよ」
「そうなんだ、おれのところは穏やかだよ」
「へえいいな」
「こっち、来る?」
「い、行かない」
「へへ、だよね」
時々、一条は笑いにくい冗談を挟んでくるので、ヒヤッとした。死人の口から聞くブラックジョークは切れ味が鋭い。
深夜の電話は、きっかり三時に鳴り続けた。電話に出るたび、決まって一条は言う。
「神田、おれだよ」
名乗らなくたってお前しかいないって、こんな時間にかけてくる馬鹿なんて。
妙な習慣でも、繰り返していれば生活に馴染んできて、慣れてくる。だんだん、一条からの電話が当たり前になってきた。だけど、毎日じゃないとはいえ、寝ているところを起こされているわけだから、鬱陶しい時もあるし、眠りが深くて起きられない時もある。
それに、電話の頻度は、何となく以前より増えてるような気がしていた。
年寄りの話が長い理由と同じだ。一条はたぶん暇なのだ。向こうには、たぶんゲームもネットもないだろうし。
「神田に電話することくらいしか、やることなくて」
そんな風に言われてしまえば、俺も黙るしかない。それに、俺からかけてこいよなんて言った手前、今更控えてくれとは言い出せなかった。
そういえば、俺は葬式以来、一条に花を手向けるどころか、線香もあげてない。
それを言うと、別にそういうのはいいって、とタクシー代を払う時の親戚同士みたいに一条は遠慮していたけど、よく考えてみたら、俺は一条の家の場所も知らないのだった。そこそこ仲良くしていた割りに、俺は、俺が思うより薄情なやつなのかもしれない。
そういう後ろめたさもあって、話し相手になるくらいなら、と一条からの電話にできるだけ出るようにしていた。とはいえ、眠いものは眠いので、半分目を閉じながら頷いたり返事をしたり、そのまま寝落ちして朝になってることもある。
次の電話で「悪い寝たわ」と言えば「へへ」と一条は笑って「寝るよなあ、そりゃ、そっち三時だもん。おれだって寝るよ」ともう一度笑った。もうかけない、とは言わなかった。
その夜も、一条の声を聞きながら、うとうとしていた。
「でさ、あの時の値段と比べたら、今半額になってるの、半額だよ神田、信じられる?」
一条は、生前プレミアがつきそうだという邪な理由で買った初回特典付のDVDの話をしている。値下がりしようが値上がりしようが、温まる懐はもうないのに、なかなかがめついやつだ。
俺は、眠りに誘われそうなふわふわとした心地でそれを聞いていた。こんな夜中に、ましてや死人になってまで、力説する話じゃない。でも、今日に限らず、こいつの電話はいつもこんなものだった。確かに、深刻な話を切り出されても、俺だって返事に困る。他愛のない話題しか、俺たちはお互いに持っていない。
一条は、まだ値上がりの可能性について語っている。ノイズの音が大きくなったり、小さくなったりして、波のように聞こえる。ふと、あれ、なんでこいつと話してるんだっけ、と不思議な気持ちになる。それから、死んでるからだな、と納得する。死んでなければ、こんなに会話をすることもなかったかもな、と続けて考える。
生きてる頃と変わらない一条の声が、耳に弾んでいる。
本当はきっと、一条だって俺なんかより話したい相手がいるはずだ。だけど、俺以外は聞いてくれるやつがいない。お前の声を聞きたくてたまらない人は、きっとたくさんいるだろうに。
ああ、一条は、
「寂しいだろうな」
半分眠っていたせいか、浮かんだ言葉がそのまま声に出ていた。
騒がしかった電話口が、急にしん、と静まり返った。
「さみしいよ」
イヤホンから、弱々しい音がした。
プツリと電話が切れる。
それから一週間、一条から電話は来なかった。
その一週間で、俺は体調を崩した。寒気がして、熱が出た。鏡を見ると、明らかに顔色が悪い。
親には、風邪を引いたとだけ言って、それまでの寝不足を取り戻すように眠った。夜な夜な幽霊と話し込んでたなんて言ったら、もっと心配するだろう。全身にお経を書かれる、耳なし芳一の怪談を思い出した。
確かあれは、悪霊に連れて行かれるんだっけ。
夢うつつで考えていた時、枕元の電話が鳴った。
はっとして、時計を見れば深夜三時。
「神田、おれだよ」
一条だった。俺は何故だかホッとした。ホッとしてから、あれ? とも思った。
いつもへらへらと陽気な声色なのに、今日は怒られた犬みたいに元気がない。
