幸福を抱きしめる
雨はやまない。この国は雨の病気にかかってしまったからだ。こんな雨は気が滅入るだろう。
雨、アメ、飴、あめ、かわいい雫が降ってくるのなら、きっと誰でもこの雨を好きになる。病気じゃない、良いものだと。
妹は飴玉を舐めると頬にぽっこりと丸いシルエットを浮かべた。そして、言うのだ。「何も舐めてない。舐めているのは飴玉じゃない、雨なんだ」って。やまない雨を全て飴玉に凝縮して、食べられたらどんな味がするだろうか。兄なら「くだらない」と吐き捨てながらも「きっとハーブのように爽やかな味がするんだろう」と答えてくれるだろう。母なら「温かい夕立のオレンジ味じゃないかしら」と面白がり、父なら「味なんかしないだろう。あの雨の成分は…」と力説し出す。
これが私の思い描く幸せだった。
では、彼女は、彼女はなんと回答するのだろうか。
雨の中重い足を引きずり、なんとか家に辿り着く。そこで初めて傘を森の中へ置いてきたことに気付いた。元々濡れてたから、傘を差すのを忘れてしまっていた。傘自体、置いてきてしまっている。後で取りに行かないと。
家のドアを押すと、瞬間に彼女が飛びついてきた。ぎゅっと抱きしめられる。
「どこ行ってたの?」
彼女の匂いが鼻につく。顔がこんなに近くあるのに、有難いと思えない。
彼女は、彼女で…
ねぇ、あなたは今、あの日と同じ彼女なの?
すっと息を吸う。
「魔法の対価とは何ですか?」
彼女の腕の力が緩んだ。
「お役人の方が言っていました。魔法には対価があるって、このままでは、わたしの存在が消えるって」
玄関からダイニング見えた。懐かしい家族の姿はない。落書きだけぽつんと一つ壁に描かれている。あの絵も今の彼女には見えない。あの絵のような彼女も此処にはいない。
一体いつから、家族は居なくなったのだろうか。晴れ間の前。晴れ間が見えた直前。傘を差しかけたその人が次々と居なくなって行った。
わたしと初めてあった彼女はあの日、空を晴れさせ、わたしに幸福の魔法をかけた。同時期に、この家に居た彼女の祖父や祖母が居なくなっていたとしたら。この家に来た時、彼女の家族はわたしを受け入れてくれたが、その残り香はあった。わたしの使っていた部屋は祖父、祖母が使っていたのと、妹が言っていたが、彼らの物は何一つなく、家族も彼女の前では話さないようにと気をつかっていた場面があった。わたしは気に止めず、家族に尽くせるようにと、前の家でしていたように召使いであり続けた。誰かが居なくなっても、家族がその人を無視し続けたように、わたしもそうした。それが当然な事だと思い込んでいた。
もっと、注意深く見るべきだった。
「教えてください」
彼女は一言も話さない。
「教えてください」強く言及してみた。
しかし、彼女は無言を突き通す。近い顔からギリッと歯ぎしりする音が鳴る。
「教えて。わたしの家族は、あなたの家族は?あなたの対価は?」
彼女がそっとわたしから離れる。俯いた表情からはどんな顔をしているのか分からない。
「教えてよ。わたしの家族を何処へやったの?じゃなきゃ、わたしは今のあなたを受け入れられない。あなたが大好きなのに、信じられない」
彼女の口が動く。重々しく、言葉を紡いだ。
「そうか…」
彼女の言葉に寒気がした。
「私には家族が居たんだね」
ドアが開けっ放しなっているせいで、冷たい雨が玄関に入ってきた。わたしの背中を冷やす。
「魔法であなたの記憶から家族の記憶を消したのではないのですね」
「記憶を消すぐらいで魔法を使うなんてことしない」
彼女の肩が震えていた。顔をゆっくりと上げると、彼女の目に大粒の涙が頬に降り注いでいた。背後で降り続く重い雨のように、彼女の涙は粒が次々と流れ出す。しかし、目には温かさも、冷たさもなかった。
「教えないつもりでいた。あなたは、君は、あの時、私の魔法で助けてあげた子だから、魔法を使うことにした時、助けてあげれないかと何度も逡巡し、使おうと決めたから、全く矛盾してるよ」
涙しながら、彼女は自嘲した。その涙の意味は、彼女には分かっていない。
