月と小麦と嬌艶花《アムール・フー》1
「好きな人」という題名で何か書け、と言われたら、今の俺は絶対に彼女を題材にする。
メアリージェンヌ。
毎朝、町中にいいにおいを漂わせているパン屋の娘だ。
もちろんそのパンも美味しいが、何より美味しそうなのはメアリージェンヌ本人だ。
光を受けてきらきらと輝く髪は、小麦色。パン屋の娘にぴったりだ。愛らしい笑顔で、客に向けて「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」と声をかけてくれる。この笑顔にやられない町の男はいない。
最近この町にやってきた、髪の黒い胡散臭い男も、どうやらメアリーに惚れているらしい。しかし、そうはいってもくれてやるものか。
俺は彼女と結婚する。
これは、こんな田舎町に生まれた俺の鋼の決意だ。
今はまだ、片思いだけど。
俺とメアリーは、いわゆる幼なじみってやつだ。
でも、つい数年前までは、メアリーのことなんて気にも留めていなかった。ただの女の子の友達でしかなかったし、それ以上に、同い年に、フローラという名のとびきり美人がいたのだ。まさに薔薇。……それも、しっかり棘のある。
俺も含め、同い年の男たちの初恋の相手は、フローラだった。しかしこれはまた絵にかいたような高飛車な女に育ってしまい、彼女の眼中に入ろうと思うものなら、フローラの女王政のもとにひれ伏さなければいけなかった。実際そうしている友人もいたが、さすがに、それは男の沽券にかかわる。
そんな男のプライドが意識され始めた時、頭角を現したのがメアリージェンヌだった。名前は大仰だが、顔だちは優しく、お高くまとったフローラとは大違いだった。話したことはなかったが、ある日彼女のパン屋の前を通ったとき、彼女の明るい声と笑顔に、突然心がときめいた。一度気になってからは早く、彼女の一挙一動に目を奪われて、気がついたら恋に落ちていた。それから俺は、彼女の虜だ。まさに太陽女神とは彼女のことを言うのだろうというほど、俺の中のメアリーは光り輝いている。
メアリーの変化に一番最初に気が付いたのは俺だったと自負している。俺がパン屋に足しげく通うようになってから、徐々に男性客が増えてきているのだ。これは絶対に間違いではない。
メアリーは、美しくなった。
「子ども」という殻を脱ぎ捨てて、「大人」へ、「女」へと羽化したのだ。
その最初の段階で気がついたのが、俺というわけだ。
実際、昔は俺と変わりないぺたんこの胸だったのに、今では彼女のシャツの胸部は窮屈そうで、いつも俺は気の毒にと目にとめてしまう。いかんせん田舎なもので、サイズの合うシャツがまだ用意できていないのだろう。
腕も脚もすらりと伸びていて、新しいパンを並べている時なんかには、その肌が惜しげもなく晒されている。
だから俺は、できるだけパンが減っているタイミングで店を訪れる。メアリーが工房の奥から出てくるからだ。
しかし、そんな俺も心配な点が一つだけある。
それはずばり、スカートの短さだ!
先ほどメアリーの脚の美しさについて触れさせてもらったが、それは目に毒でもあるのだ。ほかの男性客が、メアリーの脚に注目していることに、早く気が付いてほしい。パン屋の両親も、成長した娘の様子にもっと気をかけてやってほしい。
歩くたびにスカートが揺れ、太ももがのぞくたびに、俺は気が気ではなくなる。なんて官能的なんだ……。
もちろん俺は、彼女の脚をじろじろ見たりしない。そんな、彼女を不快にさせるようなことはしないのだ。
今日も、メアリーのパン屋に行く。さすがに顔を覚えてくれたように思う。いや、でも、他にも男の常連客はたくさんいて、実は覚えられていなかったりして……いやいや、これでも俺は、メアリーと幼なじみだぞ。幼いころは一緒に遊んだ仲なんだぞ。
ほかに客がいなきゃいいな。朝のピークが過ぎた時間なので、いい具合に暇だろう。メアリーと話せるかも。
「いらっしゃいませ」
扉を開けるとチリン、とベルが鳴って、メアリーの小鳥のような声が出迎えてくれる。声だけですでに可愛らしい。
パンとメアリーの香りを胸いっぱい吸い込みながら店に入ると、目に入ってきたのは、メアリーと、メアリーと向き合う黒髪の男だった。
黒髪の男!
胡散臭い、例の男だ。旅人か、誰かの親戚か知らないが、ちょっと前にこの町にやってきた若い男だ。俺より5歳くらい年上だと思う。女は年上の男に弱いと聞く。メアリーもこの男の毒牙に掛からなければいいが……
って!!
なんでこの胡散臭い男とメアリーが!?
しかも話の途中だったらしく、メアリーは俺に「いらっしゃいませ」を言ってから、すぐに男に向き合って何か話し始めた。
俺の知らない間に、一体何が!? どうしてこの男は、メアリーと親しそうに話しているんだ!? 俺だってまともにメアリーと口をきけたことがないのに……神様のいたずらってやつだ。
それなのに、神様、あの正体不明の男にはチャンスをくれてやっているんですか?
俺はパンを選ぶふりをしながら、メアリーを横目で盗み見(視界に入るのはメアリーだけで十分だ)、二人の会話に耳をそばだてた。