「一条?」
「……」
「おまえ一週間、どうしてたんだよ」
「……の、……に……」
声が遠い。俯いてい喋ってるみたいに、くぐもって聞こえにくい。
もしかして自分と同じく、体調でも崩したのかと思った。だけど、一条はもう体がないから、風邪を引くことも、病気になることもない。頭が、ずんと重くなる。
「神田、ごめん」
ようやく聞こえた一条の声は、震えていた。半分、泣いているようにも聞こえる。落ち着きのない、怯えた声だった。
「おい、何? ごめんって」
「最初は、そんなつもりじゃなかったんだおれ」
ザザ、とノイズ音が大きく響く。少し割れた一条の声が、ノイズの向こうで叫んでいる。いや、謝っている。ごめん、ごめんと何度も繰り返している。俺に向かって、すがりつくみたいに。
電話の声は急に遠ざかったり、すぐそばにいるみたいに近くなったりした。
「神田に迷惑かけるつもりなんかなかったほんとうだ嘘じゃない」
慌てると一息に喋る、一条の癖だ。こんな風に涙声で聞くのは初めてだった。びりびりとノイズ音が一条の声と重なる。近い。かすかな息づかいまで、雑音と混じって耳に響く。どうしてだろう、呼吸が少しずつ苦しくなってきた。
おれ、話相手がいるのが、うれしくて、それだけだったんだ
こんなこと、続けるつもりじゃなかった
ごめん、神田、ほんとにこんなことに、なるなんて、ごめん
俺は寝ぼけてもいないし、言葉も聞こえているはずなのに、少し熱っぽいせいか一条の言っていることがわからない。
俺は何で、一条に謝られてるんだ? 一条は、俺に謝るようなことをしたのか?
「おれ、だめだってわかってるのに、電話、かけるの、やめられなかったんだ、神田」
喋っている一条の声が、途中で地の底みたいに低くなって、高くなって、ぐにゃりと歪む。
「おれ、さみしかったんだ、さみしかったんだよ神田」
ぐにゃぐにゃと歪んで伸びた、女か男かわからない音が、震えながら語りかける。
自分が話している相手が、一体誰なのか急にわからなくなった。
向こうにいるのは、一条だ。一条だよな。怖がる必要なんかない、だって一条は友達なんだから。
だけど一条がいるのは、生きた人間の世界じゃない。
重くなった頭が、ずきずきと痛む。
――こっち、来る?
いつか、冗談交じりに言った一条の言葉がよぎった。
心臓の音が、やにわに内側から響き始める。熱でのぼせた額から、汗がゆっくり伝う。
もしかして一条は、俺を向こうに――
「おれの電話の通話料、ぜんぶ、神田の方に行くって」
「……え?」
俺は一条が何を言ってるのか、またわからなくなった。
「……何? 通話……何?」
「神田、ごめん、おれがかけた分、そっちの支払いになるって、なかなか言えなくて」
「支払い?」
「たぶん来月あたり、数ヶ月分、いっぺんに請求が」
「は?」
一条が涙ながらに言うには、通常圏外とされる死の地から(通常圏外とされる死の地って何?)電話をするのは、海外以上に通話料金がかかるとのことだった。
月に二度までは無料通話だが、以降は高額の通話料が請求される、らしい。俺に。
……俺に?
「一条、おまっ……ふざけんなよ!」
「ごめん、ほんとごめん、この通話の請求って誰に行くんだろうって思ってたんだけど、生きてる人間の方に行くらしくて、」
「その料金システム何!?」
俺が熱を出したのは、連日の寝不足のせいで、ただの風邪だった。
一条は、言葉通りに泣き言を言った、ただの寂しがり屋だった。
黙ってたら、何とかなるかなあと思ってた、と申し訳なさそうに、でもどこかあっけらかんと言う一条に悪気はなくて、やっぱり慎重さもなくて、部室の冷凍庫のコーラを爆発させた時のことを思い出した。あの時も、黙ってれば何とかなったもんな。いやそういうことじゃねえよ、お前ふざけんなよ本当に。もっと早く言えよ。ていうか金かかるのかよ。
言いたいことが山ほどありすぎて逆に何も言えず、俺が息だけ荒くしていると、ノイズとともに「へへ」と笑う声がした。
ああ、こいつやっぱり死んでも一条なんだなあと俺はブチ切れながら思った。
翌月、親がひっくり返る携帯の請求額が届き、親父にビンタを食らった後、俺はバイトを始めた。
今は、月に二回だけ、深夜三時に電話が鳴る。
桐嶋と早坂は二ヶ月後に付き合った