「魔法の対価は私の大事なものの一部だ」
忘れてしまった何かが分からないから、彼女の体が泣いているのだろう。体が反応して、泣いているのだろう。
彼女はずっと優しく、狂っていたのだ。
「妹様は?」わたしは確認の為に尋ねた。
「覚えてない」
「兄様は?」
「存在だけでなく、私の中の大事な一部を全て魔法で切り取るんだ」
家族を無くしても、彼女は国民の為に魔法を使ったのだろう。
十を救う為に彼女は自分の大切な一を切り捨ててきたのだろう。それはどんなに悲しく辛いことだったのだろうか。記憶はないのに、雨模様を見て泣いて、これが初めてじゃないことを悟るのは、忘れてしまったものに寂しさを覚えるのは、どんなに辛かったのか。それでも、切り捨て続けたのは、誰かの為にと思って、そして、いつしか魔法で救ったわたしまでも国民の為にと切り捨てようとしていた。
私を救った意味をなくしてでも、なし得なければならない事がある事を彼女は覚えていたから。家族の記憶を消して、残った記憶は国民を救う為に魔法を使ったことだ。
それで、この家に来た時彼女はわたしに関わろうとしなかったのだ。魔法の優先順位は大切な物から。最近関わり出したのは、魔法に使うための下準備。
「私は魔法の贄と呼んでいる」
彼女はそう言い、私から二三歩離れた。目に浮かぶ涙を不思議そうに拭った。
「私は、君を無くしたくはない。せっかくかけた魔法だ。幸せになれる運が回ってくる魔法だ。誰かの犠牲の上に立った命なんだ。君には生きててほしい。私の傍にいれば、君を魔法の贄にしてしまう」
彼女の目に写る虚しさは、猟奇的に変わっていく。ギラギラと激しい炎が燃えるように、目に光を宿す。彼女は魔法で誰かを救いたいのだ。
わたしを使って。
わたしの命で。
醜いわたしを使ってくれる。
「何処にもいきません」
わたしは彼女を信じて良かったと心底思った。彼女の心の有り様は、根底にあるものは変わっていない。なら、わたしは彼女を信じていられる。
「わたしはあなたの傍にいます。わたしが居ます」
吹き荒ぶ風が鬱陶しくなり、背後のドアを閉めた。
「わたしを使ってください」
わたしもまた狂ってるのかもしれない。
それでも、わたしは彼女に必要とされてることがとても嬉しかった。
あの日と同じように国民を救う為に彼女は一人頑張っているのだ。そこにわたしが力添えしないのはわたしの存在さえ否定するようなものだ。
変わらず優しくあり続けていた彼女に、魔法に、奇跡に、わたしが使われる。
役人の言葉が耳の奥で反響する。
わたしは自分で依存する相手を選べてないのかもしれない。幸せになれる魔法がわたしにかかっているから、役人は来たのかもしれない。そちらを選べ、そうすると、わたしは幸せになれる、一生を幸福で満たし、誰かと結婚し、幸せの内にしわくちゃのお婆ちゃんになってその誰かの手を握って「幸せでした」と言って死ねる未来があるかもしれない。
しかし、彼女はこうして魔法を使うことで十を救い、一を捨てているのに、あの日は一の中の小さなわたしを救ってくれた。これは、わたしが彼女にとって特別なんだと言っているのと同じように聞こえた。これだけでわたしは、幸せだった。
「だが、君は私の中から消えるんだよ」
「構いません」
幸せになれる魔法なんかに、わたしの幸せを決めつけられて欲しくわない。
「構わないんです」
玄関から、家の中へ歩み出す。濡れた靴が床に足跡を残した。
彼女の傍へ、寄る。
そして、抱きしめた。
「傍にいれるだけでいいんです。これだけで楽しかったんです。ここ数日、あなたと居れて楽しかったのは、わたしの中で消えません。あなたが忘れてしまったとしても、わたしが幸せなのに、変わりはないんです。わたしが幸せだった記憶はわたしの中からは無くなりはしないんですから」
彼女は優しいから、泣き出す。
彼女は優しいから、誰も魔法を使うことを止めなかった。
彼女は優しいから、体で泣く。
彼女はやはり変わらず優しいのだ。
変わらない彼女にわたしは幸せを噛み締めた。