午前二時の内科病棟 〜廊下の足音〜
私は長嶺桐絵、二十三歳。
一般内科病棟のナースになって二年目の夏が来た。
今夜は五歳年上の頼もしいお姐さん、柳原先輩とペアでの夜勤。
茶髪のロングヘアを勤務中はお団子に纏めてキリッとした美人の柳原先輩は私を『長嶺』と呼ぶ。
お盆の今、夜の病棟は静かで救急の当番病院でもないから少し安心している。
そんな午前二時、ナースコールが鳴った。
「あれ?5号室、……変なの。誰もいないのに」
私の担当チームに入っている5号室は空室だからコールのあるはずがない。
「5号室だって?やだ、オバケかもよ。長嶺、一緒に見に行こうか?」
「怖い、そんなこと言わないで下さい。じゃあお願いします」
懐中電灯を手に柳原先輩と確認に行ったけど、5号室には誰もいない。
ナースコールをテストもしてみたけど異常なし。
ところが、またしばらくして5号室からコールが来た。
「え、また。やだ……」
応答しようとしたら後ろから柳原先輩が手を押さえた。
「長嶺、待って」
そのままナースステーションを出た先輩は足音を立てずひたひたと廊下を走って行く。
私は廊下を覗いてその背中を見ていた。
先輩が男性患者の居る四人病室に入りしな、話声が聞こえた。
そうだったのか。もう!ひどい。
コールを切って私もその病室に向かうと柳原先輩が小声でお説教していた。
「絶対にやめてください。これで本当に困っている人のところに行くのが遅れたりしたら大変なんですから」
「はい。ごめんなさい柳原さん、桐絵ちゃん。妙に静かで寝つき悪くて、出来心です。二度としません」
それは病院の長い夜に退屈した患者さんのいたずらだった。
この古い病院の他のフロアでは、不思議な影を見たという噂を聞いたこともある。
自分は霊感がある、という人は『ここ、時々何か居るよ』なんて言うこともある。でも私は別に霊感もないと思うし平気。
また別の夜勤の日のこと。
午前二時過ぎ、私は一人でナースステーションに居た。
今夜もまた柳原先輩とペアだけど、今先輩は夜中も点滴をしている患者さんの部屋に用事で行っている。
シンとした廊下で足音がした。
ゆっくりとスリッパを引きずって、すり足で歩くみたいな音。
患者さんの誰かがおトイレに行くのかな。
病室にもおトイレはあるけど夜中に水を流すのに気を遣うのかしら。
でも、あまりにゆっくりズリッズリッと足を引きずるような音。
その重い足取りが心配になって廊下を覗くと、白い浴衣を着た小柄な人影が廊下の奥に向かって歩くのが見えた。
おトイレの方向じゃない。
人影は廊下の手すりにもたれかかるように歩く白髪の老女に見えた。
あの人倒れちゃいそう、すぐに車椅子持って行かなきゃ。
具合が悪いのに無理して歩いてるみたい。
なぜナースコールしなかったんだろう。
あの人って誰だっけ?名前が思い出せない。
変だな、新しい患者さんで柳原先輩の担当チームの人だったかなあ。
急いで用具室から車椅子を出し、押しながら早足で近づいて声を掛けた。
「どうされましたか?車椅子を持ってきましたから、お部屋までこれで行きましょう」
浴衣の老女は立ち止まって振り向いた。
全然見覚えがない顔。
この病棟に入院している患者さんじゃない!
病院の寝間着じゃなくて浴衣だし、ほかのフロアから認知症の患者さんが迷い込んじゃったのかな?
柳原先輩に相談しないと。
けれど老女はひどく顔色が悪く、見開いた目は落ち着かない感じにギョロギョロして目線が定まらない。
荒く息をしながらパクパクと乾いた唇で何かを呟いているけど聞き取れない。
「苦しいですか?横になりたい?」
「違う……違う……」
「え?何ですか、違う?」
手すりを掴んでいる青白い彼女の手が震えている。
「立っていたら辛いでしょう。どうぞこちらに座って下さい」
車椅子に腰掛けるよう手を貸そうとした。
でも老女はイヤイヤするように首を振り、ズリッと思い足音を響かせて後ずさる。
「違う……違う……」
危ない、転んじゃう!
踏み込んで彼女の体を支えようとした時。
「どこにも居ない!!ここじゃない!!」
耳元で大きな声がして、老女がフッと消えた。
「長嶺、何してる?廊下に車椅子置いて」反対側から柳原先輩が歩いて来た。
「あ、柳原さん。今そこにお婆さんがいて……」
「お婆さんじゃなくて患者さんでしょ!何号室の誰って言ってよ」
「それが、消えちゃったんです。浴衣着て、見たこともない人だったんです」
「見たことない人?長嶺、ちょっと言ってることが分からない。まさか他のフロアから迷って来た人かな。まず一通り探そう」
先輩と二人、懐中電灯を手に全ての病室を回ってみたけど、さっきの老女はどこにも居ない。
他のフロアから患者さんが居なくなったという連絡もなかったけど、一応確認して警備員さんにも連絡した。
警備員さん達も館内を探してくれたけど、何の手掛かりもなく夜が明けた。
あの老女の正体は結局わからずじまいだった。
それから後になって、別のフロアに居る同期の子が古株のナースから聞いた話をしてくれた。
「かなり昔にあったことらしいけど、それ幽霊かもって聞いて」
「あれって幽霊、なのかな」
昔、この病院にあるお婆さんが入院していて、彼女には毎日のようにお見舞いに来てくれる娘さんとお孫さんがいた。
体が不自由で長く入院していたお婆さんは二人のお見舞いを心の支えにしていた。
でもある日、来るはずだった二人が来ない。
心配するお婆さんの病室に憔悴しきった娘婿さんがやって来た。
娘さん達は病院に向かう途中で無謀運転の車に撥ねられ、ここに運ばれたものの二人揃って亡くなってしまった。
散々気を揉んだ挙句二人が亡くなったと知ったお婆さんは、大切な二人の死に目にも会えなかったことを酷く悲しんだ。
すっかり気落ちし弱ったお婆さんは、まもなく二人の後を追うように亡くなった。
「お婆さん、苦しそうに手すりにつかまって。きっと二人を探してたんだ」
「えー、怖い。さまよってたの?」
「うん、『違う』って言ってた。二人が居ないからだったんだね」
「やだ桐絵、淡々と言わないでよ。私、明日夜勤なんだから」
「私も怖いけどさ、どうしてあげれば良かったのかなあ」
「お祓い!お祓いしなよ、桐絵」
またあのお婆さんに出会う事はあるのかな。
それは私だって怖い。
確かに怖いんだけど、でも言ってあげたい。
あなたの大切な二人はきっと、良いところに行ったと思いますよ。
どうか安心して下さいって。